第1回 「1944年4月8日、両親が結婚」
第1回 「1944年4月8日、両親が結婚」
第2回 「出生。一年後の父の死」
第3回 「時代に翻弄された幼少期」
第4回 「5歳児の決意」
第5回 「1年に2度の生命の危機」
第6回 「馬車に揺られて聞く亡き父の話」
第7回 「母の背中」
第8回 「破られた父の絵」
第9回 「本多家の人々・再会」
第10回 「本多家の人々・ともしび」
第11回 「結核病棟生活と新聞」
第12回 「冨田勲との“出会い”」
第13回 「冨田勲との“別れ”」
第14回 「暴力オトナ世にはばかる」
第15回 「ボロ雑巾になった僕の天使」
第16回 「東海オンエアの福尾りょうさん」
第17回 「冷水摩擦で異次元へ」
第18回 「僕の英語修行①」
第19回 「僕の英語修行②」
第20回 「阪神大震災『活動記録室』誕生裏話」
第21回 「死と隣り合わせの日常」
第22回 「アンポ、アンポに明け暮れた一年」
第23回 「三河管理教育① 初代校長・鈴村正弘」
第24回 「三河管理教育② 裏側と国立研究所誘致」
第25回 「三河管理教育③ 鈴村とおかん、それに私」
第26回 「尊大な14歳」
第27回 「穢れた英雄」
第28回 「『理由一杯の反抗』と覚醒」
第29回 「【親バカ日誌不定期号①】」
第30回 「多難な高校生活の始まり」
第31回 「岡崎高校フォークダンス事件」
第32回 「光と影の高校二年生」
第33回 「東京に家出」
第34回 「家出少年①」
第35回 「家出少年②」
第36回 「てんこ盛り高校生活・3年生編①」
第37回 「てんこ盛り高校生活・3年生編②」
第38回 「青春放浪・大学受験浪人①」
第39回 「青春放浪・大学受験浪人②」
第40回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く①」
第41回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く②」
第42回 「つかの間の大学生活」
第43回 「青春時代のリセット」
第44回 「留学準備に邁進①」
第45回 「留学準備に邁進②」
第46回 「羽田闘争を目の当たりにして」
第47回 「人生の意味を思索する旅」
第48回 「愛工大名電野球部とモーさん」
第49回 「パレスチナと私①」
第50回 「パレスチナと私②」
大日本帝国陸軍の精鋭騎馬部隊所属の父淺井俊夫は、“支那事変(日中戦争)”で中国最前線を転戦。格別の武勲を挙げたとして日本唯一の武人勲章である金鵄勲章(きんしくんしょう)を授与され、生まれ故郷では「村の誉れ」でした。
今となってはその心の内を知るすべがありませんが、想像するに自分の遺伝子を残したかったのでしょう。敗色濃厚になった1944(昭和19)年4月、当時の赴任地であった平壌(ピョンヤン)から一週間の休暇を取って帰国。岡崎市の教員であった母千代子と実家(額田郡竜谷村。現岡崎市桑谷町)で祝言を挙げた後、新妻を伴って海峡を再び渡りました。時に、父24歳。母は21歳でした。新居には馬の世話をする兵士と現地人のお手伝い(当時は女中と言われた)が同居。「恵まれたお姫様のような新婚生活だった」と母はかつて述懐したことがあります。
1945(昭和20)年1月に兄義澄がピョンヤンの軍宿舎で生まれますが、俊夫にはその翌月、京城(ソウル)への単身転勤命令が下ります。
その半年後に終戦。俊夫は妻子を迎えに行く機会を得られぬまま、帰国を命ぜられます。父がどれほどの苦しみに苛まれたかは分かりませんが、帰国直後に軍服姿で千代子の両親を訪れ、「北朝鮮にふたりを迎えに行きます」と挨拶に行った(母方の叔父の話)ことから推し量ることはできます。
俊夫は、戦時中に数々の武勲を挙げた村の誇りだった立場から一転、「妻子を捨ててきた穢れた英雄」となってしまったのですから故郷に戻っても「針のむしろ」状態で、どうしても救出に行きたかったはずです。しかし、教員から市会議員に転じていた義父の縫右門は、世間体もあってか俊夫の計画に猛反対。実行に移せば離縁すると俊夫の前に立ちはだかりました。「親は絶対」の時代です。俊夫は涙を呑むほかありませんでした。
一方千代子は、侵攻してきたソ連軍を恐れて将校宿舎から乳飲み子を抱えて仲間数百名と共に逃亡。その後約10か月間、北鮮(北朝鮮)内を逃げ回りました。厳寒の地における逃亡生活は過酷を極め、多くの仲間が命を落としました。幼子(おさなご)も同様で、兄より年少の子は全て死んだそうです。
九死に一生を得た千代子と義澄は1946(昭和21)年6月、夜陰に乗じて38度線を越えて南鮮(韓国)に入り、そこから帰還船に乗り、岡崎に帰ってきました。
帰還船では、朝起きると目の前にいた同じ境遇の若い母親が乳飲み子を胸に抱いたまま冷たくなっていたと言います。遺体は海に投げられましたが、それまでは言いづらかったのでしょうか、10年くらい前にその時のことを話してくれた千代子は、私の前で涙を見せることはありませんでしたが、聴いていた私はその胸の内を考えると胸が詰まりました。
九州博多港に着いたもののそこからの汽車賃は自己負担。10か月の逃亡生活で現金どころか貴重品もすべて使い果たしてしまった千代子は「国のために戦ってきたのに…」と力が抜ける思いがしました。
幸いにも仲間の一人から借金することができ、汽車で郷里に戻ることができました。
岡崎市の中央駅東岡崎に降り立った千代子は辺り一面の焼け野原に呆然とします。気を取り直して結婚前に住んでいた家(明大寺町)に行きますが、戦時中の米軍の空襲で跡形もなくなっていました。
駅に戻り、さてどうしたものかと見渡すと、「竹内文具」の看板を掛けた掘っ立て小屋が見えました。教師をしていた千代子は、店の女主人とは仕事柄懇意にしていました。店内に入ると女主人から「齋藤先生、やっとかめ(久しぶり)。どうされたの?」と声を掛けられます。
千代子のぼろぼろの服装と垢まみれの肌、それに背中におぶった生気を失った幼子は誰の目にも引揚者。
「わたし、ホクセンから帰ってきたばっかりなの。両親の家も焼けちゃったし、だんなの桑谷もどこにあるか分からなくて…」
女主人と会話を続けていると、それを聞いた男性客(市役所職員)が「あんたたちのことは有名になっているよ。噂ではだんなさん、お二人の無事を祈って仏像を彫っておられるそうな」と言い、竜谷村の村役場に連絡をしてくれました。
そうして両親は再会できたのです。
(第2回→)