私の人生劇場

青年期

第30回 「多難な高校生活の始まり」

 1963年前半は新聞やTV、読書を封印して高校受験に集中。試験が終わる日まで「世の中の動き」に対し自分を隔離状態に置いていました。

アルバイト 水道工事.jpg

 合格してからは町なかに出て見つけてきたアルバイト(市役所近くにある水道屋の現場仕事。つるはしをふるっての仕事なので好待遇)をしながら、自宅では半年以上積んでおいた古新聞を1頁1頁めくって国内外のニュースを読む日々を送って入学式を待ちました。眠くなると新聞を顔の上に乗せて夢の中に入ります。新聞のインクの匂いをことの外好んでいたくにおみにとっては至福の日々でした。

 

 そんなのんびりした気分もひとつの新聞記事で吹き飛びます。

 熊本県の一漁村で奇病と噂されていた現象が、奇病ではなく工場排水を原因とする公害であると判明したのです。後に水俣病、国際的にはMINAMATAと知られるようになる災害の因果関係がその年の2月、熊本大学の「水俣奇病研究班」の手によって明らかにされると、一気に世間の目を集めるようになっていました。

 アルバイトの帰りに図書館に寄り、数年前にさかのぼって水俣病の新聞や雑誌の記事を読み漁ります。そこから見えてきたのは、「神武景気」「岩戸景気」と戦後の経済成長に呆(ほお)けて突っ走ってきた〝暴走列車〟から振り落とされた人たちの姿でした。そう。くにおみはそこでまた「矛盾に満ちた汚い大人社会」を見たのです。

 

 毎日の図書館通いは幸運ももたらしてくれました。2年生で同級生となる大親友に初めてそこで会えたのです。会ったと言っても厳密には「見た」と言った方が正確ですが。

「ねえねえ、見て見て」

 同じテーブルに座っていた女子生徒のひとりが隣の女友達に話しかけています。私もそちらに目をやりました。視線の向こうにはスラリとした長身の、同性の私から見ても男前な生徒が立っていました。何(誰)かを探しているようで我々の目の前を2、3回うろうろしていました。

「ヨシヒコくんじゃない。カッコいい!」

 話しかけられた女子生徒が小声で応えました。

 入学後に学校で再度彼を見かけた時、図書館で見た「ヨシヒコくん」であることはすぐに分かりました。同級生からヨシヒコは、山本嘉彦であることを知ります。ラグビー部に入ったことも後で分かりました。なんと、私が所属した柔道部とラグビー部は同じ部室を共有していたのです!

 

 4月4日に入学式が行われました。

 壇上で岩城留吉校長が発する「質実剛健」「もののふ(武士)の道」「名門校の誇り」「男らしく女らしく」などの時代遅れの叱咤激励に違和感を持ち、くにおみはそれを聞きながらひとり「学校の選択を間違えた」と後悔の念にかられていました。 

 担任は数年前に東京の大学を出たばかりのバリバリの新人体育教師Mです。

「君は中学の体育の成績は抜群なのにほとんど部活動はしていなかったようだね。なぜだ?いい体をしているのにもったいないな。泳ぎはどうだ?水泳部に入らないか?」

 最初の面談でMはそう言い、自分が顧問を務める水泳部への勧誘をしてきました。その物言いに強い抵抗感を持ったくにおみは、ぶっきらぼうに「柔道かラグビーをやろうと思っています」とだけ答えました。

「生徒議会の委員(議員?)をやってくれるか?」

「興味ありません」

「将来の夢は?」

「別にありません」

 かみ合わない会話にMも面倒になったのか、面談はあっけなく終わりました。

 

 そんなだらけた感じでスタートした高校生活でしたが、第一回目の全校朝礼でくにおみは目覚めました。岩城校長が体育館でまた、全生徒を前に口角泡を飛ばす大演説をしたのです。

 その予告だったのでしょう。数日前に、学校側はこれまた大時代な「お触れ」を出しました。お触れの形状、場所についての記憶は定かではなく、本稿を書くために、当時(前後期)の生徒会長、天野茂樹、佐宗公雄両氏とお会いし話を伺いましたが、おふたりともその点については記憶にないとのことでした。当時同校に通っていた友人知人に聞いても、記憶はあいまいでした。 

 私の記憶では、お触れに書かれた禁止・注意事項は、髪型、フォークダンス、皮靴、下駄、腰手ぬぐいについてでした。

 髪型は、男子は丸坊主、女子はおかっぱかお下げ(だったと思います)にしろとのお達し。男子は翌週までに全て丸刈りにして来いとの命令でした。

 5月11日に予定されていた「新入生歓迎フォークダンス」も「中止すべし」と断じていました。

 

 下駄や腰手ぬぐいは、岡崎高校の前身が「愛知二中→岡崎中」の男子校で、当時はまだ〝バンカラ〟の気風が残っており、学生帽をわざと破って古く見せたり、稀に下駄で登校したりする生徒もいました。腰手ぬぐいは便利でしたから私も愛用していましたが、チラホラ見受けられる程度でした。皮靴は贅沢だとのご託宣でした。

 お触れを読んでも、「高校生活の正しいあり様」が理解できない新入生の我々は戸惑うばかりで、どうしたものかと思案投げ首状態でした。(次回につづく)

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第31回 「岡崎高校フォークダンス事件」

前回のつづき)

 最初の朝礼では、岩城留吉校長から、入学式の挨拶に輪をかけて時代がかった檄が飛びました。

「本校は明治天皇陛下から受けた詔書に書かれた質実剛健を旨として設立された名門校であるにもかかわらず、風紀が乱れ、生徒の本分である学業がおろそかにされている」

「我が国の最近の風潮は、男と女の境がなくなっている。男はより男らしく、女はより女らしくしなければならない」

「最近の若者の男女関係は乱れておる。生徒会が企画した新入生歓迎フォークダンスの会(5月11日開催予定)は青年男女が手に手をつなぐものであり、みだらで享楽そのものだ」

「男子生徒の中には色気を出して長髪にしている者がいるが、学業の邪魔になる」

 そして説教をした後、

「長髪の男子はここに残るように。他の生徒は教室に戻りなさい」

 と指示しました。多くの生徒はその場から離れました。校長の命令を無視して出て行った長髪の男子もいました。

 私は柔道をやろうとしていたので丸刈りでしたが、「次に何が起きるか」という好奇心が勝り、校長の指示を無視してその場に残る決断をしました。何か言われたら「髪を伸ばすつもりでしたので聞いておきたいと思います」という出まかせの〝うそ〟をつこうと思っていました。

 

 女子や丸刈りの生徒が体育館を後にしたのを確認した校長が次の言葉を言う直前でした。左手後方から壇上の校長に向かって大声で何か言いながら、ひとりの上級生が前に進み出てきました。そして、校長と激しく口論を始めたのです。後になってその生徒が生徒会長であることを知ります。

 呆気にとられたくにおみは、上級生の捨て身の抗議を見るうちに「先輩、カッコいい! 高校ってこんなに面白いところなんだ」と感動しました。恐らく口を開けてその光景を見ていたと思います。ふたりのバトルが収まる気配はなく、ひとりの教員が校長に何か(おそらく授業開始時間が迫っていること)を耳打ちして間に入らなければ長時間続いていたに違いありません。

 その日を契機に校長と生徒会が激しく対立、校内は騒然となりました。それに加えて、地元の中日新聞はもちろん、朝日新聞(全国版の社会面。四コマ漫画『サザエさん』の隣りに「『男女の享楽に過ぎぬ』とフォークダンス禁止」という見出しで記事掲載)などの全国紙やNHKなどの影響力のある放送メディアまでもが騒ぎ立てたこともあり、多くの生徒にとって落ち着かない日々が続きました。

 

 そんな記憶でしたが、半世紀以上経過した今、多くの関係者に話を伺い、資料に目を通してみると、生徒会はかなり論理的かつ冷静に対応をしており、我々生徒がメディアによって踊らされていたことが分かります。

 朝礼で校長と丁々発止激しく議論した天野茂樹氏(大学卒業後は弁護士)は「校長という権力に言いなりになるのではなく、岡高生の反骨精神を示した」と述べる一方で、「岩城校長は働きながら勉強した苦労人。それだけに私たちのことが甘く見えたのではないですかね」と懐の深い見解を述べられました。

 

 また、天野氏の後を継いで5月から会長になった佐宗公雄氏(元新聞記者)は、

「自立と自律という言葉を常に念頭に置いて生徒会活動をした」

「それを先生方が良い方へ良い方へと導いてくださった」

(それゆえ)「先輩が作り上げた岡崎高校の伝統を守ることができた」

 と語られました。

 

 佐宗氏が言うように、確かに教頭以下教職員のほとんどは校長の古臭い考え方・やり方に反対で、生徒の側に立ってくれていました。

 実は、週刊誌報道でコメントしていた教員に私は「本当にこんな発言をしたのか?」と職員室で聞いて回っていました。特に、週刊新潮と週刊女性に掲載されたコメントは聞き捨て(読み捨て?)ならなかったからです。直に聞いてみると、教員たちは丁寧に対応してくれ、週刊誌がデタラメを書いていたことが分かりました。 

 この全国規模の騒動になった事件に驚いた愛知県教育委員会は、校長に対してフォークダンスの禁止令を解くように要請。それを受けて校長は禁止を取り消しました。生徒会は5月15日に会議を開き、18日(土)午後1時に新入生歓迎のフォークダンスの会の開催を決定。校長もこれを渋々承認します。 

フォークダンス事件.jpg

 5月18日。五月晴れの下、約500人の有志が軽やかなステップとまではいきませんが、晴れやかな表情で踊りを楽しみました。一段上のところから悔しそうにそんな私たちを見下ろす岩城校長の姿がありました。その周りには、中日、朝日、毎日、NHKなどの報道陣が群がっていました。

 翌月の『岡高新聞』は、「みだらでなかったフォークダンス」との皮肉を込めた見出しを付けて詳細を報じました。(著作権侵害の恐れがあるのでリンクを貼れませんが、何年か前に民放のクイズ番組が当時の映像を使いクイズ仕立てで扱っています。「岡崎高校/フォークダンス事件」で検索すると観られますのでどうぞ御笑覧ください。あ、ご笑覧は自分の作品の時にしか使えないですね?)

 

 ところが、事件はそれで「一件落着」とはいきませんでした。

 夏休みの最中の8月1日。突然の人事異動が教育委員会から出されたのです。

 「岩城校長は県指導課。戸松補佐(教頭)は文化研究所。鈴木生徒会顧問は安城高校」への転出が発表されました。

 それを受けて生徒総会が開かれ、次のような決議文を採択しました。

 

【決議文】
 私達岡崎高校生徒議会は本年五月のフォークダンスの事件などに関連して、本校の戸松・鈴木両先生が転任を申し渡されたことを大変遺憾に思います。私達は本年四月以来の本校職員会のとられた態度を常に支持し、信頼して参りました。戸松・鈴木両先生も、あくまで教育者としての良識に基づいてそれぞれ職員会、生徒会の意見を正しく代表されたに過ぎません。両先生は今まで、校長補佐、生徒会顧問の重要な立場から、暖かく私達をご指導くださいました。私達もまた両先生に深い信頼を寄せております。この度両先生が正当な理由もなく急に転任されることは到底納得できません。(中略)

 この度の処置は誠に疑問に思われます。ここに私達生徒一同は今回戸松・鈴木両先生に対する処置にあくまで反対を表明するものであります。

 昭和38年8月6日

 

 生徒の憤りや願いは教育委員会に受け入れられるはずもなく、岡崎高校から転出させられたおふたりは新学期の頭からそれぞれの職場で働き始めました。

 しかし、教育委員会もおそらく我々の気持ちを多少くみ取ったのでしょう。「お別れの儀式」を用意してくれたのです。

 9月13日、転任させられた戸松・鈴木両先生がその日の朝礼の場に姿を現しました。

 壇上に立つ両先生に対してあちこちから先生の名を呼ぶ声が上がります。

 あふれ出る涙を周りに見られたくなかったくにおみは、心の中でしかおふたりの名前を呼べませんでした。

 その光景は老境に入った今もくにおみの心の中に大切にしまってあります。

 

 フォークダンス事件に気を奪われていたこともあり、高校入学後のくにおみは〝本業〟である勉学に身が入りません。生物の教師を忌み嫌っていたら、赤点をとる始末。全体の成績もやる気のなさが反映されてしまいます。

 一学期を終えて渡された通知表の備考欄に「55分の10」とあるのを見て10を欠席数と勘違いしたくにおみは、担任のMに「先生、僕は10日も休んでませんよ」と通知表を掲げて大声を張り上げました。

「バカ、それは席次(成績の順位)だ」

 と言われて、クラス全員の失笑を買ってしまいます。確かに、クラスの生徒数は55人ですから、冷静に考えれば人数である事は容易に分かることでした。実力テストの成績も500人の50番にも入れず、母親は「罰として8月のお小遣いは無しとします」と言い渡してきました。

 

 不幸はそれに留まりませんでした。

 入部した柔道部の上級生と折り合いが悪く、部活動が楽しくありません。夏合宿も豊川の陸上自衛隊駐屯地でやると言われ、「僕は軍隊が嫌いですから参加しません」と答えると、先輩たちとの関係はますます悪化しました。

 「初段を早く取ってこい。そしたら試合に出してやる」と言われて素直に従うくにおみではありません。検定会場にしぶしぶ行ってもやる気が出なくて半年経っても初段に合格しません。やがて先輩たちから相手にされなくなりました。その後初段に合格しましたが、それでやる気が湧いてくるわけでもなく、次第に稽古へは足が遠のきました。

 気晴らしに市内の道場に行き、黒帯を買ってなかったので白帯で稽古に加わると、「本当に白帯かよ。白帯にしてはずいぶん強いな」と言われましたが、そのうち、柔道そのものへの関心も失いました。

 

 担任Mとの関係もギクシャクが続きました。

「俺はお前のように才能があるのに真剣にやらない奴が嫌いだ。入学時の成績もよかったし、知能指数も抜群じゃないか。運動神経もすごいじゃないか。なぜ真剣にやらんのだ?」

 と説教をされたことがあります。

 学校の水泳大会で100メートル平泳ぎに出た私は、予選で断トツの1位でした。それは当たり前と言えば当たり前のことです。中学時代は川で泳いでいましたから「プールで泳いでいる〝へなちょこ〟とはわけが違う」という自負がありました。くにおみには余裕があると茶目っ気を出す悪い癖があります。最後の25メートルをふざけて泳いでしまいました。

 それを見て熱血教師のMは黙っていられなかったのでしょう。昼の休憩時間に呼び出されて「ふざけんじゃない!」と叱責されました。

 くにおみはそんなことで心を改めるタイプではありません。決勝はゆっくり、しかし真剣な表情は崩さずに泳ぎ、最下位に沈みました。苦虫を噛み潰したようなMの前を通る時、何か私に声をかけてきましたが、その言葉が何だったかの記憶はありません。

 

 短距離走、特に200メートル走が大好きだったくにおみは秋の運動会では200メートル予選に出場、最初はわざと遅く走り最終コーナーを回った時は最後尾。そこから〝ハイヨ、シルバー!(当時人気のTV番組『ローン・レンジャー』で、主人公ローン・レンジャーが愛馬シルバーをけしかける時に発する言葉)〟と周囲に聞こえるような大声(もちろん受け狙いです)と共に猛スパート。ごぼう抜きで1位になります。

「なんだあれは!ふざけりゃがって!」

 昼休みで教室に戻る時、廊下でMに捕まりました。不快指数100%の顔で厳重注意です。私は嘘っぽさマックスで下を向いての反省ポーズをしていると、Mの握りこぶしが震えているのが目に入りました。

 くにおみは殴られることを覚悟して奥歯をぎゅっと噛み、片足を引きます。殴られても倒れないためです。幸いにして(笑)殴られることなく解放されました。あくまでも喧嘩野郎の直感ですが、その時ヒトの目が無ければ殴られていたと思います。

 M同様にくにおみも怒りが収まりませんでした。元はと言えば自分のふざけた行為を注意されたのに、いつの間にか相手を責める姿勢に転じてしまうのですから始末におえません。それでも多少は成長したのか、自分勝手な行動でしたが、くにおみは昼食を食べずに怒りを鎮めようとプールで泳いでいました。今思えば常軌を逸しています。

 

 体育祭も午後の部に入り、200メートル決勝の時間になりました。予選の時に別の組でひとり抜群の走りを見せた生徒がいたので、今度ばかりは彼に照準を合わせて真剣に走ろうとウォーミングアップもしっかり行いスタートラインに立ちました。

 スタートはまずまずでした。目標にしていた生徒が抜け出します。4、5番手につけたくにおみは予定通りに最終コーナーを回ったところでライバルの後ろにつけようとギアを一段上げ……ところが、アレ、脚が思うように動きません。得意のラストスパートがきかないのです。〝標的〟はそのまま独走でゴールイン。くにおみははるか離れた後続集団に埋もれたままでした。

 後年、スポーツ医学研究者から「水泳をした後に短距離走は無理がある」と言われました。当時それを知っていたら、泳がなかったはずです。

 競技終了後Mに何を言われたか覚えていません。おそらく何も言われなかったと思います。ただ、その夜帰宅してきた母親に「あんた、今日の走りは……がっかりしたわ」と言われました。なんと普段は学校の行事などに顔を出すことなどのない千代子は、私に内緒で体育祭の見学に来ていたのです。

 

 走ることはそんなわけで惨敗でしたが、生徒全員が後片付けに追われている時でした。素敵なハプニングがありました。

「みなさ~ん! 提案がありまあ~す!」

 と応援団が大声で生徒に呼びかけました。

 応援団の提案は、当時大ヒットしていた舟木一夫の『高校三年生』を生徒全員で歌おうではないかというものでした。フォークダンス事件を経験して「岡高精神」で結束力が高まっていただけに、異論があるはずはありません。応援団員の指揮に合わせて大声を張り上げました。

 

 赤~い夕日が校舎を染めえて~

 

 フォークダンス事件のほろ苦い思い出が込み上げてくるのでしょう。中には涙を浮かべて歌う女子もいました。校庭で高校生たちが口を合わせて大声で青春歌謡を高らかに歌う光景は、今も私の記憶に一枚の鮮明な写真として残っています。

 

 体育祭が終わると学び舎を熱くした熱気は急速に冷めて、ある者は勉強に、またある者はクラブ活動にとそれぞれの道を歩み始めました。東京オリンピック前年のせわしない世相を反映して高校生活も何となく落ち着きが無くて、あっという間に年越しをしていったという年末でした。

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第32回 「光と影の高校二年生」

 1964年。年を越すと、母と兄からの「勉強しろ」コールが激しさを増します。私の高校一年生二学期の成績が一学期よりもさらに悪くなったことに耐えきれず、ふたりは事細かに口を出すようになりました。

 学習意欲がほぼ消えてしまった結果でしたから反論の余地もありません。彼らがどんなに熱心に説教をしても、また何を言ってもただ馬耳東風、聞く耳持たずの姿勢を貫いていました。

 

 家族との不快な毎日だけでなく学校生活も最悪でした。担任Mとの確執、柔道部の先輩からのいじめにも似た扱いに嫌気がさし、さらに加えて勉強が面白くありません。退学してもいいとさえ思っていた時期です。

 教師陣にも恵まれませんでした。ほぼすべての教員の教え方に興味が湧かず、授業中は昼寝か読書。良い成績が取れるはずはありません。話は前後しますが、ある教科では二学期の中間と期末で赤点をとってしまいました。ただ、通知表では担当教師への直談判が功を奏して赤点にはなりませんでした。勉強の成績は悪くても交渉事は長けていたのです。その教科で通知表に赤点を付けられていたら、母と兄の怒りの炎はさらに勢いを増したことでしょう。

 その教科の教師は他の教科も担当しており、そちらの教科とは相性がよく、最高レヴェルの評価をもらっていたので、交渉は難航(?)しましたが成立、難局を乗り越えられました。

 「直談判」の概要を文字にすると、次のようになります。

 

 二学期の期末試験の結果を知った後、くにおみは「まずいことになった。おふくろからまた〝兵糧攻め(小遣いストップ)〟に遭う!」と思ったとたん職員室に行って教科担当に面会を求め、周りに人がいないのをいいことに「今回は赤点を勘弁してほしい」と頼み込みました。

 当然のことながらその教師が首を縦に振るはずはありません。そこで自分の育てられてきた環境の一部を話して説得を試みました。そして最後に「先生の立場では首を縦に振れるはずがないことはよく分かっています。そこでどうでしょう。三学期の試験で90点以下だったら潔く(後で思えば、何がいさぎよいのかって話ですね!)先生の裁きを受けます。だからそれまで待ってもらえませんか? お願いします」

 土下座はしなかったものの深々と頭を下げ続けました。

「言いたいことは分かったから頭を上げて」

 と言う彼女の顔を見ると〝了解〟と書いてあります。

「ありがとうございます!」

 私は礼を言うと、職員室を軽い足取りで出て行きました。

 三学期のテストの前には猛勉強。90点以上の結果を出しました。ですから、高校時代の通知表上の赤点は一度だけです。

 

 赤点は免れたものの前述したようにほとんどの教科で惨敗です。中学までは得意科目であった数学も例外ではありません。

「貫一おじさんの所に行って数学を見てもらいなさい。お願いはしてあります」

 ある日母からそう言われました。

 県立岡崎北高校の数学教師であった貫一は、母の2番目の弟(母は9人きょうだいの長女)で、岡崎高校のすぐ近くに住んでいました。神経質で言葉遣いの荒い彼とは相性が悪かったのですが、おばがとてもやさしく接してくれ、しかもいつもおいしい食事やおやつでもてなしてくれるので、部活を終えたあと時折ですが、叔父のいない時間帯を〝狙って〟顔を出していました。

 母からそう言われると気が重かったものの胃袋からの強い欲求に負けたくにおみは、柔道の練習を終えた後の汗臭い体のままおじの家に行きました。案の定、汗臭い甥っ子は苦手なようで、何となく距離を置く夫を見ておばはさりげなく「くんちゃん、お風呂でさっと汗流してきたら?」と言ってくれました。

「これをやってみろ」

 叔父はぶっきらぼうに、風呂から出て机に向かった私に一枚の問題用紙を出しました。

 おそらく母は大げさに叔父に言っていたのでしょう。低レヴェルのテストでした。それはあまりにも私をなめたもので、難なくそこに書かれた問題の全部を解きました。

「なんだ、かなりできるじゃないか。ねえさん、大げさに言って。こんなら(これなら)俺が見てやることないな」

 と言うと、叔父は私に帰宅を許しました。

 叔父から報告を受けた母は安堵の表情でしたが、それからしばらくして行われた試験ではそれまでで最悪の結果でした。

「こんな成績ではお小遣いはあげられません。今月はナシ!」

 三学期のテスト結果を前にして母はそう宣告しました。あくまでも想像の域に過ぎませんが、それは名古屋に住む二つ年上のいとこYの東大理Ⅰ合格の報が影響していたと思います。彼の母親は私の父俊夫のすぐ下の妹で、ふたりの息子には「(浅井)長政が果たせなかった天下取りをさせる」とそれぞれに、家康の康と秀吉の秀を使って名付けています。Yはその後原子力研究の分野に入り、〝原子力村〟の幹部にまでなりましたが「天下取り」にまでは至りませんでした。

 

 〝支配者〟の兵糧攻めの決定は絶対でした。断言する母に交渉の余地はありません。一度言い出したらテコでも動かない性質だからです。

 彼女の決断を覆すことが無理なのを知るくにおみはそこでまた悪だくみを思いつきます。

 実は、読書に関しては人と違った考え方を持つ母は、私が康生の「電車通り」にある本屋『本文』で母のツケにして本を買うことを許されていました。そこで思いついたのが、新刊本をその書店で買い、数百メートル離れた古本屋『都築書店』に持っていって売り飛ばすというやり方です。

 当時は古本市場が盛んで、本は結構高く引き取ってくれる時代でした。それまでにも読んだ本をそこで売っていたので大体の目安は付いていたのです。案の定、新刊本は半額で買い取ってくれました。味をしめたくにおみはその後何度もカネに困ると同じ手口を使うようになります。

 ある時私の書棚に購入した本が並んでいないのに気付いた母は「結構本を買っているのに何で本棚にないの?」と聞いてきました。この辺りもくにおみには想定範囲内の質問で、「〝誰それ〟が借りてったまま返してこん(こない)」と家に遊びに来る友人の名前を出して嘘で返しました。

 

 高校のクラス編成は、「書道」「美術」「音楽」のどれを選択するかで決まりました。一年生では書道コースでしたが、二年生は書道を選択するとまたMのクラスになる可能性もあると思い、美術を選びました。

「なんで美術に来たあ?」

 二年生の担任に決まったNは、最初の個人面談でいきなり〝強烈パンチ〟を放ってきました。

「気まぐれです」

 とだけ言うと、

「Mからお前が骨が折れる生徒だと聞いとる。そういやあ、おまえ、斎藤の甥っ子らしいな。それにしちゃあ数学の出来が悪いなあ。入学試験の成績がウソみたいじゃないか。どうしたあ?」

 と前述した岡崎北高校で教員をしていた叔父の名を出しながら探りを入れてきます。聞けばNは叔父と同じ学校に通った仲で、ふたりとも高校の教員です。しかも同じ教科(数学)ですから結構交流があるようでした。

「おじはおじ、僕は僕ですから。また、こんなところで入学試験のことを話されても……」

 と答える私は、Nの目には不貞腐れているように見えたのではないかと思います。ぎろっと目を光らすとNは、

「以上」

 と私に退室を促しました。

 この時二人の間に生まれた微妙な化学反応は、その後悪化することはあっても改善されることはありませんでした。

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