第46回 「羽田闘争を目の当たりにして」
ジャーナリストを気取ってカメラを向ける私に、最初は胡散臭い顔で見ていた活動家たちも、顔見知りになるといろいろ情報をもたらしてくれるようになります。
1967年10月8日。佐藤栄作首相(当時)が南ヴェトナムを含む東南アジア訪問への出発を予定していました。それに対して、佐藤首相の南ヴェトナム訪問は、当時激しさを増していたヴェトナム戦争への日本の関与を深めることになると中核、革マルなどの新左翼各派はそれぞれ、佐藤の出発を阻止しようとその日、様々なルートから羽田空港への突入を目論んでいました。
その情報を得たくにおみはその日現場のひとつに立ちました。空港の近くに集結して空港に向かうデモ隊に付いていくことにしました。私が同行したデモ隊には途中で加わる者も数多く、やがて数百名の大きな集団になりました。後で同じような集団が各所に出没、この日全体で2500人~3000人が訪問阻止デモに参加したことを知ります。
空港近くの運河沿いの道を進むと、前方に機動隊が姿を現しました。かなりの威圧感を与えてきます。デモ隊はしかしそれにひるむことなくスクラムを組みゆっくりと前進し、時折り立ち止まると国際労働歌『インターナショナル』を歌いながら団結を強め、再び間を詰めます。そして、「ワッショイワッショイ」「安保、反対」と掛け声を揃えてジグザグに激しく動きます。それを何度も繰り返すと、ついに前方に立ちはだかる機動隊に体当たりしました。すると機動隊員は警棒を学生たちの頭に振り降ろします。
私が〝同行取材〟したグループに加わっていた学生の約半数は、その時ヘルメットをかぶっていませんでした。そしてその恰好も平服でした。ヘルメットをかぶらず平服の参加者がデモに慣れていないのは明らかで、警棒を振り上げる機動隊員を前にして恐怖からしゃがみ込む者もいます。
学生と機動隊員とでは鍛え方が違います。また防護服に身を固めてこん棒で〝武装〟する機動隊員に対して学生は徒手空拳です。そんな状態でも機動隊にぶつかっていく学生たちを見るうち、くにおみは体の奥底から得も言われぬ怒りがこみ上げてくるのを感じました。カメラをどこかに置いてデモ隊に加わりたい衝動にかられました。しかし、そんな気持ちも学生たちがやがて苦しまぎれに行なった投石をきっかけにしぼんでいきました。非暴力を唱えるくにおみには、投石は論外だったのです。
でも、これを読んでいる皆さんは、「投石?そんな石はどこにあった?用意していた?」と思われますよね?
当時都内の道路の歩道は敷石またはレンガで固められており、デモ隊はそれを割って投げやすくして機動隊に投げつけたのです。
これは機動隊員にとっても恐怖です。学生への攻撃が中断されました。両者の距離が開き、動きがとまり、しばらく膠着状態となりました。おそらく機動隊側は態勢の立て直しをはかっていたのでしょう。
学生側も乱れた隊列を組みなおし『インターナショナル』を歌ったりして次に備えます。
「バンバンバーン!」という大きな音と共に催涙弾が飛んできました。それを避ける学生の隊列が乱れた所に機動隊が襲いかかります。勢いを失った学生側の隊列に指導者たちから檄が飛びますが、デモ隊に劣勢を挽回する力は残されておらず、てんでに倉庫街やビルの物陰に逃げ込みました。私が付いたグループはそれで流れ解散となりました。
翌朝の新聞各紙は一面から他のページまでにわたってこの日の出来事を紹介しました。しかしながら学生を一方的に批判する記事が多く、私の見た現実を的確に伝える記事はほとんどなくて「マスメディアの力の限界」を目の当たりにした気がしました(写真は『中日新聞』1967年10月9日付朝刊です)。
翌日エコセンに行って社員を相手に見聞きしたことを話していると、森川宗弘が話に入って来て「今度そういう機会があったら僕もその場に連れてってよ」と言ったのは驚きでした。と同時に、さすがだなと思いました。
その約一ヵ月後、今度は訪米する佐藤首相を阻止せんものと、新左翼各派や当時の最大野党であった日本社会党などが反対運動を予定していました。
森川にその旨を伝えると、「よし、行こう」とノリの良い言葉が返ってきたので11月12日、ふたりは現場に向かいました。
ひと月前と大きく違ったのは学生側の闘い方です。メディア報道では前回のデモによる負傷者数は警察側が圧倒的に多かったとされていましたが、私の目には逆に映っていました。学生側に相当多くの負傷者が出ていたように見えました。私がいた現場以外の状況を取材してみましたが、同様でした。
各派は同じ轍は踏むまいということなのでしょう。参加者にヘルメットをかぶるよう指示していたのです。だからこの日はヘルメット姿が目立ちました。手にこん棒を持つ学生も少なくありません。
衝突はいきなり学生側の投石と機動隊の放つ催涙弾の〝空中戦〟から始まりました。それに続いて学生側がこん棒を振りかざして機動隊に襲いかかります。前回に増して激しい衝突が繰り返されました。
森川はと見ると、いくつもの修羅場をくぐってきたはずですが、緊張した面持ちです。
「すごい迫力だね。報道で伝えられるのとは大違いだ」と言うと、後は黙って状況を見ています。
ただ、衝突がばらけるとこちらにも催涙ガス弾や石が飛んできます。くにおみに「森川の身に何かあってはいけない」という冷静な気持ちが働きました。
「森川さん、この場は引き揚げてヘリコプターに乗らせてもらえませんか。空中からこの模様を見たいです」
とっさに私はそう森川に頼みました。
「それは面白いな」
森川の快諾を得てくにおみは電話ボックスに飛び込み、ヘリコプター運航会社に電話をしました。その日は日曜日。誰も電話に出ません。
「もしかしたら現場の人間がいるかもしれません。ヘリポートに行ってみましょう」
と言うが早いか、タクシーを拾い二人は乗り込みました。
ヘリポートには従業員が出勤していましたが、その日東京上空は報道機関以外の飛行は認められておらず、残念ながら上空からのちに「第二次羽田闘争」と呼ばれるようになった反対運動を見ることはできませんでした。
このような体験をしたくにおみは、自分で撮ってきた写真や拾ってきた声を何らかの形で公表したいとの思いを強くします。