私の人生劇場

青年期

第13回 「冨田勲との“別れ”」

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 1975年初春。ところは、有楽町。

 朝日新聞社本社(現有楽町マリオン)の6階にあるAP通信社アジア総局内のニューズルームで編集会議が行われていました。会議を仕切るのは、編集長のEd White。ヴェトナム戦争で数々のスクープをものしたAPの名物記者です。

「Isao Tomitaという音楽家がグラミー賞に3部門でノミネートされたそうだ。NY(本社を意味する)が言うには、彼はいま東京にいるらしい。つかまえてインタヴューしてくれとのリクエストだ。誰かやってみるか?」

 当時は社内でも喫煙が許されていました。Edはパイプたばこをくゆらせながらわれわれ記者を見渡しました。

「私、彼のファンだから取材に行きます」

 隣に座ったKathyが挙手をしました。彼女(Kathryn Tolbert)はのちにワシントン・ポストのコラムニストになりますが、当時はまだ見習い記者でした。

「Isao Tomitaって誰?」

 なぜか気になった私は彼女に聞きました。

「知らないの?日本人の作曲家で、シンセサイザーという新しい楽器を使って素敵な世界観を創り出すの。『Snowflakes Are Dancing』というタイトルのアルバムがビルボードのクラシック部門で1位(後で調べると、この時点では2位)になるほどよ。私の友達でもファンは結構いるわ」

 グラミー賞は米国人を対象にするものと勘違いしていた私は、Isao Tomitaなる人物が私の憧れ続けていた冨田勲さんだとその時になってようやく気付きました。

 先輩たちは誰もが新人記者の彼女に話を譲ろうという雰囲気でしたが、私は、

「Ed、その人だったら僕が憧れ続けてきた人だからインタヴューしたいです」

 と手を挙げました。Edの提言は、

「そうか。ではじゃんけんで決めれば?」

 普段はじゃんけんに強い私ですが、でもその時は負けてしまいました。

「Kathy、僕がカメラマン役をやるから連れてってよ」

 どうしても勲さんにインタヴューしたくて私がそう言うと、

「それはダメでしょ。あなたはカメラマンじゃないのだから」

 と、つれない返事。

 確かに彼女が言うように、米国社会では職務・役割の区別が明確です。私のやり方はカメラマンの職域を荒らすことになりかねないのです。そう言われて泣く泣く諦めました。

 

 取材から帰ってきたKathyは、

「思っていた通りの素晴らしいクリエイター。それにすごくいい人。おそばをごちそうになったわ」

 と自慢げに報告してきました。

 「そりゃあ良かったね」と言ったものの、その悔しさは到底言葉に表現できないもので、おそらくKathyから見た僕の表情は引きつっていたはずです。

 

 その年、残念なことに勲さんの『Snowflakes Are Dancing』(邦題:月の光)は、ノミネートされたグラミー賞三部門のいずれも受賞を逃しました。しかし、注目度は高く仕事の依頼が殺到します。中でも、フランシス・コッポラ監督が映画『地獄の黙示録』の音楽担当を依頼してきたことは有名な話です。RCAレコードとの契約が邪魔をして実現しませんでしたが、同作品が世界的ヒットをしただけに、実現していたら勲さんがどんな世界を描いたのかと思ったファンも多かったに違いありません。

 

 余談ですが、その年のGrammy賞「最優秀アルバム部門」の栄冠はスティーヴィー・ワンダーに輝きました。

 勲さんはスティーヴィー・ワンダーと親交があり、2016年に他界した勲さんの告別式にはスティーヴィーが追悼ヴィデオメッセージを送ってきています。あくまで私の想像の域を出ませんが、ふたりの親交は1975年の授賞式(勲さんが出席していたら、の話ですが)がきっかけだったのではないでしょうか。

 

 そこから勲さんの快進撃は続きます。

 1975年発表の『展覧会の絵』は、同年8月16日付けのビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM(全米レコード販売者協会)同部門最優秀クラシカル部門2年連続受賞、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞しました。同年9月発表の『火の鳥』は1976年3月20日付けのビルボード全米クラシックチャート第5位、同年12月20日発表の『惑星』も1978年2月19日付けのビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされました。「宇宙3部作」の第3作目である『バミューダ・トライアングル』(1978年発売)では発売翌年のグラミー賞で "Best Engineered Recording"に2回目のノミネートをされています。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のノミネートをされました。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、勲さんのアルバムはいずれも世界的なヒットを記録しています。

 Isao Tomitaはレコードの世界にとどまらず、1979年に日本武道館で開催したピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』を機に広大な空間に翼を広げます。

 1984年にオーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空(ヘリコプターを使用)一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント『トミタ・サウンドクラウド(音の雲)』と銘打ったコンサートを催して世界を驚かせました。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演しました。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いてニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に音楽を通じて世界平和を訴え続けてきたのです。

 

 これはまさしく私が勲さんに求めていた姿でした。戦火(岡崎空襲)や自然災害(三河地震)を体験し、その体験を自らが作り出した音に乗せて世界平和へアピールする姿は私にとってのヒーローそのものでした。

 それだけに2012年、故郷に活動の場を移した私は、勲さんの功績を後世に伝える場づくりをしたいとの考えに至りました。

 その年、第11代岡崎市長に就任した内田康宏氏を表敬訪問した際、「岡崎市で『Isao Tomita Museum』を造りませんか」と提案しました。提案した直後は「それは盲点でした」と膝を乗り出した内田氏でしたが、しばらくして再度市長室を訪れると、「あまり客を呼べないのではないですかね」と腰が引けていました。

 だからといって簡単にあきらめる性質ではありません。それからは市内外の有力者に会うたびにこの話題を持ち出しました。勲さんの実家である冨田病院を訪れると、既に冨田裕病院長にも私の動きが伝わっていたようで歓迎していただきました。しかしながら、病院長から私の動きを伝え聞いた勲さん本人は「そういうものは私が死んでからにしてくれ」と返事をしてきたそうです。その反応にもまた、私は「勲さんらしいな」と満足でした。

 

 老境に入っても勲さんの創作意欲は衰えを見せず、80歳になった2012年に壮大な交響曲を完成させます。その新たな世界に挑戦する勲さんの姿をNHKのカメラが追いかけていました。

 以下は、NHKの番宣です。

  日本を代表する作曲家の一人、冨田勲さん(80歳)。自身の集大成となる「交響曲」を作曲しました。その名も「イーハトーヴ交響曲」。テーマは、冨田さんが長年描きたいと思い続けてきた、作家・宮沢賢治の世界です。賢治の4次元的・宇宙的な世界観を、どうやって音楽で表すか。悩んだ末、冨田さんが思いついたのは、なんとインターネットの動画サイトで大人気のバーチャル・シンガー“初音ミク”の起用。こうしてオーケストラと初音ミク、200人の合唱が奏でる、前代未聞の壮大な交響曲が生まれることに。その5か月に及ぶ制作過程に密着。なぜ宮沢賢治の世界に初音ミクなのか。そして、交響曲誕生の裏に秘められた、賢治の「雨ニモマケズ」をめぐる10年越しの約束とは。みずからも少年時代に大地震に被災したという冨田さんが交響曲に託した、東北の被災者への思いとは。人生の集大成だ、という「イーハトーヴ交響曲」に込められた冨田さんの思いに迫ります。

 10年かけて大作を完成させた勲さんがTVカメラの前で「最終段階で苦労していた私の背中を押して完成させてくれたのは東日本大震災でした」といった趣旨の発言をされましたが、それは私なりの解釈ですが、少年時代に三河地震の直後に実家の病院で見た記憶が勲さんの中でよみがえり、力を与えたという意味だったのではないでしょうか。そう話す時の勲さんの瞳はまるで少年のように輝いていました。

 「イーハトーブ交響曲」を完成させた後も前に進むことをやめない勲さんは、『ドクター・コッペリウス』と題するバレエ作品に取り掛かっていました。2016年春の近親者からの報告では、「完成まであとわずか」という話でした。

 しかしながら2016年5月5日、突然の訃報が入りました。レコード会社との打ち合わせを済ませ、好物のうなぎを食べた直後に倒れ、そのまま数時間で帰らぬ人となったそうです。

 幾度か会う機会があったのに、ついぞ一度も言葉を交わすことなくこの世を去ってしまわれた冨田勲さん。それはそれでとても残念ですが、8歳の頃から憧れ、勝手に背中を追いかけてきた私にとって、あなたはスターであり続けます。

 Isao Tomitaの凄さ、素晴らしさが岡崎では高く評価されなくて記念館の創設も理解を得られない現状ですが、これからも諦めることなく言い続けていくつもりです。 (写真提供:小野修平氏)

(続く)