私の人生劇場

青年期

第30回 「多難な高校生活の始まり」

 1963年前半は新聞やTV、読書を封印して高校受験に集中。試験が終わる日まで「世の中の動き」に対し自分を隔離状態に置いていました。

アルバイト 水道工事.jpg

 合格してからは町なかに出て見つけてきたアルバイト(市役所近くにある水道屋の現場仕事。つるはしをふるっての仕事なので好待遇)をしながら、自宅では半年以上積んでおいた古新聞を1頁1頁めくって国内外のニュースを読む日々を送って入学式を待ちました。眠くなると新聞を顔の上に乗せて夢の中に入ります。新聞のインクの匂いをことの外好んでいたくにおみにとっては至福の日々でした。

 

 そんなのんびりした気分もひとつの新聞記事で吹き飛びます。

 熊本県の一漁村で奇病と噂されていた現象が、奇病ではなく工場排水を原因とする公害であると判明したのです。後に水俣病、国際的にはMINAMATAと知られるようになる災害の因果関係がその年の2月、熊本大学の「水俣奇病研究班」の手によって明らかにされると、一気に世間の目を集めるようになっていました。

 アルバイトの帰りに図書館に寄り、数年前にさかのぼって水俣病の新聞や雑誌の記事を読み漁ります。そこから見えてきたのは、「神武景気」「岩戸景気」と戦後の経済成長に呆(ほお)けて突っ走ってきた〝暴走列車〟から振り落とされた人たちの姿でした。そう。くにおみはそこでまた「矛盾に満ちた汚い大人社会」を見たのです。

 

 毎日の図書館通いは幸運ももたらしてくれました。2年生で同級生となる大親友に初めてそこで会えたのです。会ったと言っても厳密には「見た」と言った方が正確ですが。

「ねえねえ、見て見て」

 同じテーブルに座っていた女子生徒のひとりが隣の女友達に話しかけています。私もそちらに目をやりました。視線の向こうにはスラリとした長身の、同性の私から見ても男前な生徒が立っていました。何(誰)かを探しているようで我々の目の前を2、3回うろうろしていました。

「ヨシヒコくんじゃない。カッコいい!」

 話しかけられた女子生徒が小声で応えました。


 入学後に学校で再度彼を見かけた時、図書館で見た「ヨシヒコくん」であることはすぐに分かりました。

 4月4日に入学式が行われました。

 壇上で岩城留吉校長が発する「質実剛健」「もののふ(武士)の道」「名門校の誇り」「男らしく女らしく」などの時代遅れの叱咤激励に違和感を持ち、くにおみはそれを聞きながらひとり「学校の選択を間違えた」と後悔の念にかられていました。 

 担任は数年前に東京の大学を出たばかりのバリバリの新人体育教師Mです。

「君は中学の体育の成績は抜群なのにほとんど部活動はしていなかったようだね。なぜだ?いい体をしているのにもったいないな。泳ぎはどうだ?水泳部に入らないか?」

 最初の面談でMはそう言い、自分が顧問を務める水泳部への勧誘をしてきました。その物言いに強い抵抗感を持ったくにおみは、ぶっきらぼうに「柔道かラグビーをやろうと思っています」とだけ答えました。

「生徒議会の委員(議員?)をやってくれるか?」

「興味ありません」

「将来の夢は?」

「別にありません」

 かみ合わない会話にMも面倒になったのか、面談はあっけなく終わりました。

 

 そんなだらけた感じでスタートした高校生活でしたが、第一回目の全校朝礼でくにおみは目覚めました。岩城校長が体育館でまた、全生徒を前に口角泡を飛ばす大演説をしたのです。

 その予告だったのでしょう。数日前に、学校側はこれまた大時代な「お触れ」を出しました。お触れの形状、場所についての記憶は定かではなく、本稿を書くために、当時(前後期)の生徒会長、天野茂樹、佐宗公雄両氏とお会いし話を伺いましたが、おふたりともその点については記憶にないとのことでした。当時同校に通っていた友人知人に聞いても、記憶はあいまいでした。 

 私の記憶では、お触れに書かれた禁止・注意事項は、髪型、フォークダンス、皮靴、下駄、腰手ぬぐいについてでした。

 髪型は、男子は丸坊主、女子はおかっぱかお下げ(だったと思います)にしろとのお達し。男子は翌週までに全て丸刈りにして来いとの命令でした。

 5月11日に予定されていた「新入生歓迎フォークダンス」も「中止すべし」と断じていました。

 

 下駄や腰手ぬぐいは、岡崎高校の前身が「愛知二中→岡崎中」の男子校で、当時はまだ〝バンカラ〟の気風が残っており、学生帽をわざと破って古く見せたり、稀に下駄で登校したりする生徒もいました。腰手ぬぐいは便利でしたから私も愛用していましたが、チラホラ見受けられる程度でした。皮靴は贅沢だとのご託宣でした。

 お触れを読んでも、「高校生活の正しいあり様」が理解できない新入生の我々は戸惑うばかりで、どうしたものかと思案投げ首状態でした。(次回につづく)

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第31回 「岡崎高校フォークダンス事件」

前回のつづき)

 最初の朝礼では、岩城留吉校長から、入学式の挨拶に輪をかけて時代がかった檄が飛びました。

「本校は明治天皇陛下から受けた詔書に書かれた質実剛健を旨として設立された名門校であるにもかかわらず、風紀が乱れ、生徒の本分である学業がおろそかにされている」

「我が国の最近の風潮は、男と女の境がなくなっている。男はより男らしく、女はより女らしくしなければならない」

「最近の若者の男女関係は乱れておる。生徒会が企画した新入生歓迎フォークダンスの会(5月11日開催予定)は青年男女が手に手をつなぐものであり、みだらで享楽そのものだ」

「男子生徒の中には色気を出して長髪にしている者がいるが、学業の邪魔になる」

 そして説教をした後、

「長髪の男子はここに残るように。他の生徒は教室に戻りなさい」

 と指示しました。多くの生徒はその場から離れました。校長の命令を無視して出て行った長髪の男子もいました。

 私は柔道をやろうとしていたので丸刈りでしたが、「次に何が起きるか」という好奇心が勝り、校長の指示を無視してその場に残る決断をしました。何か言われたら「髪を伸ばすつもりでしたので聞いておきたいと思います」という出まかせの〝うそ〟をつこうと思っていました。

 

 女子や丸刈りの生徒が体育館を後にしたのを確認した校長が次の言葉を言う直前でした。左手後方から壇上の校長に向かって大声で何か言いながら、ひとりの上級生が前に進み出てきました。そして、校長と激しく口論を始めたのです。後になってその生徒が生徒会長であることを知ります。

 呆気にとられたくにおみは、上級生の捨て身の抗議を見るうちに「先輩、カッコいい! 高校ってこんなに面白いところなんだ」と感動しました。恐らく口を開けてその光景を見ていたと思います。ふたりのバトルが収まる気配はなく、ひとりの教員が校長に何か(おそらく授業開始時間が迫っていること)を耳打ちして間に入らなければ長時間続いていたに違いありません。

 その日を契機に校長と生徒会が激しく対立、校内は騒然となりました。それに加えて、地元の中日新聞はもちろん、朝日新聞(全国版の社会面。四コマ漫画『サザエさん』の隣りに「『男女の享楽に過ぎぬ』とフォークダンス禁止」という見出しで記事掲載)などの全国紙やNHKなどの影響力のある放送メディアまでもが騒ぎ立てたこともあり、多くの生徒にとって落ち着かない日々が続きました。

 

 そんな記憶でしたが、半世紀以上経過した今、多くの関係者に話を伺い、資料に目を通してみると、生徒会はかなり論理的かつ冷静に対応をしており、我々生徒がメディアによって踊らされていたことが分かります。

 朝礼で校長と丁々発止激しく議論した天野茂樹氏(大学卒業後は弁護士)は「校長という権力に言いなりになるのではなく、岡高生の反骨精神を示した」と述べる一方で、「岩城校長は働きながら勉強した苦労人。それだけに私たちのことが甘く見えたのではないですかね」と懐の深い見解を述べられました。

 

 また、天野氏の後を継いで5月から会長になった佐宗公雄氏(元新聞記者)は、

「自立と自律という言葉を常に念頭に置いて生徒会活動をした」

「それを先生方が良い方へ良い方へと導いてくださった」

(それゆえ)「先輩が作り上げた岡崎高校の伝統を守ることができた」

 と語られました。

 

 佐宗氏が言うように、確かに教頭以下教職員のほとんどは校長の古臭い考え方・やり方に反対で、生徒の側に立ってくれていました。

 実は、週刊誌報道でコメントしていた教員に私は「本当にこんな発言をしたのか?」と職員室で聞いて回っていました。特に、週刊新潮と週刊女性に掲載されたコメントは聞き捨て(読み捨て?)ならなかったからです。直に聞いてみると、教員たちは丁寧に対応してくれ、週刊誌がデタラメを書いていたことが分かりました。 

 この全国規模の騒動になった事件に驚いた愛知県教育委員会は、校長に対してフォークダンスの禁止令を解くように要請。それを受けて校長は禁止を取り消しました。生徒会は5月15日に会議を開き、18日(土)午後1時に新入生歓迎のフォークダンスの会の開催を決定。校長もこれを渋々承認します。 

フォークダンス事件.jpg

 5月18日。五月晴れの下、約500人の有志が軽やかなステップとまではいきませんが、晴れやかな表情で踊りを楽しみました。一段上のところから悔しそうにそんな私たちを見下ろす岩城校長の姿がありました。その周りには、中日、朝日、毎日、NHKなどの報道陣が群がっていました。

 翌月の『岡高新聞』は、「みだらでなかったフォークダンス」との皮肉を込めた見出しを付けて詳細を報じました。(著作権侵害の恐れがあるのでリンクを貼れませんが、何年か前に民放のクイズ番組が当時の映像を使いクイズ仕立てで扱っています。「岡崎高校/フォークダンス事件」で検索すると観られますのでどうぞ御笑覧ください。あ、ご笑覧は自分の作品の時にしか使えないですね?)

 

 ところが、事件はそれで「一件落着」とはいきませんでした。

 夏休みの最中の8月1日。突然の人事異動が教育委員会から出されたのです。

 「岩城校長は県指導課。戸松補佐(教頭)は文化研究所。鈴木生徒会顧問は安城高校」への転出が発表されました。

 それを受けて生徒総会が開かれ、次のような決議文を採択しました。

 

【決議文】
 私達岡崎高校生徒議会は本年五月のフォークダンスの事件などに関連して、本校の戸松・鈴木両先生が転任を申し渡されたことを大変遺憾に思います。私達は本年四月以来の本校職員会のとられた態度を常に支持し、信頼して参りました。戸松・鈴木両先生も、あくまで教育者としての良識に基づいてそれぞれ職員会、生徒会の意見を正しく代表されたに過ぎません。両先生は今まで、校長補佐、生徒会顧問の重要な立場から、暖かく私達をご指導くださいました。私達もまた両先生に深い信頼を寄せております。この度両先生が正当な理由もなく急に転任されることは到底納得できません。(中略)

 この度の処置は誠に疑問に思われます。ここに私達生徒一同は今回戸松・鈴木両先生に対する処置にあくまで反対を表明するものであります。

 昭和38年8月6日

 

 生徒の憤りや願いは教育委員会に受け入れられるはずもなく、岡崎高校から転出させられたおふたりは新学期の頭からそれぞれの職場で働き始めました。

 しかし、教育委員会もおそらく我々の気持ちを多少くみ取ったのでしょう。「お別れの儀式」を用意してくれたのです。

 9月13日、転任させられた戸松・鈴木両先生がその日の朝礼の場に姿を現しました。

 壇上に立つ両先生に対してあちこちから先生の名を呼ぶ声が上がります。

 あふれ出る涙を周りに見られたくなかったくにおみは、心の中でしかおふたりの名前を呼べませんでした。

 その光景は老境に入った今もくにおみの心の中に大切にしまってあります。

 

 フォークダンス事件に気を奪われていたこともあり、高校入学後のくにおみは〝本業〟である勉学に身が入りません。生物の教師を忌み嫌っていたら、赤点をとる始末。全体の成績もやる気のなさが反映されてしまいます。

 一学期を終えて渡された通知表の備考欄に「55分の10」とあるのを見て10を欠席数と勘違いしたくにおみは、担任のMに「先生、僕は10日も休んでませんよ」と通知表を掲げて大声を張り上げました。

「バカ、それは席次(成績の順位)だ」

 と言われて、クラス全員の失笑を買ってしまいます。確かに、クラスの生徒数は55人ですから、冷静に考えれば人数である事は容易に分かることでした。実力テストの成績も500人の50番にも入れず、母親は「罰として8月のお小遣いは無しとします」と言い渡してきました。

 

 不幸はそれに留まりませんでした。

 入部した柔道部の上級生と折り合いが悪く、部活動が楽しくありません。夏合宿も豊川の陸上自衛隊駐屯地でやると言われ、「僕は軍隊が嫌いですから参加しません」と答えると、先輩たちとの関係はますます悪化しました。

 「初段を早く取ってこい。そしたら試合に出してやる」と言われて素直に従うくにおみではありません。検定会場にしぶしぶ行ってもやる気が出なくて半年経っても初段に合格しません。やがて先輩たちから相手にされなくなりました。その後初段に合格しましたが、それでやる気が湧いてくるわけでもなく、次第に稽古へは足が遠のきました。

 気晴らしに市内の道場に行き、黒帯を買ってなかったので白帯で稽古に加わると、「本当に白帯かよ。白帯にしてはずいぶん強いな」と言われましたが、そのうち、柔道そのものへの関心も失いました。

 

 担任との関係もギクシャクが続きました。

「俺はお前のように才能があるのに真剣にやらない奴が嫌いだ。入学時の成績もよかったし、知能指数も抜群じゃないか。運動神経もすごいじゃないか。なぜ真剣にやらんのだ?」

 と説教をされたことがあります。年を重ねた今考えると、Mの姿勢は決して間違っていなかったと思います。しかし、ひねくれ者の私には彼の情熱が疎ましく感じられたのです。

 学校の水泳大会で100メートル平泳ぎに出た私は、予選で断トツの1位でした。それは当たり前と言えば当たり前のことです。中学時代は川で泳いでいましたから「プールで泳いでいる〝へなちょこ〟とはわけが違う」という自負がありました。くにおみには余裕があると茶目っ気を出す悪い癖があります。最後の25メートルをふざけて泳いでしまいました。

 それを見て熱血教師のMは黙っていられなかったのでしょう。昼の休憩時間に呼び出されて「ふざけんじゃない!」と叱責されました。

 くにおみはそんなことで心を改めるタイプではありません。決勝はゆっくり、しかし真剣な表情は崩さずに泳ぎ、最下位に沈みました。苦虫を噛み潰したようなMの前を通る時、何か私に声をかけてきましたが、その言葉が何だったかの記憶はありません。

 

 短距離走、特に200メートル走を得意としたくにおみは秋の運動会では200メートル予選に出場、最初はわざと遅く走り最終コーナーを回った時は最後尾。そこから〝ハイヨ、シルバー!(当時人気のTV番組『ローン・レンジャー』で、主人公ローン・レンジャーが愛馬シルバーをけしかける時に発する言葉)〟と周囲に聞こえるような大声(もちろん観客席への受け狙いです)と共に猛スパート。ごぼう抜きで1位になります。

「なんだあれは!ふざけりゃがって!」

 昼休みで教室に戻る時、廊下でMに捕まりました。不快指数100%の顔で厳重注意です。私は嘘っぽさマックスで下を向いての反省ポーズをしていると、Mの握りこぶしが震えているのが目に入りました。

 くにおみは殴られることを覚悟して奥歯をぎゅっと噛み、片足を引きます。殴られても倒れないためです。幸いにして(笑)殴られることなく解放されました。あくまでも喧嘩野郎の直感ですが、その時ヒトの目が無ければ殴られていたと思います。

 M同様にくにおみも怒りが収まりませんでした。元はと言えば自分のふざけた行為を注意されたのに、いつの間にか相手を責める姿勢に転じてしまうのですから始末におえません。それでも多少は成長したのか、自分勝手な行動でしたが、くにおみは昼食を食べずに怒りを鎮めようとプールで泳いでいました。今思えば常軌を逸しています。

 

 体育祭も午後の部に入り、200メートル決勝の時間になりました。予選の時に別の組でひとり抜群の走りを見せた生徒がいたので、今度ばかりは彼に照準を合わせて真剣に走ろうとウォーミングアップもしっかり行いスタートラインに立ちました。

 スタートはまずまずでした。目標にしていた生徒が抜け出します。4、5番手につけたくにおみは予定通りに最終コーナーを回ったところでライバルの後ろにつけようとギアを一段上げ……ところが、アレ、脚が思うように動きません。得意のラストスパートがきかないのです。〝標的〟はそのまま独走でゴールイン。くにおみははるか離れた後続集団に埋もれたままでした。

 後年、スポーツ医学研究者から「水泳をした後に短距離走は無理がある」と言われました。当時それを知っていたら、泳がなかったはずです。

 競技終了後Mに何を言われたか覚えていません。おそらく何も言われなかったと思います。ただ、その夜帰宅してきた母親に「あんた、今日の走りは……がっかりしたわ」と言われました。なんと普段は学校の行事などに顔を出すことなどのない千代子は、私に内緒で体育祭の見学に来ていたのです。

 

 走ることはそんなわけで惨敗でしたが、生徒全員が後片付けに追われている時でした。素敵なハプニングがありました。

「みなさ~ん! 提案がありまあ~す!」

 と応援団が大声で生徒に呼びかけました。

 応援団の提案は、当時大ヒットしていた舟木一夫の『高校三年生』を生徒全員で歌おうではないかというものでした。フォークダンス事件を経験して「岡高精神」で結束力が高まっていただけに、異論があるはずはありません。応援団員の指揮に合わせて大声を張り上げました。

 

 赤~い夕日が校舎を染めえて~

 

 フォークダンス事件のほろ苦い思い出が込み上げてくるのでしょう。中には涙を浮かべて歌う女子もいました。校庭で高校生たちが口を合わせて大声で青春歌謡を高らかに歌う光景は、今も私の記憶に一枚の鮮明な写真として残っています。

 

 体育祭が終わると学び舎を熱くした熱気は急速に冷めて、ある者は勉強に、またある者はクラブ活動にとそれぞれの道を歩み始めました。東京オリンピック前年のせわしない世相を反映して高校生活も何となく落ち着きが無くて、あっという間に年越しをしていったという年末でした。

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第32回 「光と影の高校二年生」

 1964年。年を越すと、母と兄からの「勉強しろ」コールが激しさを増します。私の高校一年生二学期の成績が一学期よりもさらに悪くなったことに耐えきれず、ふたりは事細かに口を出すようになりました。

 学習意欲がほぼ消えてしまった結果でしたから反論の余地もありません。彼らがどんなに熱心に説教をしても、また何を言ってもただ馬耳東風、聞く耳持たずの姿勢を貫いていました。

 

 家族との不快な毎日だけでなく学校生活も最悪でした。担任Mとの確執、柔道部の先輩からのいじめにも似た扱いに嫌気がさし、さらに加えて勉強が面白くありません。退学してもいいとさえ思っていた時期です。不得手な教科はカンニングまでする始末。傍から見れば「どうしようもない生徒」だったことは間違いありません。

 教師陣にも恵まれませんでした。ほぼすべての教員の教え方に興味が湧かず、授業中は昼寝か読書。良い成績が取れるはずはありません。話は前後しますが、ある教科では二学期の中間と期末で赤点をとってしまいました。ただ、通知表では担当教師への直談判が功を奏して赤点にはなりませんでした。勉強の成績は悪くても交渉事は長けていたのです。その教科で通知表に赤点を付けられていたら、母と兄の怒りの炎はさらに勢いを増したことでしょう。

 その教科の教師は他の教科も担当しており、そちらの教科とは相性がよく、最高レヴェルの評価をもらっていたので、交渉は難航(?)しましたが成立、難局を乗り越えられました。

 「直談判」の概要を文字にすると、次のようになります。

 

 二学期の期末試験の結果を知った後、くにおみは「まずいことになった。おふくろからまた〝兵糧攻め(小遣いストップ)〟に遭う!」と思ったとたん職員室に行って教科担当に面会を求め、周りに人がいないのをいいことに「今回は赤点を勘弁してほしい」と頼み込みました。

 当然のことながらその教師が首を縦に振るはずはありません。そこで自分の育てられてきた環境の一部を話して説得を試みました。そして最後に「先生の立場では首を縦に振れるはずがないことはよく分かっています。そこでどうでしょう。三学期の試験で90点以下だったら潔く(後で思えば、何がいさぎよいのかって話ですね!)先生の裁きを受けます。だからそれまで待ってもらえませんか? お願いします」

 土下座はしなかったものの深々と頭を下げ続けました。

「言いたいことは分かったから頭を上げて」

 と言う相手の顔を見ると〝了解〟と書いてあります。

「ありがとうございます!」

 私は礼を言うと、職員室を軽い足取りで出て行きました。

 三学期のテストの前には猛勉強。90点以上の結果を出しました。ですから、高校時代の通知表上の赤点は一度だけです。

 

 赤点は免れたものの前述したようにほとんどの教科で惨敗です。中学までは得意科目であった数学も例外ではありません。

「貫一おじさんの所に行って数学を見てもらいなさい。お願いはしてあります」

 ある日母からそう言われました。

 県立岡崎北高校の数学教師であった貫一は、母の2番目の弟(母は9人きょうだいの長女)で、岡崎高校のすぐ近くに住んでいました。神経質で言葉遣いの荒い彼とは相性が悪かったのですが、おばがとてもやさしく接してくれ、しかもいつもおいしい食事やおやつでもてなしてくれるので、部活を終えたあと時折ですが、叔父のいない時間帯を〝狙って〟顔を出していました。

 母からそう言われると気が重かったものの胃袋からの強い欲求に負けたくにおみは、柔道の練習を終えた後の汗臭い体のままおじの家に行きました。案の定、汗臭い甥っ子は苦手なようで、何となく距離を置く夫を見ておばはさりげなく「くんちゃん、お風呂でさっと汗流してきたら?」と言ってくれました。

「これをやってみろ」

 叔父はぶっきらぼうに、風呂から出て机に向かった私に一枚の問題用紙を出しました。

 おそらく母は大げさに叔父に言っていたのでしょう。低レヴェルのテストでした。それはあまりにも私をなめたもので、難なくそこに書かれた問題の全部を解きました。

「なんだ、かなりできるじゃないか。ねえさん、大げさに言って。こんなら(これなら)俺が見てやることないな」

 と言うと、叔父は私に帰宅を許しました。

 叔父から報告を受けた母は安堵の表情でしたが、それからしばらくして行われた試験ではそれまでで最悪の結果でした。

「こんな成績ではお小遣いはあげられません。今月はナシ!」

 三学期のテスト結果を前にして母はそう宣告しました。あくまでも想像の域を出ませんが、それは名古屋に住む二つ年上の東海高校に通ういとこYの東大理Ⅰ合格の報が影響していたと思います。彼の母親は私の父俊夫のすぐ下の妹で、ふたりの息子には「(浅井)長政が果たせなかった天下取りをさせる」とそれぞれに、家康の康と秀吉の秀を使って名付けています。Yはその後原子力研究の分野に入り、〝原子力村〟の幹部にまでなりましたが「天下取り」にまでは至りませんでした。

 

 〝支配者〟の兵糧攻めの決定は絶対でした。断言する母に交渉の余地はありません。一度言い出したらテコでも動かない性質だからです。

 彼女の決断を覆すことが無理なのを知るくにおみはそこでまた悪だくみを思いつきます。

 実は、読書に関しては人と違った考え方を持つ母は、私が康生の「電車通り」にある本屋『本文』で母のツケにして本を買うことを許していました。そこで思いついたのが、新刊本をその書店で買い、数百メートル離れた古本屋『都築書店』に持っていって売り飛ばすというやり方です。

 当時は古本市場が盛んで、本は結構高く引き取ってくれる時代でした。それまでにも読んだ本をそこで売っていたので大体の目安は付いていたのです。案の定、新刊本は半額で買い取ってくれました。味をしめたくにおみはその後何度もカネに困ると同じ手口を使うようになります。

 ある時私の書棚に購入した本が並んでいないのに気付いた母は「結構本を買っているのに何で本棚にないの?」と聞いてきました。この辺りもくにおみには想定範囲内の質問で、「〝誰それ〟が借りてったまま返してこん(こない)」と家に遊びに来る友人の名前を出して嘘で返しました。

 

 高校のクラス編成は、「書道」「美術」「音楽」のどれを選択するかで決まりました。一年生では書道コースでしたが、二年生は書道を選択するとまたMのクラスになる可能性もあると思い、美術を選びました。

「なんで美術に来たあ?」

 二年生の担任に決まったNは、最初の個人面談でいきなり〝強烈パンチ〟を放ってきました。

「気まぐれです」

 とだけ言うと、

「Mからお前が骨が折れる生徒だと聞いとる。そういやあ、おまえ、斎藤の甥っ子らしいな。それにしちゃあ数学の出来が悪いなあ。入学試験の成績がウソみたいじゃないか。どうしたあ?」

 と前述した岡崎北高校で教員をしていた叔父の名を出しながら探りを入れてきます。聞けばNは叔父と同じ学校に通った仲で、ふたりとも高校の教員です。しかも同じ教科(数学)ですから結構交流があるようでした。

「おじはおじ、僕は僕ですから。また、こんなところで入学試験のことを話されても……」

 と答える私は、Nの目には不貞腐れているように見えたのではないかと思います。ぎろっと目を光らすとNは、

「以上」

 と私に退室を促しました。

 この時二人の間に生まれた微妙な化学反応は、その後悪化することはあっても改善されることはありませんでした。

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第33回 「東京に家出」

 1964年から65年にかけての高校二年生時の最大の幸運は、ヨシヒコと同じ空気を吸える、つまりは同級生になったことでした。

 第30回で書きましたが、中学生の時に市立図書館で見かけたヨシヒコと同じ高校に入学したことが、「岡崎高校に入学して良かった」と思える数少ない収穫でしたから、一年生の時はまるで恋人を見るように奴を遠目に見ていました。

 体育祭で陸上部の走り高跳び専門の上級生と互角に高さを競う姿やラグビーで他の選手とは「違うエンジンを積んだ車」のような走りを見せる奴の姿を眩しく感じていた私は、2年生になってヨシヒコを同じ教室で見かけた時、心の中でガッツポーズしました。

 何がきっかけだったかは覚えていませんが奴と親しく話すようになり、やがて互いの悩みや夢を語るようになりました。奴は慶応の医学部に入って医者になり、私は早稲田の政経学部で勉強したら新聞記者になってすぐにでも戦争取材に行きたいと話していました。

 「成績が悪くなったのに早稲田の政経?」と思われるかもしれませんが、国立大学に合格するのに必要な理数系科目の成績は悪くなっても、早稲田に入るのに必要な3教科はチャッカリ?シッカリ?おさえていたのです。

 

 「青春を語る」一方、イケない遊びを奴に教えたのも私です。ストリップやパチンコ、ピンク(成人向け)映画に一緒に行くこともありました。

 部活動は柔道の稽古に姿を現すことはだんだん少なくなり、その代わりに2年生になって入った合唱部が面白くなり、そちらへの比重が多くなります。「三年生を送り出す会」でブラスバンドの演奏をバックにナポリ民謡『コーリングラート(別名カタリカタリ)』を独唱する機会にも恵まれました。

 学校の成績は下げ止まりしたものの、しかし相変わらず150~200番前後と母や兄をイラつかせる状況が続きます。ふたりからの圧力は日を追って強くなりました。友達、特にヨシヒコとの会話で、「俺、もう家を出たいよ」が口癖になっていたと思います。

南ヴェトナム戦争従軍記

 65年3月。衝撃的な本に出会いました。

 『南ヴェトナム戦争従軍記』。

 30代半ばのカメラマン岡村昭彦(「第10回AKIHIKOの会」つどいの記録で確認できますが、岡村の没後「〝オカムラ”を追い続けたウォーコレスポンデントの軌跡」と題した講演を行いました)が戦場を駆け巡った従軍体験を一冊の本にまとめたもので、恋人とのやり取りを紹介する新鮮な切り口もあってその年のベストセラーになり、岡村は一躍時代の寵児になりました。

「よし、決めた! 家を出てこの人の弟子になろう」

 読み終えたくにおみは決断します。決断すると実行に移すまでに時間を要しません。

 その時はもう試験休みか春休みに入っていたと思います。ただ、ヨシヒコにだけは連絡しておかないと後悔することになります。

「俺、今から家出して東京に行くわ。岡村さんの弟子になる。世話になったな。落ち着いたら連絡するよ」

 私はヨシヒコに電話しました。当時わが家に電話はなく、隣家の電話を借りましたが、彼の家には電話がありました。

「ちょっと待て。早まるな。今からお前の家に会いに行く。カネはあるのか?」

「無いけど、そんなもん何とかなる」

 そうぶっきらぼうに言う私に、

「とにかく会おう。会いたい」

 とヨシヒコは言い、私は家の近くの国道一号(東海道)の交差点を会う場所に指定しました。まとまった金を持っていなかったため、そこから車に乗せてもらって東京に行くことを考えていたのです。もちろん思い付きですから、乗せてもらえる保証はありません。

 

 ヨシヒコは自宅から約5キロを、自転車を飛ばして来てくれました。そして、懸命に、時に前に立ちはだからんばかりにして私を思いとどまらせようとします。私は彼を引っ張るようにして前(東京方面)に歩きながら、通る車に親指を立てます。

「何やっとる?」

「アメリカの映画で見たんだけど、こうやると車が止まってくれるげな(そうだ)」

 ところが、通る車の運転手は、中に手を振って挨拶する人もいましたが、誰も止まろうとはしません。

「ほら、だ~れも止まってくれんぞ。考え直せ」

 と引き留められますが、私は指を立てながら東に歩き続けます。

 大平川に架かる橋を渡ってしばらく行くと、トラックが多く止まる大衆食堂が目に入りました。

「ここにしよう」

「飯を食ってくか?」

「違う。トラックの運ちゃんに頼んでみる」

「乗せてくれるはずがないよ」

 そんな会話をしながら、ガラス戸(横にスライドさせて出入りする)を開けて中に入りました。店内では多くの運転手たちがせわしなく夕飯をかきこんでいます。

「すみません。誰か東京まで乗せてってくれませんか」

 私は突然大声で運転手たちに向かって声を上げました。大声に驚いた表情の人もいましたが、多くはチラッとこちらを見ただけでその後は無反応です。それからしばらく無言状態が続きました。彼らが黙々と食べる音と食器から出る音が辺りを支配します。気まずい空気が流れていました。

 次の動きが出るまでずいぶん長く感じられましたが、今から思えば5、6分だったでしょう。「くにおみ、やめろ」とヨシヒコが小声で私の学生服の袖を引っ張り外に出ることを促した直後です。

「横浜の先までだけど、それで良ければ乗せてってやる」

 とひとりの男が声を上げてくれました。救世主の出現です。

「ありがとうございます!それでお願いします」

 くにおみはその運転手に深く頭を下げました。頭を上げてヨシヒコの顔を見ると、落胆の表情です。申し訳なく思いましたが、もう後には下がれません。

 

 運転手が食事を終えるのを待ち、3人は店の外に出ました。トラックの荷台には愛知県三河地方の特産品「三州瓦」が積まれていました。高浜や碧南を中心に昔から瓦製造が盛んだったのは社会科で習っていたので印象に残っています。

「ほんじゃあ。世話になった。向こうに着いたら連絡するよ」

「ところでお前、電話でも聞いたがいくら持っとる?」

「ほとんど持っとらん。でも何とかなる」

「やっぱりそうか。これ、持ってけ」

 そう言うと、ヨシヒコは学生服の上着のポケットからかなりの量の硬貨をわしづかみにして私のポケットに二度(だったとの記憶です)入れました。

 

【この辺りの記憶を先ほどヨシヒコとふたりの記憶をすり合わせてみました。大量の硬貨の出所を聞くと、「電話で話した時に、お前にカネはあるのか?って聞いたんだよな。持っとらんということだったから、おそらく俺はおふくろが台所に置いていた小銭入れから〝がめた(盗った)〟んだろうな」と言っていました。】

 

「世話になってばかりで悪いな。もらっとく」

 と素っ気なく言って私はトラックの助手席に乗り込みました。彼には一瞥しただけでしっかりとは目を合わせられませんでした。ヤツの温かい心にそれ以上触れ続けると感情が乱れて気が変わりそうだったのです。

 ヨシヒコは後年、私の結婚パーティのスピーチで、その時の模様を「まるで映画のワンシーンのようにトラックを見送りました」と表現したものです。

 運転手は無口な中にも優しさをにじませる人で、何度休憩しても「(腹は)空いてません。(のどは)乾いてません」と一点張りの訳アリ高校生を見て不憫に思ったのでしょう。

「降りろ。どんな事情があるか知らんが……。飯を食わしてやる」

 と、ぶっきらぼうながら温かみのある言い方でご馳走してくれました。

 

 当時は東名高速道路もまだ開通しておらず、日本を代表する幹線道路と言っても所によっては一車線しかありません。深夜とはいえ結構交通量があり、また積んでいるのが瓦で重くて高速で走れず、横浜駅に着くのに12時間以上かかり、午前7時ごろ横浜駅前に着きました。横浜からは電車で東京駅に向かいました。

 東京に来たものの、くにおみに何ら当てがあるわけではなく、岡村が縁を持つ会社を訪ねることしか思いつきませんでした。写真を発表していた毎日グラフと単行本を出した岩波書店です。

 ラッシュアワーの始まる前に東京駅に着くと、そこから歩いて千代田区竹橋にある毎日新聞社に向かいました。新聞社ですから他の会社と違い24時間営業ですが、世間的な始業時間である午前9時を待って受付に行き、写真月刊誌『毎日グラフ』の岡村昭彦を知る編集者との面会を求めました。その時、多くの記者や編集者が10時を過ぎないと出社しないことを知ります。仕方なく総合受付で編集者が出勤するのを待ちました。

 10時半頃、受付嬢(当時は女性に対して職業の後に「嬢」を付けるのが普通)が申し訳なさそうに来て「担当の者が電話でお話しすると申しております」と受話器を私に渡しました。要件を言うと、編集者は「岡村さんが日本にいると思っているの?」と面倒くさそうに言い、電話を切ってしまいました。

 くにおみは当てが外れてただただ呆然としていたと思います。そこからしばらく記憶が途絶えて何も覚えていません。猪突猛進の典型で、何も考えず、何も用意せずに「岡村さんに会えば何とかなる!」と上京してきた田舎モンは大東京のど真ん中でしばらく途方に暮れていました。

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第34回 「家出少年①」

 東京に出たものの、岡村昭彦という目標を探し出せず、家出少年くにおみは大都会の雑踏を彷徨、さまよい歩きます。

 まさに怖いもの知らずの典型で、〝三河の山猿〟には見るもの全てが刺激的。新宿の新生ニッポンを象徴する街の躍動感に心躍らせ、戦後20年だというのに未だ終戦直後の闇市的なニオイを漂わせる上野や池袋に心惹かれていました。

 当時から新宿歌舞伎町は不夜城。学生服姿の大学生が珍しくない時代でしたから、おのぼりさん(上京した田舎の人間)の私が制服姿で真夜中にうろついていても怪しむ者はいません。街角に座って行き交う人を観察したり、ゲームセンターで他人が遊ぶのを見たりして夜を過ごしました。

 ラーメン屋にあるスポーツ紙の求人欄に目を通して「住み込み」の仕事を探すと結構求人数は多く、最悪その辺りから東京生活を始めればよいと安心しました。

 でも、大学進学を完全にあきらめたわけではありません。翌日、入学を希望していた早稲田大学のキャンパスをひと目見ておこうと、高田馬場に向かいました。

 

 構内に入ると、でかでかと「反戦」「粉砕」「全学共闘会議」といった文字が躍るタテカン(立て看板)があちこちに見られます。看板の前でアジ演説をしている学生もいます。後に世間の注目を集めた「早大闘争」のはしりです。

 そんな喧騒を横目に見て「大隈重信」の銅像の前に立ち見上げました。写真や映像で何度も見てきた〝有名人〟です。何となく嬉しくもあり、緊張も感じました。見上げていると、心の奥底から何か得体のしれない熱いものが湧き出てくるのを感じます。

「岡村さんが当てにできない以上、自分はやはり早稲田を目指すべきじゃないか?」

 銅像の前でしばらく自問自答していました。

 

 そこから運動部の部室がある建物に行き、ヨット部の部屋を探しました。早稲田に入ったらヨット部に入りたかったのです。ところが、通路を何度往復しても「ヨット」の文字が見つかりません。通りがかった学生に聞いたのか部室に入って聞いたのかは覚えていませんが、「ヨット部の部室はどこですか」とひとりの学生に声を掛けました。

「このキャンパスにはありませんよ。湘南海岸にあるみたいです」

 と答えると、その学生は私に事情を聞いてきました。 家出してきたとは言いませんでしたが、来年受験するつもりだと話しました。

 するとその学生は「メシ、食いましょう。御馳走しますよ」と言って私を強引に学食に連れていきました。彼の意図は薄々感じましたが、メシを食わせてもらえるのは何よりです。話に乗ってみるのも面白そうだと思い、ついていきました。

「いい体してるね。運動は何やっているの?」

 ご飯を食べながらだったと思います。そんな話から会話は始まり、やがて「東京オリンピックの重量挙げで金メダルとった三宅義信って知ってるよね?」となりました。彼の所属する重量挙げ部への勧誘が下心にあったのです。

 ウエイトリフティングが嫌いだったわけではありませんが、どちらかと言えば武道が好み。でも食事をごちそうになったこともあり、「合格したら必ず顔を出します」と再会を約して別れました。

 

 早稲田大学を後にして徒歩で新宿に向かっている時、家に書置きせずに出てきたことが急に気になりました。

「家出したことをおふくろに伝えておかないと捜索願を出される可能性があるなあ」

 でも、家には電話がありません。母の勤め先に電話をする方法もありましたが、母の声を聴きたくありません。はがき一本を送るのも何となく気が進みませんでした。

 そこで思い出したのが東京にいる叔父の存在です。彼から家出の事実を母に伝えてもらおうと思いつきました。でも彼の連絡先も分かりません。知っているのは勤務先の名前だけでした。電話帳で彼の勤め先を調べてみると、恵比寿駅の近くです。

 まずは電話を入れました。家出の事実を知らせると大変な驚きようで、夕方会うことになりました。

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第35回 「家出少年②」

前回のつづき)

 叔父の勤め先は恵比寿駅の近くでした。会った場所はたぶん恵比寿だったと思います。「アパートに来いよ」と言われましたが、あまり気が進みません。

「いや、おふくろへの連絡だけしておいてください。そして、僕は元気に一人でやっていけますから捜索願は出さないようにと伝えてください」

 と言ったものの、結局は気弱になっていたのでしょう。彼に誘われるままに彼のアパートに連れていかれました。そこには彼の婚約者も来ていて、食事が用意されており、食後三人で話し合いをしました。

 叔父の婚約者の陽子はその名の通り、太陽のような明るさで接してくれました。そんな相性の良さもあったのでしょう。彼女の「高校、それも岡崎高校だったら卒業しておいて絶対損はないわよ」という説得が〝腑に落ちて〟いったのです。

「帰ってやり直します」

 と言うまでに多くの時間は要しませんでした。そして翌日、叔父からカネを借りて新幹線で家に帰りました。

 

 家で再会した母は、私を見るなり「お帰り」と言い、「捜索願を出すところだった」と続けた途端、言葉に詰まり目に涙すら浮かべていました。後にも先にも一度だけ見せた母の涙でした。でも、温かみを感じさせたのはほんの一瞬で、その後は説教が始まりました。

 翌日学校に行くと、ヨシヒコが飛んできました。そして握手と抱擁で包んでくれました。

 くにおみはそんなスキンシップをそれまでにされたことはありません。それだけに込み上げてくるものがありました。でも、その一方で、同級生の目があったので気恥ずかしく、こそばゆく感じられました。近くにいた同級生は二人を見て何が起きたのかと目を丸くしています。その様子から彼が同級生には私の家出のことを伝えていなかったことが推し量られました。

 担任の西尾は「心配かけりゃがって」とひと言。眼鏡の奥から見せる視線から、それは「心配」ではなく「迷惑」だったと伝わってきます。

 

 所属していたコーラス部や柔道部には家出の事実は伝わっておらず、普段通りの掛け持ちクラブ活動を再開させました。

 コーラス部の顧問の鈴木楽子はくにおみの姿を見ると、駆け寄るようにして話しかけてきました。楽子はまさしく名は体を表すのたとえ通りで、いつも楽しそうに歩き、話し、そして指導をする教師でした。

「浅井クン、声が大きくて張りがあるあなたにピッタリのポジションがあるの。やってみる?」

 いきなり「やってみる?」と言われて怪訝な表情を浮かべていたのでしょう。彼女はそのまま話を続けました。

「ブラスバンドがナポリ民謡の『カタリカタリ』(別名コーリングラート)を歌えるソロ歌手を探しているのよ。あなた、歌える?」

 実は題名も知りませんでした。でも、〝目立つこと〟を好む性格であることに加えて、「何か踏ん切りをつけたい」と考えていたくにおみは二つ返事。

「やります!歌えます!」

 その日、レコード屋に行き、ジュゼッペ・ディ・ステファーノの歌うレコードを買い求めて急いで帰宅。胸の高鳴りを抑えながらレコードプレーヤーに小さなシングル盤レコードを収めると、針を置きます。

「カ~タリ~、カ~タリ~♪」

 と抑制したトーンから始まるおとこのせつない恋心を歌うこの名曲は、

「コ~レ、コ~リングラ~ト」

 と変ホ長調で佳境に入ると、憧れの女性への想いを情熱的に、かつ切々と歌い上げます。

 くにおみは一度聞いただけで、テノール歌手のレジェンド、エンリコ・カルーソーのために書かれたこの歌に心を奪われました。何百回レコードを聴いたでしょう。そして歌い込んで、数日後自信をもって初音合わせに向かいました。

 原曲キーだと高音部分で声が半分も出ないので下げてもらえたら嬉しいとお願いしましたが、指揮者にそれはできないと言われて、出場をあきらめる選択肢もありましたが、どうしても歌いたくてそのまま本番に突入しました。高音を出すために連日近くの森に行き、自主練を重ねました。

イラスト 6.jpg

 どこから聞いたのか、〝ソロ歌手デビュー〟を知った母がどうしても一度聴かせて欲しいと言います。彼女は勤め先のコーラス部の顧問でもあるので息子の歌を聴いてみたかったのでしょう。まあ、家出をして迷惑をかけたのだから一度くらい聴かせてやろうと、歌いました。ただ、狭い家なのでかなり音を控えました。

「どんだけ大きくてもいいから本番と同じように歌って」

 と母は言います。

 私はこたつから身を起こし、その場に立ち上がって本番さながらに大声を張り上げました。「声が大きすぎる」と言われる覚悟で歌い始めた私は、逆に目をつむって聴き入る母に戸惑いを覚えました。でも、乗り掛かった舟です。そのまま大声で歌い終えました。

 すると、手を叩き、目を細めて「あんた、意外にうまいねえ。腹から声が出てるね。声の張りがすごいじゃん」とほめます。

 それまでほめられたことのなかったくにおみは、そんな母のほめ言葉に照れて「何言ってんだよ」と言いながら自分の部屋に行きましたが、とても嬉しかったと言うのが私の本音でした。今にして思うと、母は家出事件を受けて私との向き合い方を変えようとしたのかもしれません。

 

 「卒業生を祝う会」と題した音楽会のはずなのに会場の講堂には多くの同期生や下級生の顔が見られます。前の方に座った顔見知りがかたずをのんで見守ってくれているのを力に歌い切りました。

 決して満足のいくできばえではありませんでしたが、会場から大きな拍手をもらいました。また、見も知らない〝出待ち〟の生徒が10人以上いて〝素晴らしかった〟〝ありがとう〟と声をかけてくれました。

 それがどれだけ嬉しかったことか。また、そこからどれだけの力をもらったことか。

 

 そして間もなく私の「高校二年生」は終わりました。

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第36回 「てんこ盛り高校生活・3年生編①」

 1965年4月。

 高校3年生でヨシヒコと再び同じクラスになることが分かり喜んだものの、担任になったTには最初の面談の時から相性の悪さを感じました。

「あんたは知能指数が167。学年で一番。しかも入試の成績は抜群。なのに1、2年生の成績は信じられないほど悪い。一体どうしたというのかね?」「東京に家出したと聞いたぞ。何があったかは知らんが、二度目は許されないからな」「まあ、国立は無理だろうが、3教科だけみれば、早慶でもいけそうだな」「家出騒動のこともあってお母さんが話に来られた。美人さんだな」「作文を読んだが、あんたは共産主義か?」

 およそ教育者とは程遠い発言の数々に私は鋭い目つきを向けていたのでしょう。黙って顔をにらみつける私に、Tは、

「もう終わり。いろんなことがあるだろうが、まあ仲良くやっていきましょう。よろしく」

 と言って私に退室を促しました。

浅井久仁臣 Early days 12.jpg

 知能指数と入学試験の成績については一年前にも担任Nに言われたことで、苦い思い出がありました。2生になって最初の面談で、Nから二つのデータを前に〝怠け者の代表〟のような言われ方をして腹を立てた私は、その後行われた同様の能力試験をふざけて記入。当然のことながら私は職員室に呼び出されました。

 Nは私の顔を見るなり、「お前、○○○○か!」とある病名を言って叱責します。そう言われたら黙っていません。それは1年生の同級生から「交通事故がきっかけで○○○○になった」と聞いていたからです。「僕がふざけて試験を受けたことを叱ればいいじゃないですか。○○○○か!などとその病気持ちをバカにした叱り方をするのは教育者としておかしい」と抗議したのです。

 それに対してNは「口の減らん奴だ」と呆れた表情でぐだぐだと長時間説教してきました。

 

 そんなことが一年前にあったので、Tに言われても「話し合っても無駄。言わせておけ」と自分に言い聞かせ、「数字に縛られた教育者とは名ばかりの粗末な人間。学問を、本質を教えろよ。教育者なんだからこちらがぐうの音も出ないような受け答えができないものか」と思って見下していました。

 Tの言う作文とは、一学期の初めに自由テーマで書かされたものでした。当時論争を巻き起こしていた「ナイキミサイル配備の是非」について書いたのがTのお気に召さなかったようで、その後行われた授業で「浅井君は反対しているが……」と、わざわざ私の名前を出してその兵器導入の必要性を口角泡を飛ばして力説しました。「共産主義者!」「アカ!」というのは、国の考え方に対して異論を呈する人たちに対して意見を封じる時に使われる差別用語でした。

 Tの、相手に放つねちっこい視線、差別的表現や悪口を多発するゆがんだ口元、女子生徒へのまとわりつくような接し方……それら全てに嫌悪感を抱いた私は、彼に対して終始反抗的でした。

 

 新学年が始まってしばらく経った頃。女子生徒数名が「T先生ってすぐに手や肩を触ってくる。気持ち悪い」と言うので、生徒議会の議員だった私は、「僕が言って来てやる」と言って職員室に出向きTに面会を求め、「女子生徒が嫌がる行動はやめるよう」申し渡しました。するとTは、

「心外だ。失礼だ。親しみを込めて手を触れたことはあるかもしれんが、卑しい気持ちはみじんもない」

 と気色ばみました。

 「だったら、今度そのことをホームルームで話し合いましょう」と言ってその場を立ち去ろうとする私に、Tは「そんなことは時間の無駄だ。ワタシが許さんからな」と焦って止めにかかってきました。

 Tの〝おさわり指導〟はそれで収まり、私もホームルームの議題にすることはしませんでした。

 Tとの〝戦い〟がそれで終わったわけではありません。

 運悪く、Tは私が大学受験科目として選択する「政治経済」の担当でした。一学期の通知表には、5段階評価の「3」をつけられました。中間、期末共に校内試験では90点以上取っていた私が職員室に抗議に行ったのは当然です。それに対する答えは、「通知表の評価はテストの出来だけではない。授業態度も当然評価の対象だ。あんたは授業態度が悪すぎる。ちゃんと評価されたいんなら態度を改めることだな」でした。

 

 しばらくして、Tとの関係がさらに悪化する出来事が立て続けに起きました。

 その一つは、同じ柔道部に所属したKとの暴行事件です。

 父親が柔道部の外部コーチだったこともあり、Kは我が物顔で威張り散らしていました。そういう父親の威を借りてわがままに振舞う彼の姿に我慢できない私は彼を無視、相手にしませんでした。私が部活動から距離を置くようになっても、「番長グループ」と呼ばれる集団のメンバーであった彼は、やはりその威を借りて何かとちょっかいを出してきました。当然のことですが私は無視し続けました。

 ある日、Kは私をトイレに呼び出しました。

「この前お前に警告したはずだ。なんで俺の言う事を聞かん?踊る(喧嘩する)かあ?」

 と凄むKに、

「殴りたいなら好きなだけ殴れ。俺は喧嘩はしないんだ」

 と私が答え終わる前に、Kは突然顔面に拳を見舞ってきました。

 最悪の事態を想定していたので最初の数発は急所を外させたものの、敵もさるもの喧嘩慣れしているようでパンチが次々に繰り出されてきます。窓を背にしていたのでかわす余裕はなく、サンドバッグ状態でした。

 左目に入ったパンチに気を取られたスキを突き、数発が強烈に私の顔面をとらえました。危うく倒れそうになり膝をつくと、生徒Hの姿が目に入ります。かわいそうに用足しに来たのにとんでもない光景を目にしてしまい、トイレの入り口で腰を抜かしたようでした。「ちょっと待て」と相手を制しました。

「なんだ逃げるのか!」

「見てみろ、Hがかわいそうに腰抜かしてる。外に出してやるだけだ。その後また気のすむまで殴らせてやるよ」

 しかしHをトイレの外に運び出す間に、私の中にKへの怒りがこみ上げてきました。キレていく自分を冷静に見る自分がいますが、もう止められません。そして、

「続けていいぞ。ただ、お前の力は分かった。一発ぐらいは俺からも見舞わせてもらうかもしれんから覚悟しろ」

 と身構えました。

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第37回 「てんこ盛り高校生活・3年生編②」

前回のつづき)

 にらみ合いがしばらく続きました。私のそんな構えに怖気づいたかKは殴ってきません。

「今日はこのくらいにしておいてやる」

 Kは始業ベル(チャイムだったか?)が鳴ったこともあって冷静さを取り戻したのか、その心の動きは分かりませんが、そう言うと私の前から姿を消しました。

 トイレから教室に戻ると、私の顔を見たヨシヒコが「どうした?」と近寄ってきました。状況を簡単に説明したところで授業が始まりました。授業中に口の中の出血が止まらず、一回目は飲み込みましたが、胃がむかついて吐き気を催します。教師に断って保健室に行き手当てを受けました。

 放課後、職員室に呼び出されました。担任のTと前年の担任Nがあきれ顔で私を迎えました。ふたりに何を聞かれても「転んだだけです」と言うだけの私に、

「Hから大体聞いとる。それに養護教諭からも喧嘩に違いないと報告があった。お前は被害者のようだから悪いようにはせん。正直に何があったか話せ」

 と二人が言いますが、私は同じ答えを繰り返すだけでした。教室に戻ると待ち構えていたヨシヒコが事情を聞いてきます。彼にだけはと先ほどの続きを説明しました。

 

 その翌日か翌々日のことでした。

「ヨシヒコ君がMとOにトイレに連れていかれた!」

 と同級生が教えてくれました。そのふたりはKがつるんで行動するグループのリーダー格です。ヨシヒコが自分のために何か行動してくれたのかと思いながらトイレに駆け込むと、MとOがヨシヒコの前に立ちはだかり、奥の窓際に追い込んでいました。

「ヨシヒコ、手を出さんでくれ!」

 と私が叫ぶのとほぼ同時に、Mの右こぶしがヨシヒコの左顔面に見舞われました。私の言葉にヨシヒコは殴り返すのではなく、ふたりからの攻撃を防ごうとしたのでしょう。右横にあった掃除用のモップの柄を手にしました。

 しばらくにらみ合いが続きました。その後殴ってくることはなく、MとOのふたりは何か捨て台詞を言ってその場から立ち去りました。

 後に、ヨシヒコは私を殴ったKに対して「くにおみに二度と手を出すな」と体を張って私をかばってくれていたことが分かりました。推測ですが、脅されたKは親分格のMに助けを求めたのでしょう。それを受けてまるでヤクザ映画のようにMとOがいきり立って彼を殴りに来たというわけです。

 親友のあまりの熱い友情に私は言葉を失いました。

 それまで家族や親戚から、そして教員たちから温かい言葉や態度で接してもらうことがほとんど無かっただけに、彼の体を張った行動はくにおみの心の奥深くまでしみこみました。多くの友人が優しく付き合ってくれましたが、こんなことまでしてくれる友人は後にも先にもヤツだけです。

 今でもその時の感動がよく思い出され、ヨシヒコのカッコ良さを妻や息子に何十回どころか100回以上話してきました。

 その後Tから聞かされた学校側の処分は、事件を表面化させたくなかったのでしょう、想像していた通りの結果で、Kの停学に留まりました(もしかしたらMにも処分があったかもしれません)。「あんたの態度にも問題があるからな」という担任の説明に反論する気すら起こらず、いい加減に聞いていました。だからその内容はよく覚えていません。ただ、「停学処分といっても登校は許され、隔離された一室で反省」と聞かされ、口には出しませんでしたが〝臭いものに蓋かよ〟と思いました。

 

 担任のTとの関係は二学期に入るとさらに悪くなりました。書き出すと長くなるので詳しくは書きませんが、教育委員会の一団による授業視察の際にTが行なった教師にあるまじき行動に対して〝鉄槌〟を下したり、授業の中で話すあまりに偏りすぎた政治的見解に我慢ができなくて異論を呈したり、とくにおみのTへの反抗はとどまるところを知らず。ふたりの間にあつれきは絶えませんでした。

 ただ、教師に恵まれなかったものの、同級生はそれぞれが個性的で性格も良く、誰一人として文句のつけようがない面々。1年間嫌な思い出は何一つなくて、小学校から数えて12年間で最も素晴らしい仲間たちとの日々だったと言えます。

 進路については迷いに迷った1年でした。家出作戦に失敗したものの岡村昭彦への師事を諦めきれないくにおみは、出版社を通して彼に何度か手紙を送るなどして弟子入りを目指しました。しかし、戦争取材に忙殺されていたのでしょう。超売れっ子の岡村から返事がくることはなく、弟子入りはあきらめざるをえませんでした。

 再び大学受験の道を歩み出したものの身が入らずに不合格。その後一年間浪人します。もちろんくにおみの浪人生活です。平凡な形で終わるはずはなく、様々なエピソードが生まれました。

 

【この回を〆るにあたって最後にここでひとつ書き加えておきたいことがあります】

 知能指数の高いことや入学時の成績の良さを強調しました。これは、「自分の能力をひけらかしている」と皆さんに不快感を与えかねない、誤解をさせかねない書き方です。

 でも、私がここであえてそれを強調したのは、くにおみの周辺の大人が見せた、個性や才能を伸ばすのではなく、逆に教育とは程遠い「出過ぎた杭を打つ」やり方に強い抵抗感を抱くからです。特に「昔の自分の置かれた環境」を余裕をもって俯瞰できたり子どもや若者を指導する立場になった今、私には「くにおみをこんな風に導いてやれば、今頃はこうなっていたのでは?」という現在とは違った光景が想像できます。

 そうすると、誰か豊かな見識と鋭い洞察力を持った方が、マグマのような底なしのエネルギーを持つくにおみの好奇心を受け止めて、禅問答のようなやり取りの中から導いてくださっていたら……などと考えてしまうのです。結果的に、同調圧力が強くて厳しい環境が私のやる気を引き出し、それをエネルギーに変えていったから良かったのではないかとの見方もできるでしょうが、周りのおとなたちが余裕をもって私を導いてくれていたら、もっと社会の役に立つ指導者が生まれたのではないかと思ったりするのです。

 そんな思いがあってあえてこのような刺激的な書き方をしてみました。ご理解ください。そして、これを読んだ皆さんがここから何かヒントを得て、今後後進の育成や教育、子育てに活かしていただければ嬉しいです。

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第38回 「青春放浪・大学受験浪人①」

 私と同じ年に生まれた当時の若者たちは、ベビーブーム、後に団塊世代と言われた270万人(一年間の新生児数)の集団です。何事においても競争が付きまといました。「競争に勝ち抜くこと」に価値観が置かれ、〝ガンバリズム〟に追い立てられた世代です。

 大学受験においても同様で、有名大学に入ることが最大の親孝行。人気の高い大学・学部には20倍30倍もの受験生が殺到する、今では考えられない激しい競争にマスコミが付けた名が〝受験地獄〟。これは女性への門戸が大きく広げられて、女子が4年生大学に殺到したことも影響しています。親を含めて受験生は、大学受験生向けの雑誌『蛍雪時代』をバイブルのように抱え、血相を変えて自分たちが地獄に落ちないようにと頑張っていたものです。

 

 当時岡崎に予備校はなく、名鉄電車に揺られて一時間。名古屋駅近くの予備校・河合塾に通いました。今では全国に展開する大手予備校ですが、当時はまだ名駅校で2校目でした。

 今はあの辺りがどうなっているか知りませんが、当時はまだ戦後のどさくさのにおいプンプン。夕刻が迫ると〝お兄さん、いい子がいるよ。寄ってらっしゃいな〟とエプロン姿の女性が手引を始める怪しい場所、いわゆるドヤ街の近くにありました。ドヤとは、日雇い労働者向けの簡易宿泊所や性的サービスを提供する店や旅館が立ち並ぶ地域を言います。

 体験入塾のようなものはなく、手続きを取るまで教室の中をうかがい知ることはできなかったように記憶しています。だから最初の授業でその規模に仰天しました。大教室に数百人の生徒が詰め込まれたのです。そのあまりに非人間的な環境にやる気をそがれたくにおみはそれをいいことに勉強に身が入りません。

 苦情が多く出たこともあり、〝ゼミナール(ゼミだったかも?)〟と称する「少人数制のクラス」を急遽始めました。登録しましたが、少人数とは名ばかりで高校のひとクラスの規模(当時は約50人)です。

 今から思えば、河合塾もベビーブームの熱量に苦慮して試行錯誤の連続だったのでしょう。でも、大人社会のほぼ全てを否定的にしか見ないくにおみは、そのやり方が許せません。「詐欺じゃないか!」と事務局に怒鳴り込んだりしました。

 そんなこともあってやる気が起きず、6月までは仲間とつるんで遊んでばかりいました。「英会話修行」のために一時期は足しげく通った名古屋港からも足が遠のきます。

 

 ある時、友人のひとりSが失恋したと言ってひどく落ち込んでいました。何がしたい?と聞くと、「酒が飲みてえ。飲んで忘れてえ」と言うので、他にふたりの友人を加えて近くの酒屋でウィスキー・サントリーレッドの大瓶(2ℓ入り)を買ってきて4人で予備校の屋上に行き、酒盛りを始めました。

 4人の内、私とAはほとんど飲めなくてSとWのふたりがグイグイ飲みます。食堂から借りてきた湯呑で一気呑みするふたりに「しらふ組」は呆気に取られていました。ふたりはあっという間に大瓶を空にしてしまい、「もっと飲みてえ!」と言います。酔っぱらった状態で予備校にいるのはまずいと判断、外に出て酒屋で一升瓶に入ったぶどう酒(ワインなどと言えるシロモノではなかった)をふたりに買い与えました。そして近くの公園に行きました。

 大きな図体をしたふたりの若者がブランコに乗りながら一升瓶で酒をがぶ飲みする様は尋常ではありません。しかも時折り大声を上げます。

「まずいな、これは。何とかせんといかん」

 とAと話していると、心配していた事態となりました。警察官がふたり登場してきたのです。

「昼間から何やっとる!近所迷惑だぞ!隣は幼稚園じゃないか!」

 警察官は怒りの形相です。当時は〝おいこら警察〟と言われていた時代で、そういう威圧的な口の利き方をする警官が多かったです。

「お前ら、高校生じゃないのか?!」

「いや、浪人です。二浪ですよ。こんな老けた高校生はいないでしょ、おまわりさん。こいつが失恋して死にたいと言うものですから酒で慰めてやってるんですよ」

 こういう場面を切り抜けるのはくにおみの得意技です。私が警察官の相手をしました。しかし、ブランコの上でうなだれているふたりを見て「万事休す」と覚悟、次なる一手はないものかと思いを巡らすくにおみでした。

「それじゃあ、生年月日を言ってみろ!」

 と言う警察官に、

「私が昭和20年何月何日。こいつが同い年で4月、こっちも同い年で5月生まれです」

 と私がとっさにふたりが20歳になるようにさばを読んで答えました。

「なんでお前が全部答える?黙っとれ」

と警察官は私に言うと、

「おい、お前、お前はいつ生まれた?」

 とブランコに乗るふたりに聞きます。

「いや、見てくださいよ。まともにしゃべれる状態ではないですよ」

 〝まずい〟と思って私がそう言葉をはさみましたが、ふたりにはまだ若干意識があったようで、それぞれ私が警察官に答えていた生まれ年月で応答しました。

「分かった。だが、ここから移動しろ。また通報があったら次はトラ箱入りだぞ!」

 というセリフを残してふたりの警察官はその場から去りました。トラ箱とは、泥酔者を収容する警察の施設の事です。

 「この場にいてはまずい、どこか安全な場所に移そう」としらふのふたりは決断。SはAが、Wは私がかついで移動することに決めました。酔っ払いふたりは共に大柄です。しかも泥酔状態ときています。折から降り始めた雨の中を運ぶのは容易ではありませんでした。Wが何度も私の背中からずり落ち学生服を着ていた私のボタンが全部ちぎれてしまったほどです。

 しばらく行くと住宅団地があり、そこにふたりを座らせてAと〝作戦会議〟です。予備校から助っ人を連れてきて酔っぱらったふたりを近くの安宿に運び込むのが最善策と決まりました。Aがその場で監視役、私が応援してくれる友達を見つける役と決めて河合塾に急行。応援してくれる友人を探し出し、他の何人かから〝カンパしろ〟とカネを集めて3人が待つ場所に急いで戻りました。

「やばいぞ。警察が来る」

 不安気に待っていたAが珍しく緊張気味に言います。

 私が助けを呼びに行っている間に近くの住民に周りを囲まれてしまったこと、それに慌てた彼がふたりを手荒く扱ってしまったことを話し、「通報されたかもしれない」と言うのです。

 幸い直ぐに応援のふたりが見つけてきたタクシーが2台来ました。ふたりを別々に乗せ、我々も狭い空間に体を小さくして乗り込み、その場を離れました。そして近くの安宿に潜り込みました。宿にたどり着いても自分で歩くことができないふたりを部屋に運び込むことは至難の業でしたが、応援のふたりのお陰でなんとか布団に寝かせられました。

 ふたりの枕もとでAが「やばかった。一分遅れたらパトカーに捕まってた」と言います。彼の説明を聞いて本当に間一髪だったことが実感できました。私には見えなかったのですが、Aはタクシーの後ろ窓からパトカーを確認したというのです。

 まあ、終わり良ければすべて良しです。胃の中のものを吐き切ったふたりが意識を取り戻すまでには時間がかかりましたが、無事に帰宅することができて笑い話として関わった全員の記憶に残りました。

 

 「ヤーサンを下駄でポカリ事件」も忘れられない浪人時代の一ページです。

 予備校のやり方に不満な私たちの多くは間もなくして自分達で勉強する道を選びました。単独でやる者、何人かで集まりグループで勉強する者と様々でした。

 私が時折顔を出していたグループに、I を中心とした集まりがありました。他校の卒業生もまじわり楽しく群がっていました。

 そんなI からある日相談を受けました。ヤクザから脅されているので力を貸してくれないかというものです。話の概要は次のようなものでした。

 ある夜、Tの家に集まっていた仲間で岡崎城の近くの板屋町を散歩していた時のこと。闇夜に響く女の助けを求める声。〝すわ大変!〟と皆で駆けつけると、そこは男が女を殴るけるの暴行現場。それを見たOが、履いていた下駄を脱ぎ男の頭をポカリ。女性に感謝されると思いきや、彼女の口から出てきた言葉は「私のダンナに何するの!」。

 〝やばい〟と全員逃げようとしたもののひとりが捕まってしまいました。悪いことに、その暴力男はヤクザ。そしてカネを要求してきたのです。

 そう言われても、とても私たちに要求された金額を出す余裕はなく、私も一生懸命に友達から集めましたが大した額にはなりません。あちこちからかき集めたカネを渡しても相手は許してくれず、脅し続けてきました。それ以上は18歳の私には手に負えぬと思案投げ首の時、Wから「解決した」との連絡が入りました。

 それはまるでヤクザ映画のような話で、メンバーのひとりの祖母が悩んでいる孫を見て何事かと首を突っ込んできて〝ひと肌脱いだ〟と言うのです。彼女の登場でポカリ事件は一挙に解決したとのことでした。

 昔は彼女のように広い人脈を持ち、肝っ玉のすわったおばちゃん、おばあちゃんがいたものです。その事件も、それであと腐れなく解決されました。

 

 そんな風で、気ままな浪人生活は楽しくはありましたが、くにおみの成績は低迷したまま。7月に入るとさすがに「これでいいはずはない」と焦りを感じました。そんな時、東京の大学に通うSが夏休みで帰郷。彼の大都会の学生生活の話にくにおみは目を輝かせて聴き入りました。そして、どんないきさつからそうなったか記憶にありませんが、彼が帰郷中、空き部屋になっている彼の東京のアパートを使わせてもらうことになりました。

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第39回 「青春放浪・大学受験浪人②」

前回のつづき)

 夏休みで帰郷したSは、当時はやり始めていた長髪姿で私の前に現れました。

 その頃大都会の若者たちは、折からの反戦ムードに加えて欧米の流行の影響もあり、男性でも長髪にする者が多く、肩まで届く長さの髪を揺らして歩く姿も珍しくありませんでした。そんな光景を新聞やTVでは見ていたものの、実際にその雰囲気を田舎に持ち帰ってきたSからくにおみは新鮮な〝ニオイ〟を感じました。

 東京の大学生活の話を聞くうち、Sが長期間部活動でアパートを留守にすると知ったくにおみの頭に〝妙案〟が浮かびました。

「お前がいない間、アパートを借りられないかな?もちろん家賃に上乗せして大家に払うからさ」

 とSに持ち掛けました。当時のくにおみは無意識でしたが、今思えば相手の都合や事情などお構いなしで、自分が思い付いた話に相手を巻き込んでいたと思います。Sのアパートを借りる話もいつの間にか「三者が得する話」になっていました。

 

 東京に戻ったSから大家の承諾を得たとの連絡を受けたくにおみは早速上京。Sと巣鴨駅で待ち合せました。

 アパートは独身の高齢女性が幾部屋かを貸す下宿屋でした。部屋は4畳半の和室で、トイレや風呂はなく、今なら大学生は敬遠する様式ですが、当時はそれが標準。かねてより家族から早く独立したかった私には申し分のない条件でした。

 それまでにいろいろないきさつがあり、志望校を早稲田大学から東京外国語大学に変えていた私には、その大学の近くで生活できる心理的なメリットは大きく、高校入学以来失っていた勉学意欲もわいてきました。

 予備校も東京外語の受験に特化したコースを持つ「高田外語」を選びました(閉鎖してしまったのでしょうか。ネットではその名前を見つけられませんでした)。

 

 国立大学ですから受験科目に数学が増えました。高校一年生以来まともに勉強していませんでしたが、本格的に勉強し出すと〝勘〟が戻り、楽しささえ感じられます。授業態度にもそれが現れていたのでしょう。積極的に講師に関わる私の姿に「できる奴」と勘違いしたクラスメートが教えを乞いにくることもありました(笑)。

 成績もそれを反映して右肩上がりになりました。しかし余裕を持つとまたぞろくにおみに悪い癖が出ます。

 神田の古本屋街に足しげく通っているとき、ある哲学者と〝出会い〟ます。出会うと言っても本にハマったという意味です。

 その哲学者の名は西田幾多郎。京都大学の教授を務め、「京都学派」の創始者として知られる人物です。ただし、その頃を振り返ると、「西田哲学」に傾倒したと言うよりも、彼の言葉「頂天立地(誰に頼ることなく生きる事)自由人」と、その四高時代の豪放磊落な生き方に〝自分を見た〟からに過ぎなかったかもしれません。

 師弟の間にあたたかな交流があり自由闊達に振舞えた校風は、明治政府の方針で送り込まれてきた旧薩摩藩の教師陣の上意下達、武断的なやり方によって突如変わってしまいますが、抵抗した挙句に「こんな学校やめてやる」と中途退学してしまう、自分を貫いた西田の生き方に共鳴したのです。

 そんな西田への共鳴・憧れから京都大学に入りたいとも思いましたが、「過去問」ではかった自分の理科や数学の実力では合格圏に遠く及ばず、もう一年浪人しないと歯が立たないと気付かされ、〝我に返った〟くにおみは高田外語に通い続けました。

 また、一週間に2,3回は、予備校から近かった早稲田大学のキャンパスに足を運びました。前年からの学費値上げに始まった学生たちの反対運動は「学生会館管理問題」「ヴェトナム戦争反対」にまで広がり、日を追って盛り上がりを見せ、活動家たちのアジ演説を聴いているだけでも何となく心躍るものがありました。「新聞記者になるのだから」と、演説の内容だけでなく、学生たちの感想やキャンパスの雰囲気を一文にまとめることもしていました。

 

 小遣い銭が欲しかった私は、〝悪事〟に手を染めることもありました。

 自分が受験生の立場でありながら友達の学生証を使って経歴を偽り、赤ペンを持ち、大手受験事業者が行なっていた現役受験生向けのテストの添削をして報酬を得ていたのです。「受験生が受験生に受験の手ほどきをする」のですから犯罪であることには違いがありません。遅きに失した感はありますが、〝被害者〟の方にはペコリ、心よりお詫び申し上げます。と言っても、あまり反省をしていませんが……。

 新宿にある「歌声喫茶」に顔を出し、大声を張り上げる日もありました。「英語でナンパ」も再開して、手当たり次第に外国人に話しかけて、彼らとの交流を楽しむこともありました。

 そんな日常を送るくにおみの姿は受験浪人生と言うよりも大学生そのものでした。

 そのように東京の「頂点立地アパート生活」は充実していました。しかし問題が無かったわけではありません。「南京虫」と「アヘアへ」に悩まされました。南京虫は、アパートに巣くう〝吸血鬼〟のことです。

 帰郷したSが「皮膚病になっちまった」と言っていたものが、実はアパートに巣くう「5ミリの悪魔」の仕業だったのです。皮膚病と信じ込み塗り薬はないものかと相談に行った薬局で、私の全身に広がる真っ赤な斑点を見た薬剤師から「ふたつ並んで刺されています。南京虫の特徴です」と言われました。

 笑い話のような光景でしたが、テキは肌を露出している部分の血を吸いに来るので両手に靴下をはめて寝たこともあります。天井から落ちてくるというので、寝床の上の天井に紙を張ったこともあります。結局、バルサンという駆除剤で簡単に問題解決しましたが、その2,3週間はあまりの痒さに夢でうなされたりしたものです。

 「アヘアへ」問題は、南京虫よりタチが悪く、寝不足どころか、本能に訴えかけてくるものがあり、10代後半の若者を大きく悩ませました。

 

 アヘアへとは、男女のむつごとから発せられる女性の嬌声です。安普請の建物で周りを囲まれているため、夜になるとあちこちから聞こえてきたのです。

 ある夜勉強をしていると、どやどやと5人(4人だったかも?)の若い男たちが、私の部屋に入ってきてあいさつをすることもなく明かりを消して窓に張り付いたことがありました。

 何か声を上げたとき、ひとりが〝しーっ〟と言って私に静かにするように言いました。

「な~んだ。いないか」

 と言う声と共に明かりがつけられました。

「えっ?!」

「誰?」

 両者の間でそんなやり取りがあり、風変わりな自己紹介が始まり、状況説明が行われました。

 彼らはSと同じ大学に通う仲間たち。隣のアパートのカポー(男女)が繰り広げるLive Showの見物に来たというのです。しばらくは気まずい空気が漂いましたが、そこは若者たちの気楽さで直ぐに打ち解けて酒盛りが始まりました。

 

 間もなくして岡崎に戻った私は、元の浪人生活に戻りました。

 ある日新聞を読んでいたくにおみは、一ヵ月の間にふたつの大きな人物紹介記事に目がとまります。

 その人物の名は、天野貞祐。前述の西田幾多郎の門下生で、吉田内閣で文部大臣を務めた後、1964年に獨協大学を創設し初代学長をしていた哲学者です。「語学教育を基本にしたグローバル人材の育成」方針は、文部大臣時代の天野を知る野党勢力や日教組から「反動教育」とのそしりを受けていましたが、「西田幾多郎の門下生」は何とも魅力的。また、天野の発する言葉から魅力を感じたくにおみは天野学長宛に自己紹介と質問を書いた手紙を送りました。

 返事は期待していませんでしたが、一週間と間を置かずして天野からの返書が届きました。そこには私が大学に期待する答えが的確に書かれており、「あなたのような若者を私は育てたい。頑張って入学してください。お待ちしています」と書かれていました。

 もうひとりは、当時「マスコミの帝王」の異名を取り、毎日のようにテレビや新聞にその姿を見せて独特の評論活動を続け、1967年1月に『東京マスコミ塾』を開講した大宅壮一でした。特に、受講希望者が殺到して競争率が100倍を超えたとの報道もくにおみを刺激、「上京したら絶対に入塾してやる」と心に決めます。

 

 そのようにして、ちょっぴり大変な、でもそれなりに楽しめた浪人生活はあっという間に終わり、獨協大学外国語学部に入学することにしました。

 予想通り獨協入りに母は猛反対。入学手続きに行く私についてきました。大学のキャンパスに入っても入学金や授業料を渡してくれません。

「もう一度聞くけど、本当にこの学校で良いの?後悔しない?」

 と未練がましく言います。しかし、くにおみの心が揺れることはありません。「そんな往生際の悪いことを言いなさんな」と言って右手を出す私に、彼女は落胆した表情で腹巻に隠し持ってきた大金を取り出して渡してくれました。

 その姿にくにおみの心が動揺しないはずはありません。憐れみすら感じました。また、「親を裏切り続けるのか!」と長年周囲から言われてきた親族からの言葉も頭をよぎります。

「ついてくるなよ。俺一人で行くから」

 母の姿や親族から受けてきた言葉への感情を振り捨てるように、くにおみはカネの入った封筒を母から奪い取るようにして、事務管理棟に向かいました。そこまでついてこようとする彼女を「ここで待ってろよ」と手で制して支払いを済ませました。

 

 それから入学までの日々は上京準備であわただしく、あっという間に過ぎました。

 母から何度も「N先生だけにはご挨拶に行くのよ。あれだけお世話になったんだから」と二年生の担任の自宅に挨拶へ行くように言われました。確かに担任として、また指導係でもあったNに何かと面倒をかけたことは事実です。お礼に伺うのは当然だとその気になりました。

 ただ、その直前にとてもいやなことがあり、心がすさんでいた私はNを前に冷静でいられる自信がありません。ひとりの友達に同行してもらいました。どの友達に同行を頼んだのかの記憶が無くなっていましたが、数年前に会った友人Hとその話をすると、「俺だよ。お前に突然頼まれて訳の分からんまま付き合わされたじゃないか」と言われて、彼であることが思い出されました。

 玄関で応接してくれたNの妻に用件を伝えると、「しばらくお待ちください」と彼女は奥に姿を消しました。

 ところが、Nはなかなか現れません。友達と「どうしたんだろう?」といぶかっていると、私たちの前に姿を見せたのはNではなく再び彼の妻でした。

「腰を痛めているので臥(ふ)せっております。起き上がれません。これから頑張ってくださいとのことです」

 というような話をされました。何か彼女の表情に影を感じましたが、「お大事にしてください」とあいさつして辞去しました。

 

 話は半年ほど先に飛びます。

 夏休みに帰省した友達から「お前、N先生にお礼参りに行ったんだって?」と言われました。

 「本当に御礼に行ったのに、逆の意味にとられたか!ばからしい」とその友達に言ったものの、冷静になって考えると、「それもやむなし」と思えました。在校時にかけた迷惑はおそらくNにとっても常識をはるかに超えるもの。そう受け取られてしまったのは残念でしたが、冷静に考えれば、その頃は「生徒の教師に対するお礼参り」が珍しくない時代でした。生徒指導を担う立場の教員にとってはそれが自己防衛。危機管理だったのでしょう。

 そんなカバンに詰め込みきれない想い出と「やってやるぞー」という青雲の志と共に、1967年4月、くにおみは上京しました。

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第40回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く①」

 上京したくにおみは、4年間世話になるはずの「岡崎市東京学生寮」に荷を解きました。東京学生寮と言ってもその場所は千葉県市川市本八幡(もとやわた)。まあ、東京都との境界線から500メートルと離れていないのでそう名付けたくなるのは分かりますが、でもそこは千葉県です。岡崎の人間にとって「トーキョー」はビッグネーム。岡崎らしい名前の付け方ですね。

 寮に到着すると、寮監が玄関で温かく迎えてくれました。「寮監の〇〇です。どうぞよろしくお願いします。齋藤縫右門先生に大変お世話になった者です」と名乗り、私のことを「浅井さん」と呼びます。予想だにしなかった突然の挨拶に驚き、私は相手に「呼び捨てにしてください」とお願いしました。 

 齋藤縫右門とは私の母方の祖父で、かつて愛知県内で学校長をしていました。○○は、

「部下として本当に多くを学ばせていただきました。私の尊敬する恩師です」

 とまで言います。その時は「ふたりの関係がすぐに悪くなり、衝突を繰り返し、退寮処分という結果で終わる」とは思いもよりません。

「幸先が良いぞ」

 少なくとも私はそう思っていました。 学生寮は出来たばかり。当時としては画期的な「個人仕様の洋室」で「賄い(専属料理人による食事)付き」。訪れてくる友人たちは「お前たち、ずるいよ」と口を揃えたものです。噂では〝市当局となんらかのコネ〟を持つ親の息子だけが入れるとのことでしたが、その真相は分かりません。

 

 部屋に荷物を置くとすぐ、くにおみは東京日本橋に出かけました。『大宅壮一東京マスコミ塾』の事務局に行くためです。前回書いたように、世間で大きな評判を呼んでいた大宅塾に入ろうとしていたのですが、事務局に電話を入れると第二期生の募集は締め切ったと言われました。ならば直談判を、と出かけます。

 事務局は、新聞・雑誌の記事から想像する華やかな雰囲気とはかけ離れた地味な場所にありました。かつての江戸城外堀沿いにあり、見上げると高架橋を走る首都高速道路があります。事務局と言っても名ばかりで、古いビルにある小さな会社に間借りしているようでした。「日本エコノミストセンター」と入り口のドアに書かれた看板の下に小さくその名が書かれていたと記憶しています。対応した女性事務員は、

「二期生の受付は大分前に締め切りました。一次審査も終えて後は面接試験を待つばかりです。三期生の募集もまたありますから次回応募してください」

 と言って私に諦めるよう言います。

 それで〝ハイそうですか〟と引き下がるくにおみではありません。自分は地方から出てきたこと、受験浪人をしていたので締め切りに間に合わなかったこと、早く記者になって活躍したいことなどを理由に挙げ、何とか試験を受けさせてくれと粘りました。しかし、彼女はそう私に言われてもなすすべはなく断り続けるしかありません。粘り続けるくにおみを相手に1時間以上辛抱強く対応をしてくれました。今で言う「神対応」です。それなのに、くにおみは、何か笑いをこらえているような彼女の態度が田舎者をバカにしているようで気に入りません。「田舎者をバカにするのか」と思うと余計意固地になり、「どうしても機会をもらえないのならこの場を動かない」と入り口のドアの前で居座りました。

(後で彼女にその時の話を聞いたら「学生服に下駄。そんな姿で情熱をぶつけてくる浅井君が○○の××に似てた」と当時人気のあったTVドラマか映画、又は小説の主人公の名前をあげて説明してくれました。)

 

 どのくらい時間が経っていたかは記憶にありません。

「明日朝までに小論文を書いておいで。テーマは何でもいいから」

 それまで部屋の奥でずっと新聞を読んでいた男が新聞をたたむと声をかけてきました。

「ありがとうございます!」

 相手の名前も聞かず、その言葉を聞くや否や、おそらく相手の気持ちが変わらぬうちにと思ったのでしょう。くにおみはその場を脱兎のごとく離れ、寮に一目散に戻り、徹夜で小論文を書き上げて翌日、事務局に届けました。

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第41回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く②」

前回のつづき)

 小論文を提出後、マスコミ塾事務局から数日して一次審査を通ったとの連絡があり、満を持して4月15日、二次試験会場に向かいました。面接会場は事務局とは違い、近代的なビルの中にあり、廊下にも絨毯が敷かれている、テレビドラマに出てくるようなおしゃれな会議室でした。

 集まった受験生の顔ぶれは意外や意外、中高年も少なくありません。逆に、思って(期待して)いたよりも大学生は少数でした。

「面接方法をご説明します。名前を呼ばれた受験生の皆さんはこちらの部屋に入っていただき、先生方と自由に意見を交換していただきます。ブレーンストーミング・スタイルです」

 と説明する女性は、柔らかな物言いの中に〝有能オーラ〟を全身に漂わせる女性(実際にそうでした)。しゃべり方も口をついて出る言葉もまたそのたたずまいも、くにおみがこれまでに生きてきた世界の女性とは大きく違います。ブレーンストーミングなどという意味すら分からないくにおみでしたがそのことはあまり気にしないようにして(いまだに覚えているということは、気にしていたのでしょう)、TVドラマのような環境に気分を高揚させ、「よーし、講師たちにひと泡吹かせてやる!」と自らを奮い立たせます。

 

 その日は東京都知事選の投票日。

 選挙戦は、社会党と共産党が組む「社共共闘」の支援を受ける美濃部亮吉氏と、自民党と民社党が推薦する松下正寿氏の事実上の一騎打ちとなっていました。

「都知事選には絶対に触れてくるはず。ならばこう答えよう」と、くにおみは〝模範解答〟を考えます。

 激しさを増していた学生運動やヴェトナム戦争も頭の中で「想定問答」。そうして高鳴る心臓を抑えて自分の出番を待ちました。受験生がひとりで入室したのか複数だったのかの記憶はあいまいです。記憶にあるのは、目の前に並ぶ錚々(そうそう)たる講師陣の顔ぶれです。10人前後のいずれもテレビや新聞、雑誌で見たことのある有名人がズラリ顔を並べていました。

 列の真ん中にいるのは塾長の大宅壮一。その左には番頭格の評論家・草柳大蔵、右手横には財界ご意見番こと三鬼陽之介が座り、こちらに鋭い視線を放っています。他に、元毎日新聞外信部長でライシャワー駐日大使と大バトルの末に会社に辞表を叩きつけて独立したジャーナリストの大森実、明治大学教授で当時は創価学会との論争を繰り広げ、後に『時事放談』(TBS)を担当することになる藤原弘達の顔も見られます。

 そして左隅には、事務局で見た〝新聞男〟がぎょろりと特徴ある目を光らせ、あいさつする私に会釈を返してきます。その時初めて彼が事務局長であり、その名が森川宗弘であることを知ります。

「ロンドンではミニスカートが流行っているようだね。どう思いますか?」

 大宅がいきなり突拍子もない質問を私にぶつけてきました。

「〇✕△□?!」

 意表を突かれたくにおみの口をついて出た大宅への答えはしっちゃかめっちゃか。頭の中は真っ白になり自分でも何を言っているのか分かりません。後にも先にもこんな上がり方、乱れ方をしたのはその時だけです。

 〝惨敗〟でした。

 ミニスカートの話の後に何を聞かれ、それらの質問にどう答えたのか。そんな記憶すらありません。記憶にあるのは打ちひしがれて寮に帰ったことぐらいです。

 数日後届いた結果は、案に相違して〝合格〟。しかし面接の内容が散々だっただけに喜び全開とはいきません。「新聞男の情けで入れてもらえたんだ」と複雑な心境でした。

 

 入塾手続きを終えて翌週には講義が始まりました。勤め人が多いので授業は夜でした。何コマかの講座を受けた後、得も言われぬ違和感を持ちました。何かが違うのです。謳い文句であった「昭和の松下村塾」とは大きくかけ離れていたのです。それはくにおみが求めていた「学び舎」ではありませんでした。

 確かに、テレビ画面や紙面でしか見ることが出来ない著名人の話を狭い空間で直接聞けて質疑応答も許される機会はめったにあるものではありません。今にして思えば、面白い仕組みを考えたものだと冷静に判断できますが、当時の世間知らずの直情径行(ちょくじょうけいこう)そのものの田舎モンには納得できません。「これではいかん」と講師の面々に食らいついて講座以外の交流を求めることにしました。しかし、講師にすれば迷惑な話です。異常に熱い若者が情熱をぶつけてくる姿に困惑の表情を隠しません。それでも4人の講師と教室外で会うことが出来ました。塾長の大宅、前述の大森、TBSキャスターの田英夫、それに落語家の立川談志です。

 大森からはライシャワーとのやり取りや辞職に至るまでの話を期待しました。しかし、彼が私に会ってくれたのは、毎日新聞の退職後に発刊した週刊新聞『東京オブザーバー』の販売員へ勧誘するためと、『太平洋大学』(注・リンク先のサイト。一番右の写真のやくざ風の男が大森です)に誘うためでした。新聞も船上大学構想も興味を持ちましたが、大森の話の持っていきかたにへそを曲げたくにおみは、それ以上近付こうとはしませんでした。

 

 面白かったのは、立川談志との付き合いでした。

 彼は当時30代前半の〝落語界の風雲児〟。今も続く長寿人気番組『笑点』の初代司会者で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

 くにおみは第一回目の講座で談志の真ん前に陣取り、質問攻めしました。著書『現代落語論』を読み込んだうえで臨みましたから他の塾生よりも踏み込んだ質問ができたと思います。

 私が質問時間をほぼ独占状態で一時間目を終えます。トイレ休憩に入ると、

「アンタ、面白いなあ。楽屋に遊びに来いよ」

 私の隣に来て、アサガオ(小便器)に向かって用足しをしながら談志が声をかけてきました。

「いいですよ」

 心の内で〝やったぞ〟と快哉を叫びながらも興味なさげに応えました。

 

 間もなくして顔を出した寄席『人形町末広』の楽屋は、笑点でおなじみの三遊亭円楽、桂歌丸、毒蝮三太夫などの名前の知れたお笑い芸人であふれていました。

 談志は当時まだ30代前半。落語界ではすでに最高位の真打の座にありましたが、年齢的に言うとまだ並み居る師匠の目を気にしなければいけない存在でした。ところが、そんなことはまるで気にする風もなく、大御所のような立ち居振る舞いです。

 高座を務め終えると談志は「さあ、飲みに行こう」と私に言い、笑点グループを引き連れて飲み屋のはしごです。

 その夜は私が主役。常に彼の隣の席に座らされました。弟のような扱われ方でした。笑点のメンバーのほとんどが同席していたので大喜利の話を聞きました。するとそれに対して談志は、

「こいつらにあんなしゃれた応答ができるわきゃあないよ。俺が全部答えを考えてやってんだ。こいつらは俺の書いた台本通りに演じてるってわけ」

 独特のしわがれ声で談志はそう言い放ちます。大喜利のメンバーはと見ると、談志の放言に対して抗弁することなくただニヤニヤしているだけです。

 談志の凄さは分かりましたが、あまり気分の良いものではありません。おそらく冷ややかな目で見ていたと思います。そんな私の気配に気まずさを感じたか、談志は私に次のような提案を持ちかけてきました。

「浅井君に頼みがあるんだ。ネタ探しをしてくれないかな、大喜利の?それと、週刊誌の連載を手伝ってくれないか?ギャラは払えないけど、こうして飲んだりさ、あとはいい女を紹介するよ」

 そう言われて、「ハイ。そうですか、やりますよ」と言うほど純真ではありません。「考えさせてください」と答え、その日を契機にそれからしばらく談志との付き合いが続きました。

 しばらく付き合ううちに、談志という人がテレビ画面から受ける乱暴で人の迷惑顧みずといった印象とは違って、とても繊細で心配りができる好人物だと分かりました。また、彼のスポンサー筋に会う機会もあり、「うちの会社に入りたければ直接私に連絡をください」とまで言ってもらうこともありました。

 このようなチャンスは、大学生の分際ではどう背伸びしても得られるものではありませんでしたが、くにおみは半年ほどで「自分がやりたいことではない」ことを理由に談志と袂を分かちました。

 

「NHKの若い広場に出てくんないか」

 ある日、森川からTV番組出演の話が持ち掛けられました。『若い広場』とはNHK教育テレビ(現Eテレ)の看板番組の一つでした。

 『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』で話題になっていた直木賞作家・五木寛之を囲むトーク番組をNHKが企画していると言うのです。出演者は、様々な分野を目指す若者5,6名(正確な数は覚えていません)と聞かされました。

 私はふたつ返事。喜んで参加しました。

 NHKは、当時はまだ日比谷公園の近くに局舎がありました。初めて入るTV局にくにおみはおそらく目を真ん丸にしていたのでしょう。案内をしてくれたスタッフに「緊張してますか?」と聞かれました。「俺は田舎モン。物珍しさにキョロキョロしてるだけ。そんな聞き方をしたら相手を余計に緊張させてしまうのに」と思いましたが、「そんなことはないです」とだけ言い、心の内は口にしませんでした。

 学生服に下駄ばき。カランコロンと下駄の音を響かせてスタジオに向かうくにおみの姿が珍しかったのでしょう。行き交う人のいずれもが私の全身を見て微笑みます。嫌味は感じられず、好意的な反応と受け取りました。

 スタジオには、ファッション界、政界、文学界など様々な分野を目指す若者が集められ、簡単な自己紹介が行われました。「くず屋をしながら小説を書いている」と言う男(阿奈井文彦)の余裕ある笑顔は、もう既に〝その道〟を歩いている自信でしょう。際立っていました。【注】

 

 本番に先立ち、「五木文学についてひと言」と求められカメラに向かって皆それぞれに思いをしゃべります。事前に五木の本を読んでおくように言われていたので、どの出演者も説得力のあるコメントをしていました。

「五木文学をひと言でいえば線香花火。読んでいる間は気持ちが華やぐが、本を閉じたら何も残らない」

 くにおみはそう表現しました。奇をてらったつもりはなく、率直な感想でした。それを別の場所で聞いていた五木は、明らかにくにおみの言葉で心証を害したのでしょう。番組の中で優しく語りかけてくることはありませんでした。

 『青春の門』あたりまでは五木への評価は同じものでしたが、幾度かの執筆活動停止を経てからの充実した仕事ぶりを考えると、若気の至りとはいえとんでもない発言をしたものだと反省しています。本番中、五木とは残念ながら最後まで話がかみ合いませんでしたが、自分としては満足のいく発言ができたと思います。

 番組終了後にディレクターのひとりから、

「君の言うミニコミについてもっと話を聞かせて」

 と声をかけられました。

 「やがて来るであろうマスコミの限界」を予測する視点です。実際に今、ネットの発達でそれが現実のものとなっていますが、当時はマスコミ全盛期を迎える直前です。ただし話をしても「面白い視点だが、そうはならないだろうね」と結論付けられてしまいました。

 銀座のレストランのトイレを出た所で、民族派を名乗る大学生から「番組を拝見しました!少しお話を」といきなり話しかけられたこともありました。その後どのような展開になったかは残念ながら記憶にありません。

 

 そのように多くの人との出会いがあり、テレビ出演もさせてもらい、今から考えても順調すぎるほどのマスコミ塾との関りでした。しかし、一日でも早く戦争報道に関わりたいとの思いが強かったくにおみは、「違う。俺のやりたいことはこんなんじゃない」と頭を抱え始めました。それからしばらく悶々と悩む日が続きました。

 そして「退塾しよう」と結論を出しました。

 

【筆者注】

 後日、阿奈井のところにお邪魔しました。くず屋と言うのは、今で言う廃品回収業のことで、悠々自適に文筆活動をする姿は20代後半というのに風格すら感じられたものです。最近、NHK職員の友人にこの番組の録画を見たいとライブラリーで探してもらいましたが、残念ながら見つかりませんでした。

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第42回 「つかの間の大学生活」

 千葉県市川市の「岡崎市東京学生寮」に入寮するや否やくにおみは〝本領発揮〟。ボス猿的な存在になり、毎日5人10人の友達を引き連れて近くの町や東京の散策に出かけます。

 「寮のまずい飯なんか食ってられるか」と給食にも手を付けず、「大学生に門限なんか要るか」と度重なる門限破り。夜は屋上で酒盛りか私の部屋で花札やトランプを使っての賭け事。好き勝手なことをしていました。

 寮監も根は教員です。そのようなくにおみの傍若無人の態度を看過できるはずはありません。玄関口にある黒板に、寮生に対して行動を自粛するよう書いたり、門限時間後は出入り口の施錠をしたりして対抗します。そして入寮後一週間経たずして「浅井さん」が「アサイーっ!」に変わりました。まあ、それは当然と言えば当然です。

 それでも学校が始まると、多くの学生が新入生です。それぞれの大学生活に順応しようと「猿山生活」を自粛しました。

 

 獨協大学は埼玉県の草加市にあり、最寄り駅は「松原団地」。先ほど調べたら「獨協大学前」と現在はなっているようです。

 新設校らしく広大な空き地の中にキャンパスがあります。駐車場スペースも広く取られていて車で通学する者もいます。学生が車を運転することなど考えも及ばなかった田舎モンには、「自家用車で通学!」は驚きそのものです。そう。当時は、家で使う車のことを一般的に自家用車と呼んでいて「一家に一台」でさえ珍しく、一般家庭には〝憧れ〟の存在だったのです。

 東京から通学する同級生が多く、その生活スタイルからファッションまでもが雑誌から抜け出したよう。学生服に下駄ばき姿はくにおみだけだったかもしれません。時折顔を見せた早稲田などの大学では学生服姿は珍しくありませんでしたが、彼らの多くは民族派か運動部に属す学生でした。

 同級生が交わす会話はファッションや音楽。それに、特に最初は「どこの大学を落ちたか」が主な話題でした。「早慶、上智、青学」といった 単語がよく聞かれました。彼らにとっては悔しさもあったのでしょう。でも、くにおみにとっては空疎な会話でしかなく、その輪に入る気になりません。時折り政治的な話を振ってみても反応は薄く、居心地の悪さを感じるようになった私は高校時代のようにふるまうことはしませんでした。

 

 天野貞祐学長にいただいた手紙のお礼と入学の挨拶をしなければと自分なりに考えた私は、事務棟の受付に行き学長に挨拶に来た旨を伝えました。

 対応した職員は、〝エッ!?〟という表情で対応、奥の上司に相談しています。戻ってきた女性職員が言った言葉は正確に覚えていませんが、その様な前例がないといったような理由で体よく断られました。「大人社会」が分かるようになってからは自分の行動が受け入れられないものであることは理解できましたが、その時は「前例がないなんて断り方はおかしい」といったような捨て台詞を吐いてその場を去ったような気がします。

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第43回 「青春時代のリセット」

 「大宅壮一東京マスコミ塾」の退会を決めると私は事務局長の森川宗弘のもとを訪れました。退塾の意志を伝えると森川は昼食に私を誘います。

 連れていかれたのは、日本橋の高級レストランでした。〝お上りさん〟のくにおみはおそらく目を丸くしてキョロキョロしていたと思います。席に着くなり自分の気持ちを話し始めようとする私を制して「まずご飯を食べよう」と森川は言います。

 この辺りのタイミングは今思い出しても絶妙なものがありました。体育会系のノリで飲み込むように食べるくにおみは、出される皿をあっという間に平らげ、育ちの良さを感じさせる食べ方の森川が終わるのを待ちます。前菜から食後のコーヒーまであまりに時間がかかるので、間が持ちません。

 どんな話題だったか忘れましたが、森川はいろいろな世間話をしながらこちらの気持ちをほぐすような空気を作り続けます。言葉には表しませんでしたが、ひそかに〝さすが慶應の経済は違うな〟と、田舎者特有の慶應大学経済学部卒業生に対するコンプレックスに似た感情を持ちました。

 そして食後のコーヒーが出されると、森川がようやく「話を聞こうか」と言いました。 退塾するとの気持ちを話すと、森川は「分かった。好きなようにしたらいい」と言い、「ところでこれから浅井君がやりたいことを教えてもらえないか」と続けました。

 意外でした。あのように迷惑をかけて入塾を希望した私の不実をなじることなく、受け入れてくれる森川の度量に驚かされました。

 しかしそこで躊躇(ちゅうちょ)は禁物です。一気に退塾するだけでなく「大学を辞めること」「従軍記者に早くなりたいこと」「アメリカの大学でジャーナリズムを勉強したいこと」「留学するカネが無いので必死に働くこと」などなど思いのたけを話しました。一時間近く話したかと思います。まくしたてるくにおみの話をひとことも口をはさむことなく聞いていた森川は口を開くと驚きの言葉を発します。

「分かった。留学の費用は私が出す。アメリカでもイギリスでも勉強に行ってきなさい」

 くにおみは自分の耳が信じられません。森川の発した言葉が驚きのひと言。その意味が理解できなかったのです。

「そんなご厚意に甘えていいはずがありません。第一、僕の能力が足らなくて記者になれないかもしれません。そうなれば結果的に森川さんを裏切ることになってしまいます」

 と何とか吐き出すように言うと、

「それはそれで仕方がない。向こうで勉強してきたものを私の会社で発揮してもらえばいいよ。会社を上げるから僕の後を継いで社長をやればいい」

 森川は私を気楽にさせようと言ったのでしょうが、私には表面的な言葉の意味は理解できてはいるものの彼の真意を測りかねていました。 だから「そんなわけにはいきません」と答えるのが精いっぱいでした。

「そんなに結論を急がなくてもいい。ゆっくり考えればいいじゃないか」

 と森川に言われましたが、

「いや、どれだけ考えても答えは変わりません。ご厚意に甘えるわけにはいきません」

 くにおみは頑なに森川の申し出を断りました。

「それじゃあ、週に一回くらい会社に遊びにおいでよ」

 自分の考えにこだわることなく、森川は気楽にそう言いました。そんな形なら望むところです。「落ち着いたらそうさせていただきます」と約して別れました。

 

 森川に大学中退の意志を伝えたように、くにおみは大学に通い出してすぐに獨協大学は自分が身を置くところではないと考え、数か月で、厳密には3,4日で辞めようと心に決めていました。

 住んでいた学生寮も寮監から「お前がいるから寮の風紀が乱れる」と目の敵(かたき)にされており、最初の夏休みに里帰りしないで門限破りを繰り返し、何事もマイペースな私に、

「お前にはルールが分からんのか!うんざりだ。出てけ!退寮だ!」

「里帰りした連中が戻ってくる前に退寮してくれ。お前がいると空気が乱れてやりにくくて仕方がない。俺の神経がおかしくなる」

 とまで言われていました。

イラスト 7.jpg

 その頃、大学の同級生とサークル仲間の3人が退学を思いとどまるように説得に来ました。しかし、結果的にそのうちふたりはくにおみの影響を受けて退学してしまいます。

 退学したことは、ひとりについてはそれから約20年後、私の出した本を読んだと言ってくれた手紙で知ります。手紙には彼が翌年、早稲田大学文学部に入り、卒業後は出版界に入って活躍しているさまが書かれていました。

 リセットを決めたくにおみに迷いはありません。大学には何の手続きも取らなかったのでおそらく抹籍処分になったはずです。大学やマスコミ塾に加えて通っていた大手語学学校も「役に立たない。時間とカネの無駄だ」と中途退学しました。寮には「退寮者第一号」の〝名誉〟が残ったようで(笑)寮生の語り草になりました。

 その辺りの話は、64歳で故郷に妻直子と共に移住してから寮生活仲間だった友達から聞かされました。寮生たちは70代になった今も年に2回〝同窓会〟をやっているのです。

 

 寮を出たくにおみは板橋区の中板橋にある3畳間のアパートに移り住んでデパートの届け物の配達人になり、自転車の荷台にたくさんの荷物を積んで都内を走り回る生活を始めました。それだけでは留学費用は貯まりません。夜は地下鉄東西線の工事現場で明け方までつるはしを振るい、アパートで数時間泥のように眠るとまた配送センターに行くという超ハードスケジュールをこなしていたのです。

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第44回 「留学準備に邁進①」

 学生寮を追い出されて三畳ひと間の「貸間暮らし」を始めたくにおみは、米国留学を志して計画を練ります。

 「貯金」

 「英語上達」

 「ジャーナリズム学科がある大学との交渉」

 が当然その計画の柱となるものでした。留学費用は自分の力で工面することこそが本質と考え、母からの仕送り受け取りを断りました。

 

 突然の〝独立宣言〟に驚いた母は数か月後、当時大学生であった兄義澄を私のもとに偵察役として送り込みました。私が不在だったので、兄は大家に事情を説明して部屋に上がり込んでいました。そんな役割を担わされての訪問だけに義澄の表情は硬く、私の顔を見るなり「散らかし放題で何やっとるんだ!ゴミ屋敷じゃないか。大家から掃除してくれと言われたから掃除しといたぞ」とあいさつ代わりに放つ言葉は冷たささえ感じられるものでした。

 私にすれば冗談ではありません。いくら兄とはいえ、自分のいない間に部屋に入り込んできて、頼んでもいないのに掃除をして、しかも帰宅したとたんに頭ごなしに叱るのです。彼を疎ましく思うのは当然です。

 ただ、兄と対立するのは得策ではないと考えたくにおみは、一度だけ本音で話すと決め、

「見れば分かるようにアニキがここに泊まれるスペースはない。それに俺は今から徹夜仕事に出かける。明日は休みだから明日話そう。出直してくれないか」

 といったん部屋から出るように言いました。

 

 翌日。兄と相対しました。

 翌朝までに心の準備ができたこと、その日は仕事が休みで時間をかけてゆっくり話せたことなどが良かったのでしょう。落ち着いた心理状態で兄と向き合えました。

 兄もある意味では私と同じ被害者。そこで私は小さい頃からの置かれた環境の息苦しさ、抱えてきた悩みや不満を話し、「でもアニキは俺よりきつかったんじゃないか」とそこに幾つかの例を引いて彼への同情を口にしました。すると兄の表情に大きな変化が見られました。柔らかな表情を見せ始めたのです。

 心が通じたと確信した私は、次に自分の将来の夢を語ります。その弟の姿に兄は目を輝かせて、口を挟むことなく話に耳を傾けてくれました。一気に話した私に兄は、「浮ついた考えじゃないことは分かった。凄い頑張りじゃないか」と理解を示し、「俺にはそういうことはとてもできないからお前は頑張って夢を実現してくれ」と最終的には応援を約束してくれました。そして、それがきっかけとなり、それまでのさまざまな互いへの不満、誤解の多くが一挙に氷解、逆に非常に良好な関係が生まれました。

 その言葉に嘘はなく数年後、くにおみと母との関係が決定的な局面を迎え「母子断絶」の事態に至っても兄は私の味方をしてくれ、その後も47歳で他界するまでずっと私の最高の理解者であり続けてくれました。

 

 「兄の死」については40代の編で詳しく書きますが、ここでも少しふれておきます。

 彼は20代前半と30代で二度、大腸がんにかかり、開腹手術を受け、そして術後に行なわれた放射線治療の影響とみられる白血病に命を奪われました。

 「その時」は突然訪れてきました。

 1992年の11月14日深夜、兄からの電話が入ります。そんな時間に電話してくるような兄でないだけに「俺だ」という低く沈んだ声を聞いた途端、不吉な予感がしました。

「白血病になった。長くはもたんらしい。俺が死んだら○○(彼の妻の名)は出て行くだろう。後は……おふくろを頼む」

 とだけ言うと、彼は電話口で泣き崩れたのです。兄が私にそのように感情をあらわにしたのは後にも先にもこの時だけです。

 私は口を挟まず、しばらくそのまま兄が泣き止むのを待ちました。10分ぐらい泣き続けていたような記憶がありますが、実際にはそんなに長くはなかったかもしれません。

「お前、今日NHKに出とったな。TBSとの関係は大丈夫か?」

 息を整えた兄は病気のことではなく、その日の朝に私が出演していたテレビ番組の話を始めました。

 確かにその日(土曜日)、NHK総合TVでは〝日本の英語教育の裏側をさぐる〟というテーマの1時間番組が放映されており、私は解説者としてその番組に出演していました。兄が受診した岡崎市民病院のTV画面では常時NHKが流れていて、私の姿が彼の目にとまったという話です。診察・検査の合間に弟の姿をずっと見続けていたとのことでした。

「俺のような田舎モンにとってはテレビの中でもNHKは特別の存在。お前がそこに解説者として一時間出続けていたからな」

 と私の出演を誇らしく思ってくれたようです。一方で、契約関係があったTBSとのことも兄としては気になったらしくその辺りを聞いて来たわけです。

 実は、TBS特派員のひとりと90~91年の湾岸危機・戦争における現地取材でひと悶着。帰国してからも彼との確執が解消されなかったので、私は、翌92年はTBSとの契約を更新していませんでした。それを知ったNHKや他局がアプローチをしてきて実現したいくつかの番組出演のひとつだったのです。しかしそれを話せば心配させるだけです。「全然問題ないさ」とだけ答えました。

 兄はまた、25年前の東京の私の部屋での話し合いが懐かしく感じられたようで、「お前、本当に夢を実現したな」と嬉しそうな声でそう言ってくれました。

 私は普段からTV出演があってもその情報を兄に伝えておらず、彼がこの番組を見たのは全くの偶然でした。これもありがたいことに私に与えられた縁なのでしょう。NHKに出演したことは結果的に兄に対しての最高の餞(はなむけ)となったようで、病室を訪れる度にそのことを口にしました。

 

 1967年当時の話に戻ります。

 上京直後から始めたデパートの配送は、出来高制で体力勝負。配達品には商品券などの軽いものもありましたが、そういった割のいいものは古参たちが先取りしてしまい、新参者にはかさばるものや重い商品しか回ってきません。当時は、日本酒はもちろんのこと、ビールやしょうゆなどが瓶詰されていました。与えられた運搬用自転車は頑丈でタイヤも太いものでしたがそれだけに重量があり、重い荷物を積んだ状態で上り坂をのぼるのは至難の業。毎日汗だくになりながら江戸川区を走り回っていました。

 目に余る古参連中のずるいやり方に黙っておられず、私はある日「あなたたち、ずるいですよ」と抗議の声を上げました。すると、彼らに「こっち来い」と仕事場の裏に連れ出されました。脅しのつもりです。

 ただ、こちらの腹がすわって折れないと分かると意外なことに彼らは脅すのをやめ、それ以上私に難癖をつけてくることはありませんでした。そんな不穏な空気を知った会社側は事態が深刻になりかねないと見たのでしょう。システムに多少の改善を加えました。

 その頃の生活はハードそのもの。

 早朝からの配送作業を終えて夕方部屋に戻り、疲れ切った身体を横たえて仮眠をとりリフレッシュ。夜は地下鉄の工事現場に向かいます。その頃の労働時間については、うろ覚えですが、大体午後7時か8時から工事現場で働き始めて早朝4時か5時に終えて帰宅。ラジオを聴きながら寝入り、泥のように3、4時間眠った後起床。眠い目をこすりながら「留学のため。留学するんだから」と自分を鼓舞して配送の仕事に向かいました。万年床(敷きっぱなしの布団)に座って見る預金通帳の金額が最大の励みでした。

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第45回 「留学準備に邁進②」

前回のつづき)

 午後7時か8時頃から翌朝まで工事現場で働き、3、4時間眠ったあとデパートの配送の仕事に向かうという生活をしていたその頃。ラジオからあの名曲『帰って来たヨッパライ』が流れてきました。

 イントロを聴いて「なんじゃこれは?」。続く奇想天外なメロディーラインに仰天。途中からはあまりの素晴らしさにひとりラジオに向かって手を叩いていました。

 聴き終えたリスナーから「もう一度聴きたい」とのリクエストが殺到したようで、パーソナリティと呼ばれる進行役が「これまで番組の中で同じ曲を二度かけたことはありません。でもあまりに凄い反応なのでもう一度かけます」と言い、再びレコードがかけられました。この曲を耳にすると、今でもあの頃の「万年床生活」が思い出されます。

 貸間ですからそこに風呂はなく、共同炊事場で沸かした湯で体をふくだけの日常でした。それだけに週に一度の休みの日に行く銭湯はまさに極楽。大きな湯船でたまった垢と疲れをゆっくり落としていました(もちろん、湯船に入る前に体は洗いましたよ、念のため)。

 あ、たまに東京駅の地下にあった銭湯に行くのも楽しみでしたね。確か東京温泉という今で言うスーパー銭湯でした。

 

 洗濯も悩みの種でした。洗いたくても、部屋にただ一つだけある窓の外は一面隣家の壁が迫っており、洗濯物を干す場所はありません。そう。隣家の外壁とは3、40センチしか離れていなかったので一年中私の部屋に陽が射すことはなく、「365日、昼なお暗い部屋」、洗濯物を干す場所はありません。だから肌着やシャツを「買っては積み、買っては積み」で洗濯物は押し入れに数か月間で山積み状態。北区にコインランドリー(銭湯併設型としては日本第一号)があると聞いてそこに持ち込むまではそこからすえた臭いが放たれていました。

 前述のように突然来訪した兄は、弟が不在だったため部屋の大家に挨拶に行ったとのこと。すると大家から「部屋が汚い。掃除をして欲しい」と苦情を言われたので私が帰る前に部屋に入り掃除をしたと言います。しかし、洗濯物には手が付けられません。放つ臭いに閉口したらしく、帰宅した私の顔を見るなり〝くっさいなあ(三河弁で臭いなあ)〟と鼻をつまんだものです。

 

 米国に留学したいのですから英語の勉強を欠かすわけにはいきません。暇を見つけてはFEN(米軍ラジオ)を聴き続けること、それに街に出て外国人を〝ナンパ〟して英語力を磨き続ける努力を欠かしませんでした。赤坂見附駅近くにあった米文化センターに行き、アメリカの新聞や本を読み漁ることもしました。

 また、同センターにある資料からジャーナリズム学部(学科)のある米国の大学の住所を書き取り(その頃コピー機は超貴重品で使えず。全ては手書き)、100校近くに「学費及び滞在費の免除又は減額」を求める手紙を送り続けました。

 これについては、約3分の1の学校が「あなたのような熱意のある学生を歓迎するし、私共には様々な支援策はある」という主旨の好意的な返事をくれましたが、それら全てが「ただし、あなたには我々の判断基準である大学での実績がない。最初の年は自費負担で来て勉強してもらい、その成績を基に考えたい」とするものでした。

 当時の円ドル交換レートは1ドル360円で固定されていました。自費留学するには少なくとも50万円は必要。だから預金通帳の数字を上げるのに必死でした。少し前にも預金通帳のことを書きましたね。シツコイと思わないでください。それほど当時は真剣だったのですから。

 

 ナンパした外国人にもいろいろお世話になりました。中でもトーマス・コーツという初老の米国人男性からは言葉に尽くせないほど親切にしていただきました。

 彼と出会ったのは都心にある日比谷公園のベンチ。新聞を読んでいたコーツに私が話しかけたことから親交が始まります。彼は飯田橋にある東京ルーテル教会の幹部で、職員からは「ドクター・コーツ」と呼ばれていました。最初は医者かと思いましたが、そうではなく神学博士です。ナンパがきっかで週に2度彼のオフィスに行き、英語を教えてもらいました。

 勉強方法は、自分からお願いして次のようなものにしました。

 日常生活から東西文化比較、ヴェトナム戦争、学生運動まで多岐にわたる話題を自分なりに30分ほどにまとめて話し、その間一切口を挟まずにメモを取るだけでただただ聞いてもらいます。話し終わった後にそれを整理して文法的な間違いや英語表現の修正をしてもらえるようにお願いしました。英語教授法に則ったものではないものの私には相性の良い方法で、とても有効な授業でした。それが終わると食事に誘っていただき、その場でもレッスンが続けられます。自分でも力がついていくのが実感できました。

 くにおみはヴェトナム戦争に反対し、米政府の戦争への関与を強く非難する姿勢でしたから、米国の保守層に位置するコーツが意見を異にするのは明らかでした。しかしながらコーツはあえて異論を唱えず、くにおみとの意見の違いを面白がっているようで黙って聞いてくれました。その姿勢に「大人の余裕」を感じたものです。

 ただ、くにおみの性格を分かっていたからでしょう。コーツはキリスト教会の幹部なのに宗教への勧誘は一切口にしませんでした。そればかりでなく、彼は留学の斡旋までしてくれました。

 ある時レストランで食事を終えると、

「南ダコタ大学の学長をしている友人にあなたのことを話したらぜひ支援したいと言ってくれました。渡航費用も寮費も心配しなくていいです。ただし、その大学にあなたが勉強したいジャーナリズム学科はありません」

 と言ったのです。

 またとない機会です。大喜びすると思いきや、くにおみはひねくれた反応をしてしまいます。

「ジャーナリズム学科がないのですか。ごめんなさい。ジャーナリズムが学べないのなら興味がないです」

 と彼の申し出を断ってしまったのです。

 前述した森川宗弘からの好意を断った根底には、「むやみにひとさまの世話になるな!」と子供の頃から厳しく叩き込まれてきた我が家の教えがあったと思いますが、コーツの親切への反応は偏屈そのもの。もう少し断りようがあったはずです。しかも途中から他の大学に転入する可能性もあるからと言われても、コーツの申し出に私は首を縦に振らなかったのです。

 今となっては確認のしようがありませんが、この留学案には森川が絡んでいた可能性もあります。実は、私がコーツから英語を習っていることを知ると、森川は自分もやりたいと言い出し、私は彼をコーツに紹介していました。しばらく森川は多忙な時間を縫うようにしてコーツの所に足を運んでいたのです。コーツと親しくなった森川が、私のために留学案を案出した可能性は十分にあったと考えられます。

 

 多忙な仕事の合間に、森川の経営する『日本エコノミストセンター(通称エコセン)』に何度か顔を出すと、月末に経理担当者から封筒が渡されました。森川からだと言います。それもそれからその金額が毎月出されるとのこと。中を見ると5万円という大金が入っていました。当時の大卒の初任給の約2倍です。

 遊びに行くだけでそんな大金を頂くわけにはいきません。ならばと、デパートの配送と地下鉄工事の仕事は辞めてエコセンに勤務することにしました。勤務と言っても郵便物の発送作業の手伝い程度で、ひまであれば社員と雑談をしていても誰に文句を言われることはありません。勤務日どころか勤務時間も自由です。

 一転して自由時間の多い生活になったくにおみは、中古カメラを買って当時都内の幾つかの大学で行われていた学生運動の実態を探ろうと、早大や東大など都内の大学に足を運び写真を撮るようになりました。いっぱしのカメラマンを気取り、活動家にインタヴューまでしていました。

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第46回 「羽田闘争を目の当たりにして」

 ジャーナリストを気取ってカメラを向ける私に、最初は胡散臭い顔で見ていた活動家たちも、顔見知りになるといろいろ情報をもたらしてくれるようになります。

 1967年10月8日。佐藤栄作首相(当時)が南ヴェトナムを含む東南アジア訪問への出発を予定していました。それに対して、佐藤首相の南ヴェトナム訪問は、当時激しさを増していたヴェトナム戦争への日本の関与を深めることになると中核、革マルなどの新左翼各派はそれぞれ、佐藤の出発を阻止しようとその日、様々なルートから羽田空港への突入を目論んでいました。

 その情報を得たくにおみはその日現場のひとつに立ちました。空港の近くに集結して空港に向かうデモ隊に付いていくことにしました。私が同行したデモ隊には途中で加わる者も数多く、やがて数百名の大きな集団になりました。後で同じような集団が各所に出没、この日全体で2500人~3000人が訪問阻止デモに参加したことを知ります。

 

 空港近くの運河沿いの道を進むと、前方に機動隊が姿を現しました。かなりの威圧感を与えてきます。デモ隊はしかしそれにひるむことなくスクラムを組みゆっくりと前進し、時折り立ち止まると国際労働歌『インターナショナル』を歌いながら団結を強め、再び間を詰めます。そして、「ワッショイワッショイ」「安保、反対」と掛け声を揃えてジグザグに激しく動きます。それを何度も繰り返すと、ついに前方に立ちはだかる機動隊に体当たりしました。すると機動隊員は警棒を学生たちの頭に振り降ろします。

 私が〝同行取材〟したグループに加わっていた学生の約半数は、その時ヘルメットをかぶっていませんでした。そしてその恰好も平服でした。ヘルメットをかぶらず平服の参加者がデモに慣れていないのは明らかで、警棒を振り上げる機動隊員を前にして恐怖からしゃがみ込む者もいます。

 学生と機動隊員とでは鍛え方が違います。また防護服に身を固めてこん棒で〝武装〟する機動隊員に対して学生は徒手空拳です。そんな状態でも機動隊にぶつかっていく学生たちを見るうち、くにおみは体の奥底から得も言われぬ怒りがこみ上げてくるのを感じました。カメラをどこかに置いてデモ隊に加わりたい衝動にかられました。しかし、そんな気持ちも学生たちがやがて苦しまぎれに行なった投石をきっかけにしぼんでいきました。非暴力を唱えるくにおみには、投石は論外だったのです。

 でも、これを読んでいる皆さんは、「投石?そんな石はどこにあった?用意していた?」と思われますよね?

 当時都内の道路の歩道は敷石またはレンガで固められており、デモ隊はそれを割って投げやすくして機動隊に投げつけたのです。

 これは機動隊員にとっても恐怖です。学生への攻撃が中断されました。両者の距離が開き、動きがとまり、しばらく膠着状態となりました。おそらく機動隊側は態勢の立て直しをはかっていたのでしょう。

 学生側も乱れた隊列を組みなおし『インターナショナル』を歌ったりして次に備えます。

 「バンバンバーン!」という大きな音と共に催涙弾が飛んできました。それを避ける学生の隊列が乱れた所に機動隊が襲いかかります。勢いを失った学生側の隊列に指導者たちから檄が飛びますが、デモ隊に劣勢を挽回する力は残されておらず、てんでに倉庫街やビルの物陰に逃げ込みました。私が付いたグループはそれで流れ解散となりました。

中日新聞1967年10月9日、3面.jpg

 翌朝の新聞各紙は一面から他のページまでにわたってこの日の出来事を紹介しました。しかしながら学生を一方的に批判する記事が多く、私の見た現実を的確に伝える記事はほとんどなくて「マスメディアの力の限界」を目の当たりにした気がしました(写真は『中日新聞』1967年10月9日付朝刊です)

 翌日エコセンに行って社員を相手に見聞きしたことを話していると、森川宗弘が話に入って来て「今度そういう機会があったら僕もその場に連れてってよ」と言ったのは驚きでした。と同時に、さすがだなと思いました。

 

 その約一ヵ月後、今度は訪米する佐藤首相を阻止せんものと、新左翼各派や当時の最大野党であった日本社会党などが反対運動を予定していました。

 森川にその旨を伝えると、「よし、行こう」とノリの良い言葉が返ってきたので11月12日、ふたりは現場に向かいました。

 ひと月前と大きく違ったのは学生側の闘い方です。メディア報道では前回のデモによる負傷者数は警察側が圧倒的に多かったとされていましたが、私の目には逆に映っていました。学生側に相当多くの負傷者が出ていたように見えました。私がいた現場以外の状況を取材してみましたが、同様でした。

 各派は同じ轍は踏むまいということなのでしょう。参加者にヘルメットをかぶるよう指示していたのです。だからこの日はヘルメット姿が目立ちました。手にこん棒を持つ学生も少なくありません。

 衝突はいきなり学生側の投石と機動隊の放つ催涙弾の〝空中戦〟から始まりました。それに続いて学生側がこん棒を振りかざして機動隊に襲いかかります。前回に増して激しい衝突が繰り返されました。

 森川はと見ると、いくつもの修羅場をくぐってきたはずですが、緊張した面持ちです。

「すごい迫力だね。報道で伝えられるのとは大違いだ」と言うと、後は黙って状況を見ています。

 ただ、衝突がばらけるとこちらにも催涙ガス弾や石が飛んできます。くにおみに「森川の身に何かあってはいけない」という冷静な気持ちが働きました。

「森川さん、この場は引き揚げてヘリコプターに乗らせてもらえませんか。空中からこの模様を見たいです」

 とっさに私はそう森川に頼みました。

「それは面白いな」

 森川の快諾を得てくにおみは電話ボックスに飛び込み、ヘリコプター運航会社に電話をしました。その日は日曜日。誰も電話に出ません。

「もしかしたら現場の人間がいるかもしれません。ヘリポートに行ってみましょう」

 と言うが早いか、タクシーを拾い二人は乗り込みました。

 ヘリポートには従業員が出勤していましたが、その日東京上空は報道機関以外の飛行は認められておらず、残念ながら上空からのちに「第二次羽田闘争」と呼ばれるようになった反対運動を見ることはできませんでした。

 

 このような体験をしたくにおみは、自分で撮ってきた写真や拾ってきた声を何らかの形で公表したいとの思いを強くします。

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第47回 「人生の意味を思索する旅」

 1967年の年末は、11月に訪米した佐藤首相がまとめてきたと噂される沖縄と小笠原の返還交渉、それから、ひと月後の米原子力空母『エンタープライズ』の寄港問題でもちきりでした。

 

 そんな中、マンガ好きの高校時代からの親友Bが「おもしろい漫画が始まったぞ。なんか、読んどるとお前と重なってな」と言われてなんだか気になり、書店で手に取ってみたのが漫画雑誌『週刊少年マガジン』。そこには連載が始まったばかりの漫画『あしたのジョー』が掲載されていました。後で好きになった漫画ですが、主人公のジョーは手が付けられない暴れ者。「やつにとってこれが俺のイメージか……」と絶句したものです。

 その10数年後に、同じく高校からの親友だったAに「お前そっくりだ」と言われたのが、漫画『じゃりン子チエ』の主人公の父親です。

 「なんだ、それ?」と言う私に、彼の妻が「そうそう。そっくりだから読んでご覧」と漫画を私に渡しました。この漫画の奔放なキャラクターには私も大笑い。でも心の内は複雑です。確かにそれまでのくにおみの人生には常に暴力が付きまとっていましたが、自分から仕掛けたとの意識はありません。だから不本意でしたが、そう思われるのも仕方がない生き方です。「買い被りだけど、お前たちのイメージを壊さないように頑張るよ」と答えておきました。

 

 仕送りを断ったものの何か月も母親からの干渉は止まらず、手紙が送られてきます。そんな母との〝ケリ〟をつけようと年末、岡崎に帰ることにしました。

 帰る方法は新幹線ではなく、あえて徒歩にしました。東海道を東京から岡崎までじっくり自分を見つめながら歩きたくなったのです。距離にしておよそ320キロ。一日平均40キロ歩けば、8日で歩ける距離です。歩きながらとことん自分と向き合いたくて考えた方法でした。それと、かつて在籍した郷土学生寮の友人たちがその前の夏に5、6人で歩いての帰郷を試みたものの静岡でとん挫。その時、「お前ら、だらしねえなあ。そろいもそろってこんじょ(根性)無しだ」とけなしてしまい、彼らの一部から「そんじゃあ、くにおみ、お前歩いてみろ」と言われていたことも背景にありました。今になって反省しても遅いですが、その頃のくにおみは本当に言葉遣いが荒かったのです。

 

 年も押し詰まった12月末。私は日本橋に立ちました。「東海道は日本橋から始まっているのだから」とあえて出発点を日本橋にしたのです。

 服装は普段着です。当時はウォーキング用の服装はとても高価でぜいたく品。靴もウォーキング用のものではなく日常履いていたバックスキンの安いものを履いての「東海道ひとり旅」でした。

 当時の自動車は排ガス規制が無いも同然、もうもうと黒煙を巻き上げて走る車両もあるほど。地域によっては片側一車線でした。もちろん歩道はありません。排気ガスの充満する都会の東海道を歩くのは思いのほかきつく、歩いてすぐに1日で40キロは余裕で歩けると踏んだのは誤算だと気付かされます。横浜駅を通り過ぎる頃には陽が傾き始め、かつての「戸塚宿」(日本橋から数えて5番目)に着く頃には夜のとばりが完全に降りていました。一日目の歩行距離は約40キロでした。

 

 野宿も辞さない旅です。寝袋にくるまって寝ようと戸塚駅に行きましたが、駅員から迷惑がられて仕方なく近くにあった交番に頼りました。

 若い巡査が当番でした。タダで泊めてもらえるところを探していると言うと、人のよさそうな雰囲気を全身からかもしだすその巡査は何ヶ所かに電話を入れ、頼み込んでくれました。

「近くの寺で泊めてもらえそうです!」

 とわがことのように喜び、連れていかれた寺には、「善了寺」と書かれた看板がかけられていました。予想に反して住職の態度は硬く、私を見る表情は迷惑顔に近いものでした。

「今夜はもう遅いから泊めてあげるけどもうこんなことはしないでくれ」

 と言われて、そこで初めて自分のしていることが反社会的な迷惑行為であることに気付かされました。ならば諦めようかと思いましたが、懸命に住職夫妻を説得する若い巡査を見ると断るに断れません。彼の顔をつぶしてはいけないとそのまま泊めて頂きました。

 しかしながら住職に言われたことが頭から離れず、用意していただいた布団に入って考えている内に「あんな言い方はないだろう」とひねくれた感情が生まれてきます。

 翌朝早く起床。500円札(当時はまだ500円玉はなかったと記憶しています)を添えて「庭の掃除でもしたいところですが、先を急ぐ旅ですのでこんな形で失礼します」と置手紙をして寺を後にしました。

 

 東海道に出てしばらく歩いていると後ろからプップーとホーンの音。振り向くとその車には住職と妻の姿が見え、こちらを手招きしています。

「あんなことしてえ。さあ、車に乗りなさい」

 奥さんにそう言われ、後部座席に座りました。

 そこからしばらく行った先のトラック運転手向けのドライブイン(レストラン)で、「さあ、好きなものを注文しなさい」とメニューを渡されました。言葉は文字にするときついですが、その表情は昨夜と違って柔らかく温かみのあるものです。置手紙をしたことをお二人から評価していただきました。

 食事をしながら「将来の夢」を聞かれ、短い間でしたが食事を飲み込みながら描いている夢を語りました。おふたりは一生懸命聞いてくれましたが、先を急ぐ身なのでその無礼を詫びながら立ち上がると、「少ないけど持っていきなさい」と封筒を渡されました。固辞しても奥方の雰囲気からは受けつけてもらえないと判断、ありがたくいただきました。先ほど置手紙と共に置いてきたカネが倍になって返ってきました。

 

 おふたりの優しさで心を温めてもらって再び歩き始めたくにおみは、自分の性格の悪さを反省しながら、留学計画の事、学生運動の取材の事、友人関係等々様々な思いを頭に浮かべ、時に嫌な思い出や問題は頭から消し去ろうとしたりして歩き続けます。

 その夜は小田原のニコヨン相手の宿泊所で旅装を解きました。長期間敷きっぱなしなのでしょう。じめじめした布団に「いつ洗ったの?」というくらい汚いシーツの上では寝る気になれず、寝袋にくるまって寝ました。〝着たきり雀〟ですから服は着たままです。

 それでも疲れていたので爆睡です。

 

 翌朝はまた5時起きです。順調に東海道を西に向けて歩を進めていきます。

 前夜急に「富士山をもっと近くで見たい」との想いが湧いてきて、宿泊所の人に聞くと、大観山展望台からの富士が絶景だと言われていました。

 ところがそれは箱根ターンパイクという有料道路にある見晴らし展望台で、車でないと行けないようです。ヒッチハイクという手が無かったわけではありませんが、歩くと決めた以上、歩かないと気が済まない性格です。

 「なんとかなるだろう」と歩いて料金所まで行きました。ところがと言うか、案の定と言うべきか、料金所の職員に「車でないとこの道は通れない」と言われます。

 ならば仕方がありません。通りかかる車をヒッチハイクしようとすると、「そんなことをするな!諦めて来た方に戻れ!」と怒鳴ります。この言い方が私の反骨精神に火を付けました。料金所に再び近づくと不快な表情を浮かべる職員。

「あ、待てええ!」

 料金所を走り抜け、しばらくは男の声が続きましたが、やがてその声も小さくなり、振り向くと職員は追いかけるのを諦めたようです。その場に立ち尽くしていました。

 くにおみは走るのをやめて歩き出し、清々しい冬の朝の空気を満喫しながら足を運びます。目の前に見えてきた早朝の富士の高嶺に息を呑みました。私の長い人生の中でも最高に美しい霊峰の姿が目の前に開かれてきたのです。その姿を見る内に心の底から込み上げてくるものがありました。それまでに行なってきた自分の不実の言動の数々が頭をよぎります。心が洗われるという表現がからだのど真ん中を突き抜けていくのを体感しました。

 母千代子との関係も今一度見直してみようとの思いに至りました。

 

 その後も順調に沼津→静岡→浜松と歩き続けました。

 浜松から岡崎まで一気に歩くつもりでしたが、40キロ余を歩いた時点でそれまでの疲れと足の痛みに耐えきれなくなり、「そうだ、Kさんの家に泊めてもらおう」と思いつき、豊橋にある高校の恩師を訪ねました。

 電話もしなくて突如訪問する「電撃訪問」です。年末の家族団らんの場に乱入するのですから冷静に考えれば非常識極まりない行為です。表面上は冷静に応対してくれましたが、「それで今から出ると岡崎のご実家には何時頃着く計算か」と言われて目が覚めて、自分が迷惑をかけていると気付きました。 

 それからの30数キロは痛みと疲れと眠気が波のように押し寄せてくる地獄の苦しみ。真夜中に歩く闇の恐怖もそれに加わります。

 特に真っ暗なトンネルを通るのは恐怖そのもの。当時は多くのトンネルには十分な照明もなく、歩行者用の脇道もありませんでした。すれすれの距離で後方から来る車が走り抜けていきます。特に、トラックが来ると身がすくむ思いでした。運転手も真夜中に狭いトンネルを歩く私を見て驚くのでしょう。警笛を鳴らす人もいました。トンネルの壁に反響する警笛、特にトラックからのホーンはまさに警笛です。「戦争取材だと思ってがんばれ!」と自らを奮い立たせて歩き続けました。

 恐怖が最高潮に達したのは残すところ約10キロの所で脇の田んぼに横転してひっくり返ったトラックを見た時です。おそらく何時間も前に起きた事故なのでしょう。今だったら夜を徹して撤去作業を行うところでしょうが、当時はそんなに機材も充実していなかったのかその場に放置されていました。そこにパトカーや人影はなく、ぶざまに大きな車輪を月明りに浮かせたまま乾いた田に転がるトラックの姿は今でも一枚の写真のように私の記憶に残っています。

 

 7日目の早朝、岡崎の自宅に到着しました。最後の二日間は、「静岡→浜松」「浜松→岡崎」と、それぞれ一日80キロ近くを歩きました。

 当然の事ですが、いろいろ小さな出来事はありました。でもそれら全てに意味を見い出しての旅です。履いていた安物のバックスキンの靴が足に合わず、静岡を過ぎたあたりで踵に大きな水ぶくれができてしまい、悩まされました。針で穴をあけて水を抜き消毒すると布で足を縛り付けて歩き続けました。その姿に気の毒に思ったのでしょう。何台もの車が止まり、乗っていくようにと声をかけてくれました。いい時代です。多くの親切と温かい言葉をいただきました。そして、のんきな時代です。パトカーを一人で運転する警察官が車を停めて「眠いから話し相手に乗って行かないか」と言うのです(笑)。もちろん丁重にお断りしました。

 

 実家に朝5時頃着いたくにおみはそれからすぐに寝床に入り、24時間以上爆睡。途中で用足しに起きたようですが、夢遊病状態だったのでしょう。全く記憶にありません。

 眠り続けるくにおみに、母と兄は後で「死んじゃったかと思って何度も様子を伺ったよ」と言っていました。

 話し合いは、兄が間に入ることによって母もくにおみも冷静さを保つことができてののしり合うこともなく行われ、留学準備への理解も得られました。「できるだけのことはする」と言う母に、これ以上突き放すのはかわいそうとの憐憫の情(?)に似た感情も少し湧いたくにおみは「どうしようもなくなったら(仕送りを)頼むわ」と口を濁すだけに留めました。 

 実家に長居は無用とばかりに正月早々東京に戻りました。帰りは徒歩でなく汽車(当時は長距離を走る電車をそう呼んでいた)でした。車中では母親に妥協をした弱さを責める自分と、彼女のきつい言葉と視線に堪えたことをほめる自分とが交錯し、目を落とす本(おそらくむのたけじさんの著書)の内容に集中できぬまま、ただページをめくっていたように覚えています。

 

(次回以降、帰京して間もなく米軍の原子力空母『エンタープライズ』の寄港反対に吹き荒れる九州佐世保に向かう話を書く予定です。)

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第49回 「パレスチナと私①」

 私がパレスチナに興味を持ったのは1970年9月のことでした。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が4機の航空機を同時多発的にハイジャック。その内の3機をヨルダンの軍事空港に着陸させて世界を震撼させた事件を起こした時です。

 英国留学中であった私は、アルバイト先のTVに映し出された光景に衝撃を受けてそれから猛勉強をしました。そこから見えてきたのは、住んでいた土地をイスラエル軍に奪われ、近隣アラブ諸国に助けを求めて避難したものの長年難民キャンプのテントや小屋で不遇をかこっていたパレスチナ人の悲惨な姿でした。

 

 約半年の猛勉強の自分への褒美に、1971年7月、私は初めて中東の地に足を踏みました。訪れたのは触れた内戦が起きたヨルダンです。

 同時多発ハイジャック事件に端を発してアラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)とヨルダン正規軍の間で武力衝突が起き、結果的にPLOの主力勢力はヨルダン国外に追い出されていました。

 ヨルダンの首都アンマンには、戦闘こそ収まっていましたが、あちこちに戦争の傷跡が残されています。パレスチナゲリラに会ってみたいと歩き回っている内に、マルカ難民キャンプに行き着きました。一週間近くある家に泊めていただくことが出来ました。家と言っても、テントではなかったですがどこかから集めてきた古材とコンクリートブロックで造られた粗末な建物です。ひと部屋しかなく、それをカーテンで男女別に間仕切り、8人が住んでいました。

 初めて見る「ヤバニ(日本人)」は、人好きのパレスチナ社会で大人気。入れ替わり立ち代り老若男女が遊びに来ます。子どもたちにも大人気で、彼らが見つけたお気に入りの遊びは、私にアラビア語を教えること。アラビア語は日本語や英語にない喉の奥を鳴らせる発音をします。僕は僕で、子どもたちにウケる間違いを直ぐに〝マスター〟したので、それをすると彼らは笑い転げるのです。

 内戦を戦ったゲリラから直接話が聞けるのは刺激的でした。隠し持った武器を見せられた時は、それまでは画像や映像でしか見たことのなかったパレスチナゲリラを間近に見るだけに心拍数が上がりました。

 でも、それよりも私の心に強く響いたのは、「これがパレスチナにある私の家の鍵だよ。私たちはいつ戻れるか分からないし、もう20年以上経っているから家はないかもしれないけれど、この鍵を手放すことはない」という難民たちの悔しい言葉と表情でした。中には、「ヨルダン河の小高い丘から故郷の灯りを時折り見に行くんだ」とため息交じりに言う人もいました。実際にその場に連れて行ってもらうと、その男性の姿に心がしめ付けられました。

 それまではユダヤ人が受けてきた迫害の歴史が私の心を支配していましたが、その老人たちの姿が大きな転換点になりました。「こんな理不尽なことが許されていいものか」という強い憤りが心の底から湧き上がりました。

 

 2回目の中東訪問は、翌1972年4月でした。

 イスラエル社会を見るには、キブツの体験が必要とテルアビブの北に位置するキブツ・ガーシュに約ひと月半滞在しました。キブツはイスラエル全土に幾つもありました。この地に移住してきたユダヤ人は所有財産を全て投げ出してメンバーになり、そこで一生過ごすのです。形態としては農業共同体で、イスラエル建国に大きな貢献を果たし、キブツ出身者は特に軍部や政界においては大きな影響力を持っていました。

 キブツは外国からの若者をヴォランティアとして受け入れていました。ガーシュでもヨーロッパやアメリカ大陸から30人近い若者が粗末な小屋に住み、毎日、オレンジやアヴォカドの収穫に勤しんでいました。アジアからは私だけでした。ヴォランティアとイスラエル人メンバーとの交流はほとんどなかったので自分から積極的にメンバーの家を訪れて交流を深めました。

 そうして垣間見たキブツ社会は、意外なことに差別がはびこっていました。近くに住んで通ってくるパレスチナ人労働者に対するものだけでなく、同じキブツのメンバーに対しても冷たい目が向けられていたのです。

 「同じイスラエル人なのになぜ?」と差別を受けるメンバーのひとり(インド生まれ)にたずねると、「それはセファルディ(アジアやアフリカ、中東生まれの非白人系ユダヤ人)だからなんだ。その事はあまり触れない方が賢明だよ」と言われ、驚きました。

 そう。当時は同じユダヤ人でもアシュケナジ(白人系ユダヤ人)が優位に立ち、非白人系は差別の対象だったのです。結婚もセファルディがアシュケナジと一緒になるのは難しい状況でした。彼もアシュケナジの彼女(メンバーの娘)と結婚するのはとても大変だったし、結婚後も疎外感に苛まれていると私に訴えました。

 大半のメンバーは我々ヴォランティアに好意的でしたが、敬虔なユダヤ教徒のグループは最後まで私を受け入れようとはしませんでした。
 私の動きはキブツの幹部に目をつけられ、やがてやんわりとキブツからの退去を“勧め”られました。そんな「退去勧告」に抗う意味もなかったし、その頃、パレスチナ抵抗運動に活発化する動きが見られたこともあり、5月にキブツを出ることにしました。

 

 キブツを去ることにしてその日はオフ。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。

 パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。 (つづく)

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第50回 「パレスチナと私②」

前回のつづき)

 1972年5月8日。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。

 パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。

 スワいち大事、と私はキブツの自室に戻りカメラを手にすると、事務所の電話を借りて毎日新聞の欧州総局(在ロンドン)に電話を入れました。その頃の国際電話はオペレイターに申し込んでから30分程回線がつながるのを待たねばなりませんでした。その頃総局の助手として雇われていた私は、ボスである小西特派員に電話で指示を仰いだのです。前年の昭和天皇訪英時に世界的スクープとなった写真を撮っていただけに、小西さんも「浅井君だったら何か世界をあっと言わすような写真が撮れるかもしれないね」「いい写真が撮れたらUPI通信(当時は世界的通信社)に持ち込んで」と言っていただきました。

 

 親しくしていたキブツのメンバーに頼んで近くの町ネタニアまで送ってもらい、レンタカーで空港に急行しました。初めてのハイジャック取材です。正直に言って何をどうしたら良いのかは分かりません。行き当たりばったりの「出たとこ勝負」でした。

 そこで一案。空港ビルには報道陣が詰めかけているはず。私のような素人同然のカメラマンが同じ場所にいたのではスクープ写真は撮れないでしょう。「どこかいい場所はないか」と思いながら空港周辺を車で回りました。空港の敷地沿いの道路を車で走っていると、滑走路が見えて、機体にSABENAの文字が書かれた飛行機が確認できます。

 そこで私は、無謀ですね、バカですね。車を降りて草原を歩き滑走路に向かって歩き出したのです。信じられないことに、当時は空港の周りには鉄条網や遮蔽物がなく、兵士の姿はあるもののどんどん滑走路に近付いていけます。

 でも、甘くはありませんでした。近寄ってきた兵士たちににこやかな表情ながら厳しい口調で「逮捕されたいのですか?」と言われてしまいました。

 引き下がるしかありません。車に戻り、空港ビルに急ぎました。それから数時間。何ら動きはなく、緊張が薄れて報道陣の中には居眠りする者もいました。

 その時です。

 私には聞こえませんでしたが、一部の記者には銃声が聞こえたようで、報道陣の集団が急に崩れて屋外に走り出しました。私は訳も分からず彼らの後を追いました。ただ、建物の出入り口で警備の兵士が大声で「記者証を見せるように!」と叫んでいます。

 その頃の私はまだ記者の真似事をしているようなもの。毎日から記者証をもらえる立場にはなく、一瞬、ん?と思いましたが、結構若い頃から機転が利いた(ずる賢かったとも言います)私は、日本の運転免許証を振りかざして皆の後を追いました。当時の免許証は二つ折りで外側は黒(又は濃紺?)でしたから何となく記者証らしく見えたのです。

 滑走路に出ると、私たちは遠くに駐機しているSABENA機目がけて走り出しました。でも、ここでも甘くはありませんでした。武装兵たちが私たちの前に立ちはだかって阻止したのです。そしてビルに押し戻されました。後になって分かったことですが、国際赤十字の制服を着たイスラエルの特殊部隊が飲食を届けるふりをしてハイジャックされた飛行機に突入。ハイジャッカーのひとりを殺害、他は取り押さえたのでした。取り押さえられたハイジャッカーは自爆装置を持っていたものの逡巡したのか、幸いにして何らかの理由で爆発せず、大事には至りませんでした。

 帰途、車を運転しながら、その時になって初めて胸の高鳴りをおぼえました。それと同時に、「命を賭してまであのようなことをせざるを得ない」ゲリラたちへの同情心も禁じえませんでした。

 

 キブツを離れてエルサレムの東部(アラブ地区)に入った私は、宿で旅装を解くと直ぐに旧市街に足を運びました。人通りがあまりない所を歩く内に道に迷いウロウロしていると、ふたりの少年から声をかけられました。

「You play Judo? Karate?」

 ひとりが聞いてきます。近付いて行き、相手の顔面にハイキックを寸止めして、ひるんだところを首根っこに手をかけました。

 怯える少年に笑顔で「大丈夫、傷つけないから。冗談だよ。何か僕に用かい?」と声をかけると、「こっちに来て!」と私の手を引っ張ります。そのまま洞窟のような回廊を連れて行かれました。

 5,6分足早に歩いたでしょうか。奥の方から何か大勢の掛け声が聞こえてきます。すると、目の前に柔道場が現れました。柔道場と言っても畳ではなく古いマットレスのようなものが敷き詰めてあるだけです。着ている練習義も柔道着ではなく厚手のシャツのようなものでした。奥の方からがっしりした体躯の男が笑顔で迎えてくれました。雰囲気で道場主だと分かります。ハッサン・モグラビと男は名乗り、自分は本と8ミリ(無声映像)で柔道を学んだからしっかりしたものではない。本場の柔道を教えてくれないか、と言います。

 私は高校時代に柔道部に所属したもののいい加減に練習していただけでしたし、東京の講道館やロンドンの道場で稽古はしていましたが、教えるほどのものではありません。そう断った上で青少年の稽古相手になりました。

 そして数日後にはハッサンと兄弟のように仲良しになり、あちこちに連れて行ってもらい、いろいろな人に紹介されてパレスチナ社会に誘(いざな)ってもらいました。その後もエルサレムを訪問すると必ず彼の下を訪ね、兄弟のように仲良くなりました。

 

 西岸地区からガザに行くにはイスラエルを通って行く必要があります。乗り合いタクシーでガザ北部の検問所に着くと、そこには長い車列ができていました。

 5月でもガザは30度をこえる真夏です。乗ったタクシーは古くエアコンはききません。車内にいても〝地獄〟、車の外にいても強い陽ざしでこれまた地獄。

 そんな中でも、パレスチナ人はただひたすら辛抱強く待ちます。バスに乗る人たちも同じで疲れ切った表情で前に進むのを待っています。検問所に足を運んでみると、イスラエル兵は余裕の表情で仲間同士で談笑しながらパレスチナ人たちの身元確認や荷物検査をしていました。

 血の気が多く怖いもの知らずだった私は、イスラエル兵たちに「なんでもっと真剣に迅速にやってあげないのか」と詰め寄りました。そんな私に、数名の兵士が一様に「目を一瞬閉じて歯を鳴らしながら顔を上げて手でコチラを払う仕草」で応じ、リーダー格が「車に戻って待ってろ」と言いました。ここでひと悶着を起こしても通関作業が遅れるだけかもしれないと引き下がりましたが、パレスチナの人たちの気持ちが少し分かったような気がしました。

 

 そうして入ったガザは、イスラエルとはまさに別世界。

 通行・運搬手段の多くがロバ頼り。道路のほとんどは未舗装でした。下水設備もまともなものはなく、住宅やテントからの排水が通りにまであふれています。衛生環境は劣悪でした。高い建物はほとんどなくて、粗末な掘っ立て小屋が立ち並んでいました。

 その頃先進国ではミニスカートが大流行。その一方で正装をする若者も多くいました。生活レベルやファッションもイスラエルは先進諸国並み。テルアビブやエルサレムのような都市はヨーロッパの主要都市と見紛う空気が流れています。それに比べて、ガザの人たちは日本の終戦直後を思わせる粗末な服装。そのギャップの大きさに驚かされます。

 ガザに入っても私は臆することなく、難民キャンプや気になった施設に入って行きました。日本人に初めて会ったという人がほとんどで、多くがヒロシマやナガサキを例に挙げて、戦後復興を絶賛してくれました。失業率が高くて「日本で働き口はないか?」と聞いてくる人もいます。同じパレスチナ人でもガザはエジプトの影響が色濃く、話すアラビア語は大きく違い(と言っても、私のアラビア語は赤ちゃんレヴェル)、性格もライフスタイルも驚くほどの違いが感じられました。

 2泊か3泊しかしませんでしたが、古くて使わなくなった漁船が地元民に提供された宿。次々に差し入れをもって入れかわり立かわり訪問してくる地元民と談笑。楽しく、そして勉強になったガザの滞在でした。

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