私の人生劇場

青年期

第47回 「人生の意味を思索する旅」

 1967年の年末は、11月に訪米した佐藤首相がまとめてきたと噂される沖縄と小笠原の返還交渉、それから、ひと月後の米原子力空母『エンタープライズ』の寄港問題でもちきりでした。

 

 そんな中、マンガ好きの高校時代からの親友Bが「おもしろい漫画が始まったぞ。なんか、読んどるとお前と重なってな」と言われてなんだか気になり、書店で手に取ってみたのが漫画雑誌『週刊少年マガジン』。そこには連載が始まったばかりの漫画『あしたのジョー』が掲載されていました。後で好きになった漫画ですが、主人公のジョーは手が付けられない暴れ者。「やつにとってこれが俺のイメージか……」と絶句したものです。

 その10数年後に、同じく高校からの親友だったAに「お前そっくりだ」と言われたのが、漫画『じゃりン子チエ』の主人公の父親です。

 「なんだ、それ?」と言う私に、彼の妻が「そうそう。そっくりだから読んでご覧」と漫画を私に渡しました。この漫画の奔放なキャラクターには私も大笑い。でも心の内は複雑です。確かにそれまでのくにおみの人生には常に暴力が付きまとっていましたが、自分から仕掛けたとの意識はありません。だから不本意でしたが、そう思われるのも仕方がない生き方です。「買い被りだけど、お前たちのイメージを壊さないように頑張るよ」と答えておきました。

 

 仕送りを断ったものの何か月も母親からの干渉は止まらず、手紙が送られてきます。そんな母との〝ケリ〟をつけようと年末、岡崎に帰ることにしました。

 帰る方法は新幹線ではなく、あえて徒歩にしました。東海道を東京から岡崎までじっくり自分を見つめながら歩きたくなったのです。距離にしておよそ320キロ。一日平均40キロ歩けば、8日で歩ける距離です。歩きながらとことん自分と向き合いたくて考えた方法でした。それと、かつて在籍した郷土学生寮の友人たちがその前の夏に5、6人で歩いての帰郷を試みたものの静岡でとん挫。その時、「お前ら、だらしねえなあ。そろいもそろってこんじょ(根性)無しだ」とけなしてしまい、彼らの一部から「そんじゃあ、くにおみ、お前歩いてみろ」と言われていたことも背景にありました。今になって反省しても遅いですが、その頃のくにおみは本当に言葉遣いが荒かったのです。

 

 年も押し詰まった12月末。私は日本橋に立ちました。「東海道は日本橋から始まっているのだから」とあえて出発点を日本橋にしたのです。

 服装は普段着です。当時はウォーキング用の服装はとても高価でぜいたく品。靴もウォーキング用のものではなく日常履いていたバックスキンの安いものを履いての「東海道ひとり旅」でした。

 当時の自動車は排ガス規制が無いも同然、もうもうと黒煙を巻き上げて走る車両もあるほど。地域によっては片側一車線でした。もちろん歩道はありません。排気ガスの充満する都会の東海道を歩くのは思いのほかきつく、歩いてすぐに1日で40キロは余裕で歩けると踏んだのは誤算だと気付かされます。横浜駅を通り過ぎる頃には陽が傾き始め、かつての「戸塚宿」(日本橋から数えて5番目)に着く頃には夜のとばりが完全に降りていました。一日目の歩行距離は約40キロでした。

 

 野宿も辞さない旅です。寝袋にくるまって寝ようと戸塚駅に行きましたが、駅員から迷惑がられて仕方なく近くにあった交番に頼りました。

 若い巡査が当番でした。タダで泊めてもらえるところを探していると言うと、人のよさそうな雰囲気を全身からかもしだすその巡査は何ヶ所かに電話を入れ、頼み込んでくれました。

「近くの寺で泊めてもらえそうです!」

 とわがことのように喜び、連れていかれた寺には、「善了寺」と書かれた看板がかけられていました。予想に反して住職の態度は硬く、私を見る表情は迷惑顔に近いものでした。

「今夜はもう遅いから泊めてあげるけどもうこんなことはしないでくれ」

 と言われて、そこで初めて自分のしていることが反社会的な迷惑行為であることに気付かされました。ならば諦めようかと思いましたが、懸命に住職夫妻を説得する若い巡査を見ると断るに断れません。彼の顔をつぶしてはいけないとそのまま泊めて頂きました。

 しかしながら住職に言われたことが頭から離れず、用意していただいた布団に入って考えている内に「あんな言い方はないだろう」とひねくれた感情が生まれてきます。

 翌朝早く起床。500円札(当時はまだ500円玉はなかったと記憶しています)を添えて「庭の掃除でもしたいところですが、先を急ぐ旅ですのでこんな形で失礼します」と置手紙をして寺を後にしました。

 

 東海道に出てしばらく歩いていると後ろからプップーとホーンの音。振り向くとその車には住職と妻の姿が見え、こちらを手招きしています。

「あんなことしてえ。さあ、車に乗りなさい」

 奥さんにそう言われ、後部座席に座りました。

 そこからしばらく行った先のトラック運転手向けのドライブイン(レストラン)で、「さあ、好きなものを注文しなさい」とメニューを渡されました。言葉は文字にするときついですが、その表情は昨夜と違って柔らかく温かみのあるものです。置手紙をしたことをお二人から評価していただきました。

 食事をしながら「将来の夢」を聞かれ、短い間でしたが食事を飲み込みながら描いている夢を語りました。おふたりは一生懸命聞いてくれましたが、先を急ぐ身なのでその無礼を詫びながら立ち上がると、「少ないけど持っていきなさい」と封筒を渡されました。固辞しても奥方の雰囲気からは受けつけてもらえないと判断、ありがたくいただきました。先ほど置手紙と共に置いてきたカネが倍になって返ってきました。

 

 おふたりの優しさで心を温めてもらって再び歩き始めたくにおみは、自分の性格の悪さを反省しながら、留学計画の事、学生運動の取材の事、友人関係等々様々な思いを頭に浮かべ、時に嫌な思い出や問題は頭から消し去ろうとしたりして歩き続けます。

 その夜は小田原のニコヨン相手の宿泊所で旅装を解きました。長期間敷きっぱなしなのでしょう。じめじめした布団に「いつ洗ったの?」というくらい汚いシーツの上では寝る気になれず、寝袋にくるまって寝ました。〝着たきり雀〟ですから服は着たままです。

 それでも疲れていたので爆睡です。

 

 翌朝はまた5時起きです。順調に東海道を西に向けて歩を進めていきます。

 前夜急に「富士山をもっと近くで見たい」との想いが湧いてきて、宿泊所の人に聞くと、大観山展望台からの富士が絶景だと言われていました。

 ところがそれは箱根ターンパイクという有料道路にある見晴らし展望台で、車でないと行けないようです。ヒッチハイクという手が無かったわけではありませんが、歩くと決めた以上、歩かないと気が済まない性格です。

 「なんとかなるだろう」と歩いて料金所まで行きました。ところがと言うか、案の定と言うべきか、料金所の職員に「車でないとこの道は通れない」と言われます。

 ならば仕方がありません。通りかかる車をヒッチハイクしようとすると、「そんなことをするな!諦めて来た方に戻れ!」と怒鳴ります。この言い方が私の反骨精神に火を付けました。料金所に再び近づくと不快な表情を浮かべる職員。

「あ、待てええ!」

 料金所を走り抜け、しばらくは男の声が続きましたが、やがてその声も小さくなり、振り向くと職員は追いかけるのを諦めたようです。その場に立ち尽くしていました。

 くにおみは走るのをやめて歩き出し、清々しい冬の朝の空気を満喫しながら足を運びます。目の前に見えてきた早朝の富士の高嶺に息を呑みました。私の長い人生の中でも最高に美しい霊峰の姿が目の前に開かれてきたのです。その姿を見る内に心の底から込み上げてくるものがありました。それまでに行なってきた自分の不実の言動の数々が頭をよぎります。心が洗われるという表現がからだのど真ん中を突き抜けていくのを体感しました。

 母千代子との関係も今一度見直してみようとの思いに至りました。

 

 その後も順調に沼津→静岡→浜松と歩き続けました。

 浜松から岡崎まで一気に歩くつもりでしたが、40キロ余を歩いた時点でそれまでの疲れと足の痛みに耐えきれなくなり、「そうだ、Kさんの家に泊めてもらおう」と思いつき、豊橋にある高校の恩師を訪ねました。

 電話もしなくて突如訪問する「電撃訪問」です。年末の家族団らんの場に乱入するのですから冷静に考えれば非常識極まりない行為です。表面上は冷静に応対してくれましたが、「それで今から出ると岡崎のご実家には何時頃着く計算か」と言われて目が覚めて、自分が迷惑をかけていると気付きました。 

 それからの30数キロは痛みと疲れと眠気が波のように押し寄せてくる地獄の苦しみ。真夜中に歩く闇の恐怖もそれに加わります。

 特に真っ暗なトンネルを通るのは恐怖そのもの。当時は多くのトンネルには十分な照明もなく、歩行者用の脇道もありませんでした。すれすれの距離で後方から来る車が走り抜けていきます。特に、トラックが来ると身がすくむ思いでした。運転手も真夜中に狭いトンネルを歩く私を見て驚くのでしょう。警笛を鳴らす人もいました。トンネルの壁に反響する警笛、特にトラックからのホーンはまさに警笛です。「戦争取材だと思ってがんばれ!」と自らを奮い立たせて歩き続けました。

 恐怖が最高潮に達したのは残すところ約10キロの所で脇の田んぼに横転してひっくり返ったトラックを見た時です。おそらく何時間も前に起きた事故なのでしょう。今だったら夜を徹して撤去作業を行うところでしょうが、当時はそんなに機材も充実していなかったのかその場に放置されていました。そこにパトカーや人影はなく、ぶざまに大きな車輪を月明りに浮かせたまま乾いた田に転がるトラックの姿は今でも一枚の写真のように私の記憶に残っています。

 

 7日目の早朝、岡崎の自宅に到着しました。最後の二日間は、「静岡→浜松」「浜松→岡崎」と、それぞれ一日80キロ近くを歩きました。

 当然の事ですが、いろいろ小さな出来事はありました。でもそれら全てに意味を見い出しての旅です。履いていた安物のバックスキンの靴が足に合わず、静岡を過ぎたあたりで踵に大きな水ぶくれができてしまい、悩まされました。針で穴をあけて水を抜き消毒すると布で足を縛り付けて歩き続けました。その姿に気の毒に思ったのでしょう。何台もの車が止まり、乗っていくようにと声をかけてくれました。いい時代です。多くの親切と温かい言葉をいただきました。そして、のんきな時代です。パトカーを一人で運転する警察官が車を停めて「眠いから話し相手に乗って行かないか」と言うのです(笑)。もちろん丁重にお断りしました。

 

 実家に朝5時頃着いたくにおみはそれからすぐに寝床に入り、24時間以上爆睡。途中で用足しに起きたようですが、夢遊病状態だったのでしょう。全く記憶にありません。

 眠り続けるくにおみに、母と兄は後で「死んじゃったかと思って何度も様子を伺ったよ」と言っていました。

 話し合いは、兄が間に入ることによって母もくにおみも冷静さを保つことができてののしり合うこともなく行われ、留学準備への理解も得られました。「できるだけのことはする」と言う母に、これ以上突き放すのはかわいそうとの憐憫の情(?)に似た感情も少し湧いたくにおみは「どうしようもなくなったら(仕送りを)頼むわ」と口を濁すだけに留めました。 

 実家に長居は無用とばかりに正月早々東京に戻りました。帰りは徒歩でなく汽車(当時は長距離を走る電車をそう呼んでいた)でした。車中では母親に妥協をした弱さを責める自分と、彼女のきつい言葉と視線に堪えたことをほめる自分とが交錯し、目を落とす本(おそらくむのたけじさんの著書)の内容に集中できぬまま、ただページをめくっていたように覚えています。

 

(次回以降、帰京して間もなく米軍の原子力空母『エンタープライズ』の寄港反対に吹き荒れる九州佐世保に向かう話を書く予定です。)

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