第42回 「つかの間の大学生活」
千葉県市川市の「岡崎市東京学生寮」に入寮するや否やくにおみは〝本領発揮〟。ボス猿的な存在になり、毎日5人10人の友達を引き連れて近くの町や東京の散策に出かけます。
「寮のまずい飯なんか食ってられるか」と給食にも手を付けず、「大学生に門限なんか要るか」と度重なる門限破り。夜は屋上で酒盛りか私の部屋で花札やトランプを使っての賭け事。好き勝手なことをしていました。
寮監も根は教員です。そのようなくにおみの傍若無人の態度を看過できるはずはありません。玄関口にある黒板に、寮生に対して行動を自粛するよう書いたり、門限時間後は出入り口の施錠をしたりして対抗します。そして入寮後一週間経たずして「浅井さん」が「アサイーっ!」に変わりました。まあ、それは当然と言えば当然です。
それでも学校が始まると、多くの学生が新入生です。それぞれの大学生活に順応しようと「猿山生活」を自粛しました。
獨協大学は埼玉県の草加市にあり、最寄り駅は「松原団地」。先ほど調べたら「獨協大学前」と現在はなっているようです。
新設校らしく広大な空き地の中にキャンパスがあります。駐車場スペースも広く取られていて車で通学する者もいます。学生が車を運転することなど考えも及ばなかった田舎モンには、「自家用車で通学!」は驚きそのものです。そう。当時は、家で使う車のことを一般的に自家用車と呼んでいて「一家に一台」でさえ珍しく、一般家庭には〝憧れ〟の存在だったのです。
東京から通学する同級生が多く、その生活スタイルからファッションまでもが雑誌から抜け出したよう。学生服に下駄ばき姿はくにおみだけだったかもしれません。時折顔を見せた早稲田などの大学では学生服姿は珍しくありませんでしたが、彼らの多くは民族派か運動部に属す学生でした。
同級生が交わす会話はファッションや音楽。それに、特に最初は「どこの大学を落ちたか」が主な話題でした。「早慶、上智、青学」といった 単語がよく聞かれました。彼らにとっては悔しさもあったのでしょう。でも、くにおみにとっては空疎な会話でしかなく、その輪に入る気になりません。時折り政治的な話を振ってみても反応は薄く、居心地の悪さを感じるようになった私は高校時代のようにふるまうことはしませんでした。
天野貞祐学長にいただいた手紙のお礼と入学の挨拶をしなければと自分なりに考えた私は、事務棟の受付に行き学長に挨拶に来た旨を伝えました。
対応した職員は、〝エッ!?〟という表情で対応、奥の上司に相談しています。戻ってきた女性職員が言った言葉は正確に覚えていませんが、その様な前例がないといったような理由で体よく断られました。「大人社会」が分かるようになってからは自分の行動が受け入れられないものであることは理解できましたが、その時は「前例がないなんて断り方はおかしい」といったような捨て台詞を吐いてその場を去ったような気がします。