第14回 「暴力オトナ世にはばかる」
半年後に退院したものの、それからは再び‟暗黒の日々”が続きました。
小学校に復学しても授業を受けられるのは午前中のみ。昼食後は家に帰って横になるのを強制されました。主治医の清先生は、
「食事をした後最低1時間は寝ていないとだめだよ。その間に栄養が肺に行って、くんちゃんは強くなっていくんだからね」
と言葉は優しくても厳しい目つきで言うのです。
それに加えて、母から、兄義澄が帰宅するまで家でおとなしくしていろと厳命されました。活発な育ち盛りのくにおみにとっては苦痛そのもの。拷問にも似た言いつけでした。
近所の友達の家に遊びに行くことも許されませんでした。母は結核になった自分の子供が周囲にどう見られるのかをとても気にしていて、禁を破って友達の家に遊びに行こうものなら烈火のごとく「なんであんたは私の言うことが聞けないの!」と怒り、口ごたえするくにおみに時には手をあげる(頬にビンタ)ことさえありました。
3年生の時に日課とされた絵日記には、反抗する意味もあったのでしょう、ただただ「学校から帰るとねた」とだけ連日書いていました。教師に何度「他にしたことも書きなさい」と言われても頑なにそれだけを書き続けたのです。
そんな単調な生活の中で、新聞はますます重要性を増し、まさにくにおみの「心の友」になった感がありました。
宿題や勉強をしないで新聞ばかり読んでいる弟に、義澄は「新聞なんか読んでるんじゃない! 宿題やれ! 勉強しろ!」と口うるさく言って新聞を取り上げるので、挙句の果ては取っ組み合いの喧嘩です。そんなこともあって、私は義澄を心の底から忌み嫌うようになりました。
今から思えば、かわいそうなのは義澄です。従順な義澄は母親の命令を守って弟に対しているだけですから何ひとつ間違ったことをしているわけではありません。でも、くにおみにそんな分別はつきませんから兄弟の関係は悪くなる一方で、喧嘩が絶えませんでした。
義澄は、当時では珍しくヴァイオリン(注)を習っていました。小学生のときには、何故か小学校の講堂でソロ演奏したこともあります。
かといって、格別うまいわけではなく、本人はやる気なし。やらされてる感は半端ではなく母のいないところでは、まるでノコギリを引くようにギーコギーコと練習。そんな状態で上達するはずがありません。千代子は練習の成果が見られないことに苛立ち、怒声を張り上げ、これまた時にビンタを食らわしていました。
義澄の母に対する不満は当然のことながらくにおみに向けられました。それもあってやかましくうざったく感じたと思います。
そんな母と兄にいや気がさして、くにおみは幾度も家出をしました。近くの森の中にある‟秘密基地”が逃げ場でしたが、時には遠い父の実家に逃げ込むこともありました。
ある時、父方の叔母から「あなた、優しい素敵なおかあさまがいるのになんでそんなに家出するの?」と真顔で聞かれたことがあります。
以前書いた教育ママのハシリのおばです。相手が相手だけに、説明したり、言い訳したりしても分かってもらえるはずはないと考えたくにおみは聞き流しました。
「何そんな顔して。親切に聞いてあげているのに。ねえさん(義理の姉の千代子)が怒るのも分かるわ」
そう言って立ち去るおばをただ見ているくにおみでした。
口うるさかったのは家族・親族だけではありません。小学校3、4年生を担任したNは、戦時中の悲惨な軍隊体験を引きずって教育現場に戻ってきた教師でした。今思えば、精神的に多き悩みを抱えていたと思います。男女を問わず、気に入らない教え子には毎日のように暴力をふるっていました。
算盤授業があるときは覚えが悪かったり、態度が悪かったりする子供の頭をそろばんで叩きます。感情をコントロールできないから叩き方も手加減できなかったのでしょう。時にそろばんの珠が飛んだこともありました。今でもその光景は一枚の写真のように記憶にあります。その殴り方も罵声を浴びせながら行う、映画で見るような狂気の世界で、子どもたちを震え上がらせました。
授業中も自分の教え方の拙さを反省する事なく覚えの悪い子に腹が立つようで、暴力のターゲットはその子たちに集中していました。感情のはけ口にしていたのです。
当時は、てんかん、どもり(吃音)、ズーズー弁(強い東北弁)、せんじん(在日朝鮮人)といった言葉が平気で使われていた時代でした。彼はとくに苛立ちを覚えるのか、「××のくせして!」と吐き捨てながら、そうした差別される要素を抱える子供たちに暴行を加えていました。
小学3、4年生の子供には恐怖そのもの。目の前で繰り広げられる暴力にただ震え上がって見ているしかありません。ほとんどの子供は目を閉じて嵐が過ぎ去るのを待ちました。私もそれに抗議したり、親に言いつけたりする勇気はなく、放課(授業の間の休憩時間)に教室の隅でうずくまった同級生の所に行き声をかけるのが精いっぱいでした。遠足に行っても集団から離れて昼食をとる在日コリアンの子の隣に座り、弁当を分け合って食べたりしました。
それを見た一部の子が「くにおみもチョーセンだ」とからかうようになり、それからしばらくはそう言われるのが怖くて在日コリアンの子たちに声掛けができなくなってしまいました。そんなからかいに屈する自分が悔しくて涙したこともあります。後日談ですが、高学年になり体力に自信を持てるようになってからはその関係は逆転、暴力行為はしなかったものの遊びや運動会の中で「かわいがらせて」もらいました(笑)。
私は「教員の子供」ということからか、Nの狂気の被害に遭う事はありませんでした。しかしおそらく、教室で行われる暴行に対して子供にしては鋭い目を向けていたのでしょう。ある時呼び出されて、「何か俺に文句があるんなら言ってみろ」と言われたことがあります。
そのような背景があったからでしょう。4年生の最後になって「鬼滅の刃」がクニオミに襲いかかりました。
その頃までに体力が少しついてきたこともあり、放課後も友達と遊ぶことが許されるようになっていました。体力と押しの強さがものをいう子供の世界です。病気になる前に子分だった子たちが戻ってきていつの間にか小さな‟群れ”を率いていました。
ある日くにおみは仲間に言います。
「Nの『みこ』を成敗しよう」
鬼退治しに行く桃太郎気取りでした。
教師のお気に入りの女子を子供たちは「みこ」と呼んでいました。NのみこのМの‟お姫様ぶり”に気分を悪くしていた私たちは、ある日校庭で彼女の行方を遮り、態度を改めろと迫りました。
ある程度予想されたことではありましたが、彼女は職員室に駆け込み、私たちは怒り心頭のNに教室に呼び出されました。
全員ビンタを食らい、黒板の前に立たされ、「黒板に向かって○回(何回か忘れました)頭を下げて謝れ!」と怒鳴られました。軽く頭を黒板に当てるだけの私たちにNは「ちゃんと謝れ!」と怒鳴りました。つまり、黒板に額を強くぶつけろという命令です。
そう言われると、へそ曲がりのくにおみは「おはようございま〜す」と言いながら黒板にお辞儀をしました。
「なめんじゃねーぞ!」と言ったかと思うと、Nは私に襲い掛かり髪の毛を引っ張り、床に叩きつけ、そして何度も足蹴にしました。
「謝れえー」と言われてそれに従う子供ではありません。おそらく反抗的な目を相手に向けたのでしょう。体を持ち上げられてビンタを食らい倒れたところで何度も蹴られました。
そうされながらもくにおみは意外に冷静で、それまでに元日本兵から聞かされて来た軍隊の上官による下級兵士へのいじめを想像して歯を食いしばっていました。
その夜帰宅した千代子は息子の異変にすぐ気が付きましたが、「転んだ」と言うくにおみにそれ以上聞くことはありません。顔の腫れ具合から、教師である彼女はなんらかの暴行によるものと推察できたはずです。今から思えば、母も何かほかに心を奪われる問題を抱えていたのかもしれません。
そんな母を見て、「母は事実を知りたくないのか」、「自分はこれを言ってはならないのか」、「自分にも非があるから怒られるかもしれない」など様々な考えが錯綜し、私はその出来事をついぞ千代子に話すことはありませんでした。
ですから、5年生で担任が変わると知った時、「Nから解放される」と小躍りして喜んだのは言うまでもありません。
くにおみは小さい頃から異常な動物好きでした。特に、大の犬好きで退院してから犬を飼いたいと言い続けていました。
「スピッツをくれる人がいるんだけど欲しい? ちゃんと面倒を見られる?」
仕事から帰宅した千代子がある時、くにおみに聞いてきました。
【注】ヴァイオリン教師の妻は琴の先生で、その師匠はアイドル並みに人気があり有名だった箏曲家宮城道雄。視覚障碍者だった宮城は1956年、刈谷市内を走行中の国鉄(現JR)の汽車から転落して亡くなった。琴の先生はその際、遺体の身元確認に呼ばれている。当時の汽車は、乗降ドアが手動で走行中でも開閉できた。