私の人生劇場

幼少期

第1回 「1944年4月8日、両親が結婚」

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 大日本帝国陸軍の精鋭騎馬部隊所属の父淺井俊夫は、“支那事変(日中戦争)”で中国最前線を転戦。格別の武勲を挙げたとして日本唯一の武人勲章である金鵄勲章(きんしくんしょう)を授与され、生まれ故郷では「村の誉れ」でした。

 今となってはその心の内を知るすべがありませんが、想像するに自分の遺伝子を残したかったのでしょう。敗色濃厚になった1944(昭和19)年4月、当時の赴任地であった平壌(ピョンヤン)から一週間の休暇を取って帰国。岡崎市の教員であった母千代子と実家(額田郡竜谷村。現岡崎市桑谷町)で祝言を挙げた後、新妻を伴って海峡を再び渡りました。時に、父24歳。母は21歳でした。新居には馬の世話をする兵士と現地人のお手伝い(当時は女中と言われた)が同居。「恵まれたお姫様のような新婚生活だった」と母はかつて述懐したことがあります。

 1945(昭和20)年1月に兄義澄がピョンヤンの軍宿舎で生まれますが、俊夫にはその翌月、京城(ソウル)への単身転勤命令が下ります。

 その半年後に終戦。俊夫は妻子を迎えに行く機会を得られぬまま、帰国を命ぜられます。父がどれほどの苦しみに苛まれたかは分かりませんが、帰国直後に軍服姿で千代子の両親を訪れ、「北朝鮮にふたりを迎えに行きます」と挨拶に行った(母方の叔父の話)ことから推し量ることはできます。

 俊夫は、戦時中に数々の武勲を挙げた村の誇りだった立場から一転、「妻子を捨ててきた穢れた英雄」となってしまったのですから故郷に戻っても「針のむしろ」状態で、どうしても救出に行きたかったはずです。しかし、教員から市会議員に転じていた義父の縫右門は、世間体もあってか俊夫の計画に猛反対。実行に移せば離縁すると俊夫の前に立ちはだかりました。「親は絶対」の時代です。俊夫は涙を呑むほかありませんでした。

 一方千代子は、侵攻してきたソ連軍を恐れて将校宿舎から乳飲み子を抱えて仲間数百名と共に逃亡。その後約10か月間、北鮮(北朝鮮)内を逃げ回りました。厳寒の地における逃亡生活は過酷を極め、多くの仲間が命を落としました。幼子(おさなご)も同様で、兄より年少の子は全て死んだそうです。

 九死に一生を得た千代子と義澄は1946(昭和21)年6月、夜陰に乗じて38度線を越えて南鮮(韓国)に入り、そこから帰還船に乗り、岡崎に帰ってきました。

 帰還船では、朝起きると目の前にいた同じ境遇の若い母親が乳飲み子を胸に抱いたまま冷たくなっていたと言います。遺体は海に投げられましたが、それまでは言いづらかったのでしょうか、10年くらい前にその時のことを話してくれた千代子は、私の前で涙を見せることはありませんでしたが、聴いていた私はその胸の内を考えると胸が詰まりました。

 九州博多港に着いたもののそこからの汽車賃は自己負担。10か月の逃亡生活で現金どころか貴重品もすべて使い果たしてしまった千代子は「国のために戦ってきたのに…」と力が抜ける思いがしました。

 幸いにも仲間の一人から借金することができ、汽車で郷里に戻ることができました。

 岡崎市の中央駅東岡崎に降り立った千代子は辺り一面の焼け野原に呆然とします。気を取り直して結婚前に住んでいた家(明大寺町)に行きますが、戦時中の米軍の空襲で跡形もなくなっていました。

 駅に戻り、さてどうしたものかと見渡すと、「竹内文具」の看板を掛けた掘っ立て小屋が見えました。教師をしていた千代子は、店の女主人とは仕事柄懇意にしていました。店内に入ると女主人から「齋藤先生、やっとかめ(久しぶり)。どうされたの?」と声を掛けられます。

 千代子のぼろぼろの服装と垢まみれの肌、それに背中におぶった生気を失った幼子は誰の目にも引揚者。

「わたし、ホクセンから帰ってきたばっかりなの。両親の家も焼けちゃったし、だんなの桑谷もどこにあるか分からなくて…」

 女主人と会話を続けていると、それを聞いた男性客(市役所職員)が「あんたたちのことは有名になっているよ。噂ではだんなさん、お二人の無事を祈って仏像を彫っておられるそうな」と言い、竜谷村の村役場に連絡をしてくれました。

 そうして両親は再会できたのです。

第2回 「出生。一年後の父の死」

 再会した三人は岡崎市連尺町に新居を構え、再スタートを切ります。父は公職追放の憂き目に遭い希望した職に就けず、運送業(と言っても、大八車やリヤカーを使ったもの)を始めました。

 間もなくふたり目の子供(久仁臣)の妊娠が確認されます。しかし、それとほぼ同時に、俊夫が深刻な病に罹っていることが分かります。腸結核でした。主治医の冨田清(世界的音楽家冨田勲の父)によると、戦地で以前肺結核に罹っていたものの重症化せずに気が付かず、腸に転移したのではないかとの診たてでした。

「アメリカにはペニシリンという薬がある。それさえあれば治るのだが」

 と冨田医師は悔しそうに千代子に語ったと言います。

 軌道に乗りかけた事業も暗転。

「結核と分かると、それまで出入りしていた人たちはぱったりと姿を見せなくなるわよね、当然だけど。でも、何よりそれがつらかった」

「赤ちゃんができたからおなかが空いて仕方がなかった。とにかく町にはどこも食べるものがなくてね。連尺や康生を大きなおなかを抱えて知り合いの所に物乞いに行ったよ。何度も気を失いそうになりながら」

 かつて母はその頃を思い出して懐かしそうに語ってくれました。

「甘いものが大好きだったから食べさせてあげたいんだけど何もなくてね。ある時、『大福が食べたいな』とお父さんに言われたんだけど、手に入らなくて…」

 その言葉を受けて、俊夫の命日には毎年、大福を墓に供えるようにしています。

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 1947(昭和22)年9月17日、私が生まれた時、隣の部屋で俊夫が病に伏していたそうです。そして、私が最初の誕生日を迎えたひと月半後、「お前には本当に苦労を掛けるな」との言葉を遺して父はこの世から去りました。齢(よわい)28の若さでした。

 家族会議が開かれ、住んでいた家を売却。一家三人は父の実家の世話になることになりました。

(写真は1948年12月に売却された生家の権利証)

第3回 「時代に翻弄(ほんろう)された幼少期」

【本文に入る前に】

 ここで書くことは、私を知る人には驚きをもって受け取られるでしょう。

 私はこれまで「どんな時にも明るさを忘れずにエネルギッシュに生き抜く姿」を見せようと、昭和、平成そして令和を駆け抜けてきました。「ジャーナリスト、教育者、社会貢献活動家の三足のわらじ」を履くようになったのもその結果です。そんな私の姿に共感して仲良くなってくださった方も少なくないはずです。それだけに私の人生の「負の部分」を発表することにためらいがなかったわけではありません。しかし、成長期において深く傷つき、時に屈折してひねくれた姿も「浅井久仁臣」そのものです。劣等感と優越感が極端に混在する若者に力を添えてくださった多くの皆さまとの交流が私の人生のダイナミズムを形成し、「多くのコンプレックスを抱えた三河の山猿」から「うるさいほど自信に満ちた国際ジャーナリスト」に仕立て上げていったのです。読者の皆さんにはその部分も共有して実像に近付いていただき、『浅井久仁臣 人生劇場』から何かをつかんでいただこうとあえて書くことにしました。

 

【本文】

 俊夫の実家に入った千代子は地元の竜谷小学校から復職の誘いを受けて教員に復帰しました。

 千代子にとってふたりの子育ては負担が大きいと判断した親族は会議の結果、暴れん坊で手に負えない次男坊の私を他家に養子縁組する断を下します。(注)

 段取りが整うまでの間、4歳の私は遠く離れた南設楽郡作手村(現・新城市)の千代子の実家に預けられました。実家は、祖父母、曾祖父、叔父(長男)夫婦にその長女、それに叔父叔母が5人と総勢11人の大所帯でした。

 そこにいたずら坊主の私が加わったことにより、当時は終戦後の混乱に加えて朝鮮戦争の影響もあって食糧事情が相当ひっ迫しており、ただでさえ余裕のなかった人たちの生活がさらにギスギスしたものになっていました。

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 特に、育ち盛りの叔父ふたり(当時小学校高学年と中学生)にとっては、私がいることで自分たちの食べる分が削られることになったわけです。彼らが私を歓迎するはずはなく、「邪魔な存在」に対するイジメを始めました。いくら暴れん坊でも4歳です。年長者に敵(かな)うはずはなく、心が傷つきやがて円形脱毛症になりました。診療所に連れていかれ脱毛した頭の患部に注射を打たれるのは、幼かった私には地獄の苦しみ。その痛みとそれに伴う恐怖は70年近く経った今でもハッキリと記憶に残っています。

 しかし、実は信じられないことですが、そうした円形脱毛症にまつわることは憶えていますが、イジメを受けたこと自体、約10年前まで私には全く記憶にありませんでした。そんなことがあるのかと不思議に思われるかもしれませんが、本当に覚えていなかったのです。

 では、なぜイジメと断言するのか?

 

 それは私が還暦の頃のこと。

 東京に住んでいた叔父のひとりが末期がんでホスピスに入所している時、子供の頃の私に対するイジメ行為を告白したのです。彼の妻である叔母が認知症になっていたこともあり、私は時折、彼の自宅やホスピスに出かけて買い物や食事の世話をしていました。

「俺たちは子供のころ、お前にあんなに酷いことをしたのになんでこんなに良くしてくれるんだ?」

 ある日叔父はベッドで体を起こすと、そう聞いてきました。

 私は、困っている近親者に手を差し伸べるのは至極当然のことと思いお世話していましたが、後ろめたさを持つ叔父には不思議でならなかったようです。

「イジメられていた?それも身内のこの人に?」

 私は自分の耳を疑いました。

「そういうことだったのか!それで苦しかったのか、脱毛症になったのか!」

 その告白にそれまでの謎が一挙に解けた気がしました。だから叔父にはそれに対して怒るのではなく、感謝の念を伝えました。 

 でも疑問は残りました。

 ならばなぜその記憶が自分にないのか?という疑問です。「幼児性健忘」と思いましたが、それでは説明がつきません。

 その後いくつかの専門書を紐解いていくと、「解離性健忘」に目が止まりました。

「そんなこともあるんだ」

 その記述を読んで腑に落ちた気がしました。

 話を当時に戻します。

 祖父母の家に一時的に預けられていた私に、千代子は時折り、会いに来たようです(これも記憶にありません。母や親族から聞いた話です)。でも、「なぜおかあちゃんとおにいちゃんと一緒に住めないのか」を理解できなかった4歳児が親に見捨てられたと感じるのは普通です。やがて訪れる千代子を遠ざけるようになったそうです。

 会っても寄り付かない我が子に目が覚めたらしく、千代子は養子縁組を解消、私を再び自分の手元に戻しました。

 

(私が「養子に出されそうになった」ことを知らされたのは、中学生の時でした。反抗姿勢に手を焼いた千代子は私の頬にビンタを見舞った後、「あんたなんかは養子に出しとけばよかった。かわいそうだと思って養子の話をやめてやったのに」と言ったのです。それを聞いた私は、すべての時が止まったような気がしました。私の反抗は確かに度を越していました。激務を抱えて最終バスで帰宅する毎日の千代子は、おそらく心神耗弱と言っても過言ではないほどでした。しかし、子供にとって親の愛情は絶対です。母親の心無い発言は、幼児期のつらい体験に加えて多感な思春期の私を苦しめることになります)

 

 再び一緒に住むようになっても、「男は泣くな!女々しいことを言うんじゃない!」「ててなしご(父親のいない子)は世の中で馬鹿にされます。しっかりしなさい」と兄や私を叱り、時に体罰を加えてくる母に、私は心を開けなくなっていたと思います。だから、叔父たち(母の弟たち)から受けていたイジメのことを言っても信じてもらえないとあきらめたのでしょう。私はその事を母に打ち明けることなく、これはあくまでも私の推測ですが、イジメられたことも時間の経過とともに記憶から消えていったのではないでしょうか。

 しかし受けた心の傷は容易に癒えるものではなく、当時は毎夜のように“おそがい(三河弁で「恐ろしい」)夢”に悩まされ、寝るのが怖くなった時期が長く続きました。一度母に悪夢で苦しんでいることを訴えましたが相手にされず、二度とそれを口にしませんでした。その代わり、父方の祖母こまに話を聞いてもらいました。

 今でも祖母との会話とその光景をいくつかはっきりと記憶しています。

 私がイジメを受けていたことは当然知っていたのでしょう。不憫(ふびん)に思っていたはずです。

 こまは落ち着いた口調で「こうやってごらん」と枕を叩きながら「おそがい夢は見ませんように」と呪文を唱えてくれました。

 

 それから数年後、後述しますが私は肺浸潤に罹り半年間入院します。その時付き添ってくれたのが祖母で、毎夜「おそがい夢を見ないようにお願いして」とせがんでいました。

 ところがしばらくして無理がたたったか祖母が別の病院に入院してしまいます。見舞った彼女の前で涙を見せる私に、母たち大人は「やっぱりおばあちゃんっ子だね」と半分からかうような言い方で笑いましたが、私は呪文を唱えてくれる祖母がいなくなるのが怖かったのです。残念なことに、祖母はそれからしばらくして他界。私は大きな後ろ盾を失ってしまいました。

 

【あとがき】

 母や親族へのうらみつらみに思えるような内容でしたが、私にはこれらの人たちに対する感情的なしこりは全くありません。

 それは、私の人生に関わった大人たちにとっては当時の常識に従って判断したものであり、悪気があっての行動ではなかったからです。また私につらく当たった叔父たちに関しても、理不尽な「大人の都合」を押し付けられたから「そのはけ口」として私を標的にしてしまった可能性が高いからです。

 いずれにしても、「時代」がそうさせたと思います。「おんな・こども」に人権はないも同然で、男社会の論理でものごとが進められていく時代がいかに醜悪であるかその一端をお分かりいただけたと思います。ここから私たちが学ばなければならないのは、女性はもちろんのこと、子供もひとりの人間であり、形やレヴェルはいろいろにせよ、基本的には「女性や子供の視点」が生かされていく社会づくりに努力していくことの大切さです。間違っても「古き良き時代」などと言って懐かしんだり、その再現を願ったりしてはなりません。

 

【注 養子】

  日本には伝統的に世継ぎ(男子)に恵まれぬ夫婦が、「家系を断絶させないため」に男子を欲しがりました。余裕のない親が次男以下を養子に出すことは珍しくなかったのです。

第4回 「5歳児の決意」

 母千代子の実家から、再び竜谷村の父の実家に戻された私は、息子がいない伯父に我が子のようにかわいがられたことで安心を取り戻しました。伯父を「おとうちゃん」と呼ぶよほどの懐きようでした。そんな弟をこころよく思わない兄は何度も「おとうちゃんじゃない」とたしなめましたが、呼び方を変えることはありませんでした。

 心が安らぐようになっても時に不安に襲われます。親に甘えたい時期でもありました。しかし、千代子は常に背筋をピンと伸ばして「淺井家の男は武士。弱音を吐くな。泣くんじゃない。涙を見せるな。頭の上からお父さんが見てるからね」とけんもほろろでしたので、彼女に心の内を吐露したことはありません。

 家長の祖父米太郎も幼い私の心に配慮を見せる人ではなく、階段から転げ落ちても「うるさい!」と怒鳴る人です。5歳児の顔を見ると、何かと苦言を口にしました。今思い返しても米太郎との楽しい思い出は何一つ思い浮かびません。

 

 俊夫の実家は室町時代から広大な田地田畑と山林を所有していました。しかし、米太郎とその弟が稀代の遊び人で毎夜の芸者遊び。私を取り上げてくれた産婆(助産師)は、米太郎に水揚げされた元芸者さんだったというから話になりません。

 また、淺井家は代々華道遠州流の家元で、米太郎は当時岡崎にあった日清紡績の女工さんを教える立場にありました。後になって聞いたことですが、彼は何人もの教え子と関係を持ってトラブルが絶えなかったそうです。

 派手な女性関係による散財に加えて、私が生まれた年から実施された農業改革(地主制度の改革)で、淺井家所有の山林や田畑は大幅に縮小。私が居候として入った頃には自宅の敷地も削られ、住居も小さくなっていました。

 破産状態にあって夜遊びがままならなくなった米太郎は、朝から晩まで長火鉢に座って家族の動きを監視。なんやかやと口出ししていました。孫特に男子には厳しく、叱られた思い出しかありません。

 それを受け継いだのが俊夫のすぐ下の叔母でした。口を開けば、「淺井家の格」。そして学歴の大切さ。

 叔母は「淺井家の男が大学に行くんだったら東大しかない」と言ってはばからず、当時はまだ珍しかった教育ママを貫き、息子をめでたく東大に入れます。彼女の息子、つまりは私のいとこはのちに東海村の原子力研究所(現原子力科学研究所)所長を務めるなど日本の原子力推進の貢献者の一人になります。

 ただ、彼とは成人してからも交流がありましたが、2011年の福島原発事故の際に意見が真っ向から対立。その後は音信不通となっています。

 その叔母が、東大は出ていなかったものの「淺井家の男」として認めたのは、トヨタ自動車でハイラックスの5代目開発責任者であった浅井重雄です。ただ、年が離れていたこともあり、私にとっては近寄りがたく、「遠くから眺める存在」でした。

 

 “おとうちゃん”のことは大好きでしたが、俊夫を慕う気持ちは日に日に増していき、周りの大人に「お父ちゃんの話をして」と聞いて回るようになりました。

 すると、大人たちは一様に「俊夫さんは本物の武士だったな」と言いながら、自分たちが知る俊夫像を話してくれました。一部の人は「(淺井)長政の生まれ変わりだったよ」と言う人もいたりして、幼かった私の頭は大混乱。

 大きくなってから整理してみると、私の祖先が室町時代に近江から流れてきていて(竜谷村史から)、それが歴史上の人物「淺井長政」の親族であったとどこかで言われるようになり、偶然父が武道の高段者の青年将校で中国戦線において武勲を挙げ、死んだのが長政と同じ28歳。そんな事実と与太話とがないまぜにして語られるうちに、いつの間にか前述の話が事実であるかのように言われるようになったということです。

 そして中には、「俊夫さんは『武士は他人に腹は切らせません』と腸結核の手術を断った」とまで言う人がいました。後日談ですが、母にその辺りを質(ただ)したところ、「それはない。手遅れだった」とにべもない(そっけない)答えが返ってきました。

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 父の実家の近くに広忠寺という松平・徳川家由来の寺があります。その寺は読んで字のごとく、徳川家康公が父松平広忠を菩提するために建てたものです。そこには、広忠と結婚する予定であったお久の方と、ふたりの間にできた勘六と恵最(えさい)が住んでいました。ふたりは家康公の異母兄弟ということになります。勘六はのちに松平忠政を名乗り、「桑谷松平3000石」の旗本になり、徳川家臣団に名を連ねます。家康公と同じ年の同じ日に生まれたと言われる恵最は、僧門に入り、樵暗恵最(しょうあんえさい)と名乗ったと「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」などにあります。

 

 その広忠寺に時折、村の戦争体験者たちがたむろして体験談を語り合っていました。私はそこによく顔を出しては前述したように「お父ちゃんの話を聞かせて」とせがんでいたのです。

 いろいろな話を聴くうちに、「戦争がお父ちゃんをうばった」と勘違いした5歳児は、「だったら戦争をなくしたい」と思うようになりました。

 そんな思いに駆られるようになった私はある時、「おとなになったら戦争をなくす仕事がしたい。どんな仕事があるの?」と元日本兵たちに聞きました。

 すると、ふたりが「そうだな。新聞記者だな」と教えてくれました。

 ふたりにすれば軽く思い付きで答えたのでしょうが、真に受けた少年くにおみは、それからことあるごとに「僕は新聞記者になる」と言うようになりました。 

 彼らの言葉は私にとって、体の芯にまでずしんと来る重さで響ました。それからどんな苦境に直面しても「お父ちゃんのために記者になるんだ」と頭の中で呪文のように唱えて自分に言い聞かすのでした。

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