私の人生劇場

幼少期

第1回 「1944年4月8日、両親が結婚」

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 大日本帝国陸軍の精鋭騎馬部隊所属の父淺井俊夫は、“支那事変(日中戦争)”で中国最前線を転戦。格別の武勲を挙げたとして日本唯一の武人勲章である金鵄勲章(きんしくんしょう)を授与され、生まれ故郷では「村の誉れ」でした。

 今となってはその心の内を知るすべがありませんが、想像するに自分の遺伝子を残したかったのでしょう。敗色濃厚になった1944(昭和19)年4月、当時の赴任地であった平壌(ピョンヤン)から一週間の休暇を取って帰国。岡崎市の教員であった母千代子と実家(額田郡竜谷村。現岡崎市桑谷町)で祝言を挙げた後、新妻を伴って海峡を再び渡りました。時に、父24歳。母は21歳でした。新居には馬の世話をする兵士と現地人のお手伝い(当時は女中と言われた)が同居。「恵まれたお姫様のような新婚生活だった」と母はかつて述懐したことがあります。

 1945(昭和20)年1月に兄義澄がピョンヤンの軍宿舎で生まれますが、俊夫にはその翌月、京城(ソウル)への単身転勤命令が下ります。

 その半年後に終戦。俊夫は妻子を迎えに行く機会を得られぬまま、帰国を命ぜられます。父がどれほどの苦しみに苛まれたかは分かりませんが、帰国直後に軍服姿で千代子の両親を訪れ、「北朝鮮にふたりを迎えに行きます」と挨拶に行った(母方の叔父の話)ことから推し量ることはできます。

 俊夫は、戦時中に数々の武勲を挙げた村の誇りだった立場から一転、「妻子を捨ててきた穢れた英雄」となってしまったのですから故郷に戻っても「針のむしろ」状態で、どうしても救出に行きたかったはずです。しかし、教員から市会議員に転じていた義父の縫右門は、世間体もあってか俊夫の計画に猛反対。実行に移せば離縁すると俊夫の前に立ちはだかりました。「親は絶対」の時代です。俊夫は涙を呑むほかありませんでした。

 一方千代子は、侵攻してきたソ連軍を恐れて将校宿舎から乳飲み子を抱えて仲間数百名と共に逃亡。その後約10か月間、北鮮(北朝鮮)内を逃げ回りました。厳寒の地における逃亡生活は過酷を極め、多くの仲間が命を落としました。幼子(おさなご)も同様で、兄より年少の子は全て死んだそうです。

 九死に一生を得た千代子と義澄は1946(昭和21)年6月、夜陰に乗じて38度線を越えて南鮮(韓国)に入り、そこから帰還船に乗り、岡崎に帰ってきました。

 帰還船では、朝起きると目の前にいた同じ境遇の若い母親が乳飲み子を胸に抱いたまま冷たくなっていたと言います。遺体は海に投げられましたが、それまでは言いづらかったのでしょうか、10年くらい前にその時のことを話してくれた千代子は、私の前で涙を見せることはありませんでしたが、聴いていた私はその胸の内を考えると胸が詰まりました。

 九州博多港に着いたもののそこからの汽車賃は自己負担。10か月の逃亡生活で現金どころか貴重品もすべて使い果たしてしまった千代子は「国のために戦ってきたのに…」と力が抜ける思いがしました。

 幸いにも仲間の一人から借金することができ、汽車で郷里に戻ることができました。

 岡崎市の中央駅東岡崎に降り立った千代子は辺り一面の焼け野原に呆然とします。気を取り直して結婚前に住んでいた家(明大寺町)に行きますが、戦時中の米軍の空襲で跡形もなくなっていました。

 駅に戻り、さてどうしたものかと見渡すと、「竹内文具」の看板を掛けた掘っ立て小屋が見えました。教師をしていた千代子は、店の女主人とは仕事柄懇意にしていました。店内に入ると女主人から「齋藤先生、やっとかめ(久しぶり)。どうされたの?」と声を掛けられます。

 千代子のぼろぼろの服装と垢まみれの肌、それに背中におぶった生気を失った幼子は誰の目にも引揚者。

「わたし、ホクセンから帰ってきたばっかりなの。両親の家も焼けちゃったし、だんなの桑谷もどこにあるか分からなくて…」

 女主人と会話を続けていると、それを聞いた男性客(市役所職員)が「あんたたちのことは有名になっているよ。噂ではだんなさん、お二人の無事を祈って仏像を彫っておられるそうな」と言い、竜谷村の村役場に連絡をしてくれました。

 そうして両親は再会できたのです。

第2回→

第2回 「出生。一年後の父の死」

 再会した三人は岡崎市連尺町に新居を構え、再スタートを切ります。父は公職追放の憂き目に遭い希望した職に就けず、運送業(と言っても、大八車やリヤカーを使ったもの)を始めました。

 間もなくふたり目の子供(久仁臣)の妊娠が確認されます。しかし、それとほぼ同時に、俊夫が深刻な病に罹っていることが分かります。腸結核でした。主治医の冨田清(世界的音楽家冨田勲の父)によると、戦地で以前肺結核に罹っていたものの重症化せずに気が付かず、腸に転移したのではないかとの診たてでした。

「アメリカにはペニシリンという薬がある。それさえあれば治るのだが」

 と冨田医師は悔しそうに千代子に語ったと言います。

 軌道に乗りかけた事業も暗転。

「結核と分かると、それまで出入りしていた人たちはぱったりと姿を見せなくなるわよね、当然だけど。でも、何よりそれがつらかった」

「赤ちゃんができたからおなかが空いて仕方がなかった。とにかく町にはどこも食べるものがなくてね。連尺や康生を大きなおなかを抱えて知り合いの所に物乞いに行ったよ。何度も気を失いそうになりながら」

 かつて母はその頃を思い出して懐かしそうに語ってくれました。

「甘いものが大好きだったから食べさせてあげたいんだけど何もなくてね。ある時、『大福が食べたいな』とお父さんに言われたんだけど、手に入らなくて…」

 その言葉を受けて、俊夫の命日には毎年、大福を墓に供えるようにしています。

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 1947(昭和22)年9月17日、私が生まれた時、隣の部屋で俊夫が病に伏していたそうです。そして、私が最初の誕生日を迎えたひと月半後、「お前には本当に苦労を掛けるな」との言葉を遺して父はこの世から去りました。齢(よわい)28の若さでした。

 家族会議が開かれ、住んでいた家を売却。一家三人は父の実家の世話になることになりました。

(写真は1948年12月に売却された生家の権利証)

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第3回 「時代に翻弄(ほんろう)された幼少期」

【本文に入る前に】

 ここで書くことは、私を知る人には驚きをもって受け取られるでしょう。

 私はこれまで「どんな時にも明るさを忘れずにエネルギッシュに生き抜く姿」を見せようと、昭和、平成そして令和を駆け抜けてきました。「ジャーナリスト、教育者、社会貢献活動家の三足のわらじ」を履くようになったのもその結果です。そんな私の姿に共感して仲良くなってくださった方も少なくないはずです。それだけに私の人生の「負の部分」を発表することにためらいがなかったわけではありません。しかし、成長期において深く傷つき、時に屈折してひねくれた姿も「浅井久仁臣」そのものです。劣等感と優越感が極端に混在する若者に力を添えてくださった多くの皆さまとの交流が私の人生のダイナミズムを形成し、「多くのコンプレックスを抱えた三河の山猿」から「うるさいほど自信に満ちた国際ジャーナリスト」に仕立て上げていったのです。読者の皆さんにはその部分も共有して実像に近付いていただき、『浅井久仁臣 人生劇場』から何かをつかんでいただこうとあえて書くことにしました。

 

【本文】

 俊夫の実家に入った千代子は地元の竜谷小学校から復職の誘いを受けて教員に復帰しました。

 千代子にとってふたりの子育ては負担が大きいと判断した親族は会議の結果、暴れん坊で手に負えない次男坊の私を他家に養子縁組する断を下します。(注)

 段取りが整うまでの間、4歳の私は遠く離れた南設楽郡作手村(現・新城市)の千代子の実家に預けられました。実家は、祖父母、曾祖父、叔父(長男)夫婦にその長女、それに叔父叔母が5人と総勢11人の大所帯でした。

 そこにいたずら坊主の私が加わったことにより、当時は終戦後の混乱に加えて朝鮮戦争の影響もあって食糧事情が相当ひっ迫しており、ただでさえ余裕のなかった人たちの生活がさらにギスギスしたものになっていました。

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 特に、育ち盛りの叔父ふたり(当時小学校高学年と中学生)にとっては、私がいることで自分たちの食べる分が削られることになったわけです。彼らが私を歓迎するはずはなく、「邪魔な存在」に対するイジメを始めました。いくら暴れん坊でも4歳です。年長者に敵(かな)うはずはなく、心が傷つきやがて円形脱毛症になりました。診療所に連れていかれ脱毛した頭の患部に注射を打たれるのは、幼かった私には地獄の苦しみ。その痛みとそれに伴う恐怖は70年近く経った今でもハッキリと記憶に残っています。

 しかし、実は信じられないことですが、そうした円形脱毛症にまつわることは憶えていますが、イジメを受けたこと自体、約10年前まで私には全く記憶にありませんでした。そんなことがあるのかと不思議に思われるかもしれませんが、本当に覚えていなかったのです。

 では、なぜイジメと断言するのか?

 

 それは私が還暦の頃のこと。

 東京に住んでいた叔父のひとりが末期がんでホスピスに入所している時、子供の頃の私に対するイジメ行為を告白したのです。彼の妻である叔母が認知症になっていたこともあり、私は時折、彼の自宅やホスピスに出かけて買い物や食事の世話をしていました。

「俺たちは子供のころ、お前にあんなに酷いことをしたのになんでこんなに良くしてくれるんだ?」

 ある日叔父はベッドで体を起こすと、そう聞いてきました。

 私は、困っている近親者に手を差し伸べるのは至極当然のことと思いお世話していましたが、後ろめたさを持つ叔父には不思議でならなかったようです。

「イジメられていた?それも身内のこの人に?」

 私は自分の耳を疑いました。

「そういうことだったのか!それで苦しかったのか、脱毛症になったのか!」

 その告白にそれまでの謎が一挙に解けた気がしました。だから叔父にはそれに対して怒るのではなく、感謝の念を伝えました。 

 でも疑問は残りました。

 ならばなぜその記憶が自分にないのか?という疑問です。「幼児性健忘」と思いましたが、それでは説明がつきません。

 その後いくつかの専門書を紐解いていくと、「解離性健忘」に目が止まりました。

「そんなこともあるんだ」

 その記述を読んで腑に落ちた気がしました。

 話を当時に戻します。

 祖父母の家に一時的に預けられていた私に、千代子は時折り、会いに来たようです(これも記憶にありません。母や親族から聞いた話です)。でも、「なぜおかあちゃんとおにいちゃんと一緒に住めないのか」を理解できなかった4歳児が親に見捨てられたと感じるのは普通です。やがて訪れる千代子を遠ざけるようになったそうです。

 会っても寄り付かない我が子に目が覚めたらしく、千代子は養子縁組を解消、私を再び自分の手元に戻しました。

 

(私が「養子に出されそうになった」ことを知らされたのは、中学生の時でした。反抗姿勢に手を焼いた千代子は私の頬にビンタを見舞った後、「あんたなんかは養子に出しとけばよかった。かわいそうだと思って養子の話をやめてやったのに」と言ったのです。それを聞いた私は、すべての時が止まったような気がしました。私の反抗は確かに度を越していました。激務を抱えて最終バスで帰宅する毎日の千代子は、おそらく心神耗弱と言っても過言ではないほどでした。しかし、子供にとって親の愛情は絶対です。母親の心無い発言は、幼児期のつらい体験に加えて多感な思春期の私を苦しめることになります)

 

 再び一緒に住むようになっても、「男は泣くな!女々しいことを言うんじゃない!」「ててなしご(父親のいない子)は世の中で馬鹿にされます。しっかりしなさい」と兄や私を叱り、時に体罰を加えてくる母に、私は心を開けなくなっていたと思います。だから、叔父たち(母の弟たち)から受けていたイジメのことを言っても信じてもらえないとあきらめたのでしょう。私はその事を母に打ち明けることなく、これはあくまでも私の推測ですが、イジメられたことも時間の経過とともに記憶から消えていったのではないでしょうか。

 しかし受けた心の傷は容易に癒えるものではなく、当時は毎夜のように“おそがい(三河弁で「恐ろしい」)夢”に悩まされ、寝るのが怖くなった時期が長く続きました。一度母に悪夢で苦しんでいることを訴えましたが相手にされず、二度とそれを口にしませんでした。その代わり、父方の祖母こまに話を聞いてもらいました。

 今でも祖母との会話とその光景をいくつかはっきりと記憶しています。

 私がイジメを受けていたことは当然知っていたのでしょう。不憫(ふびん)に思っていたはずです。

 こまは落ち着いた口調で「こうやってごらん」と枕を叩きながら「おそがい夢は見ませんように」と呪文を唱えてくれました。

 

 それから数年後、後述しますが私は肺浸潤に罹り半年間入院します。その時付き添ってくれたのが祖母で、毎夜「おそがい夢を見ないようにお願いして」とせがんでいました。

 ところがしばらくして無理がたたったか祖母が別の病院に入院してしまいます。見舞った彼女の前で涙を見せる私に、母たち大人は「やっぱりおばあちゃんっ子だね」と半分からかうような言い方で笑いましたが、私は呪文を唱えてくれる祖母がいなくなるのが怖かったのです。残念なことに、祖母はそれからしばらくして他界。私は大きな後ろ盾を失ってしまいました。

 

【あとがき】

 母や親族へのうらみつらみに思えるような内容でしたが、私にはこれらの人たちに対する感情的なしこりは全くありません。

 それは、私の人生に関わった大人たちにとっては当時の常識に従って判断したものであり、悪気があっての行動ではなかったからです。また私につらく当たった叔父たちに関しても、理不尽な「大人の都合」を押し付けられたから「そのはけ口」として私を標的にしてしまった可能性が高いからです。

 いずれにしても、「時代」がそうさせたと思います。「おんな・こども」に人権はないも同然で、男社会の論理でものごとが進められていく時代がいかに醜悪であるかその一端をお分かりいただけたと思います。ここから私たちが学ばなければならないのは、女性はもちろんのこと、子供もひとりの人間であり、形やレヴェルはいろいろにせよ、基本的には「女性や子供の視点」が生かされていく社会づくりに努力していくことの大切さです。間違っても「古き良き時代」などと言って懐かしんだり、その再現を願ったりしてはなりません。

 

【注 養子】

  日本には伝統的に世継ぎ(男子)に恵まれぬ夫婦が、「家系を断絶させないため」に男子を欲しがりました。余裕のない親が次男以下を養子に出すことは珍しくなかったのです。

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第4回 「5歳児の決意」

 母千代子の実家から、再び竜谷村の父の実家に戻された私は、息子がいない伯父に我が子のようにかわいがられたことで安心を取り戻しました。伯父を「おとうちゃん」と呼ぶよほどの懐きようでした。そんな弟をこころよく思わない兄は何度も「おとうちゃんじゃない」とたしなめましたが、呼び方を変えることはありませんでした。

 心が安らぐようになっても時に不安に襲われます。親に甘えたい時期でもありました。しかし、千代子は常に背筋をピンと伸ばして「淺井家の男は武士。弱音を吐くな。泣くんじゃない。涙を見せるな。頭の上からお父さんが見てるからね」とけんもほろろでしたので、彼女に心の内を吐露したことはありません。

 家長の祖父米太郎も幼い私の心に配慮を見せる人ではなく、階段から転げ落ちても「うるさい!」と怒鳴る人です。5歳児の顔を見ると、何かと苦言を口にしました。今思い返しても米太郎との楽しい思い出は何一つ思い浮かびません。

 

 俊夫の実家は室町時代から広大な田地田畑と山林を所有していました。しかし、米太郎とその弟が稀代の遊び人で毎夜の芸者遊び。私を取り上げてくれた産婆(助産師)は、米太郎に水揚げされた元芸者さんだったというから話になりません。

 また、淺井家は代々華道遠州流の家元で、米太郎は当時岡崎にあった日清紡績の女工さんを教える立場にありました。後になって聞いたことですが、彼は何人もの教え子と関係を持ってトラブルが絶えなかったそうです。

 派手な女性関係による散財に加えて、私が生まれた年から実施された農業改革(地主制度の改革)で、淺井家所有の山林や田畑は大幅に縮小。私が居候として入った頃には自宅の敷地も削られ、住居も小さくなっていました。

 破産状態にあって夜遊びがままならなくなった米太郎は、朝から晩まで長火鉢に座って家族の動きを監視。なんやかやと口出ししていました。孫、特に男子には厳しく、叱られた思い出しかありません。

 それを受け継いだのが俊夫のすぐ下の叔母でした。口を開けば、「淺井家の格」。そして学歴の大切さ。

 叔母は「淺井家の男が大学に行くんだったら東大しかない」と言ってはばからず、当時はまだ珍しかった教育ママを貫き、息子をめでたく東大に入れます。彼女の息子、つまりは私のいとこはのちに東海村の原子力研究所(現原子力科学研究所)所長を務めるなど日本の原子力推進の貢献者の一人になります。

 ただ、彼とは成人してからも交流がありましたが、2011年の福島原発事故の際に意見が真っ向から対立。その後は音信不通となっています。

 その叔母が、東大は出ていなかったものの「淺井家の男」として認めたのは、トヨタ自動車でハイラックスの5代目開発責任者であった浅井重雄です。ただ、年が離れていたこともあり、私にとっては近寄りがたく、「遠くから眺める存在」でした。

 

 “おとうちゃん”のことは大好きでしたが、俊夫を慕う気持ちは日に日に増していき、周りの大人に「お父ちゃんの話をして」と聞いて回るようになりました。

 すると、大人たちは一様に「俊夫さんは本物の武士だったな」と言いながら、自分たちが知る俊夫像を話してくれました。一部の人は「(淺井)長政の生まれ変わりだったよ」と言う人もいたりして、幼かった私の頭は大混乱。

 大きくなってから整理してみると、私の祖先が室町時代に近江から流れてきていて(竜谷村史から)、それが歴史上の人物「淺井長政」の親族であったとどこかで言われるようになり、偶然父が武道の高段者の青年将校で中国戦線において武勲を挙げ、死んだのが長政と同じ28歳。そんな事実と与太話とがないまぜにして語られるうちに、いつの間にか前述の話が事実であるかのように言われるようになったということです。

 そして中には、「俊夫さんは『武士は他人に腹は切らせません』と腸結核の手術を断った」とまで言う人がいました。後日談ですが、母にその辺りを質(ただ)したところ、「それはない。手遅れだった」とにべもない(そっけない)答えが返ってきました。

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 父の実家の近くに広忠寺という松平・徳川家由来の寺があります。その寺は読んで字のごとく、徳川家康公が父松平広忠を菩提するために建てたものです。そこには、広忠と結婚する予定であったお久の方と、ふたりの間にできた勘六と恵最(えさい)が住んでいました。ふたりは家康公の異母兄弟ということになります。勘六はのちに松平忠政を名乗り、「桑谷松平3000石」の旗本になり、徳川家臣団に名を連ねます。家康公と同じ年の同じ日に生まれたと言われる恵最は、僧門に入り、樵暗恵最(しょうあんえさい)と名乗ったと「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」などにあります。

 

 その広忠寺に時折、村の戦争体験者たちがたむろして体験談を語り合っていました。私はそこによく顔を出しては前述したように「お父ちゃんの話を聞かせて」とせがんでいたのです。

 いろいろな話を聴くうちに、「戦争がお父ちゃんをうばった」と勘違いした5歳児は、「だったら戦争をなくしたい」と思うようになりました。

 そんな思いに駆られるようになった私はある時、「おとなになったら戦争をなくす仕事がしたい。どんな仕事があるの?」と元日本兵たちに聞きました。

 すると、ふたりが「そうだな。新聞記者だな」と教えてくれました。

 ふたりにすれば軽く思い付きで答えたのでしょうが、真に受けた少年くにおみは、それからことあるごとに「僕は新聞記者になる」と言うようになりました。 

 彼らの言葉は私にとって、体の芯にまでずしんと来る重さで響ました。それからどんな苦境に直面しても「お父ちゃんのために記者になるんだ」と頭の中で呪文のように唱えて自分に言い聞かすのでした。

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少年期

第5回 「1年に2度の生命の危機」

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 やがて実家を出て、近くの小さな借家で親子三人の生活が始まりました。

 村で知らぬ者がいないほどのわんぱくになった私は美合保育園に通い始めましたが、数日で手に負えないからと放園処分になります(国語辞典に学校をやめさせられる放校はありますが、放園はありませんでした)。 

 時間を持て余した5歳児はちびっこギャング集団を作り、常に10~15人を引き連れて行動していました。

 小学校に入ってもエネルギーにあふれ、規律ある集団生活になじめなかった私は、担任と母千代子の頭を悩ませます。

 

 同じ小学校で教員をしていた千代子は言います。

「覚えてる?あんたがたくさんつくしを採ってきたから、たーやん(隣家に住む大家。独居老人)に聞いたら、『くんちゃんは家来をたんぼに引き連れてきて採れーと命令。ほうする(そうする)とみんなが散らばってあぜ道でつくしを採る。それをぜ~んぶ自分で独り占めした』って言ってたのよ。私、恥ずかしくって穴に入りたかったわ」

「あんたが入学したての4月。2年生の担任だった私が授業をしていると、校庭をひとり走り回っている男の子がいたのよ。見れば我がバカ息子!授業を終えてミツ先生(私の担任)に聞くと、『なんでもすぐにやっちゃう子だからね。テストだったんだけどすぐにやり終えて騒ぎ出すから外に出してしまったの』と言われて申し訳なくてね」

「たーやんの家に入って、たーやんが大事にしていたお菓子を全部食べた時は『これを許しちゃえらいことになる』と柿の木に縛り付けたけど、あんたは頑として謝らんかった。たーやんが『先生、許しておくれましょう』と半分泣きながら訴えてきたけど、ここは正念場と聞き入れなかったら、たーやんはあんたに『くんちゃん、謝りん(謝ろう)』と寄ってってさ。謝るきっかけを作ってあげてるのに謝らなかったね」

 

 「やることなすことすべてがマイペース」「人の言うことを聞かない」「周りを笑わすことに夢中で空気を壊す」…ミツ先生からは保育園と同じ指摘がされたそうです。現代なら間違いなく何らかの発達障害の病名がつけられていたでしょう。

 また、態度の大きさも半端ではなかったようです。生意気な一年生は、授業が始まる前に毎日、教室と廊下の間仕切りに腰を掛けて、行きかう生徒や教員ににらみをきかせていました。

 ある朝、「くんちゃん、おはよう」

 通りかかった男性教諭があいさつしました。

「ああ、安藤寅男か」

 私はあいさつ代わりにそう答えました。

 安藤先生はその態度を面白がって職員室に戻ると、「くんちゃんは面白い子ですね」と千代子にあったことをそのまま伝えたそうです。

 自分の尊敬する先輩に対しての、息子のとんでもない無礼な態度に千代子は怒り心頭。帰宅するなり烈火のごとく私にカミナリを落としました。

 

 実はこの話にも後日談があります。

 時は半世紀以上飛んで、場所も埼玉県北部にある山の中の一軒家でのこと。そこは、友人が運営する『茜の里』という「障害の種類や有無にこだわらない交流ができる宿泊施設」。理事たちが泊りがけで集まる年次総会で講話をしてくれと頼まれ、直子と出かけました。ひとり遅れて到着した理事がいました。

「○○さんは、岡崎の方ですよ。岡崎高校出身です」

 理事のひとりが教えてくれました。がやがやとしていて名前が聞き取れませんでしたが、流れを止めたくなくて相手がこちらの席に来るのを待ちました。

「岡高の何回生ですか」

 目の前に座った相手にいきなり尋ねました。

「20回です(生まれた年で答えられたかもしれません)」

「ふたつ下ですね。部活は?」

「柔道でした」

「え?僕も柔道でしたよ。ただし、2年生後半で退部したから重ならなかったですね」

「学区は?」

 岡崎というところは、出身小学校で出自を表します。

「山中です」

「なんだ、僕は2年生の途中までだけど、お隣の竜谷でしたよ」

「え?だとすると、父親をご存じですか?」

「え?お父様のお名前は?」

「安藤寅男です」

 びっくり仰天です。

「え~~~っ!あの安藤寅男先生の息子さん???」

 私の驚き方に相手もびっくりです。そりゃそうです。岡崎でならあり得る話ですが、遠く離れた関東の山奥です。奇縁に驚きました。安藤さんに小学校の出来事「安藤寅男事件」を話したら嬉しそうに聴いていただきました。

 でも話を進めるうちに、残念ながら安藤先生がもうこの世の人でないことが分かりました。後日、千代子にその夜の報告をすると、彼女が電話口で声を弾ませたのは言うまでもありません。

 

 一回目の「生命の危機」はその直後に身に降りかかりました。

 小学校一年の5月、九死に一生を得たのです。

 事件が起きたのは、5月10日でした。季節外れの暑さに私は子分たちに「川で泳ぐぞ」と言い、竜泉寺川に連れて行きました。今でこそ小さな川ですが、当時は”暴れ川”として知られ、子供だけでなく大人も泳ぐ水量の多い川でした。

「おかあちゃんがここは深いし危ないから泳いじゃあいかんと言っとったよ」

 と一人が言いましたが、私は意に介さず。やおら服を脱ぐと水の中に入っていきます。

「浅いぞ、浅い。ついてこい」

 と言いながら歩を進めます。実は当時、私はまだ泳ぐことができませんでした。浅瀬でパシャパシャやっているだけで泳げると勘違いしていたのです。

 ズボッ!

 と音がしたわけではありませんが、頭の中ではそんな音がして全身が水の中に引きずり込まれました。がむしゃらに手足をバタバタさせましたが、体は深み(駐在調べで9尺約2.7メートル)にはまっていきます。泳げなかったから当然と言えば当然です。

 人生で初めて死への恐怖を感じた瞬間です。必死にもがくうち、体がふいと浮きました。4本の救いの手が伸びてきたのです。

 記事にある年齢は、私を含めて間違いで、ふたりの命の恩人は4年生。私は1年生でした。(写真の新聞記事。もう一つ毎日新聞の記事があったのですが、行方不明デス)

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 またまた後日談ですが、それから60年後。故郷に戻った私は恩人に会ってお礼をしたいとお二人をたずねました。しかし、残念ながらお二人ともこの世の人ではありませんでした。

 鈴木さんのお宅には今もその時に授与された表彰状が一番目立つところに掲げられていました。それから墓参りをさせていましたが、つくづく「この方たちに命をいただいているんだな」と感じました。

 

 溺れかかった日から約半年後に再び生命の危機が訪れました。

 当時はとにかく食糧難。「欠食児童」という言葉が日常的に使われていた時代でした。田舎でも大して変わらず、腹を空かせた子供たちは野草や昆虫も口にしていました。川で撮れる魚特にウナギは最高級品。田んぼでタニシを、小川や池でザリガニを、また野原でバッタを捕まえてゆでたり煮たりして空腹を紛らわしていました。

 そんな状況です。いたずら盛りの私は常に何か口に入れるものはないかと周りを見ていました。

 近くのよろず屋(何でも売っている店)では、長火鉢が置いてある「上がり框(かまち)」で酒を提供していました。仕事帰りの男たちは、そこでちくわをあぶりながら、ちびりちびりと美味しそうに酒を嗜(たしな)むのです。「うっめえなあ」と言いながら飲むその表情に、「早く大人になってちくわを一本丸ごと食べたいな」と憧れのまなざしで見ていました。

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 そこで大人がヘボ(蜂の子)を食べている姿に触発された私は、小学校一年生の身で大胆にも近所の家にあったスズメバチの巣に挑戦してしまいます。

「ひとりでヘボを独り占めにしたい」と、長い棒を持って抜き足差し足で巣に近付いたところまでは憶えていますが、その後の記憶はありません。母親の話では全身を刺されて真っ赤にはれ上がったそうです。高熱を出して冨田病院に担ぎ込まれ、清先生(院長)の素早い手当で一命をとりとめました。

 そんな破天荒な息子にいや気がさした千代子は翌春から遠く離れた福岡中学に職場を移し、自転車で通うようになります。

「あんたは何をしでかすか分からないから、一緒の学校で働くことがイヤで嫌で仕方なかったの」――このセリフをこれまで何度聞かされたか分かりません。

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第6回 「馬車に揺られて聞く亡き父の話」

 小学2年生になると私のいたずらはさらに度を強くして村や小学校で我が物顔。周りの顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようです。担任の女性教師は新任でしたので、母に言わせると「あんたのせいでノイローゼ状態になった」そうです。

 それとは別に、私の父親像を求める想いは増すことはあっても弱まることはありません。父の話を求めて村中を聞いて回っていました。農作業に追われる村人たちには迷惑だったと思われます。ただ、中には温かいまなざしでつき合ってくれる大人もいました。そういう人にはしつこく付きまといました。

 特に、竜谷村から美合町に通じる幹線道路(と言っても、砂利道)を通る一台の馬車が私のお気に入りで、時には道端で待ち伏せすることもありました。遠くから"シャンシャンシャン”と鈴の音を響かせながら、車輪が砂利をかむ音を立てて馬車が近づいてくると、「あ、しんやさんだ!」と久仁臣少年の目が輝くのでした。

 

 しんやさんは、馬車の荷台に桑谷の山から切り出した木を積んで美合に向かっていき、帰りは荷台を空にして戻ってくる運送屋さんでした。

「よ、くんちゃん」

「しんやさん、乗せておくれん」

「もちろん。さあ、乗りん」

 いつもそんな簡単なやり取りをすると、私はしんやさんの隣に座り、「ハイドー!」と手綱を馬に振り下ろすしんやさんに合わせて「ハイドー!」と黄色い声を上げて砂利道を揺られるのでした。しばらくすると、しんやさんが定番の歌を歌います。

「陸軍の 乃木さんが 凱旋す すずめ ロシヤ 野蛮国 クロポトキン♬」

 その後に続く節が大好きで、そこから私も加わり、

「きんた~ま まっくろけ 毛が生えた たかしゃっぽ ぽんやり りくぐんの~」 

 と大声を張り上げます。

 

 しんやさんは父俊夫を憧れのまなざしで見ていたようで、

「おれなんか、俊夫さんにまともに話せんかった。憧れとったからね。若いころから相撲は横綱だったし、柔道や銃剣術もこの辺じゃあ右に出るもんはいなかったな。すごい軍人さんだったし、それにべっぴんさんをお嫁さんにもらって、もうそりゃあ手の届かん人だった。軍服姿を見かけただけで緊張したもんさ。でも、優しかったよ。こんな俺にもきちんとあいさつしてくれた。えばる(威張る)ひとじゃあなかった」

 と話してくれます。しんやさんは俊夫と親交があったわけでもなく、大した内容の話はなくて同じことを何度も何度も話すだけでした。それでも私はその話をしてくれるようしんやさんにお願いしていたのです。しんやさんも「くんちゃんはこの話が好きだなあ」と言いながら嫌がることなく繰り返し話してくれました。

 後日談になりますが、今から約5年前、しんやさんにお礼が言いたくて彼を探しました。ところが、桑谷や竜泉寺で聞いても不思議なことに彼を知りません。「そんな運送屋がいたっけ?見たこともないし、聞いたこともないよ」と言われてしまい、中には思い違いなんじゃないの?と言う人までいました。

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 もう見つからないのかと思い始めましたが、諦めずに探し回ってみました。すると、我が家の菩提寺である正道寺の水野住職が「ああ、その人は『鈴木伸也木材』ですね。そこなら山綱町にありますよ。でも伸也さんは亡くなられて息子さんが継がれています」と教えてくれました。製材所を継がれた息子の則幸さんは、電話をすると快く私の訪問を受け入れてくださいました。

 数日後、製材所を訪れると、則幸さんは家からしんやさんの写真アルバムをわざわざ持ってきてその日に備えて頂いていました。写真に映るしんやさんは、私の記憶にある「おじさん」ではなく、20代前半の若者でした。愛馬と共に写真に納まる姿は、年齢の印象こそ違うものの、間違いなく久仁臣が知るしんやさんでした。

 則幸さんの話では、しんやさんは大の酒好き。山から切り出した木を製材所に届けると、その足で飲み屋に向かい、浴びるように酒を飲んでいたそうです。しんやさんが飲みつぶれた日には、飲み仲間が彼を馬車に乗せ、馬の綱をほどいてやります。すると愛馬は主を乗せたまま歩き出し、人間の指示のないままに帰宅しました。とても楽しくて温かい雰囲気の中で"しんやワールド”を満喫できました。

 

 しかしそれから数日後のことです。

 「山綱町の木材加工店で火事」と全国的にTVで伝えられたのです。翌日行ってみると、呆然と火災現場に立ち尽くす則幸さんの姿がありました。声をかけるのもはばかられる雰囲気でしたので、しばらく声をかけずにいました。5分10分の時間が経過したと思います。則幸さんがこちらを向きました。

 こういう時の声掛けが不得手な私は、無言で不祝儀袋を渡しました。そしてそのままその場から立ち去ろうとしましたが、一点だけ聞きたかったことがありました。恐る恐る「見せていただいたアルバムは…」と尋ねました。

「焼けてしまいました」

 則幸さんはか細い声で吐く息と一緒に答えられました。

「僕のせいで申し訳ありませんでした。大切なものを失わせてしまいました」

 と謝る私に、身振りだけで"いいよいいよ”と答えられました。あくまでも想像ですが、失意のどん底にあった則幸さんには、それが精いっぱいの答えだったのでしょう。幸いにしてアルバムの写真を数枚写メしてあったので、翌日、プリントして届けさせていただくととても喜んでいただきました。

 則幸さんにしんやさんの信念が乗り移っていたのでしょう。それから半年後に訪れると、立派に再興して事業を継続される則幸さんの姿がありました。

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第7回 「母の背中」

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 これまでは母千代子に対する否定的な見方ばかりを書いてきましたが、もちろん彼女に良い面がなかったわけではありません。母が見せた「背中」は、私の「背骨」の一部となり、のちの私のヴォランティア活動や人とのかかわり方に少なからぬ影響を与えました。

 母の背中の見せ方で特に私に影響を与えたのは、他人への思いやりです。

 自分に余裕があるからではなく、逆にどんなに苦しい状況にあっても他人を思いやる母の姿勢は、いくら時間が経過しても風化することなく心に残り続け、繰り返しになりますが、私が成長するにつれじわじわとその良さが心に広がっていったのです。

 

 最初に千代子が背中を見せたのは、私が小学1年生の冬でした。これを書いている今、私の目の前にいるのがちょうど1年生の冬を迎える息子の駿仁ですから何か「あの頃」が無性に懐かしく感じられます。

 第二次世界大戦が終わってからもしばらく、町には傷痍軍人の姿がありました。白衣に松葉づえをついたりして歩く姿はあちこちで見られました。また、街頭でアコーディオンやギターを弾きながら物乞いをする姿もよく見かけました。しかし、(先ほど調べてみると)1950年頃になると街頭での物乞いが禁止されるようになり、彼らを苦しめました。そんな影響もあったかもしれません。私が住んでいた田舎にまで傷痍軍人の姿が見られるようになったのです。

 

 親子三人が夕食を終えてしばらくした時間でしたから午後8時ごろだったと思われます。

「こんばんは」

 玄関の戸を何者かが開けて家の奥に向かって声をかけてきました。そう。今でもそうですが、田舎の家は夜寝る時以外は玄関に鍵をかけません。

 男の声でしたが聞きなれたものではなく、私も興味本位で誰が来たかと母と一緒に玄関に行きました。目の前にいたのは、白衣こそ着ていませんでしたが、くたびれた軍服に身を包んだ傷痍軍人でした。どちらの腕だったか覚えていませんが、不自由でした。長く風呂に入っていないのでしょう。肌は薄汚れ、異臭を漂わせていました。

「少しでもいいです、何でもいいですから食べものをめぐんでいただけませんか」

 男の声には力が感じられず、しぼりだすような話し方でした。

「今食事を終えたところですから少し時間がかかりますが、おにぎりくらいなら…。お待ちいただけますか?」

 と言うと、ためらうことなく母は台所に向かい、かまどに火を入れてコメを炊き始めました。炊きあがると母は手を真っ赤にしながらいくつも握り飯をつくり、漬物を添えて竹の皮で包むと、そこに紙幣を入れた封筒を乗せて風呂敷で包みました。

 「え?何で?うちには余分なおカネなんかないのに」と口にこそ出さなかったものの、それを見ていた私には母の行動が不可解でした。当時の教員の給料は低く、のみならず遅配されることもしばしば。従って、古新聞を使って八百屋などで使う紙袋を作る内職をしていました。母は日常の中で「金欠金欠。おカネがない」と口癖になるほど言っていたので、家にはカネの余裕があるとは思えませんでした。

「少しですがおカネも入れておきました。それではお元気で」

 母は感情を顔に出すことなく、男に言いました。

 風呂敷を受け取ると男は嗚咽(おえつ)しました。言葉を詰まらせて深々とお辞儀をすると暗闇に消えていきました。私は、彼を見送って玄関の鍵をかけると家の中に戻っていく母の背中を見ていました。

 

 次に背中を見せたのは、それから数か月後のことでした。

 当時は豆腐屋が自転車の後ろに大きな木製の水槽のような箱を乗せ、そこに入れてきた豆腐を売り歩いていました。

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 ある日のこと。家の前で大きな音がしました。何事かと家から飛び出る母を追って私たち兄弟も外に出ました。

 道には自転車が転がり、大きな木の箱から豆腐が大量に散乱していました。その傍らには小柄なおにいちゃんが呆然と立ち尽くしていました。当時は高校に進学しないで中学を卒業するとすぐに店や工場に就職するのが普通でしたから、おそらく中学を卒業して豆腐屋で見習いをしていた少年だったのではないでしょうか。昔の運搬用の自転車は頑丈な作りで重く、明らかにそのおにいちゃんには手に負えるものではありませんでした。また、道路は未舗装ですから車輪をとられやすく、自転車に乗っている人が転ぶのは珍しくありません。

 少年は母を見た途端、大声で泣きだしました。

 母は多くを聞かずに「全部でいくらなの?」と少年に尋ねました。そして、金額を聞くと家に戻りカネを取ってきて少年に渡したのです。金額は憶えていませんが、私にとってはかなり多額に思えて、母の行動が信じられませんでした。また、家にそんなカネがあるのも驚きでした。

 そのように「背中」を見せても母から私たちに説明や相談はありません。子供たちはどんな状況でもただ見ているだけで見た現実を受け入れるしかなかったのです。

 

 金銭を伴う場面だけではなく、生活に大きな影響を及ぼすようなこともありました。

 小学5年生の時だったと思います。

 ある日、「お話があります」と言われて、兄と私は母の前に座らされました。

「これからスズキシロー君というおにいさんが家に来ます。どの位泊っていくかは分かりません。言葉に気を付けるようにしなさい」

 知らされた情報としては、母親がかつて竜谷小学校で5年生だったシロー君を一年間受け持ったこと。彼が家庭環境に恵まれず、中学を卒業してから仕事先などで受けるイジメや差別に耐えられず、幾度か自殺をはかったという話だけでした。

 異論を唱えたり質問をさせてもらえないまま、間もなくしてシローにいちゃんがイソーローとして姿を見せました。それから一緒に生活するようになったのです。

 移り住んできた時はお互いに軽い緊張もありましたが、シローにいちゃんは決して一緒にいて嫌な存在ではなく、それどころか将棋をやったりして遊んでくれるので、私は学校から帰るのが楽しみでした。数か月して「元気になったので」と言っていなくなった時は寂しさを感じたものです。

 それからしばらくして、母からとても悲しい知らせを聞かされました。

「シロー君は新しい仕事をし始めたんだけど、そこでもまたイジメられて汽車の中で服毒自殺をしてしまいました」

 小学生にはとても厳しい現実を突きつけられたわけですから、丁寧な話し合いとか説明が必要でしたが、母にはそんな余裕はなく、ただ事実関係を伝えられただけでした。

 

 そんなことがあったのに、しばらくすると今度はまたイソーローが家に来ることになりました。

「〇〇さんは旦那さんに離婚させられたんだけど、ご両親が出戻りを許さないから泊るところが無いんだって。だからしばらく家においてあげます」

 出戻りとは、離婚して実家に戻ることです。〇〇さんの実家は、当時小学生でも知っているような有名な会社です。そうと聞かされ、「そんな金持ちがなんで貧乏なわが家に?」と思いましたが、とにかく母が家長です。家長が絶対な時代にあって口答えは許されません。

 シローにいちゃんの時とは違って〇〇さんがいる毎日はけっして楽しいものではありませんでしたが、それなりに対応していました。

 約60年後、〇〇さんの甥がFacebookで私に友達申請を送ってきました。それに対して、私はイソーローばなしを書き、よろしくお付き合いをお願いしたい旨の返事を書きました。しかしながら、残念なことに、彼はその話には一切触れずに「よろしくお願いします」とだけ書いたメイルを送ってきました。

 母にその話を伝え、〇〇さんのその後を聞くと、「あの子はかわいそうだったね。何一つ悪いことをしたわけでもないのに結局実家に入れてもらえなくて、今も寂しく施設に入っているよ」とのことでした。

 

 こういった母が見せてくれたぶれない姿勢は「あの時代」ならではのものではありますが、今に通用しないものではありません。これからも困難に直面した時などに思い出しながら道しるべのひとつとして活用させてもらおうと思っています。

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第8回 「破られた父の絵」

 太平洋戦争の終結とともに日本に上陸した米軍主導の占領軍は「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」との正式名称でしたが、一般的には進駐軍と呼ばれていました。

 進駐軍が持ち込んだ「平和の風」は、1947年に施行された日本国憲法に象徴され、日本国民に安堵をもたらしました。「戦争の放棄」のみならず「戦力の不保持」までをも世界に誓い、それを喜んだ若い夫婦は、生まれてくる我が子に憲法の一字をとって「憲治」「憲子」などと名付けました。憲法施行に合わせて「憲法音頭」という歌も作られたほどです。

 しかしながらその安堵も長続きはせず、進駐軍が主導した労働組合運動つぶしのすさまじさに民衆は恐れおののきます。さらに1950年に勃発した朝鮮戦争や日を追って厳しさを増す東西冷戦構造に「第三次世界大戦」を覚悟した人も少なくありませんでした。竜谷のような田舎でもいつ進駐軍が来るかもしれないと、女性たちの井戸端会議にその話題が上るようになりました。それを耳にする子供たちは、進駐軍という得体のしれない存在を恐れていました。

 

 小学1年か2年の頃、ある日家に遊びに来た年上の女の子たちに、くにおみは父俊夫の描いた絵を「僕のお父ちゃんはこんなに絵が上手だったんだ」と見せていました。

 それは、妻子と再会した俊夫が、よちよち歩きを始めた兄義澄の様々な仕草を描いたものでした。そこから俊夫の喜びがくにおみに伝わってきます。私は慈愛に満ちたタッチで描かれたこの素描(すびょう)が大好きで、何度手にしたか分かりません。

「くんちゃん、これはいかんよ(だめだよ)」

 絵を手にしたひとりの子が絵の裏を見てそう言いました。

「進駐軍に見られたらつかまっちゃうよ」

 と脅すのです。

 紙がなかなか手に入らない時代です。俊夫は、持っていた陸軍の飛行機が映るブロマイドの裏に絵を描いていたのです。確かに、写真には戦時中、米軍や中国を相手に戦っていた大日本帝国陸軍の主力戦闘機や爆撃機が映っていました。

「すぐに全部破ろまい(破ろう)」

 今となってはどの子がそう言ったかは覚えていません。

 頭の中が混乱状態になりました。僕の大事な宝を破る?そんなことは嫌だ。でも、進駐軍が来たらどうしよう?

 「善は急げ」とばかりに、戸惑う私を無視して女の子たちはビリビリ絵を破り始めました。数にして10枚はあったと思います。

 

 それは残酷な光景でした。泣き出したくなる気持ちを歯を食いしばって抑えていたと思います。私の心の中で、俊夫はいつも頭の真上で私たちを見守ってくれていました。写真が破られるのを呆気に取られて見ていたくにおみは、一瞬ですが、俊夫がどこか遠くへ行ってしまう錯覚に襲われました。

「わたしたちがどっか分からんとこにほかっといたげる(放っておいてあげる)から心配せんでいいよ」

 女の子たちはそう言うと、出て行きました。

 あまりのショックに言葉を失ったくにおみは、呆然と彼らの背中を見送りました。視線を落とすと、先ほどまで写真が貼られていた小さなアルバムが畳の上にありました。涙も出ないほどの悲しみに包まれました。その時の涙が今、これを書いている時に頬を伝っています。

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第9回 「本多家の人々」再会

 「新しい家を見に行きます」

 竜谷村から約7キロ離れた福岡中学に転勤した数か月後、母は私たちにその理由を言うことなく転居話をしました。

 気難しい兄はぶつくさ言っていましたが、私は大賛成でした。それは、住んでいた家に男衆が夜な夜な来ては母親に言い寄っていたからです。大体は酒の勢いを借りて来て母にまとわりつきます。そんな嫌な光景を目にしたくなかっただけに私は喜んで賛同しました。 

 新しい家と言っても中古住宅です。しかも戦後のどさくさに建てられた分譲型の市営住宅で、2軒でひと棟。見てくれはそれなりのものでしたが、内覧をすると、部屋の数も6畳と4畳半のふた間だけだし、いかにも安普請です。風呂もなく魅力に欠けます。

 

 母の顔が曇りかけたように見えました。

 ところが、家の持ち主が「お隣の本多さんです」と家に入ってきた隣人を紹介した時から状況が一変します。

「まあ、齋藤さんじゃないの!」

 入ってきた隣人に旧姓を呼ばれた母は、相手に反応します。

「え、かをるさん?!」

 ふたりはなんと高等女学校の同級生でした。まるで女子高生のように手を取り合ってはしゃぐ姿は、それまでに見せたことのない母の一面でした。

「私ねえ、職業軍人と結婚して北鮮にいたの。上の子も向こうで産んで…」

「私は満州。旦那が満鉄に勤めてたんだけど…」

 とガールズトークは止まりません。

 ひとしきり話をすると、「ねえ、一緒に住もう。力を合わせていこうよ」とかをるさんから誘いがありました。母も「そうね。そうしよう」と自分に言い聞かせるように同意しました。

 

 かくして私たちの移転先が決まりました。

 それは浅井家にとって後々大きな幸運をもたらす運命的な出会い、転機となりました。

 本多家の家族構成は、街中で小さな本屋を営む喜久治さんと妻のかをるさん。それに3人の子供でした。喜久治さんは豊富な知識の持ち主でユーモアのセンスがあるおじさんでした。本屋と言っても、古くなったり傷んだりした図書館の本を整えることが主な仕事のようでした。市内の学校を周り、古くなった蔵書の修理をするわけですが、いわゆる"サムライ商法”で、失礼ながらあまり稼ぎはよくありません。でも、暗い影を見せることなく、いつも冗談を言って周りを和ませ、なおかつ私にはいろいろなことを教えてくれる“物知り博士”でした。

 

 私にとっての忘れもしない喜久治さんとの思い出と言えば、「サボ事件」です。

 千代子はくにおみにカネを持たせて床屋に行かせようとしますが、くにおみはそのカネをお菓子に変えてしまいます。困った千代子は新発売のサボと名付けられた頭髪用のカミソリを買ってきました。私を庭に連れ出し、それを手に髪の毛を切り始めました。ところが、千代子はその使い勝手がよく分からずに思案投げ首状態。すると、そこに喜久治さんが通りかかります。

「おっ、くにちゃん、ついに捕まったな。なんだそれ?そうだな。それはね、貸してごらんなさい。こうやって使うんですよ」

 喜久治さんはお得意の物知り顔でサボを持つと私の後ろに回り、髪に当てて勢いよく梳(す)きました。

「あっ!」

「アッ!」

 喜久治さんと千代子の声が同時にしました。

 頭に伝わる感触と「ザッ」という音、それにふたりの息をのむ声で私にも状況がつかめました。その後、ふたりが懸命に修復を図りますが、素人のやることです。ますます状況が悪化しました。

「こりゃああかんね。くにちゃん、床屋へ行こう」

 喜久治さんは私を車に乗せて床屋へ連れて行きました。結局、床屋でも手の施しようがなく、くにおみは丸坊主にされてしまいました。

 そんなことがあっても、喜久治さんはうらおもてがなく、どんな時にもひょうひょうと余裕の表情でした。 

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 妻のかをるさんは体の中から優しさがにじみ出ているような人でした。

 私が肺結核になった時も、(退院後でしたが)いやな顔一つしないで家に受け入れて、自分の子たちと分け隔てなく面倒を見てくれました。

 ところが、我が家は周りからは白い目で見られていたようで、そんな周囲の目を気にすることなく友人の家に上がり込むくにおみに、千代子は苛立ちを覚えたのでしょう。「あんたは近所でどんな目で見られてるのか分かってるの?他人の家に上がるのはやめなさい」といさめたことがあります。

 それだけに、かをるさんの優しさがひと際くにおみの心をつかみました。ご実家が寺ということを聞いており、「お寺の人はみんな優しい」と子供心に思い込んだものです。

 千代子は1960年に新設された城北中学校で勤めるようになると、毎夜のように終バスで10時過ぎに帰宅していました。

 母から注文を受けた八百屋が肉屋、魚屋と回り品物をそろえて配達してくれていました。かをるさんはそれを自分の家の食材と合わせて全員の夕食を作ってくれたのです。寂しがり屋のくにおみにはおいしい食事もさることながら、大人数で食事ができることが嬉しくて仕方がありませんでした。

 「いつもおいしいご飯をありがとう」と礼を言う我々きょうだいの気持ちをくんで「うちはあんまり肉が買えないのよ。一緒だと肉が食べられるからこちらこそありがとう」と言ってくれるかをるさんは、私の成長にとても重要な存在だったのです。

 隣家に同世代の子供たちがいたのもくにおみにとっては幸運でした。三人のそれぞれが温かい付き合い方をしてくれ、その交流は2021年現在も続いています。

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第10回 「本多家の人々」ともしび

 本多家の長男の康希(こうすけ)さんは3歳年上の5年生。長女の順子さんは同学年。そして次女の厚子さんは2、3歳年下でした。それぞれを、こうちゃん、じゅんこ、あつこと呼び、私はくにちゃんと言われていました。

 こうちゃんは、当時からくにおみの憧れの存在。同じ歳の兄よりも強く意識していました。成績も優秀で、岡崎高校から名古屋大学理学部に進み、そこから神戸大学の大学院に行きました。

 小学校か中学校だったかは覚えていませんが、勉強部屋どころか勉強スペースもなかったので、こうちゃんは押し入れに裸電球を持ち込み勉強していました。その姿に影響された私は真似をしたかったのですが、母と兄は「目が悪くなる」と猛反対。断念しました。

 中学生時代は警察沙汰になるようなこともしており、それがまた格好よく見えたものです。高校では柔道部に入り、ますます眩しく輝いて見えました。

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 ある日、「くにちゃん、大平川に泳ぎに行こまい」とこうちゃんから誘われました。時は2月の特別寒い日でした。

 ふたつ返事のくにおみに、こうちゃんは「ほんじゃあ、風呂を沸かしていこう」と外に出ていきました。やり取りを聞いていた兄は「風邪引くぞ!」と神経質な表情を見せて小声で言いましたが、くにおみは意に介さず、こうちゃんと自転車に二人乗りして川に向かいました。

 現場に着くと、そこは吹きさらし。とても水の中に入れるような風景ではありません。

 「ヨシッ!」武者震いをしながらふたりは服を脱ぎだしました。

 そこに居合わせたひとりのおじさんが目を真ん丸にして「若いっていいなあ」と励みになる言葉をかけてくれました。その人は近くで馬を飼っており、時折りその辺りで馬の散歩をさせている姿を見かけていました。

(※数日前、この記事を書くために現場に足を運ぶと、そのお孫さんが馬を散歩させていました! 主に神事用に使う馬だそうです。)

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「ありがとうございます!」

 ふたりは、おじさんにそう言うが早いか、水に飛び込みました。

 しばらく泳いでいるうちに体も慣れて来て、魚を追いかけて潜ったり、飛び込んだりしていました。しかし、30分近く泳いで近寄ったふたりは、互いの顔を見てビックリ!こうちゃんの唇は真っ青でした。こうちゃんから見た私の唇も真っ青。ふたりとも歯がガチガチ音を立てています。

 再び自転車に乗って家に戻り、ふたりは仲良く風呂にザブンと入りました。湯のありがたさが体の芯にまでしみるようで60年経った今でもその感覚は(錯覚でしょうが)体に残っています。

 

 こうちゃんは大学院を出ても在学中の学生運動歴が影響して就職先がありませんでした。帰郷してブラブラしている彼を、千代子は自分が勤める中学校の校長に掛け合って臨時採用教員に導きました。

 そこでこうちゃんは運命的な出会いをします。同僚の英語教師と結婚。そして彼女の父親がこうちゃんに誘い水を向けたのです。「今から勉強をし直して医者にならないか」と。

 今でこそ「高齢受験」をする人がいますが、当時の日本の大学受験に対する考え方は違いました。こうちゃんは大学受験をする“適齢期”をはるかに過ぎていたのです。しかも超難関の名古屋大学医学部を相手にしての挑戦。非常に珍しいことでした。

 挑戦の結果は…

 見事合格しました。地元の中日新聞は「29歳の挑戦」を大きく報じました。

 こうちゃんはその後、呼吸器科の名医になり、私が関東にいた頃も遠隔地でしたが、信頼のおける主治医。実際に何度も(経営する英会話学校のスタッフで)助けていただきました。そして2012年に帰郷してからは、妻の直子や息子の駿仁の頼れる存在になっていただいています。直子はこうちゃんを「神」と呼ぶほどの信頼ぶりです(笑)。

 

 じゅんこは、同学年というばかりか、小中高と同じ学び舎に通いました。相手が優しくておとなしいのをいい事に、勝手に妹のように扱い、料理を作らせたりしました。

 とてもしっかりした子で、高校時代からアルバイトをして家計を助け、大学も授業料の格安だった愛知学芸大学(現愛知教育大学)に進み、理科の教員になりました。後になって、「千代子先生に憧れて教員になった」と聞いたので母に伝えると、千代子は目を細めて喜んでいました。

 あつこは年が離れていたこともあり、猫好きの甘えん坊のかわいい子というイメージしか残っていませんでしたが、我が家に遊びに来た医者の奥方と話している内に、あつこがその医者の下で長年勤めていたことが判明。ここでもまた強い縁を感じました。

 

 人好きのくにおみです。我が家がTVを購入して、毎週日曜日7時過ぎに本多家の5人が「テレビ見せてえ」と来てくれるのが嬉しくて仕方がありませんでした。少なくても8人。多い時には10人を超える人間が、対角線で言えば35.6センチの小さな箱に見入る光景は今から考えても微笑ましいものです。

 NHKの大河ドラマは1963年に始まりました。第一回目の『花の生涯』のテーマ音楽を作曲したのは、“われらが”冨田勲さんです。勲さんの実家の冨田病院にはほとんどがお世話になっているわけですから、目を輝かせて画面を食い入るように見つめ、壮大な音色に胸躍らせていたはずです。

 このように両家の往来は多く、5人はまるできょうだい。本当に仲の良い関係が出来上がっていきました。それまで不遇をかこっていたくにおみにとって、この環境は理想的。暗い幼少期に灯されたともしびでした。

 

 しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。

 小学2年生の冬。胸が苦しくなることが多くなり、痛みに耐えかねて母に訴えました。最初は相手にされませんでしたが、痛みが深刻なものであることを子供心に一生けんめい伝えると母の顔色が変わり、冨田病院に連れて行ってもらいました。

 診断はすぐに下りました。肺浸潤(肺結核)でした。

 そのまま感染病棟に収容された私は、それから半年間入院することになります。

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第11回 「結核病棟生活と新聞」

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 入院生活は退屈そのもの。

 結核は法定伝染病です。

 外出も許されず、遊び相手もいなくて育ち盛りのくにおみは最初、時間を持て余して病棟内を行ったり来たり。今のようにゲームが豊富にあるわけではなく、日がな一日ため息ばかりついていました。ただ、冨田病院の建物は、江戸時代には“お代官様のお屋敷”だったものです。中庭で遊ぶことができたのでそれが貴重な息抜きとなりました。庭に寝転がり、空を飛び交うジェット戦闘機(小牧と浜松に自衛隊基地がある)とその飛行機雲を見ながら、新聞記者として活躍する自分の将来を夢見ていたのです。

 

 そう夢想する内。

「そうだ。新聞記者になるんなら新聞が読めんといかん」

 と思い立ちましたが、残念ながら天才肌ではありません。また、勉強を好むタイプでもなかったので、8歳になっても読める漢字の数はかなり限定的で新聞を読むのは至難の業。そこで思いついたのが、暇を持て余していた患者のおじさんたちに教えてもらうことです。当時はTV放送はなく、ラジオのみ。そのラジオ放送も選択肢は少なく、大人たちは病棟内にある新聞を競って読んでいました。

 人たらしの面があったことに加え、小児はひとりだけでしたから、くにおみは人気者でした。それをいい事に新聞を読んでいる大人の膝にちょこんと座り、「これ、なんて読むの?意味は?」と聞き続け、徐々に新聞を読めるようになっていきました。

 それが日常化してしばらくした頃。

 中庭に向かって縁側に座り、新聞を読んでいる若い男性患者の背中に「〇〇さん」と言いながら抱きつきました。

“うるさい!”

 怒声と共にくにおみの体は宙に浮き、中庭に転がされました。

 想像だにしなかった展開にくにおみは泣くことも忘れて〇〇さんを庭から見上げました。目に入ってきた〇〇さんの表情は、いつもの優しいおじさんではありません。でも、彼自身もそんな自分に耐えられなかったのでしょう。悲しそうな顔をしてその場を立ち去りました。

 記憶にあるのはそこまでで、その後どうなったかは覚えていません。今思うに、彼は入院生活を送る中で苦悩していたのでしょう。そんな“オトナの事情”など分かるはずもなく、くにおみは〇〇さんを恨み、それからは彼に近づくことはありませんでした。

 

 数か月で新聞に書かれている内容を大方理解できるようになったくにおみは、母に新聞購読をねだりました。

「まだ早いです。それよりも学校の勉強をしなさい」

 予想通りの返事でしたが、相変わらず学校の勉強には手を付けませんでした。

 入院期間は約半年。退院してからもくにおみは新聞を読み続けました。幸いにして、我が家は新聞や雑誌(サンデー毎日や暮らしの手帖)を購読していたのです。

 優等生タイプの兄義澄は、「そんなに毎日何時間も新聞を読んでるんじゃない。勉強しろ!」と私から新聞を取り上げたり、隠したりするようになりました。母千代子も勉強をするようにとうるさくは言いませんでしたが、新聞を読んで遊んでいると思ったらしく、くにおみを温かい目で見ることはありませんでした。

 教育者である母の子供に対する姿勢は、当時の流れそのもので欠点探しが基本でした。つまり、「何でも疑ってかかる」姿勢です。それゆえ、担任や周囲(母や兄)に叱られてもかたくなに宿題を拒み、漢字の書き取り練習をする姿さえ見せたことのない私が試験で高い国語能力を見せることに、疑いのまなざしを向けてきました。

 

 5年生の時だったと思います。

「座りなさい」

 千代子がこういう時は、子供に有無をいうスキはありません。ちゃぶ台で彼女に向き合いました。

「今から私が言う漢字を書いてごらんなさい」

 と言うと、千代子は次々に単語を言いました。そんなに難しい漢字ではなく全てを書き終えました。千代子の表情が少し緩みました。

「あんた、どこで漢字を覚えたの?」

「だって、僕は毎日新聞を読んでるじゃん。こんくらいの漢字なんかお茶の子さいさいだよ」

 そう答える私に珍しく柔らかい表情を見せました。後年、千代子は「書き順なんか無関係。あんたは絵を描くように漢字を書いたわね」と述懐しました。

 

 入院生活は辛いものでしたが、そういった収穫をもたらしてくれました。それだけではありません。他にも大きな贈り物をもたらしてくれました。次回は「世界的音楽家冨田勲との“出会い”」を紹介します。

(*写真は『冨田病院 開業110周年記念誌』から拝借いたしました。)

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第12回 「冨田勲との“出会い”」

「清先生も大変だのん。勲さんが慶応に入って医者になる勉強をしとると思っとったのに、音楽をやっとったげな」

 入院して間もなくの頃でした。患者たちは火鉢を囲んで手を当てながら、そして時折、炭を火箸でいじりながら日なが一日何かと噂話に花を咲かせていました。その時に出てきた話です。

「ねえねえ。いさおさんって誰?」

 まだ小学三年生になる前だったと思いますが、何か聞き捨てならない空気を感じて、くにおみは大人の会話に首を突っ込みました。

「勲さんは院長先生の長男さんだよ。清先生は勲さんをお医者にさせたくてわざわざ県高(岡崎高校を当時の人たちはそう呼んだ)から東京の慶応高校に移らせて、そこから慶応大学の医学部に入れようとしたんだよ。でも、勲さんは言うことを聞かん人だから、親に逆らって文学部で音楽を勉強しとらした」

 患者の一人がそう説明してくれました。

 以下は、その場で患者たちから、また後年現病院長の冨田裕さんから、それに他から知り得た情報などを総合したものです。

冨田勲さんの生い立ち

 冨田清先生は若い頃には紡績会社「鐘紡」の嘱託医として東京や北京で働いていたそうです。当時6歳だった勲さんは、ある日清先生に連れられて北京市天壇公園にある『回音壁』の前に立ちます。

 「思いがけない方向から聞こえてくる不思議さに魅せられた」と勲さんが述懐しているように、回音壁に「音楽との運命的な出会い」を感じた勲さんは、帰国して実家の冨田病院に戻ってからも戦時下でしたが音楽に熱中、「ピアノを弾き続ける少年」になりました。

 1945年1月13日深夜、愛知県の三河湾を震源とする「三河地震」が起き、1,961人の死者(気象庁調べ)を出しました。冨田病院には多くの負傷者が運び込まれました。また同年7月には米軍の空襲により岡崎市の中心部が焼かれ、この際も病院は阿鼻叫喚の現場となり、勲少年は強い衝撃を受けます。それが後になって『イーハトーヴ交響曲』の作曲に力強く影響したと、勲さんは話されています。

 先に書いたように、清先生は地元岡崎高校に進学していた勲さんをわざわざ東京の慶応高校に転校させます。長男の勲さんを慶応大学医学部に入れて「医者への道」に進ませようとしたのです。そんな親の目論見もなんのその、勲さんは上京するやいなや、自分で師匠(平尾貴四男小船幸次郎弘田龍太郎)を見つけて作曲の勉強を始めました。つまり、親の言うことを聞くふりをして一応慶応大学には進みましたが、端(はな)から医学部に入るつもりはなく、文学部に籍を置いていたのです。患者が噂していたように、文学部で音楽を勉強していた訳ではありませんでした。

 勲さんの“わがまま”で犠牲を被ったのは弟の稔さんでした。現病院長の裕さんの話では、「父(稔さん)が言うには、当時慶応高校の生徒であれば願書に『医学部』と書けば入れたそうです。だから、稔の進学時には、祖父はわざわざ上京して目の前で本人に入学願書を記入させました」とのことです。

 

 勲さんが音楽の才能を発揮するのに時間を要しませんでした。1952年、大学2年生で朝日新聞社主催の全日本合唱連盟コンクールに応募した作品、合唱曲「風車」が1位になりました。当時はこういったコンクールは少なく、それだけに注目度も高く、すぐに親に知られることになります。

 勲さんの一連の"裏切り行為”が清先生の逆鱗に触れたことは言うまでもありません。父子関係も一時かなり危ういものになったようです。

 患者のうわさ話から「こんな親への反発の仕方もあるのか!」と“イケナイにおい”を感じたくにおみは、8歳にして、のちに「世界のイサオトミタ」になる冨田勲さんに興味を抱き、まさに“星”のごとく仰ぐようになりました。それからは、勲さんが小学生の頃に機関車ごっこをしていたと聞いた庭の片隅で、ひとり木片を並べて遊んだりしたものです。約半年の入院生活を終えてからも、新聞や雑誌で勲さんの記事を読むと、ひとり興奮していました。 

 患者さんたちから「火鉢トーク」を聞いた翌年、1956年11月から12月にかけてメルボルン五輪が開催されます。このときの日本女子体操チームの演技の伴奏曲を書いたと新聞で知ったくにおみは、我が事のように喜びました。記憶は定かではありませんが、近くの家のTVか、映画ニュース(映画館では二本映画を見られ、その間にニュースが上映された)で、勲さんのメロディを聴いて心を躍らせたものです。

 画面から流れてくるメロディにある種の満足感を覚えたのか、その後しばらくは特に勲さんを意識することはありませんでした。

 

 ただ、1950年代後半だったと思いますが、母千代子が勤めていた岡崎市立福岡中学校の校長から「冨田病院と縁があるなら冨田勲さんにうちの校歌を書いてくれるよう頼んでくれんかん?」と頼まれたと聞かされました。

 後に勲さんが世界的な音楽家になるとは夢にも思わなかった千代子は、気軽に清先生にお願いしてしまいました。

 そうしたところ清先生は「お安い御用。頼んどくでね」と快諾したと母は言います。しかも「勲さんにいくらカネをあげたか」と聞く私に、「『そんなもんいらん』と清先生に言われてお言葉に甘えた」と悪びれずに言う千代子の言葉に唖然としました。「勲さんが可哀想」と思ったのです。

 福岡中学が校歌を作ってもらったと聞きつけた幾つもの学校や町や村が作曲を依頼したと聞くと、「そんなもので勲さんに時間を取らすなよ」と怒りに近いものを覚えました。

 しばらくして再び「冨田勲」の名前を意識するようになったのは、NHK大河ドラマの第一作『花の生涯』の制作発表の記事を読んだ時です。なんと、勲さんが番組のテーマ音楽を担当することになったのです。大河ドラマは、NHKが「映画に負けない大作」を目指して始まった大型娯楽時代劇です。実際、「日曜夜の顔」として半世紀以上、今も国民に愛され続けています。

 『花の生涯』は、まさに鳴り物入りで1963年4月に始まりました。内容は激動の幕末を舞台に活躍した大老・井伊直弼の生涯を描いたものです。オープニングテーマは圧巻。くにおみはその番組同様(高校)一年生。新しい環境を迎えた時期で、それも相まって第一回目が始まった時には、TVから流れてくる音楽に大きな胸の高鳴りをおぼえました。「僕の勲さんが活躍している」……誰に言うわけでもなく、知られるわけでもなく、ひとり悦に入っていました。

 

 それを機に勲さんは、CMやアニメ、TV番組のテーマ曲と幅広く活躍。売れっ子作曲家への道を歩み始めました。大河ドラマもその後4回担当することになります。

 しかし、世の中はやがて全共闘運動が吹き荒れ、血気盛んな私の最大の関心事は政治的なものに変わっていき、いつの間にか勲さんのことを忘れていました。

 勲さんが再び僕の前に“現れた”のは1975年のことになります。

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第13回 「冨田勲との“別れ”」

冨田勲 1.jpg

 1975年初春。ところは、有楽町。

 朝日新聞社本社(現有楽町マリオン)の6階にあるAP通信社アジア総局内のニューズルームで編集会議が行われていました。会議を仕切るのは、編集長のEd White。ヴェトナム戦争で数々のスクープをものしたAPの名物記者です。

「Isao Tomitaという音楽家がグラミー賞に3部門でノミネートされたそうだ。NY(本社を意味する)が言うには、彼はいま東京にいるらしい。つかまえてインタヴューしてくれとのリクエストだ。誰かやってみるか?」

 当時は社内でも喫煙が許されていました。Edはパイプたばこをくゆらせながらわれわれ記者を見渡しました。

「私、彼のファンだから取材に行きます」

 隣に座ったKathyが挙手をしました。彼女(Kathryn Tolbert)はのちにワシントン・ポストのコラムニストになりますが、当時はまだ見習い記者でした。

「Isao Tomitaって誰?」

 なぜか気になった私は彼女に聞きました。

「知らないの?日本人の作曲家で、シンセサイザーという新しい楽器を使って素敵な世界観を創り出すの。『Snowflakes Are Dancing』というタイトルのアルバムがビルボードのクラシック部門で1位(後で調べると、この時点では2位)になるほどよ。私の友達でもファンは結構いるわ」

 グラミー賞は米国人を対象にするものと勘違いしていた私は、Isao Tomitaなる人物が私の憧れ続けていた冨田勲さんだとその時になってようやく気付きました。

 先輩たちは誰もが新人記者の彼女に話を譲ろうという雰囲気でしたが、私は、

「Ed、その人だったら僕が憧れ続けてきた人だからインタヴューしたいです」

 と手を挙げました。Edの提言は、

「そうか。ではじゃんけんで決めれば?」

 普段はじゃんけんに強い私ですが、でもその時は負けてしまいました。

「Kathy、僕がカメラマン役をやるから連れてってよ」

 どうしても勲さんにインタヴューしたくて私がそう言うと、

「それはダメでしょ。あなたはカメラマンじゃないのだから」

 と、つれない返事。

 確かに彼女が言うように、米国社会では職務・役割の区別が明確です。私のやり方はカメラマンの職域を荒らすことになりかねないのです。そう言われて泣く泣く諦めました。

 

 取材から帰ってきたKathyは、

「思っていた通りの素晴らしいクリエイター。それにすごくいい人。おそばをごちそうになったわ」

 と自慢げに報告してきました。

 「そりゃあ良かったね」と言ったものの、その悔しさは到底言葉に表現できないもので、おそらくKathyから見た僕の表情は引きつっていたはずです。

 

 その年、残念なことに勲さんの『Snowflakes Are Dancing』(邦題:月の光)は、ノミネートされたグラミー賞三部門のいずれも受賞を逃しました。しかし、注目度は高く仕事の依頼が殺到します。中でも、フランシス・コッポラ監督が映画『地獄の黙示録』の音楽担当を依頼してきたことは有名な話です。RCAレコードとの契約が邪魔をして実現しませんでしたが、同作品が世界的ヒットをしただけに、実現していたら勲さんがどんな世界を描いたのかと思ったファンも多かったに違いありません。

 

 余談ですが、その年のGrammy賞「最優秀アルバム部門」の栄冠はスティーヴィー・ワンダーに輝きました。

 勲さんはスティーヴィー・ワンダーと親交があり、2016年に他界した勲さんの告別式にはスティーヴィーが追悼ヴィデオメッセージを送ってきています。あくまで私の想像の域を出ませんが、ふたりの親交は1975年の授賞式(勲さんが出席していたら、の話ですが)がきっかけだったのではないでしょうか。

 

 そこから勲さんの快進撃は続きます。

 1975年発表の『展覧会の絵』は、同年8月16日付けのビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM(全米レコード販売者協会)同部門最優秀クラシカル部門2年連続受賞、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞しました。同年9月発表の『火の鳥』は1976年3月20日付けのビルボード全米クラシックチャート第5位、同年12月20日発表の『惑星』も1978年2月19日付けのビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされました。「宇宙3部作」の第3作目である『バミューダ・トライアングル』(1978年発売)では発売翌年のグラミー賞で "Best Engineered Recording"に2回目のノミネートをされています。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のノミネートをされました。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、勲さんのアルバムはいずれも世界的なヒットを記録しています。

 Isao Tomitaはレコードの世界にとどまらず、1979年に日本武道館で開催したピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』を機に広大な空間に翼を広げます。

 1984年にオーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空(ヘリコプターを使用)一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント『トミタ・サウンドクラウド(音の雲)』と銘打ったコンサートを催して世界を驚かせました。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演しました。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いてニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に音楽を通じて世界平和を訴え続けてきたのです。

 

 これはまさしく私が勲さんに求めていた姿でした。戦火(岡崎空襲)や自然災害(三河地震)を体験し、その体験を自らが作り出した音に乗せて世界平和へアピールする姿は私にとってのヒーローそのものでした。

 それだけに2012年、故郷に活動の場を移した私は、勲さんの功績を後世に伝える場づくりをしたいとの考えに至りました。

 その年、第11代岡崎市長に就任した内田康宏氏を表敬訪問した際、「岡崎市で『Isao Tomita Museum』を造りませんか」と提案しました。提案した直後は「それは盲点でした」と膝を乗り出した内田氏でしたが、しばらくして再度市長室を訪れると、「あまり客を呼べないのではないですかね」と腰が引けていました。

 だからといって簡単にあきらめる性質ではありません。それからは市内外の有力者に会うたびにこの話題を持ち出しました。勲さんの実家である冨田病院を訪れると、既に冨田裕病院長にも私の動きが伝わっていたようで歓迎していただきました。しかしながら、病院長から私の動きを伝え聞いた勲さん本人は「そういうものは私が死んでからにしてくれ」と返事をしてきたそうです。その反応にもまた、私は「勲さんらしいな」と満足でした。

 

 老境に入っても勲さんの創作意欲は衰えを見せず、80歳になった2012年に壮大な交響曲を完成させます。その新たな世界に挑戦する勲さんの姿をNHKのカメラが追いかけていました。

 以下は、NHKの番宣です。

  日本を代表する作曲家の一人、冨田勲さん(80歳)。自身の集大成となる「交響曲」を作曲しました。その名も「イーハトーヴ交響曲」。テーマは、冨田さんが長年描きたいと思い続けてきた、作家・宮沢賢治の世界です。賢治の4次元的・宇宙的な世界観を、どうやって音楽で表すか。悩んだ末、冨田さんが思いついたのは、なんとインターネットの動画サイトで大人気のバーチャル・シンガー“初音ミク”の起用。こうしてオーケストラと初音ミク、200人の合唱が奏でる、前代未聞の壮大な交響曲が生まれることに。その5か月に及ぶ制作過程に密着。なぜ宮沢賢治の世界に初音ミクなのか。そして、交響曲誕生の裏に秘められた、賢治の「雨ニモマケズ」をめぐる10年越しの約束とは。みずからも少年時代に大地震に被災したという冨田さんが交響曲に託した、東北の被災者への思いとは。人生の集大成だ、という「イーハトーヴ交響曲」に込められた冨田さんの思いに迫ります。

 10年かけて大作を完成させた勲さんがTVカメラの前で「最終段階で苦労していた私の背中を押して完成させてくれたのは東日本大震災でした」といった趣旨の発言をされましたが、それは私なりの解釈ですが、少年時代に三河地震の直後に実家の病院で見た記憶が勲さんの中でよみがえり、力を与えたという意味だったのではないでしょうか。そう話す時の勲さんの瞳はまるで少年のように輝いていました。

 「イーハトーブ交響曲」を完成させた後も前に進むことをやめない勲さんは、『ドクター・コッペリウス』と題するバレエ作品に取り掛かっていました。2016年春の近親者からの報告では、「完成まであとわずか」という話でした。

 しかしながら2016年5月5日、突然の訃報が入りました。レコード会社との打ち合わせを済ませ、好物のうなぎを食べた直後に倒れ、そのまま数時間で帰らぬ人となったそうです。

 幾度か会う機会があったのに、ついぞ一度も言葉を交わすことなくこの世を去ってしまわれた冨田勲さん。それはそれでとても残念ですが、8歳の頃から憧れ、勝手に背中を追いかけてきた私にとって、あなたはスターであり続けます。

 Isao Tomitaの凄さ、素晴らしさが岡崎では高く評価されなくて記念館の創設も理解を得られない現状ですが、これからも諦めることなく言い続けていくつもりです。 (写真提供:小野修平氏)

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第14回 「暴力オトナ世にはばかる」

 半年後に退院したものの、それからは再び‟暗黒の日々”が続きました。

 小学校に復学しても授業を受けられるのは午前中のみ。昼食後は家に帰って横になるのを強制されました。主治医の清先生は、

「食事をした後最低1時間は寝ていないとだめだよ。その間に栄養が肺に行って、くんちゃんは強くなっていくんだからね」

 と言葉は優しくても厳しい目つきで言うのです。

 それに加えて、母から、兄義澄が帰宅するまで家でおとなしくしていろと厳命されました。活発な育ち盛りのくにおみにとっては苦痛そのもの。拷問にも似た言いつけでした。

 

 近所の友達の家に遊びに行くことも許されませんでした。母は結核になった自分の子供が周囲にどう見られるのかをとても気にしていて、禁を破って友達の家に遊びに行こうものなら烈火のごとく「なんであんたは私の言うことが聞けないの!」と怒り、口ごたえするくにおみに時には手をあげる(頬にビンタ)ことさえありました。

 3年生の時に日課とされた絵日記には、反抗する意味もあったのでしょう、ただただ「学校から帰るとねた」とだけ連日書いていました。教師に何度「他にしたことも書きなさい」と言われても頑なにそれだけを書き続けたのです。

 

 そんな単調な生活の中で、新聞はますます重要性を増し、まさにくにおみの「心の友」になった感がありました。

 宿題や勉強をしないで新聞ばかり読んでいる弟に、義澄は「新聞なんか読んでるんじゃない! 宿題やれ! 勉強しろ!」と口うるさく言って新聞を取り上げるので、挙句の果ては取っ組み合いの喧嘩です。そんなこともあって、私は義澄を心の底から忌み嫌うようになりました。

 今から思えば、かわいそうなのは義澄です。従順な義澄は母親の命令を守って弟に対しているだけですから何ひとつ間違ったことをしているわけではありません。でも、くにおみにそんな分別はつきませんから兄弟の関係は悪くなる一方で、喧嘩が絶えませんでした。

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 義澄は、当時では珍しくヴァイオリン(注)を習っていました。小学生のときには、何故か小学校の講堂でソロ演奏したこともあります。

 かといって、格別うまいわけではなく、本人はやる気なし。やらされてる感は半端ではなく母のいないところでは、まるでノコギリを引くようにギーコギーコと練習。そんな状態で上達するはずがありません。千代子は練習の成果が見られないことに苛立ち、怒声を張り上げ、これまた時にビンタを食らわしていました。

 義澄の母に対する不満は当然のことながらくにおみに向けられました。それもあってやかましくうざったく感じたと思います。

 

 そんな母と兄にいや気がさして、くにおみは幾度も家出をしました。近くの森の中にある‟秘密基地”が逃げ場でしたが、時には遠い父の実家に逃げ込むこともありました。

 ある時、父方の叔母から「あなた、優しい素敵なおかあさまがいるのになんでそんなに家出するの?」と真顔で聞かれたことがあります。

 以前書いた教育ママのハシリのおばです。相手が相手だけに、説明したり、言い訳したりしても分かってもらえるはずはないと考えたくにおみは聞き流しました。

「何そんな顔して。親切に聞いてあげているのに。ねえさん(義理の姉の千代子)が怒るのも分かるわ」

 そう言って立ち去るおばをただ見ているくにおみでした。

 

 口うるさかったのは家族・親族だけではありません。小学校3、4年生を担任したナカガワは、戦時中の悲惨な軍隊体験を引きずって教育現場に戻ってきた教師でした。今思えば、精神的に病んでいたと思います。男女を問わず、気に入らない教え子には毎日のように暴力をふるっていました。

 算盤授業があるときは覚えが悪かったり、態度が悪かったりする子供の頭をそろばんで叩きます。感情をコントロールできないから叩き方も手加減できなかったのでしょう。時にそろばんの珠が飛んだこともありました。今でもその光景は一枚の写真のように記憶にあります。その殴り方も罵声を浴びせながら行う、映画で見るような狂気の世界で、子どもたちを震え上がらせました。

 

 授業中も自分の教え方の拙さを反省する事なく覚えの悪い子に腹が立つようで、暴力のターゲットはその子たちに集中していました。感情のはけ口にしていたのです。

 当時は、てんかん、どもり(吃音)、ズーズー弁(強い東北弁)、せんじん(在日朝鮮人)といった言葉が平気で使われていた時代でした。彼はとくに苛立ちを覚えるのか、「××のくせして!」と吐き捨てながら、そうした差別される要素を抱える子供たちに暴行を加えていました。

 小学3、4年生の子供には恐怖そのもの。目の前で繰り広げられる暴力にただ震え上がって見ているしかありません。ほとんどの子供は目を閉じて嵐が過ぎ去るのを待ちました。私もそれに抗議したり、親に言いつけたりする勇気はなく、放課(授業の間の休憩時間)に教室の隅でうずくまった同級生の所に行き声をかけるのが精いっぱいでした。遠足に行っても集団から離れて昼食をとる在日コリアンの子の隣に座り、弁当を分け合って食べたりしました。

 それを見た一部の子が「くにおみもチョーセンだ」とからかうようになり、それからしばらくはそう言われるのが怖くて在日コリアンの子たちに声掛けができなくなってしまいました。そんなからかいに屈する自分が悔しくて涙したこともあります。後日談ですが、高学年になり体力に自信を持てるようになってからはその関係は逆転、暴力行為はしなかったものの遊びや運動会の中で「かわいがらせて」もらいました(笑)。

 

 私は「教員の子供」ということからか、ナカガワの狂気の被害に遭う事はありませんでした。しかしおそらく、教室で行われる暴行に対して子供にしては鋭い目を向けていたのでしょう。ある時呼び出されて、「何か俺に文句があるんなら言ってみろ」と言われたことがあります。 

 そのような背景があったからでしょう。4年生の最後になって「鬼滅の刃」がクニオミに襲いかかりました。

 その頃までに体力が少しついてきたこともあり、放課後も友達と遊ぶことが許されるようになっていました。体力と押しの強さがものをいう子供の世界です。病気になる前に子分だった子たちが戻ってきていつの間にか小さな‟群れ”を率いていました。

 ある日くにおみは仲間に言います。

「ナカガワの『みこ』を成敗しよう」

 鬼退治しに行く桃太郎気取りでした。

 教師のお気に入りの女子を子供たちは「みこ」と呼んでいました。ナカガワのみこМの‟お姫様ぶり”に気分を悪くしていた私たちは、ある日校庭で彼女の行方を遮り、態度を改めろと迫りました。

 ある程度予想されたことではありましたが、彼女は職員室に駆け込み、私たちは怒り心頭のナカガワに教室に呼び出されました。

 全員ビンタを食らい、黒板の前に立たされ、「黒板に向かって○回(何回か忘れました)頭を下げて謝れ!」と怒鳴られました。軽く頭を黒板に当てるだけの私たちにナカガワは「ちゃんと謝れ!」と怒鳴りました。つまり、黒板に額を強くぶつけろという命令です。

 そう言われると、へそ曲がりのくにおみは「おはようございま〜す」と言いながら黒板にお辞儀をしました。

 「なめんじゃねーぞ!」と言ったかと思うと、ナカガワは私に襲い掛かり髪の毛を引っ張り、床に叩きつけ、そして何度も足蹴にしました。

 「謝れえー」と言われてそれに従う子供ではありません。おそらく反抗的な目を相手に向けたのでしょう。体を持ち上げられてビンタを食らい倒れたところで何度も蹴られました。

 そうされながらもくにおみは意外に冷静で、それまでに元日本兵から聞かされて来た軍隊の上官による下級兵士へのいじめを想像して歯を食いしばっていました。

 

 その夜帰宅した千代子は息子の異変にすぐ気が付きましたが、「転んだ」と言うくにおみにそれ以上聞くことはありません。顔の腫れ具合から、教師である彼女はなんらかの暴行によるものと推察できたはずです。今から思えば、母も何かほかに心を奪われる問題を抱えていたのかもしれません。

 そんな母を見て、「母は事実を知りたくないのか」、「自分はこれを言ってはならないのか」、「自分にも非があるから怒られるかもしれない」など様々な考えが錯綜し、私はその出来事をついぞ千代子に話すことはありませんでした。

 ですから、5年生で担任が変わると知った時、「ナカガワから解放される」と小躍りして喜んだのは言うまでもありません。

 

 くにおみは小さい頃から異常な動物好きでした。特に、大の犬好きで退院してから犬を飼いたいと言い続けていました。

「スピッツをくれる人がいるんだけど欲しい? ちゃんと面倒を見られる?」

 仕事から帰宅した千代子がある時、くにおみに聞いてきました。

【注】ヴァイオリン教師の妻は琴の先生で、その師匠はアイドル並みに人気があり有名だった箏曲家宮城道雄。視覚障碍者だった宮城は1956年、刈谷市内を走行中の国鉄(現JR)の汽車から転落して亡くなった。琴の先生はその際、遺体の身元確認に呼ばれている。当時の汽車は、乗降ドアが手動で走行中でも開閉できた。

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第15回 「ボロ雑巾になった僕の天使」

 仕事から帰宅した千代子がある時、くにおみに聞いてきました。

「スピッツをくれる人がいるんだけど欲しい? ちゃんと面倒を見られる?」

「みれるみれる!」

 くにおみは大喜び。千代子から言われたいくつかの条件を即のんで、

「お願いします、お願いします」

 と頭を下げました。

 

 しばらくして、小さな子犬が我が家に来ました。くにおみの目には天使のようでした。子犬独特の匂いがたまらなくて肌身離さず。寝る時も自分の寝床に入れていました。下校しても「道草を食うことなく(死語ですね)」家に直行です。近所に見せびらかしにいくこともありました。どんな名前にしようかと自分で辞書を開き、フランス語で友達を意味するアミと名付けました。

 アミとの生活はそれまでの暗くて辛い日々を忘れさせてくれました。

 しかし悪夢がくにおみに襲いかかります。

 我が家に遊びに来た母方の実家のいとこがくにおみの愛犬を見て「アミが欲しい!」と駄々をこねたのです。そして火が付いたように泣き、暴れました。

 普通であれば、周りの大人が駄々っ子を言い聞かせるはずです。ところが、いとこの母親が「くんちゃ、これおくれん」と言ったのです。いとこは「本家の跡取り息子」ということもあって甘やかされて育ち、時に手が付けられない状態になるわがままな子でした。

 くにおみが首を縦に振るはずがありません。絶対にダメだと抵抗しました。ところが信じられないことに、千代子を含めて大人たちが「またもらってきてあげるから」「おにいちゃん(年上)なんだから」と言ってアミを奪い、いとこに渡してしまったのです。私が猛烈に抗議したのは言うまでもなく、大暴れしましたが、アミは連れ去られてしまいました。

 約束通り、千代子はしばらくしてビーグル犬をもらってきました。名前を同じアミと付けたもののスピッツのアミとは違います。‟白い天使”と一緒に寝た日々が忘れられず、思い出してはひとりしのび泣いていました。千代子に対してはいつまでも口をきかずにいたのですが、すると「男はいつまでも昔のことをぐずぐず考えるんじゃない!」と逆切れされました。

 それから半年ほどして母の実家を訪れたくにおみは、信じられない光景に茫然自失となりました。久しぶりにアミに会えると楽しみに玄関に入ったくにおみの前に、白い天使がボロ雑巾のようになって現れたのです。熱湯を浴びて大やけどを負ったと言われましたが、それ以上は何を言われたか記憶にありません。滂沱(ぼうだ)の涙が止まりませんでした。目の前が見えなくなるほどの涙でした。アミの痛々しい姿に触れる手はおそらく怒りで震えていたと思います。

 オトナの横暴とはまさにこのこと。くにおみの大人、特に母親への不信感は筆舌に尽くせないレヴェルにまで達しました。その一方で、周りの大人たちはくにおみを破天荒なひねくれ者とレッテルを貼り、事あるごとに話題にして笑いの種にしていました。

 そんなこともあってくにおみは「早く大人になって母や兄、それにくだらない大人たちから解放されたい」との想いを強くするのでした。亡き父と話す時間も多く、「お父ちゃん、助けて。僕を強くして」と空を見上げては涙していました。

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第16回 「東海オンエアの福尾りょうさん」

【番外編】

 人気ユーチューバー「東海オンエア」と言えば、今や岡崎市の知名度アップの切り札。

 その中核メンバーの福尾りょうさんと僕の間に妙な縁があることが判明しました。

 

 先日、ひょんなことからりょうさんの実家が、桑谷町にある僕の父親の実家の隣と分かりました。僕は幼児期に父の実家に数年間住んでいただけに親近感が湧きます。

 彼の実家はその昔、食べ物から雑貨までを広く扱うよろず屋。りょうさんの曾祖母が、野外作業を終えた男衆に長火鉢で炙ったスルメやちくわなどを肴に酒を提供する店でもありました。食糧難の時代でいつも腹を空かせていたガキには、目の前でうまそうに竹輪を一本丸かじりする大人は羨ましい限りで、早くオトナになりたいと思ったものです。

 りょうさんの曾祖父は左官屋で、自動車がまれにしか走っていない時代にオート三輪を購入、村道を土煙(当時の道路は未舗装)で走る姿は、子供の目にカッコよく映りました。

 夫婦には当時、小学校高学年〜中学生の息子(りょうさんの祖父たち)が4、5人いていずれもがわんぱく盛り。元気の良い兄弟でしたからその行動も桁外れで、大人の目を盗んではオート三輪を乗り回していました。また、店の前の広場は名鉄バスの折り返し場で、常に多くの人が出入りする、老若男女が集う村の社交場の様相を呈していたのです。

 僕の少年時代の1ページに関わるというだけでなく、成長に欠かせない場所だっただけに、りょうさんに何か不思議な縁を感じてしまいました。

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第17回 「冷水摩擦で異次元へ」

「きよし先生、僕は強くなって早くたいそう(体育の授業)をやりたい。それに大人になったら新聞記者になりたい。どうしたら体を強くできるの?」

 5年生になり体力が向上するにつれてより強い体を求めるようになったくにおみは、ある日主治医にたずねました。

「そりゃあ方法はあるよ。でも、くんちゃんには無理だな。おとなでも難しいんだから」

 冨田清先生はそう言います。「教えてください。絶対にやるから」と食らいつくくにおみを見て“してやったり”と思ったのではないでしょうか。

「それじゃあ、くんちゃんには特別に教えてあげよう」

 清先生は引き出しから手ぬぐいを出して、

「これは冷水まさつと言うんだけどね」

「???」

「手ぬぐいかタオルを冷たい水に入れてしぼり、それで体をこするんだよ。首、胸から腹、背中、腕、そして脚まで、真っ赤になるまで同じ所を50回ゴシゴシやるんだ。それを毎朝、寒い冬も一年中やれば風邪をあんまり引かんようになる。3年やればそりゃあ医者要らずと言って強くて健康な体になるな。でも、あんまりみんなに教えんよ、これは。みんなが健康になると医者いらずになって商売あがったりだから」

 と最後はいつものユーモアたっぷりの独特の言いまわしと笑顔で健康法を紹介しました。

「あ、でも今やっちゃあいかんよ、寒すぎるからね。あったかくなったら始めるんだ」

 診察室を出ようとするくにおみに清先生はそう念を押しました。

 

 人生を左右しかねない朗報を得てくにおみが春まで待てるはずはありません。早速翌朝から冷水摩擦を始めました。それを見た千代子は「なにやってるの。風邪引いても知らないからね。どうせ三日坊主なんだから」と冷ややかな視線を送ってきました。

 場所として選んだのは温かい寝室ではなく風呂場でした。風呂場と言っても屋内にはなく、家屋と接しているもののいったん屋外に出てからドアを開けて出入りしなければなりません。床はむき出しのコンクリートの上にすのこが置かれているだけのもの。しかもトタンで囲われているだけですから寒風が入ってきます。気持ちが悪くなる様な寒さでした。

 同じところを50回強く擦ります。ただでさえ病弱で鍛えられていなかった柔肌は真っ赤になり、数日で肌荒れを起こしました。母や兄からは依然として冷めた目で「体中血が死んでる(血がにじむ)じゃないか。やめとけやめとけ。それでまた病院に行くことになるぞ」と言われました。

 

 でもくにおみがくじけることはありませんでした。これまで病弱であったことからくる悔しさは、少年の心を強くしていました。

 三日坊主は一ヶ月を超え、その冬風邪をひかなかったこともあり、春を迎えてもやる気満々。そして、夏に入ると母や兄のくにおみを見る目が少し変わってきました。千代子が珍しく目を細めて「あんた、よう続くねえ」と言ったのです。

冨田病院

 夏休みも終わりに近付いた頃でした。冨田病院に定期健診に行った時のこと。(※写真は現在の冨田病院)

「おめでとう。よくがんばったね。冬から初めてここまで続いたのはくんちゃんが初めてだ。二学期からはたいそうの授業を受けていいよ」

 清先生は丸顔をさらに丸くしてそう言いました。

 “やったあ!”

 くにおみは、天にも昇るという表現が当時はよく使われましたが、まさにそんな境地、夢心地でした。

「きよしせんせい、お願いだからおかあちゃんに電話しといてくれる?たいそうを始めていいって」

 自分の報告で千代子が納得するはずがないと考えたくにおみは、主治医の冨田清にそう言って頭を下げました。

 帰りのバスの中で、乗客の目を気にして言葉にはしなかったものの、何度も何度も心の中で「たいそうができる、たいそうをやっていい」と‟叫んで”いると涙で窓外の景色がかすんで見えました。

 

 その年の秋空の下、校庭には嬉々として体育の授業を受けるくにおみの姿がありました。

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第18回 「僕の英語修行①」

 1958―59年は、敗戦国日本が「戦後混乱・復興」から完全に脱却したと子供のくにおみにも実感できた時期でした。一般的に戦後復興期は1954年までとされ、同年末から高度成長期に入ったとされますが、くにおみ少年の目にはこの年が「新しい日本」のスタートに見えたのです。

 東京タワーの完成、1万円札の登場、明仁皇太子(平成天皇)の「お妃選び」、それに加えて経済成長率が軽く10%を超える岩戸景気があり、それらすべてが市民生活に明るさと希望をもたらした感がありました。

 安月給だった公立学校教員の給与にも好況が反映され、三種の神器のひとつの洗濯機が我が家にお目見えしたのもこの年でした。

 

「あんたんとこまだ買っちゃああかんよ。一緒に使おまい」

 と言って、母千代子は隣の本多家に“神器”の共有を提案。配達されると、それは両家(二軒一棟)の裏背戸口のど真ん中に置かれました。5人の子供たちが届けられた洗濯機を囲んで、目を丸くして不思議な機械の中を覗き込んでいたことは言うまでもありません。

 余談ですが、結果的にこれは千代子にとって大正解。隣家の主婦かをるさんは、申し訳ないからと、多忙の千代子に代わって我が家の洗濯物までをも干してたたんでくださったのです。

 家の増築も行いました。我々の成長を見て必要と思ったのでしょう。二段ベッドのある小さな子供部屋を造ってくれました。そして4畳半に床の間付きという小っぽけな客間を造り、千代子は悦に入っていました。くにおみはそれを見て、「見栄っ張り」と冷ややかな視線を送っていました。

 

 勢いのある流れの早い「浮世」でしたが、その一方でくにおみに「戦争」を意識させる暗雲が日本を覆い始めた年でもありました。

 その正体は日米安保条約です。

 当時、米国は東西冷戦下にあって、東南アジアへの本格的な軍事介入を画策していると言われていました。そのためにも後方支援の拠点として米国は日本を必要とし、翌1960年の安保改定では、不利な条件をいろいろ押し付けてくるのではないかと、野党、労働組合、学生連合は警戒を呼び掛けていました。

 

 5歳の時に「戦争を無くす仕事をしたい」と思い、元日本兵から「それなら新聞記者になることだ」と言われたことは以前書きました。でもそれは漠然とした思いであり、具体性を伴ったものではありませんでした。しかし、新聞を毎日読み進むにつれ、戦争が現実味を帯びてくると、くにおみの危機アラートが作動したのです。

「東南アジアでアメリカが戦争をやるかもしれない。冷戦を考えると他の地域でも起きるかもしれない。だったら英語ができないとダメじゃないか!」

 くにおみは英語の必要性にその時突然気が付きました。

 しかし、当時は英語を学ぶ環境は学校以外にありません。裕福な家庭であればいろいろな方法があったでしょうが、浅井家にはそんな余裕はどこを見てもありません。隣近所に「英語がペラペラ」を自称する男性〇〇さんがいましたが、どこかその偉そうな態度が気に食わなくて彼に教えを請う気にはなれませんでした。

 しばらくラジオでNHKの「基礎英語」をやってみましたが、ヤル気満々の11歳には単調でためになるとは思えませんでした。

 「何か方法はないものか?」

 あれやこれや考えましたが、妙案は浮かびません。

 

 そんなある日、家の近くで“ガイジンさん騒動”がありました。軽オートバイに乗った白人少年が住宅地に迷い込んできたのです。少年は取り囲んだ住民(まさに老若男女)に何か英語らしい外国語で懸命にまくし立てますが、住民は全く理解できずに顔を見合すのみ。

「〇〇さんに頼めばいいじゃん。あの人だったら英語ペラペラだから」

 とひとりのおばさんが言いました。

 それを聞いたわれわれ子供たちはすぐ近くにある〇〇さんの家に行き、事情を話して助けを求めました。でも、彼は気のりしない様子。重い腰を上げようとはしません。

 その様子を見て「なんだ。ほんとはしゃべれないじゃん」と捨て台詞を残してわれわれはまたガイジンさんのいた場所に戻りましたが、そこには彼の姿はもうありませんでした。

 

 その出来事から数日後、くにおみに名案が浮かびました。

 早速その週末、実行に移します。

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第19回 「僕の英語修行②」

 前回の騒動から数日後。くにおみに名案が浮かびます。

 名案とは、岡崎市の玄関口である名鉄本線東岡崎駅に行き、そこでガイジンさんを探し出すことでした。その人から英語を教わればいいじゃないか、というわけです。

 ところが朝から夕方まで改札口で見張ったものの外国人と思しき人はひとりも通りません。

 そこで「名案その2」が頭に浮かびました。

「電話帳を見れば、名前はカタカナで書いてあるはずだ」

 くにおみは目の前にあった電話ボックスに入り、電話帳をめくってカタカナの人名を探しました。二人の外国人らしい名前が見つかりました。電話番号、住所を書き写し帰宅。英語を得意としていた兄義澄(当時中3)からガイジンさん説得に必要な英語の言い回しを教えてもらいました。

 

 言い回しを頭に叩き込んだくにおみは次の週末、まちなかに行き、住所から家を探し出しました。写真でしか見たことのないモダンな家を前にすると、さすがに胸が高鳴ります。息を整えて、玄関の呼び鈴を押しました。

 しばらくするとドアが開きました。

「シ……シロクマ?!」

 目の前に現れた女性は背が高いだけでなく体格も良く、さらに真っ白な肌をしていたので、田舎の少年にはそう見えたのです。

「アワワワ……」

 意表を突かれて、練習してきた英文もそうですが、日本語すら口をついて出てきません。

「ご用件は?」

 けげんな表情の相手は流暢な日本語で聞いてきました。落ち着きを取り戻したくにおみが趣旨を説明すると、「いいですよ。それでは土曜日にどうですか?」と話はトントン拍子。土曜日の午後にレッスンが行われることになりました。

 話がまとまり落ち着きを取り戻したくにおみが帰り際に建物全体を見ると、隣の建物はキリスト教の教会でした。彼女はそこの宣教師だったのです。訪問時は緊張していたのでそれに全く気が付かなかったのです。その教会は今も伝馬通にある「日本福音ルーテル岡崎教会」です。教会堂は近年、国の登録有形文化財に登録されました。

日本福音ルーテル教会岡崎教会.jpg

 レッスンが始まり、しばらくすると宣教師である彼女は聖書を渡し、日曜礼拝に誘ってきましたが、くにおみは全く関心を示しません。何度かの勧誘の後、彼女はあきれ顔で「アサイさんは本当に英語が好きですね」と皮肉まじりに言いました。でも、英語を習いたい一心のくにおみは、勧誘をかわしながら5年ほど通い続けました。

 彼女は英国スコットランド出身で、後で分かるようになったのですが、結構訛りの強い英語を話す人でした。それに、後年自分で英語教授法を習ってみて分かったのですが、彼女の教え方はお世辞にも上手なものではありませんでした。だから、後から入会してきた生徒はすぐにやめてしまいます。しかし、とても丁寧に優しく英語を教えてくれたのは私にはありがたいことでした。

 

 英語の勉強に火が付いたくにおみは、ラジオの英会話番組にあまり魅力を感じなかったものの、毎朝冷水摩擦をした後必ず聴くようにしました。

 中学に入ると、教科書の内容を録音したソノシートを使って教科書を丸覚えする勉強法を思いつきました。でも、貧乏な我が家にはレコードプレイヤーがありません。そこで英語教師の古井先生に直談判。学校でソノシートを購入してもらいました。それも3年連続で買っていただきました。完全に依怙贔屓(えこひいき)です。

 だから毎学年、1学期は早く登校し、ソノシートを聞いて教科書を丸暗記していました。教科書を見ないで「聞き覚え」ますから発音が悪くなるはずはありません。生意気なくにおみは、古井先生に「先生、そのtogetherの発音違いますよ」などと授業中に指摘して恩人に恥をかかせるというひどいことをしていました。

 古井先生は決しておとなしい先生ではなく、いやどちらかと言えば、剣道部の顧問で授業中も竹刀を持ち歩き、時折り生徒を殴るような今だったら大きな問題になりかねない言動をする暴力教師でした。

 でも、よほど私との相性が良かったのでしょう。古井先生から一度として叱られたり殴られたりすることはなかったし、逆に可愛がられていたのです。

 

 当時、「岡崎市英語暗唱大会」が毎年開かれ、公立中学校の代表がしのぎを削っていました。私は毎年、学内選考なしで美川中学校の代表に選ばれました。中心市街地の学校の代表に伍して好成績を収められたのも古井先生のおかげでした。

 

 当時流行ったペンパルとの文通もやりました。ませていたんですね。相手に選んだのはスコットランドと米国のおねえさん。女子高生でした!! ビートルズの存在を知ったのは、スコットランドのおねえさんからです。デビュー間もない彼らの話を聞かされたとき、「カブトムシ好き?」と怪訝に思ったことは今でもはっきり覚えています。

 

 高校に入ると教員の英語会話力の低さに我慢できず、学校教育の枠から完全にはみ出したくにおみは、活躍の場を名古屋に移しました。名古屋港に足しげく通うようになったのです。

 当時、名古屋港の入国管理体制は緩く、埠頭に入って外国人船員と接触できました。しばしば船内に招き入れられることもありました。真剣に船に隠れて密出国しようかと考えたこともあります。

 

 大学に入り、上京してからは“ナンパ師”になり、東京各所で片っ端から外国人に話しかけ、英語を磨き続けました。中には、仕事場や家に招じ入れてくださる方もいて今でもその方たちへの感謝の気持ちは忘れていません。

 中でも、米国人のトーマス・コーツさんから受けた恩は大きなものがありました。日比谷公園のベンチで新聞を読んでいたコーツさんに話しかけたことがきっかけでした。話が弾み、「次回は飯田橋にある私のオフィスに来てください」と言っていただき、それからは週に2回、彼の事務所を訪問しました。レッスンの後は必ずレストランでごちそうになりました。

 私が米軍のヴェトナム戦争における蛮行に怒って話すことでも、途中で口をはさむことなく聴き入り、話し終えると私の英語の欠点を書き、おススメの言い回しも添えられたメモを渡してくださるのです。雑談から、コーツさんの政治姿勢がかなり私と違っていることがうかがえましたが、自分の考え方を若輩者の私に押し付けることは決してありませんでした。

 私が米国の大学でジャーナリズムを学びたくて、100以上の大学と交渉中と知ると、「South Dakota州立大学の学長が私の友人で、あなたのことを彼に話したら学費、寮費をすべて免除して受け入れたいと言っています。ただ、あなたの希望するジャーナリズム学部(学科)が残念ながら無いので政治科学専攻になります」

 と考えられないようなオファーをしていただきました。しかし、頑なで愚かなくにおみは、「ジャーナリズム学部でないならお断りします」と答えてしまいました。

 その後の英語修行については、また「青春篇」でご紹介したいと思います。

 

 このように私の英語修行はあまりに破天荒で若い人たちの参考にならないかもしれません。しかし「やりようによっては想像もつかないようなチャンスが転がり込んでくるかもしれませんよ」と伝えたくて自らの体験を書いてみました。

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第21回 「死と隣り合わせの日常」

 小学校高学年の時期の話を続けます。「死」を意識させられた多くの出来事に見舞われた年頃でもあったので、周りの大人たちへの想いと共にその心情を綴っておきたいと思います。

 「死への意識」の“めざめ”は3,4年生の頃からで、祖父母の死に始まり、シロー君や叔父たけおの自死と続き、「杉浦先生の溺死」、級友本多君の交通事故死、そして伊勢湾台風の被災と、何度も死神が現れて幼い少年の胸の内を激しく揺さぶります。

父方の祖父米太郎

 妻を亡くしてそれまでの好き勝手な人生に初めて向き合ったのでしょうか。または、脳梗塞で肢体不自由になった己が姿に絶望したのでしょうか、首を吊って自死をはかりました。家族に見つけられて一命を取り留めたものの、その後衰弱は一挙に進み、豪放磊落の数多くのエピソードを残して、

この世を去りました。

 通夜や葬儀には多くの人が参列しました。それまでは祖父に「本家と分家」「旧大地主と旧小作人(農地改革後も村における旧地主の権威は絶大・絶対でした)」という関係性から首根っこを押さえられていた人たちは、「通夜振る舞い」や「精進落とし」で酒が入るとタガが外れたようになり、自分と米太郎との関り、特に迷惑を被った話を面白おかしく話す輪を作り、時に爆笑の渦を成していました。その光景は米太郎を嫌っていたくにおみには面白く、詳しく聞きたくて輪の中に入って聴き入りました。

 それを苦々しく見ていたプライドの塊の叔母の一人から、

「くんちゃん、何が面白いの!あんな小作人どもの言うことを信じちゃだめよ。私は父さんを心の底から尊敬していたし、失って本当に辛いんだから」

 といさめられましたが、それを気にすることなくその後も話を聞いて回りました。

シロー君の自死

 スズキシロー君は、本連載の第7回「母の背中」でも触れましたが、母千代子の元教え子で、幾度かの自殺未遂の後に我が家の居候となり数ヶ月間リハビリ生活。「元気になった」と社会復帰したものの、仕事仲間からのいじめに遭い、堪え切れずに服毒自殺してしまいました。

叔父たけおの服毒自殺

 母方の叔父たけおは小さい頃に日本脳炎を患い、上下肢にしょうがいを持っていました。

 多くの嫌な体験をしたのでしょう。卑屈な性格でした。くにおみにとっては「いつも暗い顔の優しくしてくれたことのない人」。母の実家に預けられていた時、叔父たちからいじめを受けていたことは前に述べましたが、彼にとってもおそらく「うっぷんを晴らす」相手としてくにおみは最適だったのでしょう。叔父は弟そうしちろうと二人で、幼いクニオミをいじめました。

 それでもと言うか、だからと言うべきか、たけおは学業で頑張って国立大学を受験するまでになりました。

 しかしその結果は、「桜散る」。

 試験の結果を知って失意のどん底に陥ったたけおは、兄こうじの下宿を訪ねたものの生憎の不在。宿に戻るとその夜、誰にも心の内を明かすことなく短い命を閉じました。くにおみが小学5年生のときでした(1958年)。

 気の毒だったのは、心根の優しいこうじです。突然警察から呼び出され、遺体確認をさせられ、心が折れかかっていたのではないでしょうか。それを契機に、かなり長い間週末になると我が家に来て、長姉である千代子に心情を吐露したり、私たち兄弟と時間を過ごしたりするようになりました。

杉浦先生の溺死

 当時はまだ水泳プールを有する学校は少なく、くにおみの通っていた男川小学校では水泳の授業を近くの大平川で行っていました。小学6年生になってもまだ水泳の許可をもらえていなかったくにおみは、「見学組」です。

 水しぶきを上げて楽しそうに泳ぐ友達の姿がうらやましく、「早く泳げるようになりたい」と指をくわえて見ていました。

 そんな和やかな空気が一変したのは、授業が始まって間もない頃でした。

 少し離れた場所に教員たちが大声を上げながら急行し、変わり果てた杉浦先生を運び出して、私がいる目の前に置いたのです(もしかしたら、私の記憶違いで自分からそちらに近付いたかもしれません)。

 そこで教員たちがどんな処置を行ったかの記憶はありません。記憶にあるのは全身が紫色に変わり果てた先生の姿です。溺死と発表されましたが、大人になって危機管理を勉強したあと「あれは心臓発作だったのでは」と当時のことが思い出されました。

 帰郷したときに現場にいた教員に聞いたところ、「お前の言う通りだが、俺が杉浦のことを思って校長や警察にはそう報告した」と言われました。当時は、溺死と心臓発作では教育委員会の扱いが違ったのだそうです。

遊び仲間の本多君

 同じ年、本多君が国道一号線(我が家から数百メートル)を自転車で走行中に交通事故で命を落としました。

 木工所を営む父親の血筋でしょう。とても器用で遊び道具を作るのはいつも遊び仲間の間では彼の役割でした。くにおみは家も近く、放課後は毎日のように遊んでいました。

 数時間前まで元気に楽しく遊んでいた友達が突然いなくなり、それまでの「死」とはまるで受け止め方が違います。とにかく涙が出て仕方がないのです。もちろん、「男は泣くな!武士は涙を見せないものだ!」という家です。家族の前で泣くことはありません。ベッドの中で布団にくるまって嗚咽をかみ殺していました。

 翌日登校すると、担任の山田先生が私を呼び、「葬式でお別れの言葉を読むように」と告げました。友を失って落ち込んだくにおみには酷な命令でした。

「それは無理です。許してください」

 とだけ小さな声を吐き出すようにして伝えました。

「それは困る。もう決まっとることだ。お前のここのところの成績の伸びは凄い。だから推薦したんだ」

 と言い放つ山田の言葉が信じられませんでした。

 くにおみは山田が大好きでした。怖い存在ではあるものの情熱をぶつけてくる彼を「ぶーちゃん」と呼び、とても慕っていました。だからそんな理不尽なことを言うぶーちゃんが信じられず、顔をじっと見つめてしまいました。すると、我慢していたものが体の底から込み上げてきます。号泣してしまいました。

「そんなに泣かんでも……」

 くにおみはぶーちゃんの顔を見ていませんでしたが、おそらく声のトーンからは困った表情をしていたに違いありません。

「他の子に頼むからいいわ」

 ぶーちゃんは優しい声でそう言うと、くにおみには重すぎる任を解いてくれました。

伊勢湾台風

 「死」と直面する場面は、さらにその秋、くにおみの前で展開されます。

 1959年9月26日に上陸し5千人を超える死者を出した伊勢湾台風は、小学6年生の少年に「生の重み、死の恐怖」を思い知らせるレッスンを与えたのです。

 台風が発生して日本列島に近付くにつれ、気象庁は「超大型」の台風であると警戒を呼び掛けていましたが、笛吹けども踊らずで、我が家どころか隣近所にもその日の夕刻になってもまるで緊張感はありません。粗末な造りなのに暴風雨に備える家はほとんどなく、我が家ではその夏に来た台風の時のある近隣住民のあたふたぶりを夕食時に笑っていました。

 「増築したからうちは大丈夫」と、兄の義澄とくにおみは変な安心感をさえ口にしていました。

 

 しかし、もうその頃には台風は潮岬近くに上陸(午後6時)。その影響で家の外では強い風が吹き始めていたのです。

 8時頃になると強風は暴風雨になった気配。それにあおられてガラス戸(採光を優先して床上5、60センチ位から上はガラス)が内側に膨れてきます。長い人生の中でもあれほどの暴風は、後にヨルダンの土漠で見舞われた竜巻くらいなもので、60年経った今でもそのゴーッという轟音と、何か空間全体が吸い込まれるような異様な空気感は、耳の奥に心の底に残っています。

「こんなことならガラス戸に板を打ち付けておけばよかった」

 千代子が悔やみますが、時すでに遅し。

 われわれの顔から笑みが消え、あたふたと対策に追われます。対策と言ってもほぼ為すすべはなく、古い建物には雨戸が無いのでガラス戸に内側から毛布を垂らしてそれを釘で打ちつけたりしました。

 時間が経つにつれ暴風雨は勢いを増し、母と兄はガラス戸がレールから外れないように必死に手で押さえています。今思えば、ガラス戸が破損していたら破片が体中に刺さり大変な事態になっていたかもしれません。絶対にやってはならないことでした。

 一方の僕はと言えば、情けないことに取り乱して押し入れに潜り込み、布団に顔を埋めて「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」をブルブル震えて唱え続けていました。

 なぜ自分がそのような呪文に救いを求めたのかは分かりません。普段から信仰心が篤(あつ)かったわけではないですから、考えられるとすれば、祖母がよく唱えていた呪文であること、また数年間で立て続けに経験した「死への恐怖」の影響です。

 

 その点兄義澄は立派でした。冷静にふるまう姿は、くにおみには中学三年生の兄が若武者のようにたくましく見えたものです。千代子も後年になってその点を高く評価、「あの時の義澄は頼もしかったわよねえ」と述懐しています。

 今から思えば午後9時頃だったでしょう。聞いたことのない轟音をともなって一段と風が強くなりました。

“ガッシャーン”

 という大きな音が建て増しした部屋から聞こえ、義澄の「かあさん、ガラスが破られた!」という声がしました。

 後で分かったことですが、風上の隣家から飛んできた瓦が雨戸とガラスを突き破ったのです。すると、ガラス戸の上の壁が落ち、天井が破られ屋根の一部が吹き飛びました。

「隣に逃げます!」

 千代子の掛け声で風下にある玄関を出て隣の本多家に逃げ込みました。吹きさらしの我が家に比べて隣家への風当たりは弱く、家族は余裕の表情です。温かい笑顔で迎えられました。そこでくにおみはひと安心。同い年や年下の子の前でみっともない姿は見せられないとの気持ちが働いたのでしょう。落ち着きを取り戻しました。

 

 上陸時の勢力としては、本州へ上陸した台風の中では今でも史上最強の記録の伊勢湾台風ですが、その進行速度もけた外れに速く(時速60-90キロ)、日本列島を瞬く間に縦断。

 しばらくすると猛り狂った暴風雨は収まり、明け方になるとまさに台風一過。嘘のように青空が広がりました。周辺の家屋は多くが甚大な被害。家の前で頭を抱える大人の姿は印象的でした。

 

 このようにこの時期に何度も死に直面したクニオミは、自分の弱さ、己の限界を思い知ることになります。

 ただその一方で、弱さをさらけ出した事で吹っ切れたのでしょう、逆に自信がわいてくるのを実感。何事にも積極的になり、英語の勉強に、解禁されたスポーツにとエネルギーを発散させるスーパー元気中学生になっていきます。

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第22回 「アンポ、アンポに明け暮れた一年」

 1960年は「アンポ(安保)」に始まり、「アンポ」に終わった一年でした。

 世界大戦が終わって15年。くにおみが生まれた年に始まった共産主義国家群と資本主義圏の対立する「東西冷戦」は厳しさを増すことはあっても和らぐ気配はありません。日米同盟の重要性が謳(うた)われ、この年の1月、日米相互協力及び安全保障条約(安保)が調印されました。

 戦争の匂いを感じた学生や労働者たちが「それは再び戦争への道に進むこと。『過ちは二度と犯しません』との誓いはどうした!」と条約批准阻止を叫び、連日のように街頭デモを繰り返すようになり、世の中には騒然とした空気が流れていました。そのさまをマネして東京の子供たちが「アンポ、ハンターイ」と叫んでいるという話が新聞などで報じられるほどでした。

 

 4月、くにおみは美川中学校に入学。高校生になった義澄が安保をめぐって母と議論をするようになり、わが家でも「アンポ」が他人事ではなくなりました。くにおは新聞を読んでいますから議論の内容は理解できましたが、理路整然と話す兄にある種の敬意をもってふたりのやりとりをただ見ているだけでした。

中部日本新聞 1960年6月16日、1面

 春を過ぎると、我が家の安保論議は国会周辺の大荒れの展開を反映して激しいものになりました。6月15日、全学連と労組員が大挙して国会に押し寄せ警官隊と激突した際に起きた、樺美智子(東京大学学生)さんの死が義澄に与えた影響は大きく、かつてない落ち込みを見せていました。

 当時若者の間で流行っていたのが西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』。

 雨の中を警官隊と衝突して傷つき、敗北感の中を帰宅するデモ参加者の愛唱歌とも言われました。それを口ずさむ義澄が「オトナ」に見えたものです。因みに、この歌の歌手西田佐知子の夫は、TVの司会でおなじみの関口宏です。

 同月19日に新安保条約が自然成立。それまでの混乱の責任を取って岸信介首相が辞意を表明、後継者に躍り出た池田勇人が打ち出した「所得倍増計画」に世の中の関心が移っていくと、くにおみの国政への興味は次第に薄れ、折から始まったローマ五輪(8月25日~)に目が移っていくようになります。

 

 五輪実況中継はTVでも行われましたが、その頃はまだラジオ放送が主体でした。ラジオ放送でもスポーツ好きのくにおみには十分で、情景を想像しながら贔屓(ひいき)の選手を応援したものです。時差の関係もあり深夜、ラジオ短波放送から流れてくる山中毅や田中聡子などの日本水泳選手団の活躍などに胸躍らせていたのです。短波放送特有の振幅変調は音量が波のように大きくなったり小さくなったりで、イヤフォンをしていても聞き取りにくく、深夜だというのに耳に神経を集中させていました

 いくつもの競技の中継が今でも記憶に残っていますが、中でも男子マラソンの中継でアナウンサーが「先頭に躍り出てきたエチオピアの選手は裸足です! 靴を履いていません」と興奮して伝えた放送はくにおみの度肝を抜きました。

 裸足のランナー、アベベ・ビキラは42.195キロをそのまま走りぬき先頭でゴール。金メダルに輝いたから世界中が大騒ぎ。くにおみも翌朝学校で、何人もの友達をつかまえてその凄さを何とか伝えたいと熱弁をふるいました。同級生は興味津々で話を聞いてくれました。

 

 9月末に行われたジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンの米国大統領選挙史上初のテレビ討論にも熱が入りました。ほんの一部分しか放映されませんでしたが、全編を見たいと心から思ったものです。

 ふたりの政治家が相対して議論する様に「これがアメリカの民主主義か」と目を丸くしたものです。ケネディが43歳の若さということにも、古だぬきが跋扈(ばっこ)する日本政界を見慣れたくにおみには新鮮だったのです。

 “当然のことながら”級友たちは翌日、くににおみの相手をさせられます。しかし、彼らはこれにはあまり食いついてこなくて大きな人の輪はできませんでした。

 

 中学に入ったくにおみは英語の勉強以外は宿題を含めてほとんどすることはなく、解き放たれた暴れ馬のようにいろいろな運動部に顔を出して仮入部、スポーツに興じるようになります。

 しかし、クラブ活動は、主治医の清先生から「まんだあんまり激しいのはすすめられんな。卓球あたりかな」と言われたこともあり、しぶしぶ卓球部を選びます。

 ところが女子の卓球部はありましたが、男子卓球部はありませんでした。そこで、仲間を募って学校側と男子卓球部創設の交渉に入ります。ベビーブームの世代です。ひとクラス55人にしても校舎に収まりきらない状況で、全てにおいて余裕がない時代でした。

「女の子でも卓球台が1台しかなくて場所もないから教室でやっているよね。そんな状態だから男は無理だな。それに卓球なんて男のやるもんじゃない。浅井、お前は運動神経も良いようだし他のスポーツをやりなさい」

 校長や教頭、担任はまるでこちらに耳を貸す姿勢を見せません。確かに卓球台を置く場所は校内にはなくて、女子部員たちは教室で放課後、机やいすを隅に積み上げて練習していました。

 教員たちの小ばかにした姿勢はくにおみの闘志に火をつけました。

「卓球は男のやるもんじゃない、女子のスポーツだというのは間違っています! 世界卓球で何度も優勝している荻村選手を知らないんですか?」

 当時、日本は荻村伊智郎選手を筆頭に強力なチームを構成して世界選手権などで個人・団体共に優秀な成績を収め、「卓球王国」の名をほしいままにしていました。

 学校側との粘り強い交渉が実を結び、数か月後卓球台が購入され、美川中学男子卓球部が誕生しました。部員も順調に増えて大会に出るようになるとキャプテンを決める必要が出てきて、言い出しっぺで実力的にもトップだったくにおみが選ばれます。

 しかしそこで悪い癖が出ます。達成感を満たされると間もなくして卓球への情熱が薄れていき、当然のことながらそうなると技術の進歩も鈍ります。自分よりうまくなっていく仲間もいました。すると負けん気の強い性格がマイナスに出て余計にやる気をなくし、退部を決めてしまいます。

 ひどい話です。くにおみの誘いに乗って入部した部員がほとんどです。彼らは必死に私を引き止めました。顧問の先生も説得に乗り出しました。でも一度言い出したら人の話を聞かない性格のくにおみはその年の秋口に退部してしまったのです。何人かの部員も後を追ってやめてしまいました。

 

 余談になりますが、時はぐ~んと下って2016年のことです。知人からある人を紹介されました。

「城北中学の卓球部のエースで岡崎のチャンピオンだった谷口さんです」

 そう聞いた私は、50年前の市内新人戦の時に見た彼の雄姿を思い出しました。一度も対戦していませんが、圧倒的な強さ・速さでした。

「谷口さん、あなたのことは覚えていますよ。かっこよかったです」

 と私が言うと、

「あなたは美川中学でしたよね?」

 と彼から言われました。私の実力は谷口氏とは比較にならないもの。なんとなく存在自体が目立ったのでしょう。でも、数回しか会っていないのにこちらの学校名を覚えていて驚きました。

 

 退部して自由の身となったくにおみはいろいろな部活動に遊び半分で顔を出したり、図書館で読書にふけったりしていました。すると、それは番長グループ【注】の目に留まり、校舎の裏に呼び出され「目立つな」と脅されるようになります。もちろんそんな脅しを怖がる少年ではありません。それからも好き勝手に行動していました。

 当然のことながら、目立つ存在は代替わりしても番長グループにとって邪魔なのでしょう。卒業するまで彼らとの確執は様々な形で続きました。

 勝手気ままな学校生活を送っていましたから、学校を休むこともしばしばです。

 

 10月12日、くにおみは父の実家の桑谷で行われた村祭りに姿を見せました。その日は今調べてみると平日。村に行くバスは一日に数本ですからおそらくその日と翌日は学校をさぼったと思われます。

 村祭りの最大イヴェントは、神社の境内で行われる芝居です。TVアンテナがこの村にもちらほら現れるようになりましたが、それでもまだまだその数は少なく、ドサ回りと呼ばれる旅回り一座の公演は大人気。農作業を早々に終えた村人たちはゴザや弁当を神社の境内に持ち寄り、ご機嫌の表情です。私もこの旅回り一座が大好きで、本家のいとこたちとごちそうを食べながら開演を心待ちにしていました。

 ところが、「ヌマさんが右翼に刺されて死んだげな」という周りの大人たちの会話でその高ぶりは一瞬にして落ち込みへと変わってしまいました。

中部日本新聞 1960年10月13日、1面

 ヌマさんとは当時日本社会党の委員長であった浅沼稲次郎のことです。安保騒乱の時は国会前に出向いて体を張って反対運動を指揮していると評判でした。メディアもおおむね彼には「大衆政治家」と好意的な伝え方をしていました。それだけに国民の人気も高く、右翼の標的にされたのでしょう。浅沼はその日午後、東京・日比谷公会堂で開かれた党首立会演説会で熱弁をふるっている最中に、壇上に駆け上がってきた右翼活動家の少年山口二矢(やまぐち おとや。当時17歳)に刺されて死亡したと言うのです。

 その日芝居を最後まで見ずに帰宅したのか、それともうわの空で芝居を見ていたのかは記憶にありません。

 安保反対デモで命を落とした樺美智子さんやデモ隊の画像が思い浮かび、「日本には民主主義は根付かないのか」と、子供心に何かとんでもないことが世の中で起きつつあるという不安に駆られていました。軍靴の足音が聞こえるような錯覚に陥ってしまったのです。

【注】番長グループ

 ベビーブームの子供たちは人数が多いというだけでなく、エネルギッシュで“規格外”。それに対して教員を含む大人たちは力で抑え込もうとしました。すると、反発するグループと学問の競争から落ちこぼれた生徒たちが徒党を組んで番長グループを結成し、校内だけでなく他校とも張り合うようになります。

 それがエスカレートすると、素手ではなく自転車のチェーンやナイフを携行、他校グループとのヤクザまがいの“出入り”も派手に行われるようになり、警察沙汰になることも少なくありませんでした。

 美川中学にも番長グループがあり、校内を肩で風を切って歩いていました。卒業式には警察官が10人以上来て警戒に当たったほどです。

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第26回 「尊大な14歳」

浅井久仁臣

 1961年4月には中学2年生になりました。

 「世界」への関心はますます強くなり、1月に起きたコンゴ共和国のルムンバ前首相の処刑、同じ1月のジョン・F・ケネディの米大統領就任、前年にアルゼンチンで拘束されてイスラエルに連行されたアイヒマンの裁判と死刑、4月のガガーリン(ソ連)飛行士による人類初の宇宙飛行、米CIAが仕掛けたピッグズ湾事件といった国際ニュースに目を奪われる毎日でした。

 また、中学入学を機に主治医からの運動の全面的解禁を受けて、近くの大平川で夏のみならず冬も泳ぎ、気の合う仲間と毎日のように今で言う「筋トレ」とボクシングのまねごとに励んでいました。

 人並み以上の体力をつけたことで多くの面において過度とも言える自信をつけたくにおみは、傍若無人な態度を取っていたのではないでしょうか。友人をつかまえてそういった国際問題の議論を吹っ掛けるような生意気で鼻持ちならない少年だったようです。「ようです」というのは、私にその記憶や自覚があまりないのです。

幸夫君と私

 後年(2012年)私が〝若い妻〟を伴って45年ぶりに岡崎に戻ると、それを聞きつけた同級生や後輩たちが様々な形で『浅井久仁臣講演会』を催してくれました。市立美川中学校で2年、3年と2年間同級生だった柴田幸夫もそのひとりで、学区の公民館で講演会を開いてくれました。

 司会を務めたその席で柴田は聴衆に私とのエピソードをこう紹介しました。

「浅井君には参りましたよ。朝学校に行くと、『今朝の新聞は読んだか。お前んとこは何新聞だ? 今週の朝日ジャーナルはどうだ?』ですからね。中学生がそんなに新聞や雑誌を読んでいるはずがないじゃないですか。『読んでいない』と言うと、『勉強が足らん』と叱られました(笑)」 

 柴田は岡崎市の収入役という要職に就く父を持つ、いわば〝サラブレッド〟。成績も優秀で学級委員をしていてクラスのまとめ役でもありました。そんな記憶があったので「でも、幸夫君は学級委員だったじゃないですか」と私が返すと、柴田は、

「冗談じゃないですよ。全部浅井君が我々の役目を割り振っちゃうんですから。『柴田、お前学級委員やれ!』ですからね」

 と笑いながらですが、言い返してきました。

 その辺りの事は正確に覚えていませんが、まあ、「当たらずといえども遠からず」で、その場では謝るしかありません。私もまた笑いながらですが謝罪しました。

 

 くにおみの大きい態度は目立ったようで、校内外の不良グループからしばしば喧嘩を売られるようになります。

 当時は、どの中学校にも「番長グループ(自転車のチェーンやナイフなどで〝武装〟)」が跋扈(ばっこ)しており、通っていた美川中学にも20名を超える喧嘩自慢やその取り巻きが構成するグループが存在しました。その連中にとって私は目障りな存在だったようで、幾度か彼らから呼び出しを受けます。一度は挑発に応じて一対一での勝負を条件に殴り合う事になりました。

 〝キレる〟と冷静さを失い、手が付けられない暴れ者でしたから、相手が途中で私の勢いに気おされて許してくれと泣きを入れてきても、容赦なくこぶしと蹴りを見舞いました。想像するに私は鬼の形相だったのでしょう。それからは連中の私への態度は一変しました。 

 岡崎の繁華街でも同様の事が起きました。「美川の田舎モンがなんで来ただあ!こっち来い!」とリーダー格にイチャモンを付けられことがあります(美川中学は郊外に位置した)。路地裏に連れていかれ、カネをせびられ、「カネを出さんなら踊る(殴り合い)か?」と絡まれました。脅し方がまだ初心者で慣れておらず、「そいで(それで)脅しとるつもりか?」と脅し方をあざ笑ったとたん殴り掛かられましたが、いわゆる「番長」格ではありませんから私の相手になるはずがありません。数発のカウンターパンチで崩れました。

 ひとりを倒すと他の雑魚(ざこ)はあっという間に姿を消しました。

 

 二度共相手を叩きのめすところまで経験する羽目に陥りましたが、〝勝った〟との優越感は湧いてきません。逆に、あまりに後味が悪くて「もう二度と人は殴らん」とひとりひそかに心に誓いました。

 しかしそれからしばらくして兄義澄と衝突。相手が先に手を出したとはいえ、殴り返してしまいました。フツーの高校生の義澄が鍛えているくにおみに敵(かな)うはずがありません。兄も弟の成長に驚いたようでそれ以降は手を出さなくなりました。

 また、当時我が家に居候をしていた叔母にも執拗になじられ、ある日我慢の限界を超えた私は、相手は女性ですから殴るわけにはいかず、目の前にあったガラス戸を素手で一撃。ガラスは一瞬にして大きな音と叔母の叫び声と共に砕け散りました。

 

 そのような負けん気が強く、時に残虐性を伴う行動をするようになった要因のひとつは、それまでの負荷の大きい影の濃い育ち方(環境)にあったと言えるでしょう。いったん理性を失うと自分でも怒りを抑えきれなかったのです。またそれに加えてその年の「二冊の本との出会い」もくにおみに大きな影を落としました。その影響はあまりに大きく、精神状態を不安定なものにさせたのです。

 「本との出会いが荒れた原因?」と訝(いぶか)られるかもしれません。「壊れた自分の言い訳を本のせいにするな」とお叱りを受けるかもしれません。でも、その確信は60年経った今も同じです。

 話は少々複雑で長いので二冊の本との出会いは次回に回し、その前の話から始めます。

 

 くにおみは政治に強い関心を持つ一方で、小学3年生くらいから芽生えてきた「性への興味」が年を追って異常な勢いで度を増し、中2当時は小説などで性描写を目にしたり、雑誌のグラビアで女優の水着姿を見るだけで妄想を掻き立てられ、異常な興奮を覚えるようになっていました。自慰行為にふけることも多く、あまりに強い性欲に「自分は病気?」と悩む日々が続いていました。

 その一方で、いわゆるモテ期に入っていて告白されることも何度かありました。その頃はまだ全くと言っていいほど知られていなかったバレンタインデーには女子の何人かが家に来てチョコをくれたものです。そのひとりの手紙に書かれていた「浅井君って『大学の若大将』(その後人気になった映画シリーズ)の加山雄三みたいで好きです」という一文が気になって映画館に足を運ぶ〝純情さ〟も持ち合わせていました。

 異性への興味は人一倍あるというのに、女子とどう付き合ったら良いかが分からず、彼女たちには温かい声をかけることをしませんでした。

 ひねくれ者の私は、好意を持ってくれた同世代の女子に向き合うのではなく、不良を気取って町なかでナンパまがいのことをしたり、手紙を送りつけたり、またそれに加えて〝イケない大人の世界〟に首を突っ込んだりしました。「イケない大人の世界」とは大人の娯楽を意味します。

 

 町なかに出たある日。市内の歓楽街に足を運び、ヌード劇場『世界ミュージック』の前をうろつきました。劇場の前には〝女体〟〝裸〟〝関西ヌード(意味不明)〟といった刺激的な言葉が躍る看板が立ち並んでいました。しかし、その前に立ち止まって正視する勇気はなく、劇場の前を二度三度と行ったり来たりするだけです。

「にいちゃん、さっきからうろちょろしてんな。入りたいんだろ?」

 劇場の前にいた男が声をかけてきました。

 それに対してただ立ち止まって返事をせずに相手を見ていると、「いくつか知らんけど、その体格だったらいいだろう。カネ持ってんなら入んな」と言われました。 

「ハイ、大学生さん一枚!」

 男は切符売りの女性にそう声をかけると私を中に招き入れました。ズボンのポケットの中に握りしめてきた紙幣(おそらく汗ばんでいた)を出し、切符をもらうと劇場に入りました。

 厚いカーテンの前に立つ男が「おっ、にいちゃん、楽しんできな」と切符の半券を切ってカーテンを開けてくれました。中は真っ暗で様子が分かりませんでしたが、しばらくすると目が慣れてきました。思ったよりも狭い空間で、座席の数も30席位の劇場というよりは小屋という感じでした。7割方は席が埋まっていましたが、なぜか座らずに壁際に立つ人も10人以上います。

 舞台の真ん中から客席の中央部分にせり出す桟橋状の細長いステージに全裸の女性が横たわって客席に微笑んでいました。彼女の股間を覗き込む客たちは、ある者はギラギラとまとわりつくような視線をストリッパーに向けていましたが、中には舞台上の踊り子と談笑する客もいます。「ありがとう」と股間を見せてもらったお礼を言う男もいます。

 初めて目の当たりにする女体は白く輝いて見えました。後になって考えればスポットライトが当たっていたからだと思いますが、その時は「神々しいお姿」に見えて、その姿に圧倒されっぱなしです。またその一方で、普段は偉そうにしているであろう男たちが、緩み切ったにやけた表情で恥や外聞もなく踊り子たちの股間に顔を付けるようにして覗く姿に強い嫌悪感を覚えました。

 数人の踊りを見ただけでくにおみは〝腹いっぱい〟。一時間ほどで小屋を出ました。超濃密な社会勉強となりましたが、それからは成人男性を見る目がとても厳しくなったように思います。

 

 当然のことですが、それからのくにおみの頭の中は劇場で目にした場面で占められ、昼も夜も、授業中も家にいる時も集中できない日々が続きました。

 そのような政治への関心と体の急成長、それに伴う性の目覚めが複雑に交錯していた時、くにおみは居間のちゃぶ台(食卓)に積まれた6冊の本のタイトルに惹(ひ)かれて手に取ります。

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第27回 「穢れた英雄」

 居間のちゃぶ台に積まれた6冊の本。タイトルに惹(ひ)かれて手に取ったのは『人間の條件』でした。当時大きな話題になっていた超ベストセラーです。その数か月前にアンドレ・マルロー著の同じタイトル(條件ではなく条件)の本を読んでいたことと、本の紹介に「筆者の従軍体験」とあったことにも気を引かれたと記憶しています。それに加えて、〝好みの〟性描写も散見されます。

人間の條件 1(1).jpg

 新書版の6巻からなっていました。母が勤務先の城北中学校教職員読書会の課題図書として購入してきたもので、目ざとくそれを見つけた私がそれに手を伸ばしたのです。

 著者の五味川純平が自らの戦時体験をもとに書いた小説です。1956年から3年近くをかけて三一書房(筆者注)から出版されて総販売数で1400万部、後に映画・TVドラマ化が何度もされた話題作でした。

 

 「筆者の従軍体験」の文句に惹(ひ)かれて読み始めたのは、くにおみが従軍記者を志していたことの他に、かつて父が置かれた状況をもっと知りたかったことにもありました。

 第一部は、主人公が徴兵を免れるために満州(現中国東北部)に渡り、軍需会社の鉱山の労務管理に従事するところから始まります。

 夕刻に読み始めてその夜、第一巻をあっという間に読了。読み終えた時には窓の外が明るくなっていました。そう。徹夜して読んだのです。ただ正直に言うと、一巻目は主人公と新妻との甘い新婚生活とそれに伴う刺激的な描写に気を取られて生唾を飲み込みながら一気に読んでしまったと言った方が正確かもしれません。

 人生初めての徹夜です。その日は、学校に行っても眠くて〝使いもの〟になりません。授業中に顔を机にうち伏して眠っていました。教員の中には起こそうとした人もいたようですが、同級生の話では、皆あきらめたそうです。

 

 『人間の條件』のストーリーは戦時下の若者の悩みを克明に描いていきます。それが自分の悩み多き人生にも重なってしまい、くにおみは読み進めていく内に完全にこの本の世界にはまっていきます。いつの間にか性描写は姿を消し、残酷な場面の連続となりますが、次の日もまた次の日も帰宅してすぐに続きを読み始めて、東の空が明るくなるころに読み終え、明け方に少しだけ横になり登校します。

 当然のことながら学校では連日の「熟睡」です。数日後、職員室に呼び出されました。

 「お前、俺の授業だけじゃなく他の授業でも寝てばっかりらしいな。何があった? 言ってみろ」と言う担任に「別に何もないですよ。なんか眠いだけです」と不貞腐れた態度で面倒くさそうに答えたように記憶しています。そんな私に担任は何か捨て台詞を言いましたが、詳しくはその言葉を思い出せません。

 放課後、担任に呼び出されてお説教を受けている間も、頭の中は本のことで一杯です。早く帰宅して読みたくて仕方がなかったのです。説教が終わるとそそくさと帰宅してすぐに読み始めたのは言うまでもありません。

 

 物語の主人公の梶は、炭鉱で働く特殊工人(中国人捕虜)の不当処刑に抗議して軍警察である憲兵に睨(にら)まれ、軍隊に送り込まれてソ満国境の警備につかされます。間もなくして攻め入ってきたソ連軍に所属部隊が叩き潰され、梶は生き残った数名の戦友と共に満州の原野を逃げまどいます。

 逃げおおせずにソ連兵に捕まってしまうのですが、妻との再会を夢見る梶は収容所から脱走。ひとり雪原を彷徨します。必死の逃避行も大自然と地元住民の仕打ちの前に行き先を見失い、雪に埋もれて息を引き取ります。

 

雪は降りしきった。

遠い灯までさえぎるものもない暗い曠野を、静かに、忍び足で、時間が去って行った。

雪は無心に舞い続け、降り積もり、やがて、人の寝た形の、低い小さな丘を作った。

 

 最後のページを読み終えたくにおみは涙ぐみ、天を仰ぎました。

 侵略戦争の実態と極限状況のもとでの人間的良心の問題、また愛する人への愛情の貫き方を、作者の入隊、実戦、捕虜の経験をもとに重層的に描いた戦争文学作品です。多感な思春期の只中にあったくにおみにはあまりに衝撃的な内容でした。

 後になってその内容があまりに劇的で一部の評論家などから〝安っぽい創作メロドラマ(恋愛物語)〟だとの指摘もされましたが、読者・視聴者の多くは戦争を知る世代です。戦争で辛酸をなめた若者です。現実離れした恋愛話仕立てとは受け取らず、自分の身にも起き得た話ととらえたのでしょう。我先にと本を求め、前述したように超ベストセラーになりました。

 

 読了してから数日後「オカザキ(岡崎市の繁華街を郊外の住民はそう呼んだ)に出た」くにおみは、『岡崎書房』に足を運びます。そして引き寄せられるように太平洋戦争関連の本が並ぶ書棚の前に立ちました。

 一冊の本がこれまた吸い寄せられるようにくにおみの目に入ってきました。

 『三光 : 日本人の中国における戦争犯罪の告白』。

 「三光」とは「殺光・焼光・搶光」を表し「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という意味を持つ中国語。中でも制圧した町や村で捕まえた地元民を〝丸太〟と呼んで木や棒にくくりつけて銃剣で刺す刺突(しとつ)訓練や、血管に毒素や空気、細菌を入れて死に至るまでを研究するなどの人体実験の記述を読む内、くにおみは息苦しくてその場に立ち続けるのも辛くなり、店を出ました。

 その種の話はそれまでにも本や新聞で読んだり、〝シベリア帰り〟(旧ソ連で過酷な抑留生活を経験した元日本兵)の人々から聞いたりしていましたから知ってはいたものの、その本を読み進めていく内に、心身のバランスが崩れやすい年頃ということもあったのでしょう。「日本軍は、いやおやじはこんなことをしていたのか!」と、失望と怒りに震えてある種の〝内部崩壊〟を起こしてしまったのです。

 

 本ブログ『私の人生劇場』でも第1回から8回にかけて書いたように、1歳で死別した父親の影を幼少期から追い続けてきたくにおみの中で俊夫は英雄でした。それがこの2冊の本によって英雄から一転、「穢(けが)れた英雄」に変わったのです。

 召集されてなくなく戦場に駆り出された憐れな下級兵士なら「上官の命令に抗(あらが)えなかった。仕方なかった」と思えたかもしれませんが、父俊夫は陸軍通信学校を卒業して兵士を命令する立場にあったエリート軍人です。最初は通信兵でしたが、実戦を重ねるうちにその武功から精鋭の騎馬部隊に所属するようになり、中国各地の最前線を馬蹄で荒らし回り、多くの現地人を蹴散らしていたのです。戦争初期には「日本唯一の武人を称える」金鵄勲章を授与されています。叙勲は、故郷の人たちが「村の誇り」と称えた〝功績〟ですが、裏を返せばそれはつまり、いかに父が「多くの中国人の命を奪った」か、「たくさんの中国の村や町を壊した」かを意味するもの。『人間の條件』の梶のように戦争の被害者の側面を持つとは考えられませんでした。

 

 仏壇に置かれた軍服姿の俊夫の写真を破りたい衝動にかられました。それまで大事にしていた父の遺品(乗馬用の長靴や軍服、オーバーコート)さえ捨てたくなりました。最終的には「母や兄にとっても大事なもの」「僕はどうせこの家から出て行く身だから」と思いとどまり、押し入れの奥にしまい込むことで良しとしました。

 しばらくしてから母と対峙しました。戦争責任について彼女の見解を求めたのです。いや、言葉汚くののしったと言った方が正確かもしれません。

 今から思えば、彼女も北朝鮮で10か月間辛酸をなめたわけですから酷なことをしたものです。普段は厳しい表情でこちらの気持ちへの配慮に欠けた表現で叱責することが多かった母ですが、この時ばかりは息子の刺すような言葉と視線を受け止めきれなかったかもしれません。口答えすることなく、「お父さんは加害者かもしれないけど、戦争という時代の被害者でもあったのよ」と父をかばうにとどめました。

 これを機にそれまで毎日拝んでいた仏壇に手を合わせることもなくなりました。

 

 筆者注:後年、私のデビュー作『レバノン内戦従軍記』(1977年)はこの三一書房から世に出していただきました。

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第28回 「『理由一杯の反抗』と覚醒」

 (今回のタイトルは、お気付きの方もいるかもしれませんが、かつて世界の若者を熱狂させた俳優ジェームズ・ディーンの映画『理由なき反抗』を意識しました。

 くにおみは彼の生い立ちや主演映画『エデンの東』『理由なき反抗』の役柄と演技、そしてその生きざまに激しく共感。自分の姿をそこに投影させた時期もあります。しかしながらそれは高校に入ってからですので、その辺りのことは「高校編」で書きます。いや、気が向いたら書きます)

 

 反抗期真っただ中のくにおみは、それからは目の前にいる戦争世代に対しても牙をむくようになりました。戦争に関わってきた大人たちが汚く見えて仕方がなかったのです。

 元日本兵には〝人殺しが!〟と厳しい視線を向けるようになり、相手が偉そうに大きな態度を見せようものなら「あんたは戦争で何してきたんだよ!よくそんな大きなことが言えるな!」とかみつき、非戦闘員であった人が「最近の若いもんは」と説教じみたことを言おうものなら「戦争中のきさまたちのだらしなさより戦後生まれの俺たちの方がましだよ!」などと言い放っていたのです。幼い頃は大好きだった〝お父ちゃん〟(父の兄)が話してくれる戦争体験談にも違和感を持つようになり、しばらく父の実家に寄り付かなくなりました。

 

 反抗的な態度の最大の〝被害者〟は、くにおみが通う美川中学の教員でした。

 偉そうにしているけど教え子たちを洗脳して戦場に送り込んだのは奴らだ、と考えるようになりました。口には出さなかったものの、

「どれだけ多くの生徒を戦場に送り込んだと思ってんだ?! その責任を取ることなくのうのうと教員を続けている。それだけじゃない。戦争が終わったらてのひら返しで平和だ、民主主義だと言っている」

 と思うくにおみの彼らを見る目は憎悪に満ちていました。そのような接し方ですから、教員も感じとるのでしょう。私を快く思いません。

 

「浅井はリーダー気取りだが、みんなもよく考えるように。彼のような傲慢な人間は一生親友ができないだろう」

 そう言ったのは1年生のときの担任で、2年生では音楽を担当した教師Nでした。確か、2年生3学期の授業中でした。そう言われて心穏やかでいられるくにおみではありません。

 悔しさ、怒りを抑えて何とか感情を爆発させずに授業を終えることが出来ましたが、私の気持ちを察した5,6人の仲良しが授業後すぐに慰めに来てくれなかったら、Nを追いかけて拳を見舞って〝暴力生徒〟のレッテルを貼られていたかもしれません。 

 「生意気言うんじゃねえ。ちったあアニキをみならえ」と言って手を挙げてきたのは理科を担当したS(兄の担任だった)でした。返されたテストの採点に「ここんとこ合ってますよ。先生が間違ってます」と見直しを求めた私に、Sは説明することなくビンタをくれました。それに反応して思わず私も、軽くですがビンタを返してしまいました。Sは「なめんなよ~っ!」と激昂。さらに殴るそぶりを見せました。

 自主練仲間で親友の鈴木が、「先生が悪いじゃないですか」と間に入ってくれてそれ以上の大ごとになりませんでしたが、彼の介入が無ければ私はおそらく反射的にSを叩きのめしていたことでしょう。

 それからSと私の間には常に火花が散っていたのは言うまでもありません。ただ、通知表の成績(5段階評価)を、Sは私情を入れずに、テストの結果通り「5」にしました。

 

 昼休み時間に教職員専用の駐輪場に行って自転車のタイヤの空気を抜いたこともあります。ひとりの男性教員(名前を記憶していない)が見ているのを承知でやりました。

 当然その教員に「アサイ、何やってんだ!」と咎(とが)められましたが、相手は戦争体験を自慢げに語ることで知られる元日本兵で、くにおみの敵視の対象になっていた人物です。ただただ無言で相手をにらみました。相手の出方次第では噛みつくつもりでした。その教員も怒ってはみたものの、ふてぶてしい態度にどう対応していいか困ったのでしょう。「もう二度とやるんじゃないぞ。抜いた空気は入れておけ」というセリフを残してその場を去りました。

 自分で書くのも気が引けますが、私は一応成績面では学年では常に三本の指に入る、いわば優等生でした。「成績の良い俺は悪いことをしても許されるんだ。不公平じゃないか」とその場面を自分勝手な締めくくり方をした私は、それでまた戦争世代への憎しみを増大させていったのです。

 

 登校もマイペースで、老いた母千代子の思い出話のひとつに、

「隣の人たちに言わせると、あんたは慌てる風もなく学校の始業のベルが鳴ると(家は学校のすぐ近く)おもむろに家を出て行っとった」

 というものがありますから、くにおみの〝不良ぶり〟が隣近所の大人の間でも噂になっていたことは間違いありません。

 そんな荒れた私を心配して小学校5、6年生の担任であった山田が「どうしちゃった? 期待してたのに中学に入ってから(お前の)いい話は聞かんぞ」と声をかけてきたことがあります。山田のことは以前書いたように一時期大好き(その後ある出来事をきっかけにその好感度は低下)でしたから、声をかけてもらったこと自体はありがたく受け取りましたが、「どうせ悪い話ばっかり聞いているのだろうから話しても無駄」と思い、心の内を打ち明けることはありませんでした。

 

 1947年生まれは〝ベビーブーム一期生(出生児数約270万人)〟です。多くの家庭に経済的な余裕が生まれてきたこともあり、日本国中で受験戦争が激化しました。

 郊外の中学校と言っても生徒数は町なかの大規模校と変わらない美川中学にもその空気が伝わってきます。主要試験の結果(順位)が実名で毎回校内の目立つところに大きく貼りだされるようになりました。上位にランクされる自分の名前に最初は得意げだったくにおみですが、やがてその学校側のやり方に疑問を持つようになり、校長室に抗議に出かけます。案の定、校長と教頭に「競争に勝ってこそ成功者だ!これからももっと頑張るように。君には期待しているよ」と軽くあしらわれたくにおみは、自分の思いを理解してもらえなかった悔しい気持ちを抱えて校長室を後にしました。

 

 そんな手の付けられない反逆児だったくにおみが中学2年生の後半になると少し落ち着きを見せるようになります。きっかけは、Fという同期生とHという美術教師の存在でした。

 美川中学校には、美合小学校と男川小学校の卒業生が通っていました。Fは美合、私は男川出身でした。

 Fのことは入学してすぐに目にとまって気になり、それから高校を卒業するまで6年間意識し続けました。成績はいつも最優秀で、野球部でも活躍する、いわば「文武両道」の典型でした。見た目も爽やかでナイスガイ。美合小出身の生徒の口から彼の悪口は一切聞かれません。性格も良かったのです。「大手企業の社員の息子は出来が違うなあ」と半ば憧れの〝田舎もん目線〟で彼を見ていました。

 ただ、意識はするものの自分から彼に近付こうとはしませんでした。今思えば、Fは自分のような半分崩れた存在などには目もくれないだろうとの思いもあって、遠目に見ていたかもしれません。

 Fを見て「生まれ変わろう」と決めたくにおみは、勝手に彼を〝ライバル〟と決めて自分を鼓舞することに利用しました。

 その後、Fと私は同じ高校に進みますが、その学び舎でもふたりの間に交流は生まれませんでした。しかし、彼の存在が私の意識から消えることはなく、遠くから「星(スター)」のごとく見続けたのです。それは共に高校を卒業して大学に進んでからも続き、京都大学に入った彼が学生運動に関わり退学したとの噂を耳にした時は、「正義漢のあいつらしいな」と思ったものです。

 そんな彼とは奇縁でつながっていました。中高で交流が無かったのに、大人になってから何度もくにおみの人生劇場にFは登場しました。誰もが「そんな話、ありえないでしょう」と思うようなAとのエピソードは「青年期」の項で詳しく書きます。

 

 もうひとりくにおみに大きな影響を与えた美術教師のHは、出会った時から〝他の大人〟とは次元の違う空気を漂わせていました。

 Hの美術の授業は、「美術嫌い」のくにおみをも魅了しました。私は小学生の時から絵を描くことが不得手で、それを見る親や教師からほめられた記憶がなく、「下手くそ」の烙印を押され続けていました。そんな環境の中でくにおみが真面目に絵を描くはずがありません。当然のことながら通知表の成績も常に「2」です。それを最初目にした母親には「えっ、2なの?! あんた、授業中に何やっとるの?」と蔑まれ、鼻で笑われました。

 

 Hは出会ってすぐに「浅井、君の絵、私は好きだな」と言ってくれました。Hは一回目の授業で「絵の下手な人間はいない」と生徒に言っていたので、最初はそのほめ言葉を「誰に対しても言っているのだろう」と特別なものととりませんでした。ところが1学期の通知表を見てその言葉に嘘がない事を知ります。5段階評価の最高だったのです!

イラスト 3.jpg

 近くの種畜場で描いた私の絵も、Hは授業中に皆の前で絶賛してくれました。それは画用紙いっぱいに一頭の牛を描いたもので、勢いはあるものの優れた技術に裏打ちされているわけではありません。Hの評価を聞いて私の絵をのぞきに来た級友たちは複雑な表情で〝ふ~ん〟と言って納得できずに引き下がっていきます。

 でも、くにおみにとっては級友たちの反応はどうでもいい事。Hにほめられたことが重要、それが殊の外嬉しかったのです。くにおみとHの間に美術の授業以外でそれ以上のふれあいがあったわけではありません。それは学友Fに近付こうとしなかった心模様と通底します。 

 子供は大人のちょっとした声掛けに力をもらうものです。くにおみは他人から見ればどうということはないHの言葉と評価がきっかけでやる気に火が付き、それまで真面目に取り組んだことのない美術の授業を真剣に受けるようになりました。勉強全体にも良い影響を及ぼすようになりました。学ぶことに楽しさが増してきたのです。試験を受けるのが待ち遠しくて仕方がなかったのは、後にも先にもこの時期だけです。なかなか取れなかった「学年1位」の成績も〝副産物〟として転がり込んできました。

 

 しかしながら、そんな美術教師Hとも間もなくして別れる日が来ます。

 2年生の3学期も終わりになる頃、Hは授業の冒頭で「皆さんに話があります」と言い、いきなり「人生」を語り始めました。細かくは覚えていませんが、

「人生は一回勝負。誰にでもやりたいことに挑戦する権利がある。他人に遠慮して夢を捨てないで欲しい。岡崎は出る杭は打たれる保守的で常に同調を求められる所だが、それに負けないで自分に素直に生きていこう」

 といった内容の話でした。

 そして最後に、「私はこの春、教師をやめて東京に行き、プロの画家になります」と宣言したのです。うろ覚えですが、「二紀会に所属して活動するつもり」と言われたような気がします。 

「えっ、〝僕のH先生〟がいなくなる?!」

 Hの別れの言葉を聞いて、あまりの衝撃に頭の中が混乱。整理がつきませんでした。あれやこれや考えている内に「それではこれで私の授業は終わります。さようなら」とHは最後の授業を終えて我々の前から姿を消しました。

 それまでの8年間の学校生活で唯一最後まで好感を抱いた教師です。今考えても、なぜ彼の後を追わなかったのかは自分でも分かりません。職員室で話をさせていただかなかったことが我ながら理解できません。その時はとにかく足が動かなかったのです……。そして、心に大きな空洞が感じられるほどの喪失感だけが残りました。

 

 学友Fと美術教師Hに触発されたくにおみは、短い間に大きく変貌。

 「高校卒業後は岡崎を離れて大学は早稲田の政治経済学部新聞学科又は東大の文Ⅲに入り、東大の場合は『新聞研究所(現東大大学院情報学環)』で磨きをかける」「在学中または卒業後に米国留学」と決めて、そこに至るまでの工程表を作成しました。

 「克己(おのれにかつ)」と大書した工程表は次のような内容でした。

 

【中学最終年は、読書禁止。どんな状況でも二度と喧嘩はしない。「冷水摩擦5年計画」完結。ルーテル教会の英会話レッスンとラジオ英会話をやり遂げる。岡崎市主催の英語スピーチコンテストに3年連続で学校代表になって入賞する。筋トレと竜宮(遊泳禁止だった大平川の渓谷)での週2回の水泳。英米のペンパルを探して文通。弱点の理科を克服して高校は名古屋の旭丘か東海に入学。】

【高校のクラブ活動は柔道かラグビー。名古屋港に通って外国船訪問。そこで英語を磨く。世界中の船員と知り合いになる(当時の名古屋港は入国管理がいい加減で接岸された外国船に乗ることが出来た)。AFSの交換留学制度で米国留学を目指す。早稲田の新聞学科に入る。】

 

 そして母や兄の目に触れてはいけないのでそこには書きませんでしたが、心の中で「ストリップには行かない」と決意しました。

 中学3年生の目標の多くはほぼクリアしました。しかしながら、旭丘高校か東海高校に通いたいとの希望は、母親の「そんな余裕はうちにはない」のひと言で砕かれ、仕方なく岡崎高校入学を決めます。

 受験科目が9教科で、1教科でも零点をとると不合格との噂があり、母親は私立の受験を勧めましたが、「公立一本」で受験に臨みました。苦手の職業家庭科(現技術・家庭科)も付け焼刃でクリア。1963年春、岡崎高校の生徒となりました。

 

筆者注

 学友と美術教師の名前を伏せたのは、美術教師のご遺族とのやり取りの中で「知られたくない事実」があるかもしれないと考えたからです。学友についても、学生運動と大学中退の事実が不都合をもたらす可能性があると考え、匿名にしました。

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その他

第20回 「阪神大震災『活動記録室』誕生裏話」

 日本の代表的な防災工学者・室崎益輝さんから、NPO法人「市民活動センター神戸」(KEC:Kobe Empowerment Center)の総会が6月5日(土)に行われたとの報告がありました。

 実はこのKFC、

 いやこれではフライドチキンですよね。

 KEC。これは僕が言い出しっぺで作られた組織なんです。

 と言っても、ホントに提案しただけで、あっという間に僕の手から離れてしまったので僕が作ったと胸を張れるものではありません。僕が言い出したことをここまでにしていただいた多くの皆さんの力の結集に、これぞ「エンパワーメント」と喜んでいます。

 NPO法人「市民活動センター神戸」はNPO支援事業や調査研究事業、政策提言事業、東日本大震災支援事業など幅広い活動を行う団体で、その設立は1995年にさかのぼります。

ACT NOW 2.gif

 アレは、26年前の2月のことでした。

 阪神・淡路大震災が起きてひと月余り。

 神戸市長田区役所に設けられたヴォランティアルームには、いつものようにヴォランティア組織の代表が集まっていました。その数ははっきり覚えていませんが、30人近くいたと思います。

 会議が始まる前で雑談をしていた時、何人かが疲れきった表情で、「普賢と同じ轍を踏んでいる」「奥尻でも同じだった」と愚痴をこぼしていました。その人たちは、見るからに長年被災地支援活動に携わっている感じでした。「普賢」とは雲仙普賢岳の火砕流(1991年)、「奥尻」とは北海道南西沖にある小さな島を襲った地震災害(1993年)を指します。

 同席者のほとんどは僕を含めて“初心者”。“ヴェテラン”の話をただ聴くのみ。その場には一日の疲れもあって、どんよりとした重い空気が流れていました。

 

 気怠い空気を変えたくて、僕が口を開きました。

「だったら提案します。『各グループの地震発災直後から自分たちは、組織はどう動いたか』の記録を今からでも遅くありません。スタートからきちんと残したらどうでしょうか?」

「形式はいろいろ考えられます。例えば取材グループを作って対話形式の調査を行うのも良いですよね」

「得られたものをマニュアル化して冊子にし、ヴォランティアだけでなく行政関係者など誰でもがその情報を共有できるようにしたら良いんじゃないですか?」

 ヴェテランの人たちは何も応えません。あくまでも想像ですが、新参者の僕に対して違和感があったのでしょう。「遠くから来た年上のうるさいオヤジが放つ思いつきになんか付き合ってられないよ」といった雰囲気すらありました。

 気まずい沈黙と重い空気がその場を支配しました。

 その時です。まるでドラマのような展開がありました。

「浅井さんの言ってることは正しいですよ。なんでみなさん浅井さんの言うことを考えてみないのですか?」

 僕の左手奥から男性の声が上がりました。スウェーデン人留学生のケネスです。彼とはそれまでに挨拶をした程度。東大で研究する「学者の卵」くらいの認識しかありませんでしたから、突然の発言に驚きました。それは他のメンバーに強いインパクトを与え、その場の空気は一変。僕の発言は提言とされ、具体的な検討に入りました。

 担当するメンバーが決まり、僕を代表とする動きになりましたが、僕は神戸に常駐するわけではなく、関東と関西を行き来する“通いヴォランティア”。それに40代後半でしたから、なるべく早く誰か若い人に担ってもらうことを条件に「暫定代表」になりました。

新聞雑誌記事 4 読売新聞1995年1月25日.jpg

 地震発生後、僕は「ACT NOW」の仲間と、浦和と神戸をひと月に何回か往復していました。活動がスタートして何回目かの神戸訪問の時、W氏を紹介されました。

 W氏が活動の中心メンバーになっていると聞いてビックリ。仮にせよ代表の僕の承諾なしに知らない人が中核を担っているのはあり得ないこと。ただ、W氏の押しの強さを見て、さもありなんと追認せざるを得ませんでした。

 次に神戸を訪れた時、信じられない報告を得意満面のW氏から受けました。

「浅井さん、喜んでください。この活動を草地さんが引き受けてくださるそうです。お礼の挨拶に行きましょう」

 草地さんとは草地賢一さんのことで、まさに「神戸YMCAの顔」。この世界の重鎮で、ヴォランティア活動と行政の重要なパイプ役としても有名でした。それだけに異論はありませんでしたが、あまりに強引なやり方に驚かされたのは事実です。

 お会いした草地さんには「若い力で展開していただけるよう」お願いして、僕は活動から身を引きました。

 

 この活動は1995年3月に「震災・活動記録室」として正式に発足し、実吉威氏などの若い力が核となって着実な成長を遂げてきました。

 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/7-11/eqb22_051.html

 1999年10月に「市民活動センター神戸」に改称。そして今では、“災害列島”と化した日本にとってはなくてはならない存在になったのです。

 

 自慢話にもならない自慢話でしたが、最後に、市民活動センター神戸の設立趣旨をご紹介しておきます。

「市民が自発的に課題を発見し、それを市民なりのやり方で解決すること。行政や政治や企業活動を含めた望ましい社会のあり方について、発言し、行動し、仕組みを創りだしてゆくこと。市民には本来そのような力が備わっており、その市民自身の力以外にこの社会を住み良くしてゆく原動力はない」

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第23回 「三河管理教育① ~城北中学校初代校長・鈴村正弘」

 世の中が日米安保に明け暮れる1960年頃、岡崎では後に日本全国から「三河管理教育」と呼ばれて注目される動きが生まれていました。ベビーブーム(1947~49年。3年間出生総数約800万)によって児童数が激増。町の中心部にある竜海中学と葵中学の過密状態を解消しようと、新しい中学校創設構想が具体化していたのです。

 その名は岡崎市立城北中学校。徳川家康の生まれた岡崎城から数百メートルの場所ということもあり、計画段階から「どんな中学ができるのか」と世間は注目しました。

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 校長に選ばれたのは、鈴村正弘

 28歳で梅園小学校の教頭になり、31歳で葵中学校の校長に抜擢された教育界では知らぬ者がいない人物でした。葵中学では、就任早々「国際化するであろう世の中の動きに先駆けて」と、終戦直後に国際規格の50メートルプール建設を企画。文部省がカネを出し渋ると、自分で費用を集めて造ってしまうという荒業をやり遂げたことでも勇名をはせていました。

 教育委員会から「どの町にもない、理想の学校づくりをせよ」との命を受けた鈴村は、それまでに市内の学校を回り自分好みの教員28人を集めました。その中に、母千代子の名がありました。

 実は、鈴村と千代子には、その10数年前から縁があったのです。

 戦時中のことでした。岡崎の高等女学校を卒業した千代子は、当時名古屋にあった「愛知県女子師範学校」に入学します。そして、在学中に「教生(教育実習生)」として行った先の愛知県第一師範学校附属国民学校で鈴村と出会いました。実習クラスの担任が鈴村だったのです。

 千代子は女子師範学校卒業後、岡崎市内の学校に赴任しますが直ぐに「寿退職」。夫の赴任地の北朝鮮(ピョンヤン)に渡ったために、鈴村とは疎遠になります。しかし、夫の死後教員に復職した千代子はやがて鈴村と再会します。

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 そんな経緯から千代子は鈴村の寵愛を受け(愛人説もありました!ただし、それが事実無根なのは私が一番知っています。笑)、「城北創立28人衆」のひとりに選ばれたのです。

 おそらく鈴村の思惑があったのでしょう。人事発表はギリギリまで行われませんでした。表向きには1961年4月1日に全員が招集されて初会合とされていますが、選ばれた28人衆の“たたかい”は開校の61年以前から始まっていました。特に鈴村の息のかかった年長者は秘密裏に何度も会合を重ね、「学校づくり」を熱く語り、開校時にはそれまで何年も仕事を共にしてきたかのような連帯感が生まれていたのです。

 

 開校してからというもの、連日千代子は最終バスでの帰宅。男性教諭に至っては “シンデレラアワー”を過ぎるのが日常化します。その光景に周辺の住民は「不夜城の城北」とあだ名しました。

 鈴村の下に集まった教員たちは、平均年齢32.7歳と若かったものの(戦時中に教員だった者は3人)、軍国教育を受けて育った「戦中世代」です。欧米のものを含め多くの書物から「戦後教育」を模索しますが、鈴村を筆頭として教員たちの根底にある視点は戦前のもの。また、『修身教授録』『恩の形而上学』で知られる神戸大学教授森信三が「城北教育」の根幹に強く影響を及ぼしたので、基本姿勢が世間で言う「管理」に行きついたのも当然と言えば当然でした。

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 教え方の基本は、同じことの繰り返しと徹底的な暗記。記憶(知識)偏重教育と非難されようが、毎日のようにテストをして、それをまた週単位、月単位で試験を重ね、知識を詰め込んでいくのです。学内実力テストも頻繁に行いました。

 教育委員会が鈴村に求める「理想的な中学校」には、「ケンコー(県立岡崎高校のことを地元の人はこう呼ぶ)に何人合格させるか」が当然含まれていたと千代子は言います。実際に、そのやり方は功を奏して一年目から7、80人の合格者を出して教育関係者の度肝を抜きました。結果的にケンコーになんとか入れても授業についていけない生徒が続出。一部教育関係者は、妬みもあって、ひどいことにそれらの生徒たちを“絞り切ったボロ雑巾”と揶揄しました。

 この部分については、28人衆の子どもであり、彼らの同期生だった私が一番よく知っています。そう呼ばれた生徒たちのためにも同じ岡高生だった私が言っておかなくてはなりません。

 同級生を含めて周りに城北の卒業生は多くいましたが、それなりに存在感があり、確かに勉強に疲れ切った面はあったもののボロ雑巾のような生徒はいませんでした。

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 鈴村が厳しく当たったのは生徒だけではありません。教員に対する手厳しい指導もそれまでの常識をはるかに超えるものでした。

「子供の成績が振るわんのはお前たちの教え方が悪いからだ。もっと教え方を磨け!」

 と厳しく言い渡します。

 鈴村が突然教室に現れて授業を観察することもありました。「30分以上その場にいると、後で校長室に呼ばれるんですよ」と元教員が証言するように、鈴村の気に入らない授業をしていた教師は、後で校長室に呼ばれて授業の進め方から板書の仕方まで厳しい注意・指導を受けました。

 鈴村は昼食後にも予告なしに教室に姿を見せました。入ってくるなり生徒全員に弁当箱を机の上に出させて(当時給食ではなかった)中身を点検。「米粒が、おかずが残っとる」と生徒を斬り、返す刀で担任も「指導がなっとらん!」とバッサリ一刀両断したと言います。

 教員たちこそ教養を身につける必要があると、鈴村は「教員たるもの読書を怠ってはいかん。給料の半分とは言わんが2割から3割は本代に使え」と命じました。それを徹底させたかったのでしょう。定期的に読書会を開くようになりました。また、国語の大切さを教員に浸透させようと、俳句会をこれまた職員室でもうけました。このふたつの会は、形態こそ変わりましたが今も続いており、まさに鈴村の遺産と言えるでしょう。

 千代子は退職後、市内各地で俳句会の講師を務めるようになりますが、城北中学では94歳まで続けていました。

 

 城北の体育授業は軍事教練を想起させると言われましたが、確かにその指摘は当たらずとも遠からず。冬場に男子生徒を上半身裸でグラウンドを走り回らせる教員もいました。それに抗議してくる保護者もいましたが、「教員も同じ格好ですから」と鈴村はその抗議を一蹴したと言います。毎年大寒に行われる保護者を巻き込んでの「暁天かけ足」(60年後の今も続いている)はその象徴とも言えました。

 そうして鍛えられた生徒たちは運動部でも成果をあげて、市や三河地区、後には県や国で行われた競技会で突出して優秀な成績を収めて多くの優勝旗や表彰状を学校に持ち帰りました。

 その凄まじい「城北方式」が世間に知られるのに多くの時間を要しませんでした。経済成長が錦の御旗の時代です。世の中全体が競争原理に支配され、今だったらしごきそのものと批判されるであろう「東洋の魔女」(東京オリンピックで金メダルをとった女子バレーチームの通称)を「『為せば成る』のお手本」と崇(あが)める空気がありました。言ってみれば、世の中全体が“ガンバリズム”に包まれていたのです。当時は鈴村のやり方を受け入れる要素であふれていたのです。

 

 体罰は常態化していました。ただ、これは城北中学だけのことではなく市内の多くの学校で日常的に行われていました。保護者の中には「センセー、言う事聞かんかったら一発二発見舞ってやってください」という人が珍しくない時代です。教師たちは罪悪感なく往復ビンタを生徒のほおに見舞っていました。

 男性教諭に交じってと言うか、率先してと言うべきか千代子も暴力に頼る教師の一人でした。それも女子生徒ではなく、男子生徒に制裁を加えていたのです。

 私が高校に入って間もない頃です。後ろの席のアベ君が“ゲッ”と言ったかと思うと、「ねえねえ」と私に呼びかけてきました。振り返ると手には学校から渡されたばかりの生徒名簿があります。当時は個人情報の開示は普通に行われており、そこには保護者の名前や職業まで書かれていました。配られた生徒名簿の中に「浅井千代子 教員」という文字を発見、アベ君はピンときたようでした。

「あんたのお母さん、電気ババア?」

 いきなりの強烈な表現に、私が真意を測りかねていると、

「気が強いよなあ。だって、背伸びして番長に往復ビンタ喰らわしていたよ」

 それまでに千代子から何度もビンタの洗礼を受けていただけに、私はさもありなんと思いましたが、他の城北の卒業生からも何度も言われたので「体罰は止めなよ」と言ったことがあります。千代子の口からは「言って分からんだもん。体に教えてやるしかない」と予想した通りの答えが返ってきました。

 

 そんな状況もあって、全国の教育関係者が「城北教育」の現場をこの目で見ようと視察に押し寄せ、その名は全国に轟くようになっていったのです。

 全国的人気を追い風に、城北中学の校長を12年間務めた鈴村は、自らの理想を貫くために次の段階に入ります。1972年9月、任期半ばで退任、同年10月に岡崎市の三代目の教育長に就いたのです。しかも、突拍子もないやり方で教育界の最高峰に上りつめたのです(次回に続く)。

 

*写真は『城北十年』(1971年6月19日発行)から拝借いたしました。

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第24回 「三河管理教育② ~その裏側と国立研究所誘致」

 三河教育界の怪物・鈴村正弘は岡崎市教育委員会の教育長になるために奇手を繰り出しました。

 なお、ここに書く耳を疑うような話は、主にひとりの証言に基づくものであることを最初に記しておきます。

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 鈴村と〝二人三脚〟を組み、種々様々な教育行政を実行した元市長の内田喜久(よしひさ)に2017年、「鈴村さんとのエピソードをお聞かせいただきたい」と申し入れて話を聞きました。

 その時、1925年生まれの内田は92歳。かつては「ミニ角栄」と呼ばれ、切れ者と言われた内田も、寄る年波には勝てず年相応の記憶の衰えもあるだろうと思っていました。しかしながら、実際に会ってみると、記憶の正確さのみならず、その饒舌さや発するエネルギーは70代、いや60代と言っても過言ではないほど。こちらの質問に期待を超える答えで受けてくれました。

 

「鈴村さんはどうしても教育長になりたくてね。市議を全部イタヤに呼んで芸者を挙げて接待。教育長にならせてくれと、力を貸してくれと市議たちに頭を下げたんですよ」

 鈴村が教育長になるまでのいきさつを聞くと、内田はいきなりそう話し始めました。

 内田の話では、当時市議会が教育長人事にも力を持っていたとのこと。だから鈴村は市議たちの力を借りようと彼らを芸者接待したというのです。まあ、市議の中には共産党員もいましたから「市議全部」とは大げさでしょうが、当時の内田の勢い(前年の初出馬市長選挙では、現職の太田光二の34,705票に対してダブルスコアの73,275票を獲得)を考えれば、かなりの市議が内田の下に集まっていたことは間違いないでしょう。

 イタヤとはかつての花街・板屋町のことで、正式には龍城連と言いました。現在は住宅街に変容していてその面影もほとんど見られませんが、江戸時代から昭和まで、岡崎だけでなく周辺の町から多くの男たちが芸妓や娼妓を求めてにぎわう街でした。岡崎には4か所の花街がありましたが、中でもイタヤはその代表格でした。また、城北中学の学区に存在しており、鈴村がしばしば利用したという話もうなずけます。

 後年母千代子が私に「城北の運動会の来賓テントに白塗りのキレイどころ(芸者)が並ぶのよ。今だったら父兄(保護者のこと)やマスコミが大騒ぎだわね」と言ったことがありますから、鈴村が「芸者政治」を〝得意技〟の一つにしていたことは間違いないでしょう。

 芸者を挙げての工作を聞いて素早く反応したのが、鈴村の対抗馬と目されていた人物とそのグループだったと内田は続けます。

「『中日新聞に取り上げさせよう』と彼らはいきり立ったんだ。でも、対抗馬の女房が菓子折りを持って市議の家を回ったことが分かってね。その案は立ち消えになった」

 ただ、これは、鈴村を支持していた内田が反対派の動きについて語ったことです。この辺りのいきさつの〝裏どり〟しようと当時をよく知る人数名に確認を求めましたが、彼らの一部が1980年に起きた内田父子の買収騒ぎに関わっていたこともあるからか口をつぐんでしまい、そのいずれからも話を聞くことができませんでした。

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 いずれにしても、鈴村は希望通りに1972年10月、教育長の座に就きました。

「鈴村さんが教育長になってすぐにふたりで東京に行ったんですよ。いろいろあいさつ回りをしなければなりませんからね。前市長の太田光二さんが(在任中に)言ってた学芸大の跡地利用の話も形をつけなければいけません。太田さんの話では、上智大学が『岡崎キャンパス』を造る意欲を示しているということでした」

 学芸大学とは国立愛知学芸大学のことで、60年代まで本部キャンパスは岡崎市明大寺町に、分校は名古屋市に置かれていましたが、文部省の指導もあり、愛知教育大学と改称して統合されることになりました。それを受けて両市の感情的とさえ言える熾烈な誘致合戦が繰り広げられますが決着はつかず、折衷案として地理的に中間の刈谷市への統合・移転が決められます。そうして1970年、刈谷市に国立愛知教育大学が誕生しました。

「上智大学に行ってみると、びっくりしたことに、上智大学側は『何のことですか?』なんですよ。太田(光二・前市長)さんは嘘言ってたんだ、って分かってね」

 太田が嘘を言っていたかを確かめるために、後日、当時市政に関係していた人物に聞いてみましたが、〝上智キャンパス構想〟を詳しく覚えている人はいませんでした。「そんな話もあったような気がするなあ」という反応でしたから太田が上智側と正式な話し合いを持っていなかった可能性は十分にあるというのが、私の結論です。

 

 内田の話を続けます。

「それで困ってしまいましてね。鈴村さんと『どうしましょう?』ですよ。すると、鈴村さんが『親しい後輩が文部省で局長をやっとります。そいつにちょっと会いに行きましょう』と言ったんですよ」

 そう話す内田の表情がパッと明るくなり、面白い展開が次に待ち構えているということは明らかでした。

「その局長を文部省に訪ねて事情を話すと、『だったらちょうどいい話があります。実は、大規模な国立研究所を創る計画がありましてね』と言うんですよ。『いろんなところが手を挙げています。私が岡崎に持っていけるよう頑張ってみますから手を挙げてください』とも言ってくれました」。

 これだけを聞いて(読んで)も皆さんには信じがたいでしょうが、私が知る限り、鈴村正弘という人物は人たらしで〝奇跡を呼ぶ男〟。計り知れない幅広い人脈と〝ひきの強さ(強運)〟、それに加えた交渉上手で数々の軌跡を起こしてきましたから私には腑に落ちます。

 局長が持ち出したのは、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所などから成る国立科学研究所の構想でした。「自然科学の幅広い領域を研究対象」とするとともに、「国際的な研究活動をおこなう」目的で創られる日本を代表する研究者が集まる研究機関の創設は、内田と鈴村にとっては願ってもない話です。

 

 そのあたりの事情を同研究機構生理学研究所の初代所長であった江橋節郎は、鈴村正弘が他界した直後に出版された追悼集『櫻大樹』で次のように書いています。ちなみに、江橋は筋肉研究の世界的権威でノーベル賞候補にもなった生理学者です。

「岡崎の研究所の生みの親は、第二次世界大戦後の焼け跡の中から立ち上がり、復興の熱意に燃えた若い研究者達でした。彼らが我々も世界に通用する研究所がほしいとの要望から、各々手弁当で集まり、企画し学術会議に働きかけ、紆余曲折の末、やっと昭和42年(1967年)に通過し、昭和48年(1973年)には学術審議会が文部省に答申するところまでこぎつけました。

 その答申の情報をいち早く入手して、早速岡崎に誘致すべく熱心に行動を起して下さったのが、当時の教育長鈴村先生でした。そして文字通り全力投球、御自分でも生理学研究所十年の歩みに『教育長は東京から岡崎に出張しているなどと新聞に冷やかされたほど東奔西走の毎日でした』と書かれておられる程の御活躍ぶりでした。文部省への陳情はもとより、分子研の○○、基生研の○○、生理研の○○など、それぞれの担当の先生のところを廻られる周到な根回しぶりでした。すべて東京在住の方ばかりに御連絡をとる為には殆ど東京暮しとなってしまわれたわけです。」

 

 誘致に成功すると、鈴村は岡崎教育界の〝鈴村一派〟を総動員、研究所の立ち上げに全面的な協力を惜しみなく提供しました。研究者たちの家探しから子供たちの転校手続きまでありとあらゆることに「鈴村流おもてなし」が施されたそうです。

 1975年4月、最初の研究所である分子科学研究所が、旧愛知学芸大学の跡地に設立されました。

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 また、市民との接点も鈴村流のやり方で案出されました。

 市民大学の開講、研究所の市民開放、小中学校教員の研究所の利用等々、市民と研究所の懸け橋は鈴村の手によるものだ、と江橋は記しています。研究所は〝鈴村正弘〟と共に発展し、大型機器の予算が付くなど充実し、研究所に所属するスタッフも500人を超える大世帯となりました。

 そして1981年4月、分子研、基生研、生理研を統合した岡崎国立共同研究機構(後の大学共同利用法人自然科学研究機構)の創設にこぎつけます。学園・学研都市を自負してきた岡崎市にとっては願ってもない流れです。

 

 ところがその時すでに、研究所の誘致を推し進めた〝両輪〟に異変が起きていました。

 市長を務めていた内田は前述した選挙違反事件と汚職事件で前年に辞職。また、鈴村は前の月に起きた城北中学3年生の自死の対応に追われる毎日だったのです。(次回に続く)

 

*古い写真は『城北の歴史』(1984年3月14日発行)から拝借いたしました。

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第25回 「三河管理教育③ ~鈴村教育長とおかん、それに私」

 1972年だったと思います。日時が確かでないのは、私の当時の日記が行方不明になったことと、岡崎市教育委員会に問い合わせても「鈴村正弘教育長欧州訪問」の詳しいデータが何も残っていないためです。

 当時英国ロンドンで生活していた私のもとに母千代子から〝伝令〟が飛んできました。

「教育長になられた鈴村先生が近くヨーロッパを訪問なさいます。英国ではあなたがお世話をすると言っておきましたからよろしく。私たちの関係は絶たれていても、これは別問題。あなたが鈴村先生から受けた御恩は忘れないでそちらで返すように」

 千代子とはその数年前に対立が激化、親子関係を絶ちその後一切連絡を取っていませんでした。居場所についても知らせてありませんでしたが、母は私の友人から連絡先を聞きだして連絡してきたのです。

 鈴村にお世話になったと言われても、私にその記憶はありません。覚えているのは、中学高校時代に何度か城北中学の校長室に呼び出されてお説教を受けたことです。それを御恩と言い切る千代子に「相変わらずだな」と思いましたが、「教育長になった鈴村さんと会って日英教育談義をやるのも悪くないな」という好奇心がないわけではなく、受け入れることにしました。

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鈴村正弘と“おかん”(1965年)

 滞在していたホテルに行くと、鈴村は相変わらずの人懐っこい笑顔で温かく迎えてくれました。その手に左翼的論調で鳴る月刊誌『世界』を持っているのが気になりましたが、私からあえて触れなかったためか、話題になることはありませんでした(後になって分かったことのひとつですが、鈴村の知識欲には思想の境界はなく、俗に言う右から左まで幅広い層の人や書物から吸収していました。また人的交流もあったようです)。

 鈴村は私たち親子の関係修復を試みたかったようですが、私にその気がないと分かるとそこにこだわることなく、英国の教育事情を熱く語る私の話に耳を傾けてくれました。そして、翌日連れて行った現地校でも校長や教員の話を熱心に聴き、いくつも質問をしていました。その姿に、英国の教育環境の良いところがふるさと岡崎に少しでも生かされるのではないかと望みを持ちましたが、残念ながらその後ロンドンや東京に伝わってくる「三河管理教育」の現状にはその辺りの〝効果〟は認められませんでした。

 私がお世話をしたと言ってもその程度で、鈴村は翌日、次の訪問地に向けて慌ただしく旅立っていきました。

 

 しばらくして兄から結婚したとの報告が入りました。鈴村夫妻に仲人をお願いしたと聞き、千代子に押し切られる彼の姿を思い浮かべて「かわいそうに。でも、おふくろの言いなりになるのも兄貴らしいな」と思いました。

 鈴村は多忙を極めた時期なのにわざわざ長野にある結婚相手の実家にまで出かけて結納に同席したとのこと。彼の面倒見の良さには舌を巻きました。

 後に列席者から聞いたところによると、結婚披露宴では「ロンドンに留学している弟さんから祝福の国際電話が入りました」と司会者が紹介し、会場が盛り上がったそうです。結婚することさえ知らされていなかった私が電話を入れるはずがありません。また、義澄がそんな演出を思いつくこともありえません。その話を聞いた時には、義澄はすでに他界していましたから〝演出〟が誰によって考えられ実行されたのか確認できず、謎のままです。

 

 鈴村と私との再会は、20年後の、兄義澄が急逝した1992年12月19日でした。

 ひと月前に急性白血病と診断された義澄は、「おふくろを頼む」を遺言に、あれよあれよという間に病気を悪化させ他界してしまいました。

 妻子ではなく母親を心配して人生を閉じた義澄。それはもしかしたら敗戦直後の10か月間に及ぶ極寒の北朝鮮の逃避行(一緒に逃げた軍官舎の仲間の3割から4割が落命)で、生まれたばかりの自分を守り抜いてくれた母親との誰も入り込むことができない〝絆〟がそう言わせたのかもしれません。

 遺体が病院から実家に戻ると、さすがです。最初に家に来たのは鈴村でした。来たというよりも乗り込んできたという表現が合っているかもしれません。

「くにおみ、いいか、これは義澄の葬式じゃない。おふくろの葬式だと思え。明日の新聞に記事が載るようにしたから人がたくさん来る。大変なことになるぞ。手伝いを何人も送り込んでやるからそのつもりで頑張って仕切れ」

 そう言って玄関を去る鈴村に深々と頭を下げていた千代子は、振り向きざまに私に言いました。

「分かったわね。それじゃあ、よろしく」

「ちょっと待ってくれよ。それじゃあ兄貴がかわいそうだろう。兄貴にふさわしい送り方をしてやろうよ」

 と抗議をしましたが、母は聞く耳持たず。また兄嫁も夫婦関係に亀裂が入った状態でしたからどうでもよい表情を見せていました。

 

 鈴村は自分の所に出入りする記者たちを手なずけていたのでしょう。翌朝新聞各紙には兄の訃報が記事になって掲載され、実家の電話が鳴りっぱなしになりました。実は、千代子はその10数年前、岡崎市を含む西三河で初めての公立学校の女性校長になり、退職後は「婦人会館」の館長を務め、各地で講演を行う「女性のフロントランナー」として注目される存在だったのです。だから、新聞記事では、その長男が急逝したという書き方をされていました。でも、兄は会社勤めをやめて補習塾を自宅で開いていた〝名もない〟平凡な一市民です。新聞にその死去を報じられるような立場ではありません。

それを読んだ私は、「こんなクソ記事書きやがって」と兄の死を紙面に取り上げた記者たちをなじり、恨みました。

 昼を過ぎると、鈴村と共に学校の校長・教頭クラスの教員たちが実家に現れ、千代子と打ち合わせをして慌ただしく通夜の準備をしていきました。くそまじめで地味に生きてきた義澄には似つかわしくない派手な通夜になりそうな気配です。私は母を人目のつかないところに呼び出しました。

「いい加減にしなさいよ。兄貴がかわいそうじゃないか。やつは名もない平凡な市民だよ。あなたの見栄でこんなにして」

「仕方がないの。鈴村先生のお考えがあるんだから。この場は私の顔を立てて」

 珍しく懇願の表情を見せる千代子に〝母親の顔〟を見た私は、それ以上強くは言えずに、

「それじゃあ、せめて焼き場(火葬場)では僕と甥っ子たちの思ったような形で兄貴を送らせてもらうからね」

 とだけ言ってその場を離れました。

 

 高校生と小学生の甥には、

「焼き場では兄貴の好きだった歌で送ってやろう。やつが好きだった歌を10曲位選んでテープに録音しておいてくれるかな?」

 と頼み、通夜と葬儀は〝鈴村応援団〟の邪魔にならないように全体のまとめ役に徹すると心に決めました。

 案の定と言うか、予想をはるかに上回る弔問客が静かな住宅街に押し寄せました。返礼品が足らなくなり、3回追加注文するほどでした。通夜を行った部屋は、自宅を改造した塾の教室ですから一般的な家よりもかなりたくさん人が入れましたが、それでもとても全員は入りきれません。人の流れを作って順々にお帰り頂きました。

 式を始める直前に雨が降り出しました。外に並んで待つ方たちに挨拶をしていると、「大変。葬儀屋さんが怒ってる」とお呼びがかかりました。

 家の中に戻ると、叔父の一人が台所で「葬儀屋だったら天気予報を見てテント位用意しとけ!」と怒鳴り散らし、葬儀屋もそれを受けて「テントの注文は受けていない。そんな無理を言うんだったら引き揚げさせてもらう」とやり合っているではありませんか。「こんな時に問題を起こさんでくれよ」と思いながらふたりを引き離し、葬儀屋の言い分を聞き、説得にかかります。

「雨が降るなんて天気予報はなかったですよ。それをいきなり頭ごなしに怒鳴りつけられて……」

 と興奮して訴える葬儀屋の社長は好人物で話の分かる人でした。こちらの話をよく聞いてくれ、機嫌がなおり事なきを得ました。こういった時には人間性が出るものです。言葉を荒らげていたのは高校の教員をする真面目一徹の叔父でした。他にも親戚の何人かが何かと口をはさんで私を困らせました。その点鈴村応援団は手助けすることはあっても、余計なことを言ったりしません。とても助かりました。

 

 この一件を見ても分かるように、鈴村正弘という人物は、確かに一方的なやり方で物事を進めますが、状況を読む力、先見性、それに責任の取り方、いずれをとっても凡人ではありませんでした。それに比べ、一部の親戚は状況も分からずに口出しをしてくるだけです。その違いは明らかでした。

 通夜に来てくれた弔問客の中に本多康希(こうすけ)さん、「隣の康ちゃん」がいました(本多家の人々について書いた第9回第10回に登場)。30年ぶりの再会です。静岡の病院の勤務医になっていた康ちゃんは、仕事を終えた足で駆けつけてくれたのです。人込みの中に姿を見つけて近寄ろうとする私を康ちゃんは手で制し、義澄と最後のお別れをした後少し言葉を交わすとそのまま去りました。目が合った時、その目にはうっすらと涙が浮んでいました。心を揺さぶられた私は「こうちゃん、ありがとう」と、その背中に心の中でお礼を言いました。

 義澄の教え子たちも来てくれました。

 受験対策を主軸にして生徒を増やそうと言う兄嫁には耳を貸さず、義澄は頑固に「補習」にこだわりました。だから、生徒の中には当時問題視されていた〝茶髪の子〟もいました。そういった子たちが、おそらくみんなで話し合ったのでしょう。全員が500円玉を握りしめて、私の前に差し出してきたのです。私がその行為に胸が詰まったのは言うまでもありません。

 

 翌朝の荒井山九品院で行われた葬儀にも多くの参列者がありました。

 応援団を引き連れて鈴村が現れた時には、参列者の人波からどよめきが上がりました。元教育長というだけなのにまるで芸能人のお出ましです。しかし自分の存在はわきまえている方です。この場では出しゃばることなく、多くの事は語らずに葬儀が終わると静かに会場を後にしました(〝鈴村伝説〟では「どの様な場面でも傍若無人にふるまい、喋りまくってその場を去る」となっています)。

 葬儀や火葬を巡ってもいろいろな出来事がありましたが、その辺りは「壮年期」編で詳しく書くことにして、ここではこれ以上触れないでおきます。

 

 全てを終えて実家に戻ると、千代子が「明日鈴村先生の所へお礼に行くから同行しなさい」といつものように命令口調で言いましたが、私は「もう勘弁してくれよ。東京でやらなきゃいけない仕事が溜まっているからこのまま帰るわ」と断り、帰途につきました。

 葬儀を終えて、私はひとり静かにあの世に行った義澄と〝話したかった〟のです。鈴村との付き合いに疲れ切った私は、鈴村を前にして大人しく頭を下げ続ける自信がありませんでした。また、千代子に鈴村とじっくり話す機会を持たせたいという〝親孝行〟な気持ちも、その一方で心の隅にありました。

 こうして振り返ってみても、千代子(浅井家)にとって鈴村の存在の大きさは尋常ではありませんでした。10代後半で教生(教育実習)に行った先で訓導(指導)を受け、以来60年近く目をかけてもらった千代子が人もうらやむ教員人生を歩めたのも鈴村無くしては考えられません。

 兄の死から8年後、巨星はこの世から姿を消しました。享年83歳でした。

 千代子が、『櫻大樹―鈴村正弘先生追慕―』(2001年刊行)に寄せた追悼文にこんな記述がみられます。

「お世話になった長男が、平成四年に白血病で他界しました。逆縁ほど辛いことはありません。悲嘆のどん底だった時、先生は私の親しい人達に周りから支えてやるようにと、陰にまわって心遣いをしてくださいました。何かにつけて本当に長い間お世話様になりました」

 そして詠んだのが、

『大往生の訣(わか)れといえど夜長星』

 さらに、

「訃報が届いてすぐお宅に伺った時、先生の御遺体はまだ病院から戻っていらっしゃいませんでした。ふと庭を見ると、紅馬酔木(べにあせび)の花が真っ盛りで、その向こうの縁側の靴脱ぎ石の上に、昨日まで履いておいでだったであろう庭草履が、揃えられてありました」

 と書き、

『どこからか声聞こえそう紅馬酔木』

 と詠んで追悼文をしめています。

 

 鈴村が亡くなった時、千代子はおそらく私の鈴村に対する見方を誤解したのでしょう。私のもとには訃報が届けられませんでした。知らせを受けていれば当然葬儀に参列、お顔を拝見してお別れをさせていただきました。

 これ一つをとっても分かるように、この時点に至っても母子の心のボタンは掛け違ったままだったのです。

 

【これで「三河管理教育」の項はひとまず終わり、次回はまた「少年くにおみ」に戻ります】

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第29回 「【親バカ日誌不定期号①】広幡小オリンピック」

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 これは先日、小学2年生の息子から届いた運動会への招待状です

 あ、別居しているわけではないですからご心配なく^_^

 

 11月20日に開催された『広幡小オリンピック(超ミニ運動会)』では息子から最高の感動「金メダル」をもらいました。

 それがどんな内容であったかは、文末までの〝お楽しみ〟とさせていただき、先ずはこれまでの息子の生い立ちを書かせていただきます。

 

 息子は2013年に超未熟状態で誕生しました。生命の危機を幾度も経験して、その後も4か月半入院したままでした。入院期間を含めて計630日間酸素治療を受けており、当然のことながら強い行動制限を受けての発育でした。

 そんな運動不足の育ち方の代償は大きく、歩き出すのや発語など、ほぼ全ての面においてその成長は平均値からは〝2周遅れ〟です。

 ですから妻と誓い合ったのは絶対に「他の子と比較しない事」。彼の歩行を安定させて歩幅を少しずつ伸ばしてやる育て方に徹底しようと決意しました。

 歩行が不安定ですから〝当然〟よく転びました。僕は心を鬼にして、もちろん例外はありましたが、「自分で立ち上がろうね」と手を貸さないで自力で立たせるようにしました。それは、体力的な弱さはあっても「心」を強く持てる子になって欲しかったからです。周囲の人たちの目には「冷たい親」と映ったかもしれません。

 自分の子が転ぶのを心穏やかに見られる親などいるはずはありません。彼がバランスを崩すたびに肝を冷やしていました。

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 息子は幾度か、我々の前でこちらが声を出してしまうほどの転び方をしました。床にあったコンクリートブロックの角に顔を打ち付けたことがあります。己が老体に往時を彷彿させる俊敏な動きが戻った(つもり?)私は、この時ばかりは妻と共に彼に駆け寄って助け起こし、傷の確認をしました。泣き叫ぶ幼子の眉毛からまぶたには挫創が確認されます。数日後にはまぶたが殴られたように〝青タン〟で彩られました。傷が癒え内出血も収まり、「あんなこともあって肝を冷やしたね」という思い出になるには相当時間を要しました。

 

 あまりに頻繁に転ぶのでかかりつけのトヨタ記念病院や愛知県三河青い鳥医療療育センター(以下青い鳥)に何度も相談に行きましたが、答えは常に「正常」、「問題なし」との診断。

 計10回近くの診察と検査を経ても問題点はあぶり出されてきませんでした。「またですか?」と言わんばかりの呆れた表情を見せた医師もいました。そう。僕は大切なことは納得しないととことんまで追求します。シツコイのです(笑)。

 直子ママが聴いてきた青い鳥の理学療法士の講演でヒントを得た僕たちは、直接その理学療法士との面談を試みました。システム上それはできない、医師の指示がなければ不可能と最初は言われましたが、〝カケヒキ学の博士号〟を持つ僕は、あーだこーだと言って実現させました。

 そうして行われた3Gを使った検査により、左右の骨格筋量(体幹)のバランスが悪く、それが原因との診断が下されました。それからようやく青い鳥でリハビリを受けられることになったのです。

 

 リハビリに頼るだけでなく、彼に合う「楽しみながらやる方法」をいくつか考えました。自然に背筋を伸ばすようになるから茶道が良いのではと思い本人に聞くと、伝統文化や抹茶好きということもあり「やりた~い」との返事。ある人にお茶の個人教授をお願いしました。

 しかし、その先生は、息子の「教えられたくないモード」に手を焼いたのか、教え方に力が入ってない様子。しかも、何度もスケジュールを変えたりドタキャンしたりと我々には信じられないレヴェルの対応をします。結局「教育上よろしくない。良いお手本にならない」と退会させました。

 「空手をやってみたい」と言うので、体幹強化クラスを持つ空手家に見てもらったこともあります。グループ稽古を見学しましたが、ついていくのに難しそうなので、息子が納得した上で個人レッスンを選択しました。予想以上に素晴らしい指導をしてくださる師範でしたが、息子は「やめたい」と言います。どうやら「教えられること」が苦手な様子。始めて数か月でしたが、すぐに退会しました。

 次に、水泳に興味を示しました。見学・体験をした後入会しましたが、これもやがて難色を示すようになります。しかし、よく話を聞いてみると、水泳そのものが嫌なわけではないと分かったので、「ママやパパと一緒だったら泳ぎたい?」と聞くと、「それだったら楽しそう」との答えが返ってきました。そこで、週一回市営プールに親子で通うようにしました。

 彼の言葉通り、泳ぐと言うよりも「水と戯れる」ことが大好きな彼は、水を怖がったり嫌がったりすることはなく、我流の潜水(基本的に公営プールでは禁止だと思うので注意を受けない程度)や泳ぎを楽しんでいます。基本ができていませんからかなり頻繁に水を飲んで喉を詰まらせますが、ものともせずに息を整えると再びチャレンジする姿に「すごいガッツ。私には無かった」と直子ママは目を丸くします。

 

 「やめたいと言われて、なぜ直ぐに許可するのか」と思われる方も少なくないかと思われます。僕の小さい頃の〝常識〟は「石の上にも3年」で、何事でも3年間は頑張りなさいと言われたものでした。途中でやめれば、三日坊主の汚名を着せられました。当時のジョーシキで計ると、僕も三日坊主に見えたのでしょう。母親からしつこくそう言われて不愉快な思いをしたものです。あまり何度も言われるので、

「僕は冷水摩擦を毎日5年間やったよね。ラジオ英語もほぼ毎日3年やったよね。自主練も週2回2年間やり続けたじゃないか」

 と抗弁したことがあります。

 すると、「ああ、好きなことはね」と言い放たれました。

 そんな経験を持つ僕は、「三日坊主大いに結構」が持論で、親の仕事は子供が本格的に取り組むテーマを見つける手伝いをすることだと信じています。だから当然、教えてくださる方達への礼を失しないよう、その点には留意しつつ、息子の三日坊主ぶりはこれから何年続くか分かりませんが、付き合い続けるつもりです。

 

 履物も考えました。僕らが小さい頃に履いていた草履や下駄はどうかと目を付けました。足の指を鍛えるためです。

 幸いなことに、息子は岡崎市で唯一「鼻緒を挿げ替える(すげかえる)」履物屋『さくらや』さんご夫婦に、孫のように4年以上かわいがられてきました。

 「学校に行かないときは草履を履かないか?」と息子に水を向けると、二人が大好きなとしひとは、「さくらやのぞうりならはきた~い」と鼻緒に指を通しました。ただ、足の指の力が弱いため、すぐにずれてしまいます。そして転びます。それでも何度も何度も履き直す姿がいじらしくて目頭を熱くしたのは一度や二度ではありません。

 そんな思いまでして一年以上履き続けて、息子は今では靴よりも草履が好きな〝変な子〟になりました。当然のことながら指の力もつきました。階段の上り下りも、エレベーターにはなるべく乗らずに階段を使うようにしました。自宅は4階にありますが、体調を崩していたり、重い荷物を持っていたりする時を除き、ほぼ毎回歩いて上り下りします。

 最初は、階段を下りるのが苦手で我々の手や階段の壁を頼りにしていました。7歳の誕生日を過ぎてもそうでした。でも、最近になって自力で上り下りできるようになりました。幸いにして走ることも大好きで、バランスを崩したり転んだりしていますが、それにめげずに直ぐに起き上がってまた走り出す毎日です。

 このようにして進めてきた〝3人4脚〟の「少しずつ成長しようね計画」は紆余曲折いろいろありましたが、周りの方の温かい目もあって、これまでのところ予想以上に順調に進んでいます。

 

 お待たせしました。いよいよ感動の運動会です。

 昨年は徒競走では最下位でした。

 今年はコロナ対策で徒競走などの一般的な競技は行わず、15分間だけの「学年別超ミニ運動会」です。音楽に合わせてのダンス。徒競走の代わりの全員参加型のクラス対抗リレー。それに楽器演奏の演目です。負けず嫌いの息子にとってのメインイヴェントはクラス対抗リレーです。当日の朝は、走ることへの不安を振り払うかのように「絶対に1組は1位になるぞ~!」と張り切って出かけました。

 我々夫婦もスケジュールをやりくりして応援にかけ付けました。学年別に行われるイヴェントですから見学者も入れ替え制です。

 いよいよ2年生の出番がきました。我々の姿を確認して満面の笑顔で小さく手を振る息子の姿に直子ママは最初からウルウル。ミッキーマウスをテーマにしたダンスを、緊張からくるぎこちなさはぬぐえませんが無難に終えました。

 いったん座った後、全員が合図のもと、勢いよくリレーのスタートラインに走り出しました。

 その直後です。息子が蛇行して、後ろから来た男の子と接触。憐れわが子はその衝撃に耐えきれず、激しく転びました。ヴィデオ撮影していたので妻の様子は見えませんでしたが、その心配する表情は容易に想像がつきます。

 転びはしましたが、かなり痛かっただろうに息子はすぐに起き上がり、仲間の後を懸命に追いかけました。その姿はあまりにけなげで、僕も心を激しく揺さぶられました。妻が同じ心境であろうことは疑う余地もありません。

 対抗リレーでは転倒の影響も見せずに見事な(僕たち夫婦にとって)走りで、仲間の足を引っ張ることなくバトンタッチできました。結果は、僅差の2位でしたが、大健闘。力の限り拍手しました。大声で「よくやったあ」と叫びたいのを我慢しました。

 車に乗る前に彼の手足を見ると、先生にやってもらったのでしょう、3か所にバンドエイドが手当てされていました。

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