私の人生劇場

幼少期

第1回 「1944年4月8日、両親が結婚」

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 大日本帝国陸軍の精鋭騎馬部隊所属の父淺井俊夫は、“支那事変(日中戦争)”で中国最前線を転戦。格別の武勲を挙げたとして日本唯一の武人勲章である金鵄勲章(きんしくんしょう)を授与され、生まれ故郷では「村の誉れ」でした。

 今となってはその心の内を知るすべがありませんが、想像するに自分の遺伝子を残したかったのでしょう。敗色濃厚になった1944(昭和19)年4月、当時の赴任地であった平壌(ピョンヤン)から一週間の休暇を取って帰国。岡崎市の教員であった母千代子と実家(額田郡竜谷村。現岡崎市桑谷町)で祝言を挙げた後、新妻を伴って海峡を再び渡りました。時に、父24歳。母は21歳でした。新居には馬の世話をする兵士と現地人のお手伝い(当時は女中と言われた)が同居。「恵まれたお姫様のような新婚生活だった」と母はかつて述懐したことがあります。

 1945(昭和20)年1月に兄義澄がピョンヤンの軍宿舎で生まれますが、俊夫にはその翌月、京城(ソウル)への単身転勤命令が下ります。

 その半年後に終戦。俊夫は妻子を迎えに行く機会を得られぬまま、帰国を命ぜられます。父がどれほどの苦しみに苛まれたかは分かりませんが、帰国直後に軍服姿で千代子の両親を訪れ、「北朝鮮にふたりを迎えに行きます」と挨拶に行った(母方の叔父の話)ことから推し量ることはできます。

 俊夫は、戦時中に数々の武勲を挙げた村の誇りだった立場から一転、「妻子を捨ててきた穢れた英雄」となってしまったのですから故郷に戻っても「針のむしろ」状態で、どうしても救出に行きたかったはずです。しかし、教員から市会議員に転じていた義父の縫右門は、世間体もあってか俊夫の計画に猛反対。実行に移せば離縁すると俊夫の前に立ちはだかりました。「親は絶対」の時代です。俊夫は涙を呑むほかありませんでした。

 一方千代子は、侵攻してきたソ連軍を恐れて将校宿舎から乳飲み子を抱えて仲間数百名と共に逃亡。その後約10か月間、北鮮(北朝鮮)内を逃げ回りました。厳寒の地における逃亡生活は過酷を極め、多くの仲間が命を落としました。幼子(おさなご)も同様で、兄より年少の子は全て死んだそうです。

 九死に一生を得た千代子と義澄は1946(昭和21)年6月、夜陰に乗じて38度線を越えて南鮮(韓国)に入り、そこから帰還船に乗り、岡崎に帰ってきました。

 帰還船では、朝起きると目の前にいた同じ境遇の若い母親が乳飲み子を胸に抱いたまま冷たくなっていたと言います。遺体は海に投げられましたが、それまでは言いづらかったのでしょうか、10年くらい前にその時のことを話してくれた千代子は、私の前で涙を見せることはありませんでしたが、聴いていた私はその胸の内を考えると胸が詰まりました。

 九州博多港に着いたもののそこからの汽車賃は自己負担。10か月の逃亡生活で現金どころか貴重品もすべて使い果たしてしまった千代子は「国のために戦ってきたのに…」と力が抜ける思いがしました。

 幸いにも仲間の一人から借金することができ、汽車で郷里に戻ることができました。

 岡崎市の中央駅東岡崎に降り立った千代子は辺り一面の焼け野原に呆然とします。気を取り直して結婚前に住んでいた家(明大寺町)に行きますが、戦時中の米軍の空襲で跡形もなくなっていました。

 駅に戻り、さてどうしたものかと見渡すと、「竹内文具」の看板を掛けた掘っ立て小屋が見えました。教師をしていた千代子は、店の女主人とは仕事柄懇意にしていました。店内に入ると女主人から「齋藤先生、やっとかめ(久しぶり)。どうされたの?」と声を掛けられます。

 千代子のぼろぼろの服装と垢まみれの肌、それに背中におぶった生気を失った幼子は誰の目にも引揚者。

「わたし、ホクセンから帰ってきたばっかりなの。両親の家も焼けちゃったし、だんなの桑谷もどこにあるか分からなくて…」

 女主人と会話を続けていると、それを聞いた男性客(市役所職員)が「あんたたちのことは有名になっているよ。噂ではだんなさん、お二人の無事を祈って仏像を彫っておられるそうな」と言い、竜谷村の村役場に連絡をしてくれました。

 そうして両親は再会できたのです。

第2回→

第2回 「出生。一年後の父の死」

 再会した三人は岡崎市連尺町に新居を構え、再スタートを切ります。父は公職追放の憂き目に遭い希望した職に就けず、運送業(と言っても、大八車やリヤカーを使ったもの)を始めました。

 間もなくふたり目の子供(久仁臣)の妊娠が確認されます。しかし、それとほぼ同時に、俊夫が深刻な病に罹っていることが分かります。腸結核でした。主治医の冨田清(世界的音楽家冨田勲の父)によると、戦地で以前肺結核に罹っていたものの重症化せずに気が付かず、腸に転移したのではないかとの診たてでした。

「アメリカにはペニシリンという薬がある。それさえあれば治るのだが」

 と冨田医師は悔しそうに千代子に語ったと言います。

 軌道に乗りかけた事業も暗転。

「結核と分かると、それまで出入りしていた人たちはぱったりと姿を見せなくなるわよね、当然だけど。でも、何よりそれがつらかった」

「赤ちゃんができたからおなかが空いて仕方がなかった。とにかく町にはどこも食べるものがなくてね。連尺や康生を大きなおなかを抱えて知り合いの所に物乞いに行ったよ。何度も気を失いそうになりながら」

 かつて母はその頃を思い出して懐かしそうに語ってくれました。

「甘いものが大好きだったから食べさせてあげたいんだけど何もなくてね。ある時、『大福が食べたいな』とお父さんに言われたんだけど、手に入らなくて…」

 その言葉を受けて、俊夫の命日には毎年、大福を墓に供えるようにしています。

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 1947(昭和22)年9月17日、私が生まれた時、隣の部屋で俊夫が病に伏していたそうです。そして、私が最初の誕生日を迎えたひと月半後、「お前には本当に苦労を掛けるな」との言葉を遺して父はこの世から去りました。齢(よわい)28の若さでした。

 家族会議が開かれ、住んでいた家を売却。一家三人は父の実家の世話になることになりました。

(写真は1948年12月に売却された生家の権利証)

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第3回 「時代に翻弄(ほんろう)された幼少期」

【本文に入る前に】

 ここで書くことは、私を知る人には驚きをもって受け取られるでしょう。

 私はこれまで「どんな時にも明るさを忘れずにエネルギッシュに生き抜く姿」を見せようと、昭和、平成そして令和を駆け抜けてきました。「ジャーナリスト、教育者、社会貢献活動家の三足のわらじ」を履くようになったのもその結果です。そんな私の姿に共感して仲良くなってくださった方も少なくないはずです。それだけに私の人生の「負の部分」を発表することにためらいがなかったわけではありません。しかし、成長期において深く傷つき、時に屈折してひねくれた姿も「浅井久仁臣」そのものです。劣等感と優越感が極端に混在する若者に力を添えてくださった多くの皆さまとの交流が私の人生のダイナミズムを形成し、「多くのコンプレックスを抱えた三河の山猿」から「うるさいほど自信に満ちた国際ジャーナリスト」に仕立て上げていったのです。読者の皆さんにはその部分も共有して実像に近付いていただき、『浅井久仁臣 人生劇場』から何かをつかんでいただこうとあえて書くことにしました。

 

【本文】

 俊夫の実家に入った千代子は地元の竜谷小学校から復職の誘いを受けて教員に復帰しました。

 千代子にとってふたりの子育ては負担が大きいと判断した親族は会議の結果、暴れん坊で手に負えない次男坊の私を他家に養子縁組する断を下します。(注)

 段取りが整うまでの間、4歳の私は遠く離れた南設楽郡作手村(現・新城市)の千代子の実家に預けられました。実家は、祖父母、曾祖父、叔父(長男)夫婦にその長女、それに叔父叔母が5人と総勢11人の大所帯でした。

 そこにいたずら坊主の私が加わったことにより、当時は終戦後の混乱に加えて朝鮮戦争の影響もあって食糧事情が相当ひっ迫しており、ただでさえ余裕のなかった人たちの生活がさらにギスギスしたものになっていました。

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 特に、育ち盛りの叔父ふたり(当時小学校高学年と中学生)にとっては、私がいることで自分たちの食べる分が削られることになったわけです。彼らが私を歓迎するはずはなく、「邪魔な存在」に対するイジメを始めました。いくら暴れん坊でも4歳です。年長者に敵(かな)うはずはなく、心が傷つきやがて円形脱毛症になりました。診療所に連れていかれ脱毛した頭の患部に注射を打たれるのは、幼かった私には地獄の苦しみ。その痛みとそれに伴う恐怖は70年近く経った今でもハッキリと記憶に残っています。

 しかし、実は信じられないことですが、そうした円形脱毛症にまつわることは憶えていますが、イジメを受けたこと自体、約10年前まで私には全く記憶にありませんでした。そんなことがあるのかと不思議に思われるかもしれませんが、本当に覚えていなかったのです。

 では、なぜイジメと断言するのか?

 

 それは私が還暦の頃のこと。

 東京に住んでいた叔父のひとりが末期がんでホスピスに入所している時、子供の頃の私に対するイジメ行為を告白したのです。彼の妻である叔母が認知症になっていたこともあり、私は時折、彼の自宅やホスピスに出かけて買い物や食事の世話をしていました。

「俺たちは子供のころ、お前にあんなに酷いことをしたのになんでこんなに良くしてくれるんだ?」

 ある日叔父はベッドで体を起こすと、そう聞いてきました。

 私は、困っている近親者に手を差し伸べるのは至極当然のことと思いお世話していましたが、後ろめたさを持つ叔父には不思議でならなかったようです。

「イジメられていた?それも身内のこの人に?」

 私は自分の耳を疑いました。

「そういうことだったのか!それで苦しかったのか、脱毛症になったのか!」

 その告白にそれまでの謎が一挙に解けた気がしました。だから叔父にはそれに対して怒るのではなく、感謝の念を伝えました。 

 でも疑問は残りました。

 ならばなぜその記憶が自分にないのか?という疑問です。「幼児性健忘」と思いましたが、それでは説明がつきません。

 その後いくつかの専門書を紐解いていくと、「解離性健忘」に目が止まりました。

「そんなこともあるんだ」

 その記述を読んで腑に落ちた気がしました。

 話を当時に戻します。

 祖父母の家に一時的に預けられていた私に、千代子は時折り、会いに来たようです(これも記憶にありません。母や親族から聞いた話です)。でも、「なぜおかあちゃんとおにいちゃんと一緒に住めないのか」を理解できなかった4歳児が親に見捨てられたと感じるのは普通です。やがて訪れる千代子を遠ざけるようになったそうです。

 会っても寄り付かない我が子に目が覚めたらしく、千代子は養子縁組を解消、私を再び自分の手元に戻しました。

 

(私が「養子に出されそうになった」ことを知らされたのは、中学生の時でした。反抗姿勢に手を焼いた千代子は私の頬にビンタを見舞った後、「あんたなんかは養子に出しとけばよかった。かわいそうだと思って養子の話をやめてやったのに」と言ったのです。それを聞いた私は、すべての時が止まったような気がしました。私の反抗は確かに度を越していました。激務を抱えて最終バスで帰宅する毎日の千代子は、おそらく心神耗弱と言っても過言ではないほどでした。しかし、子供にとって親の愛情は絶対です。母親の心無い発言は、幼児期のつらい体験に加えて多感な思春期の私を苦しめることになります)

 

 再び一緒に住むようになっても、「男は泣くな!女々しいことを言うんじゃない!」「ててなしご(父親のいない子)は世の中で馬鹿にされます。しっかりしなさい」と兄や私を叱り、時に体罰を加えてくる母に、私は心を開けなくなっていたと思います。だから、叔父たち(母の弟たち)から受けていたイジメのことを言っても信じてもらえないとあきらめたのでしょう。私はその事を母に打ち明けることなく、これはあくまでも私の推測ですが、イジメられたことも時間の経過とともに記憶から消えていったのではないでしょうか。

 しかし受けた心の傷は容易に癒えるものではなく、当時は毎夜のように“おそがい(三河弁で「恐ろしい」)夢”に悩まされ、寝るのが怖くなった時期が長く続きました。一度母に悪夢で苦しんでいることを訴えましたが相手にされず、二度とそれを口にしませんでした。その代わり、父方の祖母こまに話を聞いてもらいました。

 今でも祖母との会話とその光景をいくつかはっきりと記憶しています。

 私がイジメを受けていたことは当然知っていたのでしょう。不憫(ふびん)に思っていたはずです。

 こまは落ち着いた口調で「こうやってごらん」と枕を叩きながら「おそがい夢は見ませんように」と呪文を唱えてくれました。

 

 それから数年後、後述しますが私は肺浸潤に罹り半年間入院します。その時付き添ってくれたのが祖母で、毎夜「おそがい夢を見ないようにお願いして」とせがんでいました。

 ところがしばらくして無理がたたったか祖母が別の病院に入院してしまいます。見舞った彼女の前で涙を見せる私に、母たち大人は「やっぱりおばあちゃんっ子だね」と半分からかうような言い方で笑いましたが、私は呪文を唱えてくれる祖母がいなくなるのが怖かったのです。残念なことに、祖母はそれからしばらくして他界。私は大きな後ろ盾を失ってしまいました。

 

【あとがき】

 母や親族へのうらみつらみに思えるような内容でしたが、私にはこれらの人たちに対する感情的なしこりは全くありません。

 それは、私の人生に関わった大人たちにとっては当時の常識に従って判断したものであり、悪気があっての行動ではなかったからです。また私につらく当たった叔父たちに関しても、理不尽な「大人の都合」を押し付けられたから「そのはけ口」として私を標的にしてしまった可能性が高いからです。

 いずれにしても、「時代」がそうさせたと思います。「おんな・こども」に人権はないも同然で、男社会の論理でものごとが進められていく時代がいかに醜悪であるかその一端をお分かりいただけたと思います。ここから私たちが学ばなければならないのは、女性はもちろんのこと、子供もひとりの人間であり、形やレヴェルはいろいろにせよ、基本的には「女性や子供の視点」が生かされていく社会づくりに努力していくことの大切さです。間違っても「古き良き時代」などと言って懐かしんだり、その再現を願ったりしてはなりません。

 

【注 養子】

  日本には伝統的に世継ぎ(男子)に恵まれぬ夫婦が、「家系を断絶させないため」に男子を欲しがりました。余裕のない親が次男以下を養子に出すことは珍しくなかったのです。

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第4回 「5歳児の決意」

 母千代子の実家から、再び竜谷村の父の実家に戻された私は、息子がいない伯父に我が子のようにかわいがられたことで安心を取り戻しました。伯父を「おとうちゃん」と呼ぶよほどの懐きようでした。そんな弟をこころよく思わない兄は何度も「おとうちゃんじゃない」とたしなめましたが、呼び方を変えることはありませんでした。

 心が安らぐようになっても時に不安に襲われます。親に甘えたい時期でもありました。しかし、千代子は常に背筋をピンと伸ばして「淺井家の男は武士。弱音を吐くな。泣くんじゃない。涙を見せるな。頭の上からお父さんが見てるからね」とけんもほろろでしたので、彼女に心の内を吐露したことはありません。

 家長の祖父米太郎も幼い私の心に配慮を見せる人ではなく、階段から転げ落ちても「うるさい!」と怒鳴る人です。5歳児の顔を見ると、何かと苦言を口にしました。今思い返しても米太郎との楽しい思い出は何一つ思い浮かびません。

 

 俊夫の実家は室町時代から広大な田地田畑と山林を所有していました。しかし、米太郎とその弟が稀代の遊び人で毎夜の芸者遊び。私を取り上げてくれた産婆(助産師)は、米太郎に水揚げされた元芸者さんだったというから話になりません。

 また、淺井家は代々華道遠州流の家元で、米太郎は当時岡崎にあった日清紡績の女工さんを教える立場にありました。後になって聞いたことですが、彼は何人もの教え子と関係を持ってトラブルが絶えなかったそうです。

 派手な女性関係による散財に加えて、私が生まれた年から実施された農業改革(地主制度の改革)で、淺井家所有の山林や田畑は大幅に縮小。私が居候として入った頃には自宅の敷地も削られ、住居も小さくなっていました。

 破産状態にあって夜遊びがままならなくなった米太郎は、朝から晩まで長火鉢に座って家族の動きを監視。なんやかやと口出ししていました。孫、特に男子には厳しく、叱られた思い出しかありません。

 それを受け継いだのが俊夫のすぐ下の叔母でした。口を開けば、「淺井家の格」。そして学歴の大切さ。

 叔母は「淺井家の男が大学に行くんだったら東大しかない」と言ってはばからず、当時はまだ珍しかった教育ママを貫き、息子をめでたく東大に入れます。彼女の息子、つまりは私のいとこはのちに東海村の原子力研究所(現原子力科学研究所)所長を務めるなど日本の原子力推進の貢献者の一人になります。

 ただ、彼とは成人してからも交流がありましたが、2011年の福島原発事故の際に意見が真っ向から対立。その後は音信不通となっています。

 その叔母が、東大は出ていなかったものの「淺井家の男」として認めたのは、トヨタ自動車でハイラックスの5代目開発責任者であった浅井重雄です。ただ、年が離れていたこともあり、私にとっては近寄りがたく、「遠くから眺める存在」でした。

 

 “おとうちゃん”のことは大好きでしたが、俊夫を慕う気持ちは日に日に増していき、周りの大人に「お父ちゃんの話をして」と聞いて回るようになりました。

 すると、大人たちは一様に「俊夫さんは本物の武士だったな」と言いながら、自分たちが知る俊夫像を話してくれました。一部の人は「(淺井)長政の生まれ変わりだったよ」と言う人もいたりして、幼かった私の頭は大混乱。

 大きくなってから整理してみると、私の祖先が室町時代に近江から流れてきていて(竜谷村史から)、それが歴史上の人物「淺井長政」の親族であったとどこかで言われるようになり、偶然父が武道の高段者の青年将校で中国戦線において武勲を挙げ、死んだのが長政と同じ28歳。そんな事実と与太話とがないまぜにして語られるうちに、いつの間にか前述の話が事実であるかのように言われるようになったということです。

 そして中には、「俊夫さんは『武士は他人に腹は切らせません』と腸結核の手術を断った」とまで言う人がいました。後日談ですが、母にその辺りを質(ただ)したところ、「それはない。手遅れだった」とにべもない(そっけない)答えが返ってきました。

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 父の実家の近くに広忠寺という松平・徳川家由来の寺があります。その寺は読んで字のごとく、徳川家康公が父松平広忠を菩提するために建てたものです。そこには、広忠と結婚する予定であったお久の方と、ふたりの間にできた勘六と恵最(えさい)が住んでいました。ふたりは家康公の異母兄弟ということになります。勘六はのちに松平忠政を名乗り、「桑谷松平3000石」の旗本になり、徳川家臣団に名を連ねます。家康公と同じ年の同じ日に生まれたと言われる恵最は、僧門に入り、樵暗恵最(しょうあんえさい)と名乗ったと「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」などにあります。

 

 その広忠寺に時折、村の戦争体験者たちがたむろして体験談を語り合っていました。私はそこによく顔を出しては前述したように「お父ちゃんの話を聞かせて」とせがんでいたのです。

 いろいろな話を聴くうちに、「戦争がお父ちゃんをうばった」と勘違いした5歳児は、「だったら戦争をなくしたい」と思うようになりました。

 そんな思いに駆られるようになった私はある時、「おとなになったら戦争をなくす仕事がしたい。どんな仕事があるの?」と元日本兵たちに聞きました。

 すると、ふたりが「そうだな。新聞記者だな」と教えてくれました。

 ふたりにすれば軽く思い付きで答えたのでしょうが、真に受けた少年くにおみは、それからことあるごとに「僕は新聞記者になる」と言うようになりました。 

 彼らの言葉は私にとって、体の芯にまでずしんと来る重さで響ました。それからどんな苦境に直面しても「お父ちゃんのために記者になるんだ」と頭の中で呪文のように唱えて自分に言い聞かすのでした。

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少年期

第5回 「1年に2度の生命の危機」

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 やがて実家を出て、近くの小さな借家で親子三人の生活が始まりました。

 村で知らぬ者がいないほどのわんぱくになった私は美合保育園に通い始めましたが、数日で手に負えないからと放園処分になります(国語辞典に学校をやめさせられる放校はありますが、放園はありませんでした)。 

 時間を持て余した5歳児はちびっこギャング集団を作り、常に10~15人を引き連れて行動していました。

 小学校に入ってもエネルギーにあふれ、規律ある集団生活になじめなかった私は、担任と母千代子の頭を悩ませます。

 

 同じ小学校で教員をしていた千代子は言います。

「覚えてる?あんたがたくさんつくしを採ってきたから、たーやん(隣家に住む大家。独居老人)に聞いたら、『くんちゃんは家来をたんぼに引き連れてきて採れーと命令。ほうする(そうする)とみんなが散らばってあぜ道でつくしを採る。それをぜ~んぶ自分で独り占めした』って言ってたのよ。私、恥ずかしくって穴に入りたかったわ」

「あんたが入学したての4月。2年生の担任だった私が授業をしていると、校庭をひとり走り回っている男の子がいたのよ。見れば我がバカ息子!授業を終えてミツ先生(私の担任)に聞くと、『なんでもすぐにやっちゃう子だからね。テストだったんだけどすぐにやり終えて騒ぎ出すから外に出してしまったの』と言われて申し訳なくてね」

「たーやんの家に入って、たーやんが大事にしていたお菓子を全部食べた時は『これを許しちゃえらいことになる』と柿の木に縛り付けたけど、あんたは頑として謝らんかった。たーやんが『先生、許しておくれましょう』と半分泣きながら訴えてきたけど、ここは正念場と聞き入れなかったら、たーやんはあんたに『くんちゃん、謝りん(謝ろう)』と寄ってってさ。謝るきっかけを作ってあげてるのに謝らなかったね」

 

 「やることなすことすべてがマイペース」「人の言うことを聞かない」「周りを笑わすことに夢中で空気を壊す」…ミツ先生からは保育園と同じ指摘がされたそうです。現代なら間違いなく何らかの発達障害の病名がつけられていたでしょう。

 また、態度の大きさも半端ではなかったようです。生意気な一年生は、授業が始まる前に毎日、教室と廊下の間仕切りに腰を掛けて、行きかう生徒や教員ににらみをきかせていました。

 ある朝、「くんちゃん、おはよう」

 通りかかった男性教諭があいさつしました。

「ああ、安藤寅男か」

 私はあいさつ代わりにそう答えました。

 安藤先生はその態度を面白がって職員室に戻ると、「くんちゃんは面白い子ですね」と千代子にあったことをそのまま伝えたそうです。

 自分の尊敬する先輩に対しての、息子のとんでもない無礼な態度に千代子は怒り心頭。帰宅するなり烈火のごとく私にカミナリを落としました。

 

 実はこの話にも後日談があります。

 時は半世紀以上飛んで、場所も埼玉県北部にある山の中の一軒家でのこと。そこは、友人が運営する『茜の里』という「障害の種類や有無にこだわらない交流ができる宿泊施設」。理事たちが泊りがけで集まる年次総会で講話をしてくれと頼まれ、直子と出かけました。ひとり遅れて到着した理事がいました。

「○○さんは、岡崎の方ですよ。岡崎高校出身です」

 理事のひとりが教えてくれました。がやがやとしていて名前が聞き取れませんでしたが、流れを止めたくなくて相手がこちらの席に来るのを待ちました。

「岡高の何回生ですか」

 目の前に座った相手にいきなり尋ねました。

「20回です(生まれた年で答えられたかもしれません)」

「ふたつ下ですね。部活は?」

「柔道でした」

「え?僕も柔道でしたよ。ただし、2年生後半で退部したから重ならなかったですね」

「学区は?」

 岡崎というところは、出身小学校で出自を表します。

「山中です」

「なんだ、僕は2年生の途中までだけど、お隣の竜谷でしたよ」

「え?だとすると、父親をご存じですか?」

「え?お父様のお名前は?」

「安藤寅男です」

 びっくり仰天です。

「え~~~っ!あの安藤寅男先生の息子さん???」

 私の驚き方に相手もびっくりです。そりゃそうです。岡崎でならあり得る話ですが、遠く離れた関東の山奥です。奇縁に驚きました。安藤さんに小学校の出来事「安藤寅男事件」を話したら嬉しそうに聴いていただきました。

 でも話を進めるうちに、残念ながら安藤先生がもうこの世の人でないことが分かりました。後日、千代子にその夜の報告をすると、彼女が電話口で声を弾ませたのは言うまでもありません。

 

 一回目の「生命の危機」はその直後に身に降りかかりました。

 小学校一年の5月、九死に一生を得たのです。

 事件が起きたのは、5月10日でした。季節外れの暑さに私は子分たちに「川で泳ぐぞ」と言い、竜泉寺川に連れて行きました。今でこそ小さな川ですが、当時は”暴れ川”として知られ、子供だけでなく大人も泳ぐ水量の多い川でした。

「おかあちゃんがここは深いし危ないから泳いじゃあいかんと言っとったよ」

 と一人が言いましたが、私は意に介さず。やおら服を脱ぐと水の中に入っていきます。

「浅いぞ、浅い。ついてこい」

 と言いながら歩を進めます。実は当時、私はまだ泳ぐことができませんでした。浅瀬でパシャパシャやっているだけで泳げると勘違いしていたのです。

 ズボッ!

 と音がしたわけではありませんが、頭の中ではそんな音がして全身が水の中に引きずり込まれました。がむしゃらに手足をバタバタさせましたが、体は深み(駐在調べで9尺約2.7メートル)にはまっていきます。泳げなかったから当然と言えば当然です。

 人生で初めて死への恐怖を感じた瞬間です。必死にもがくうち、体がふいと浮きました。4本の救いの手が伸びてきたのです。

 記事にある年齢は、私を含めて間違いで、ふたりの命の恩人は4年生。私は1年生でした。(写真の新聞記事。もう一つ毎日新聞の記事があったのですが、行方不明デス)

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 またまた後日談ですが、それから60年後。故郷に戻った私は恩人に会ってお礼をしたいとお二人をたずねました。しかし、残念ながらお二人ともこの世の人ではありませんでした。

 鈴木さんのお宅には今もその時に授与された表彰状が一番目立つところに掲げられていました。それから墓参りをさせていましたが、つくづく「この方たちに命をいただいているんだな」と感じました。

 

 溺れかかった日から約半年後に再び生命の危機が訪れました。

 当時はとにかく食糧難。「欠食児童」という言葉が日常的に使われていた時代でした。田舎でも大して変わらず、腹を空かせた子供たちは野草や昆虫も口にしていました。川で撮れる魚特にウナギは最高級品。田んぼでタニシを、小川や池でザリガニを、また野原でバッタを捕まえてゆでたり煮たりして空腹を紛らわしていました。

 そんな状況です。いたずら盛りの私は常に何か口に入れるものはないかと周りを見ていました。

 近くのよろず屋(何でも売っている店)では、長火鉢が置いてある「上がり框(かまち)」で酒を提供していました。仕事帰りの男たちは、そこでちくわをあぶりながら、ちびりちびりと美味しそうに酒を嗜(たしな)むのです。「うっめえなあ」と言いながら飲むその表情に、「早く大人になってちくわを一本丸ごと食べたいな」と憧れのまなざしで見ていました。

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 そこで大人がヘボ(蜂の子)を食べている姿に触発された私は、小学校一年生の身で大胆にも近所の家にあったスズメバチの巣に挑戦してしまいます。

「ひとりでヘボを独り占めにしたい」と、長い棒を持って抜き足差し足で巣に近付いたところまでは憶えていますが、その後の記憶はありません。母親の話では全身を刺されて真っ赤にはれ上がったそうです。高熱を出して冨田病院に担ぎ込まれ、清先生(院長)の素早い手当で一命をとりとめました。

 そんな破天荒な息子にいや気がさした千代子は翌春から遠く離れた福岡中学に職場を移し、自転車で通うようになります。

「あんたは何をしでかすか分からないから、一緒の学校で働くことがイヤで嫌で仕方なかったの」――このセリフをこれまで何度聞かされたか分かりません。

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第6回 「馬車に揺られて聞く亡き父の話」

 小学2年生になると私のいたずらはさらに度を強くして村や小学校で我が物顔。周りの顰蹙(ひんしゅく)を買っていたようです。担任の女性教師は新任でしたので、母に言わせると「あんたのせいでノイローゼ状態になった」そうです。

 それとは別に、私の父親像を求める想いは増すことはあっても弱まることはありません。父の話を求めて村中を聞いて回っていました。農作業に追われる村人たちには迷惑だったと思われます。ただ、中には温かいまなざしでつき合ってくれる大人もいました。そういう人にはしつこく付きまといました。

 特に、竜谷村から美合町に通じる幹線道路(と言っても、砂利道)を通る一台の馬車が私のお気に入りで、時には道端で待ち伏せすることもありました。遠くから"シャンシャンシャン”と鈴の音を響かせながら、車輪が砂利をかむ音を立てて馬車が近づいてくると、「あ、しんやさんだ!」と久仁臣少年の目が輝くのでした。

 

 しんやさんは、馬車の荷台に桑谷の山から切り出した木を積んで美合に向かっていき、帰りは荷台を空にして戻ってくる運送屋さんでした。

「よ、くんちゃん」

「しんやさん、乗せておくれん」

「もちろん。さあ、乗りん」

 いつもそんな簡単なやり取りをすると、私はしんやさんの隣に座り、「ハイドー!」と手綱を馬に振り下ろすしんやさんに合わせて「ハイドー!」と黄色い声を上げて砂利道を揺られるのでした。しばらくすると、しんやさんが定番の歌を歌います。

「陸軍の 乃木さんが 凱旋す すずめ ロシヤ 野蛮国 クロポトキン♬」

 その後に続く節が大好きで、そこから私も加わり、

「きんた~ま まっくろけ 毛が生えた たかしゃっぽ ぽんやり りくぐんの~」 

 と大声を張り上げます。

 

 しんやさんは父俊夫を憧れのまなざしで見ていたようで、

「おれなんか、俊夫さんにまともに話せんかった。憧れとったからね。若いころから相撲は横綱だったし、柔道や銃剣術もこの辺じゃあ右に出るもんはいなかったな。すごい軍人さんだったし、それにべっぴんさんをお嫁さんにもらって、もうそりゃあ手の届かん人だった。軍服姿を見かけただけで緊張したもんさ。でも、優しかったよ。こんな俺にもきちんとあいさつしてくれた。えばる(威張る)ひとじゃあなかった」

 と話してくれます。しんやさんは俊夫と親交があったわけでもなく、大した内容の話はなくて同じことを何度も何度も話すだけでした。それでも私はその話をしてくれるようしんやさんにお願いしていたのです。しんやさんも「くんちゃんはこの話が好きだなあ」と言いながら嫌がることなく繰り返し話してくれました。

 後日談になりますが、今から約5年前、しんやさんにお礼が言いたくて彼を探しました。ところが、桑谷や竜泉寺で聞いても不思議なことに彼を知りません。「そんな運送屋がいたっけ?見たこともないし、聞いたこともないよ」と言われてしまい、中には思い違いなんじゃないの?と言う人までいました。

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 もう見つからないのかと思い始めましたが、諦めずに探し回ってみました。すると、我が家の菩提寺である正道寺の水野住職が「ああ、その人は『鈴木伸也木材』ですね。そこなら山綱町にありますよ。でも伸也さんは亡くなられて息子さんが継がれています」と教えてくれました。製材所を継がれた息子の則幸さんは、電話をすると快く私の訪問を受け入れてくださいました。

 数日後、製材所を訪れると、則幸さんは家からしんやさんの写真アルバムをわざわざ持ってきてその日に備えて頂いていました。写真に映るしんやさんは、私の記憶にある「おじさん」ではなく、20代前半の若者でした。愛馬と共に写真に納まる姿は、年齢の印象こそ違うものの、間違いなく久仁臣が知るしんやさんでした。

 則幸さんの話では、しんやさんは大の酒好き。山から切り出した木を製材所に届けると、その足で飲み屋に向かい、浴びるように酒を飲んでいたそうです。しんやさんが飲みつぶれた日には、飲み仲間が彼を馬車に乗せ、馬の綱をほどいてやります。すると愛馬は主を乗せたまま歩き出し、人間の指示のないままに帰宅しました。とても楽しくて温かい雰囲気の中で"しんやワールド”を満喫できました。

 

 しかしそれから数日後のことです。

 「山綱町の木材加工店で火事」と全国的にTVで伝えられたのです。翌日行ってみると、呆然と火災現場に立ち尽くす則幸さんの姿がありました。声をかけるのもはばかられる雰囲気でしたので、しばらく声をかけずにいました。5分10分の時間が経過したと思います。則幸さんがこちらを向きました。

 こういう時の声掛けが不得手な私は、無言で不祝儀袋を渡しました。そしてそのままその場から立ち去ろうとしましたが、一点だけ聞きたかったことがありました。恐る恐る「見せていただいたアルバムは…」と尋ねました。

「焼けてしまいました」

 則幸さんはか細い声で吐く息と一緒に答えられました。

「僕のせいで申し訳ありませんでした。大切なものを失わせてしまいました」

 と謝る私に、身振りだけで"いいよいいよ”と答えられました。あくまでも想像ですが、失意のどん底にあった則幸さんには、それが精いっぱいの答えだったのでしょう。幸いにしてアルバムの写真を数枚写メしてあったので、翌日、プリントして届けさせていただくととても喜んでいただきました。

 則幸さんにしんやさんの信念が乗り移っていたのでしょう。それから半年後に訪れると、立派に再興して事業を継続される則幸さんの姿がありました。

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第7回 「母の背中」

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 これまでは母千代子に対する否定的な見方ばかりを書いてきましたが、もちろん彼女に良い面がなかったわけではありません。母が見せた「背中」は、私の「背骨」の一部となり、のちの私のヴォランティア活動や人とのかかわり方に少なからぬ影響を与えました。

 母の背中の見せ方で特に私に影響を与えたのは、他人への思いやりです。

 自分に余裕があるからではなく、逆にどんなに苦しい状況にあっても他人を思いやる母の姿勢は、いくら時間が経過しても風化することなく心に残り続け、繰り返しになりますが、私が成長するにつれじわじわとその良さが心に広がっていったのです。

 

 最初に千代子が背中を見せたのは、私が小学1年生の冬でした。これを書いている今、私の目の前にいるのがちょうど1年生の冬を迎える息子の駿仁ですから何か「あの頃」が無性に懐かしく感じられます。

 第二次世界大戦が終わってからもしばらく、町には傷痍軍人の姿がありました。白衣に松葉づえをついたりして歩く姿はあちこちで見られました。また、街頭でアコーディオンやギターを弾きながら物乞いをする姿もよく見かけました。しかし、(先ほど調べてみると)1950年頃になると街頭での物乞いが禁止されるようになり、彼らを苦しめました。そんな影響もあったかもしれません。私が住んでいた田舎にまで傷痍軍人の姿が見られるようになったのです。

 

 親子三人が夕食を終えてしばらくした時間でしたから午後8時ごろだったと思われます。

「こんばんは」

 玄関の戸を何者かが開けて家の奥に向かって声をかけてきました。そう。今でもそうですが、田舎の家は夜寝る時以外は玄関に鍵をかけません。

 男の声でしたが聞きなれたものではなく、私も興味本位で誰が来たかと母と一緒に玄関に行きました。目の前にいたのは、白衣こそ着ていませんでしたが、くたびれた軍服に身を包んだ傷痍軍人でした。どちらの腕だったか覚えていませんが、不自由でした。長く風呂に入っていないのでしょう。肌は薄汚れ、異臭を漂わせていました。

「少しでもいいです、何でもいいですから食べものをめぐんでいただけませんか」

 男の声には力が感じられず、しぼりだすような話し方でした。

「今食事を終えたところですから少し時間がかかりますが、おにぎりくらいなら…。お待ちいただけますか?」

 と言うと、ためらうことなく母は台所に向かい、かまどに火を入れてコメを炊き始めました。炊きあがると母は手を真っ赤にしながらいくつも握り飯をつくり、漬物を添えて竹の皮で包むと、そこに紙幣を入れた封筒を乗せて風呂敷で包みました。

 「え?何で?うちには余分なおカネなんかないのに」と口にこそ出さなかったものの、それを見ていた私には母の行動が不可解でした。当時の教員の給料は低く、のみならず遅配されることもしばしば。従って、古新聞を使って八百屋などで使う紙袋を作る内職をしていました。母は日常の中で「金欠金欠。おカネがない」と口癖になるほど言っていたので、家にはカネの余裕があるとは思えませんでした。

「少しですがおカネも入れておきました。それではお元気で」

 母は感情を顔に出すことなく、男に言いました。

 風呂敷を受け取ると男は嗚咽(おえつ)しました。言葉を詰まらせて深々とお辞儀をすると暗闇に消えていきました。私は、彼を見送って玄関の鍵をかけると家の中に戻っていく母の背中を見ていました。

 

 次に背中を見せたのは、それから数か月後のことでした。

 当時は豆腐屋が自転車の後ろに大きな木製の水槽のような箱を乗せ、そこに入れてきた豆腐を売り歩いていました。

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 ある日のこと。家の前で大きな音がしました。何事かと家から飛び出る母を追って私たち兄弟も外に出ました。

 道には自転車が転がり、大きな木の箱から豆腐が大量に散乱していました。その傍らには小柄なおにいちゃんが呆然と立ち尽くしていました。当時は高校に進学しないで中学を卒業するとすぐに店や工場に就職するのが普通でしたから、おそらく中学を卒業して豆腐屋で見習いをしていた少年だったのではないでしょうか。昔の運搬用の自転車は頑丈な作りで重く、明らかにそのおにいちゃんには手に負えるものではありませんでした。また、道路は未舗装ですから車輪をとられやすく、自転車に乗っている人が転ぶのは珍しくありません。

 少年は母を見た途端、大声で泣きだしました。

 母は多くを聞かずに「全部でいくらなの?」と少年に尋ねました。そして、金額を聞くと家に戻りカネを取ってきて少年に渡したのです。金額は憶えていませんが、私にとってはかなり多額に思えて、母の行動が信じられませんでした。また、家にそんなカネがあるのも驚きでした。

 そのように「背中」を見せても母から私たちに説明や相談はありません。子供たちはどんな状況でもただ見ているだけで見た現実を受け入れるしかなかったのです。

 

 金銭を伴う場面だけではなく、生活に大きな影響を及ぼすようなこともありました。

 小学5年生の時だったと思います。

 ある日、「お話があります」と言われて、兄と私は母の前に座らされました。

「これからスズキシロー君というおにいさんが家に来ます。どの位泊っていくかは分かりません。言葉に気を付けるようにしなさい」

 知らされた情報としては、母親がかつて竜谷小学校で5年生だったシロー君を一年間受け持ったこと。彼が家庭環境に恵まれず、中学を卒業してから仕事先などで受けるイジメや差別に耐えられず、幾度か自殺をはかったという話だけでした。

 異論を唱えたり質問をさせてもらえないまま、間もなくしてシローにいちゃんがイソーローとして姿を見せました。それから一緒に生活するようになったのです。

 移り住んできた時はお互いに軽い緊張もありましたが、シローにいちゃんは決して一緒にいて嫌な存在ではなく、それどころか将棋をやったりして遊んでくれるので、私は学校から帰るのが楽しみでした。数か月して「元気になったので」と言っていなくなった時は寂しさを感じたものです。

 それからしばらくして、母からとても悲しい知らせを聞かされました。

「シロー君は新しい仕事をし始めたんだけど、そこでもまたイジメられて汽車の中で服毒自殺をしてしまいました」

 小学生にはとても厳しい現実を突きつけられたわけですから、丁寧な話し合いとか説明が必要でしたが、母にはそんな余裕はなく、ただ事実関係を伝えられただけでした。

 

 そんなことがあったのに、しばらくすると今度はまたイソーローが家に来ることになりました。

「〇〇さんは旦那さんに離婚させられたんだけど、ご両親が出戻りを許さないから泊るところが無いんだって。だからしばらく家においてあげます」

 出戻りとは、離婚して実家に戻ることです。〇〇さんの実家は、当時小学生でも知っているような有名な会社です。そうと聞かされ、「そんな金持ちがなんで貧乏なわが家に?」と思いましたが、とにかく母が家長です。家長が絶対な時代にあって口答えは許されません。

 シローにいちゃんの時とは違って〇〇さんがいる毎日はけっして楽しいものではありませんでしたが、それなりに対応していました。

 約60年後、〇〇さんの甥がFacebookで私に友達申請を送ってきました。それに対して、私はイソーローばなしを書き、よろしくお付き合いをお願いしたい旨の返事を書きました。しかしながら、残念なことに、彼はその話には一切触れずに「よろしくお願いします」とだけ書いたメイルを送ってきました。

 母にその話を伝え、〇〇さんのその後を聞くと、「あの子はかわいそうだったね。何一つ悪いことをしたわけでもないのに結局実家に入れてもらえなくて、今も寂しく施設に入っているよ」とのことでした。

 

 こういった母が見せてくれたぶれない姿勢は「あの時代」ならではのものではありますが、今に通用しないものではありません。これからも困難に直面した時などに思い出しながら道しるべのひとつとして活用させてもらおうと思っています。

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第8回 「破られた父の絵」

 太平洋戦争の終結とともに日本に上陸した米軍主導の占領軍は「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」との正式名称でしたが、一般的には進駐軍と呼ばれていました。

 進駐軍が持ち込んだ「平和の風」は、1947年に施行された日本国憲法に象徴され、日本国民に安堵をもたらしました。「戦争の放棄」のみならず「戦力の不保持」までをも世界に誓い、それを喜んだ若い夫婦は、生まれてくる我が子に憲法の一字をとって「憲治」「憲子」などと名付けました。憲法施行に合わせて「憲法音頭」という歌も作られたほどです。

 しかしながらその安堵も長続きはせず、進駐軍が主導した労働組合運動つぶしのすさまじさに民衆は恐れおののきます。さらに1950年に勃発した朝鮮戦争や日を追って厳しさを増す東西冷戦構造に「第三次世界大戦」を覚悟した人も少なくありませんでした。竜谷のような田舎でもいつ進駐軍が来るかもしれないと、女性たちの井戸端会議にその話題が上るようになりました。それを耳にする子供たちは、進駐軍という得体のしれない存在を恐れていました。

 

 小学1年か2年の頃、ある日家に遊びに来た年上の女の子たちに、くにおみは父俊夫の描いた絵を「僕のお父ちゃんはこんなに絵が上手だったんだ」と見せていました。

 それは、妻子と再会した俊夫が、よちよち歩きを始めた兄義澄の様々な仕草を描いたものでした。そこから俊夫の喜びがくにおみに伝わってきます。私は慈愛に満ちたタッチで描かれたこの素描(すびょう)が大好きで、何度手にしたか分かりません。

「くんちゃん、これはいかんよ(だめだよ)」

 絵を手にしたひとりの子が絵の裏を見てそう言いました。

「進駐軍に見られたらつかまっちゃうよ」

 と脅すのです。

 紙がなかなか手に入らない時代です。俊夫は、持っていた陸軍の飛行機が映るブロマイドの裏に絵を描いていたのです。確かに、写真には戦時中、米軍や中国を相手に戦っていた大日本帝国陸軍の主力戦闘機や爆撃機が映っていました。

「すぐに全部破ろまい(破ろう)」

 今となってはどの子がそう言ったかは覚えていません。

 頭の中が混乱状態になりました。僕の大事な宝を破る?そんなことは嫌だ。でも、進駐軍が来たらどうしよう?

 「善は急げ」とばかりに、戸惑う私を無視して女の子たちはビリビリ絵を破り始めました。数にして10枚はあったと思います。

 

 それは残酷な光景でした。泣き出したくなる気持ちを歯を食いしばって抑えていたと思います。私の心の中で、俊夫はいつも頭の真上で私たちを見守ってくれていました。写真が破られるのを呆気に取られて見ていたくにおみは、一瞬ですが、俊夫がどこか遠くへ行ってしまう錯覚に襲われました。

「わたしたちがどっか分からんとこにほかっといたげる(放っておいてあげる)から心配せんでいいよ」

 女の子たちはそう言うと、出て行きました。

 あまりのショックに言葉を失ったくにおみは、呆然と彼らの背中を見送りました。視線を落とすと、先ほどまで写真が貼られていた小さなアルバムが畳の上にありました。涙も出ないほどの悲しみに包まれました。その時の涙が今、これを書いている時に頬を伝っています。

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第9回 「本多家の人々」再会

 「新しい家を見に行きます」

 竜谷村から約7キロ離れた福岡中学に転勤した数か月後、母は私たちにその理由を言うことなく転居話をしました。

 気難しい兄はぶつくさ言っていましたが、私は大賛成でした。それは、住んでいた家に男衆が夜な夜な来ては母親に言い寄っていたからです。大体は酒の勢いを借りて来て母にまとわりつきます。そんな嫌な光景を目にしたくなかっただけに私は喜んで賛同しました。 

 新しい家と言っても中古住宅です。しかも戦後のどさくさに建てられた分譲型の市営住宅で、2軒でひと棟。見てくれはそれなりのものでしたが、内覧をすると、部屋の数も6畳と4畳半のふた間だけだし、いかにも安普請です。風呂もなく魅力に欠けます。

 

 母の顔が曇りかけたように見えました。

 ところが、家の持ち主が「お隣の本多さんです」と家に入ってきた隣人を紹介した時から状況が一変します。

「まあ、齋藤さんじゃないの!」

 入ってきた隣人に旧姓を呼ばれた母は、相手に反応します。

「え、かをるさん?!」

 ふたりはなんと高等女学校の同級生でした。まるで女子高生のように手を取り合ってはしゃぐ姿は、それまでに見せたことのない母の一面でした。

「私ねえ、職業軍人と結婚して北鮮にいたの。上の子も向こうで産んで…」

「私は満州。旦那が満鉄に勤めてたんだけど…」

 とガールズトークは止まりません。

 ひとしきり話をすると、「ねえ、一緒に住もう。力を合わせていこうよ」とかをるさんから誘いがありました。母も「そうね。そうしよう」と自分に言い聞かせるように同意しました。

 

 かくして私たちの移転先が決まりました。

 それは浅井家にとって後々大きな幸運をもたらす運命的な出会い、転機となりました。

 本多家の家族構成は、街中で小さな本屋を営む喜久治さんと妻のかをるさん。それに3人の子供でした。喜久治さんは豊富な知識の持ち主でユーモアのセンスがあるおじさんでした。本屋と言っても、古くなったり傷んだりした図書館の本を整えることが主な仕事のようでした。市内の学校を周り、古くなった蔵書の修理をするわけですが、いわゆる"サムライ商法”で、失礼ながらあまり稼ぎはよくありません。でも、暗い影を見せることなく、いつも冗談を言って周りを和ませ、なおかつ私にはいろいろなことを教えてくれる“物知り博士”でした。

 

 私にとっての忘れもしない喜久治さんとの思い出と言えば、「サボ事件」です。

 千代子はくにおみにカネを持たせて床屋に行かせようとしますが、くにおみはそのカネをお菓子に変えてしまいます。困った千代子は新発売のサボと名付けられた頭髪用のカミソリを買ってきました。私を庭に連れ出し、それを手に髪の毛を切り始めました。ところが、千代子はその使い勝手がよく分からずに思案投げ首状態。すると、そこに喜久治さんが通りかかります。

「おっ、くにちゃん、ついに捕まったな。なんだそれ?そうだな。それはね、貸してごらんなさい。こうやって使うんですよ」

 喜久治さんはお得意の物知り顔でサボを持つと私の後ろに回り、髪に当てて勢いよく梳(す)きました。

「あっ!」

「アッ!」

 喜久治さんと千代子の声が同時にしました。

 頭に伝わる感触と「ザッ」という音、それにふたりの息をのむ声で私にも状況がつかめました。その後、ふたりが懸命に修復を図りますが、素人のやることです。ますます状況が悪化しました。

「こりゃああかんね。くにちゃん、床屋へ行こう」

 喜久治さんは私を車に乗せて床屋へ連れて行きました。結局、床屋でも手の施しようがなく、くにおみは丸坊主にされてしまいました。

 そんなことがあっても、喜久治さんはうらおもてがなく、どんな時にもひょうひょうと余裕の表情でした。 

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 妻のかをるさんは体の中から優しさがにじみ出ているような人でした。

 私が肺結核になった時も、(退院後でしたが)いやな顔一つしないで家に受け入れて、自分の子たちと分け隔てなく面倒を見てくれました。

 ところが、我が家は周りからは白い目で見られていたようで、そんな周囲の目を気にすることなく友人の家に上がり込むくにおみに、千代子は苛立ちを覚えたのでしょう。「あんたは近所でどんな目で見られてるのか分かってるの?他人の家に上がるのはやめなさい」といさめたことがあります。

 それだけに、かをるさんの優しさがひと際くにおみの心をつかみました。ご実家が寺ということを聞いており、「お寺の人はみんな優しい」と子供心に思い込んだものです。

 千代子は1960年に新設された城北中学校で勤めるようになると、毎夜のように終バスで10時過ぎに帰宅していました。

 母から注文を受けた八百屋が肉屋、魚屋と回り品物をそろえて配達してくれていました。かをるさんはそれを自分の家の食材と合わせて全員の夕食を作ってくれたのです。寂しがり屋のくにおみにはおいしい食事もさることながら、大人数で食事ができることが嬉しくて仕方がありませんでした。

 「いつもおいしいご飯をありがとう」と礼を言う我々きょうだいの気持ちをくんで「うちはあんまり肉が買えないのよ。一緒だと肉が食べられるからこちらこそありがとう」と言ってくれるかをるさんは、私の成長にとても重要な存在だったのです。

 隣家に同世代の子供たちがいたのもくにおみにとっては幸運でした。三人のそれぞれが温かい付き合い方をしてくれ、その交流は2021年現在も続いています。

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第10回 「本多家の人々」ともしび

 本多家の長男の康希(こうすけ)さんは3歳年上の5年生。長女の順子さんは同学年。そして次女の厚子さんは2、3歳年下でした。それぞれを、こうちゃん、じゅんこ、あつこと呼び、私はくにちゃんと言われていました。

 こうちゃんは、当時からくにおみの憧れの存在。同じ歳の兄よりも強く意識していました。成績も優秀で、岡崎高校から名古屋大学理学部に進み、そこから神戸大学の大学院に行きました。

 小学校か中学校だったかは覚えていませんが、勉強部屋どころか勉強スペースもなかったので、こうちゃんは押し入れに裸電球を持ち込み勉強していました。その姿に影響された私は真似をしたかったのですが、母と兄は「目が悪くなる」と猛反対。断念しました。

 中学生時代は警察沙汰になるようなこともしており、それがまた格好よく見えたものです。高校では柔道部に入り、ますます眩しく輝いて見えました。

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 ある日、「くにちゃん、大平川に泳ぎに行こまい」とこうちゃんから誘われました。時は2月の特別寒い日でした。

 ふたつ返事のくにおみに、こうちゃんは「ほんじゃあ、風呂を沸かしていこう」と外に出ていきました。やり取りを聞いていた兄は「風邪引くぞ!」と神経質な表情を見せて小声で言いましたが、くにおみは意に介さず、こうちゃんと自転車に二人乗りして川に向かいました。

 現場に着くと、そこは吹きさらし。とても水の中に入れるような風景ではありません。

 「ヨシッ!」武者震いをしながらふたりは服を脱ぎだしました。

 そこに居合わせたひとりのおじさんが目を真ん丸にして「若いっていいなあ」と励みになる言葉をかけてくれました。その人は近くで馬を飼っており、時折りその辺りで馬の散歩をさせている姿を見かけていました。

(※数日前、この記事を書くために現場に足を運ぶと、そのお孫さんが馬を散歩させていました! 主に神事用に使う馬だそうです。)

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「ありがとうございます!」

 ふたりは、おじさんにそう言うが早いか、水に飛び込みました。

 しばらく泳いでいるうちに体も慣れて来て、魚を追いかけて潜ったり、飛び込んだりしていました。しかし、30分近く泳いで近寄ったふたりは、互いの顔を見てビックリ!こうちゃんの唇は真っ青でした。こうちゃんから見た私の唇も真っ青。ふたりとも歯がガチガチ音を立てています。

 再び自転車に乗って家に戻り、ふたりは仲良く風呂にザブンと入りました。湯のありがたさが体の芯にまでしみるようで60年経った今でもその感覚は(錯覚でしょうが)体に残っています。

 

 こうちゃんは大学院を出ても在学中の学生運動歴が影響して就職先がありませんでした。帰郷してブラブラしている彼を、千代子は自分が勤める中学校の校長に掛け合って臨時採用教員に導きました。

 そこでこうちゃんは運命的な出会いをします。同僚の英語教師と結婚。そして彼女の父親がこうちゃんに誘い水を向けたのです。「今から勉強をし直して医者にならないか」と。

 今でこそ「高齢受験」をする人がいますが、当時の日本の大学受験に対する考え方は違いました。こうちゃんは大学受験をする“適齢期”をはるかに過ぎていたのです。しかも超難関の名古屋大学医学部を相手にしての挑戦。非常に珍しいことでした。

 挑戦の結果は…

 見事合格しました。地元の中日新聞は「29歳の挑戦」を大きく報じました。

 こうちゃんはその後、呼吸器科の名医になり、私が関東にいた頃も遠隔地でしたが、信頼のおける主治医。実際に何度も(経営する英会話学校のスタッフで)助けていただきました。そして2012年に帰郷してからは、妻の直子や息子の駿仁の頼れる存在になっていただいています。直子はこうちゃんを「神」と呼ぶほどの信頼ぶりです(笑)。

 

 じゅんこは、同学年というばかりか、小中高と同じ学び舎に通いました。相手が優しくておとなしいのをいい事に、勝手に妹のように扱い、料理を作らせたりしました。

 とてもしっかりした子で、高校時代からアルバイトをして家計を助け、大学も授業料の格安だった愛知学芸大学(現愛知教育大学)に進み、理科の教員になりました。後になって、「千代子先生に憧れて教員になった」と聞いたので母に伝えると、千代子は目を細めて喜んでいました。

 あつこは年が離れていたこともあり、猫好きの甘えん坊のかわいい子というイメージしか残っていませんでしたが、我が家に遊びに来た医者の奥方と話している内に、あつこがその医者の下で長年勤めていたことが判明。ここでもまた強い縁を感じました。

 

 人好きのくにおみです。我が家がTVを購入して、毎週日曜日7時過ぎに本多家の5人が「テレビ見せてえ」と来てくれるのが嬉しくて仕方がありませんでした。少なくても8人。多い時には10人を超える人間が、対角線で言えば35.6センチの小さな箱に見入る光景は今から考えても微笑ましいものです。

 NHKの大河ドラマは1963年に始まりました。第一回目の『花の生涯』のテーマ音楽を作曲したのは、“われらが”冨田勲さんです。勲さんの実家の冨田病院にはほとんどがお世話になっているわけですから、目を輝かせて画面を食い入るように見つめ、壮大な音色に胸躍らせていたはずです。

 このように両家の往来は多く、5人はまるできょうだい。本当に仲の良い関係が出来上がっていきました。それまで不遇をかこっていたくにおみにとって、この環境は理想的。暗い幼少期に灯されたともしびでした。

 

 しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。

 小学2年生の冬。胸が苦しくなることが多くなり、痛みに耐えかねて母に訴えました。最初は相手にされませんでしたが、痛みが深刻なものであることを子供心に一生けんめい伝えると母の顔色が変わり、冨田病院に連れて行ってもらいました。

 診断はすぐに下りました。肺浸潤(肺結核)でした。

 そのまま感染病棟に収容された私は、それから半年間入院することになります。

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第11回 「結核病棟生活と新聞」

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 入院生活は退屈そのもの。

 結核は法定伝染病です。

 外出も許されず、遊び相手もいなくて育ち盛りのくにおみは最初、時間を持て余して病棟内を行ったり来たり。今のようにゲームが豊富にあるわけではなく、日がな一日ため息ばかりついていました。ただ、冨田病院の建物は、江戸時代には“お代官様のお屋敷”だったものです。中庭で遊ぶことができたのでそれが貴重な息抜きとなりました。庭に寝転がり、空を飛び交うジェット戦闘機(小牧と浜松に自衛隊基地がある)とその飛行機雲を見ながら、新聞記者として活躍する自分の将来を夢見ていたのです。

 

 そう夢想する内。

「そうだ。新聞記者になるんなら新聞が読めんといかん」

 と思い立ちましたが、残念ながら天才肌ではありません。また、勉強を好むタイプでもなかったので、8歳になっても読める漢字の数はかなり限定的で新聞を読むのは至難の業。そこで思いついたのが、暇を持て余していた患者のおじさんたちに教えてもらうことです。当時はTV放送はなく、ラジオのみ。そのラジオ放送も選択肢は少なく、大人たちは病棟内にある新聞を競って読んでいました。

 人たらしの面があったことに加え、小児はひとりだけでしたから、くにおみは人気者でした。それをいい事に新聞を読んでいる大人の膝にちょこんと座り、「これ、なんて読むの?意味は?」と聞き続け、徐々に新聞を読めるようになっていきました。

 それが日常化してしばらくした頃。

 中庭に向かって縁側に座り、新聞を読んでいる若い男性患者の背中に「〇〇さん」と言いながら抱きつきました。

“うるさい!”

 怒声と共にくにおみの体は宙に浮き、中庭に転がされました。

 想像だにしなかった展開にくにおみは泣くことも忘れて〇〇さんを庭から見上げました。目に入ってきた〇〇さんの表情は、いつもの優しいおじさんではありません。でも、彼自身もそんな自分に耐えられなかったのでしょう。悲しそうな顔をしてその場を立ち去りました。

 記憶にあるのはそこまでで、その後どうなったかは覚えていません。今思うに、彼は入院生活を送る中で苦悩していたのでしょう。そんな“オトナの事情”など分かるはずもなく、くにおみは〇〇さんを恨み、それからは彼に近づくことはありませんでした。

 

 数か月で新聞に書かれている内容を大方理解できるようになったくにおみは、母に新聞購読をねだりました。

「まだ早いです。それよりも学校の勉強をしなさい」

 予想通りの返事でしたが、相変わらず学校の勉強には手を付けませんでした。

 入院期間は約半年。退院してからもくにおみは新聞を読み続けました。幸いにして、我が家は新聞や雑誌(サンデー毎日や暮らしの手帖)を購読していたのです。

 優等生タイプの兄義澄は、「そんなに毎日何時間も新聞を読んでるんじゃない。勉強しろ!」と私から新聞を取り上げたり、隠したりするようになりました。母千代子も勉強をするようにとうるさくは言いませんでしたが、新聞を読んで遊んでいると思ったらしく、くにおみを温かい目で見ることはありませんでした。

 教育者である母の子供に対する姿勢は、当時の流れそのもので欠点探しが基本でした。つまり、「何でも疑ってかかる」姿勢です。それゆえ、担任や周囲(母や兄)に叱られてもかたくなに宿題を拒み、漢字の書き取り練習をする姿さえ見せたことのない私が試験で高い国語能力を見せることに、疑いのまなざしを向けてきました。

 

 5年生の時だったと思います。

「座りなさい」

 千代子がこういう時は、子供に有無をいうスキはありません。ちゃぶ台で彼女に向き合いました。

「今から私が言う漢字を書いてごらんなさい」

 と言うと、千代子は次々に単語を言いました。そんなに難しい漢字ではなく全てを書き終えました。千代子の表情が少し緩みました。

「あんた、どこで漢字を覚えたの?」

「だって、僕は毎日新聞を読んでるじゃん。こんくらいの漢字なんかお茶の子さいさいだよ」

 そう答える私に珍しく柔らかい表情を見せました。後年、千代子は「書き順なんか無関係。あんたは絵を描くように漢字を書いたわね」と述懐しました。

 

 入院生活は辛いものでしたが、そういった収穫をもたらしてくれました。それだけではありません。他にも大きな贈り物をもたらしてくれました。次回は「世界的音楽家冨田勲との“出会い”」を紹介します。

(*写真は『冨田病院 開業110周年記念誌』から拝借いたしました。)

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第12回 「冨田勲との“出会い”」

「清先生も大変だのん。勲さんが慶応に入って医者になる勉強をしとると思っとったのに、音楽をやっとったげな」

 入院して間もなくの頃でした。患者たちは火鉢を囲んで手を当てながら、そして時折、炭を火箸でいじりながら日なが一日何かと噂話に花を咲かせていました。その時に出てきた話です。

「ねえねえ。いさおさんって誰?」

 まだ小学三年生になる前だったと思いますが、何か聞き捨てならない空気を感じて、くにおみは大人の会話に首を突っ込みました。

「勲さんは院長先生の長男さんだよ。清先生は勲さんをお医者にさせたくてわざわざ県高(岡崎高校を当時の人たちはそう呼んだ)から東京の慶応高校に移らせて、そこから慶応大学の医学部に入れようとしたんだよ。でも、勲さんは言うことを聞かん人だから、親に逆らって文学部で音楽を勉強しとらした」

 患者の一人がそう説明してくれました。

 以下は、その場で患者たちから、また後年現病院長の冨田裕さんから、それに他から知り得た情報などを総合したものです。

冨田勲さんの生い立ち

 冨田清先生は若い頃には紡績会社「鐘紡」の嘱託医として東京や北京で働いていたそうです。当時6歳だった勲さんは、ある日清先生に連れられて北京市天壇公園にある『回音壁』の前に立ちます。

 「思いがけない方向から聞こえてくる不思議さに魅せられた」と勲さんが述懐しているように、回音壁に「音楽との運命的な出会い」を感じた勲さんは、帰国して実家の冨田病院に戻ってからも戦時下でしたが音楽に熱中、「ピアノを弾き続ける少年」になりました。

 1945年1月13日深夜、愛知県の三河湾を震源とする「三河地震」が起き、1,961人の死者(気象庁調べ)を出しました。冨田病院には多くの負傷者が運び込まれました。また同年7月には米軍の空襲により岡崎市の中心部が焼かれ、この際も病院は阿鼻叫喚の現場となり、勲少年は強い衝撃を受けます。それが後になって『イーハトーヴ交響曲』の作曲に力強く影響したと、勲さんは話されています。

 先に書いたように、清先生は地元岡崎高校に進学していた勲さんをわざわざ東京の慶応高校に転校させます。長男の勲さんを慶応大学医学部に入れて「医者への道」に進ませようとしたのです。そんな親の目論見もなんのその、勲さんは上京するやいなや、自分で師匠(平尾貴四男小船幸次郎弘田龍太郎)を見つけて作曲の勉強を始めました。つまり、親の言うことを聞くふりをして一応慶応大学には進みましたが、端(はな)から医学部に入るつもりはなく、文学部に籍を置いていたのです。患者が噂していたように、文学部で音楽を勉強していた訳ではありませんでした。

 勲さんの“わがまま”で犠牲を被ったのは弟の稔さんでした。現病院長の裕さんの話では、「父(稔さん)が言うには、当時慶応高校の生徒であれば願書に『医学部』と書けば入れたそうです。だから、稔の進学時には、祖父はわざわざ上京して目の前で本人に入学願書を記入させました」とのことです。

 

 勲さんが音楽の才能を発揮するのに時間を要しませんでした。1952年、大学2年生で朝日新聞社主催の全日本合唱連盟コンクールに応募した作品、合唱曲「風車」が1位になりました。当時はこういったコンクールは少なく、それだけに注目度も高く、すぐに親に知られることになります。

 勲さんの一連の"裏切り行為”が清先生の逆鱗に触れたことは言うまでもありません。父子関係も一時かなり危ういものになったようです。

 患者のうわさ話から「こんな親への反発の仕方もあるのか!」と“イケナイにおい”を感じたくにおみは、8歳にして、のちに「世界のイサオトミタ」になる冨田勲さんに興味を抱き、まさに“星”のごとく仰ぐようになりました。それからは、勲さんが小学生の頃に機関車ごっこをしていたと聞いた庭の片隅で、ひとり木片を並べて遊んだりしたものです。約半年の入院生活を終えてからも、新聞や雑誌で勲さんの記事を読むと、ひとり興奮していました。 

 患者さんたちから「火鉢トーク」を聞いた翌年、1956年11月から12月にかけてメルボルン五輪が開催されます。このときの日本女子体操チームの演技の伴奏曲を書いたと新聞で知ったくにおみは、我が事のように喜びました。記憶は定かではありませんが、近くの家のTVか、映画ニュース(映画館では二本映画を見られ、その間にニュースが上映された)で、勲さんのメロディを聴いて心を躍らせたものです。

 画面から流れてくるメロディにある種の満足感を覚えたのか、その後しばらくは特に勲さんを意識することはありませんでした。

 

 ただ、1950年代後半だったと思いますが、母千代子が勤めていた岡崎市立福岡中学校の校長から「冨田病院と縁があるなら冨田勲さんにうちの校歌を書いてくれるよう頼んでくれんかん?」と頼まれたと聞かされました。

 後に勲さんが世界的な音楽家になるとは夢にも思わなかった千代子は、気軽に清先生にお願いしてしまいました。

 そうしたところ清先生は「お安い御用。頼んどくでね」と快諾したと母は言います。しかも「勲さんにいくらカネをあげたか」と聞く私に、「『そんなもんいらん』と清先生に言われてお言葉に甘えた」と悪びれずに言う千代子の言葉に唖然としました。「勲さんが可哀想」と思ったのです。

 福岡中学が校歌を作ってもらったと聞きつけた幾つもの学校や町や村が作曲を依頼したと聞くと、「そんなもので勲さんに時間を取らすなよ」と怒りに近いものを覚えました。

 しばらくして再び「冨田勲」の名前を意識するようになったのは、NHK大河ドラマの第一作『花の生涯』の制作発表の記事を読んだ時です。なんと、勲さんが番組のテーマ音楽を担当することになったのです。大河ドラマは、NHKが「映画に負けない大作」を目指して始まった大型娯楽時代劇です。実際、「日曜夜の顔」として半世紀以上、今も国民に愛され続けています。

 『花の生涯』は、まさに鳴り物入りで1963年4月に始まりました。内容は激動の幕末を舞台に活躍した大老・井伊直弼の生涯を描いたものです。オープニングテーマは圧巻。くにおみはその番組同様(高校)一年生。新しい環境を迎えた時期で、それも相まって第一回目が始まった時には、TVから流れてくる音楽に大きな胸の高鳴りをおぼえました。「僕の勲さんが活躍している」……誰に言うわけでもなく、知られるわけでもなく、ひとり悦に入っていました。

 

 それを機に勲さんは、CMやアニメ、TV番組のテーマ曲と幅広く活躍。売れっ子作曲家への道を歩み始めました。大河ドラマもその後4回担当することになります。

 しかし、世の中はやがて全共闘運動が吹き荒れ、血気盛んな私の最大の関心事は政治的なものに変わっていき、いつの間にか勲さんのことを忘れていました。

 勲さんが再び僕の前に“現れた”のは1975年のことになります。

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第13回 「冨田勲との“別れ”」

冨田勲 1.jpg

 1975年初春。ところは、有楽町。

 朝日新聞社本社(現有楽町マリオン)の6階にあるAP通信社アジア総局内のニューズルームで編集会議が行われていました。会議を仕切るのは、編集長のEd White。ヴェトナム戦争で数々のスクープをものしたAPの名物記者です。

「Isao Tomitaという音楽家がグラミー賞に3部門でノミネートされたそうだ。NY(本社を意味する)が言うには、彼はいま東京にいるらしい。つかまえてインタヴューしてくれとのリクエストだ。誰かやってみるか?」

 当時は社内でも喫煙が許されていました。Edはパイプたばこをくゆらせながらわれわれ記者を見渡しました。

「私、彼のファンだから取材に行きます」

 隣に座ったKathyが挙手をしました。彼女(Kathryn Tolbert)はのちにワシントン・ポストのコラムニストになりますが、当時はまだ見習い記者でした。

「Isao Tomitaって誰?」

 なぜか気になった私は彼女に聞きました。

「知らないの?日本人の作曲家で、シンセサイザーという新しい楽器を使って素敵な世界観を創り出すの。『Snowflakes Are Dancing』というタイトルのアルバムがビルボードのクラシック部門で1位(後で調べると、この時点では2位)になるほどよ。私の友達でもファンは結構いるわ」

 グラミー賞は米国人を対象にするものと勘違いしていた私は、Isao Tomitaなる人物が私の憧れ続けていた冨田勲さんだとその時になってようやく気付きました。

 先輩たちは誰もが新人記者の彼女に話を譲ろうという雰囲気でしたが、私は、

「Ed、その人だったら僕が憧れ続けてきた人だからインタヴューしたいです」

 と手を挙げました。Edの提言は、

「そうか。ではじゃんけんで決めれば?」

 普段はじゃんけんに強い私ですが、でもその時は負けてしまいました。

「Kathy、僕がカメラマン役をやるから連れてってよ」

 どうしても勲さんにインタヴューしたくて私がそう言うと、

「それはダメでしょ。あなたはカメラマンじゃないのだから」

 と、つれない返事。

 確かに彼女が言うように、米国社会では職務・役割の区別が明確です。私のやり方はカメラマンの職域を荒らすことになりかねないのです。そう言われて泣く泣く諦めました。

 

 取材から帰ってきたKathyは、

「思っていた通りの素晴らしいクリエイター。それにすごくいい人。おそばをごちそうになったわ」

 と自慢げに報告してきました。

 「そりゃあ良かったね」と言ったものの、その悔しさは到底言葉に表現できないもので、おそらくKathyから見た僕の表情は引きつっていたはずです。

 

 その年、残念なことに勲さんの『Snowflakes Are Dancing』(邦題:月の光)は、ノミネートされたグラミー賞三部門のいずれも受賞を逃しました。しかし、注目度は高く仕事の依頼が殺到します。中でも、フランシス・コッポラ監督が映画『地獄の黙示録』の音楽担当を依頼してきたことは有名な話です。RCAレコードとの契約が邪魔をして実現しませんでしたが、同作品が世界的ヒットをしただけに、実現していたら勲さんがどんな世界を描いたのかと思ったファンも多かったに違いありません。

 

 余談ですが、その年のGrammy賞「最優秀アルバム部門」の栄冠はスティーヴィー・ワンダーに輝きました。

 勲さんはスティーヴィー・ワンダーと親交があり、2016年に他界した勲さんの告別式にはスティーヴィーが追悼ヴィデオメッセージを送ってきています。あくまで私の想像の域を出ませんが、ふたりの親交は1975年の授賞式(勲さんが出席していたら、の話ですが)がきっかけだったのではないでしょうか。

 

 そこから勲さんの快進撃は続きます。

 1975年発表の『展覧会の絵』は、同年8月16日付けのビルボード・キャッシュボックスの全米クラシックチャートの第1位を獲得し、1975年NARM(全米レコード販売者協会)同部門最優秀クラシカル部門2年連続受賞、1975年度日本レコード大賞・企画賞を受賞しました。同年9月発表の『火の鳥』は1976年3月20日付けのビルボード全米クラシックチャート第5位、同年12月20日発表の『惑星』も1978年2月19日付けのビルボード全米クラシック部門で第1位にランキングされました。「宇宙3部作」の第3作目である『バミューダ・トライアングル』(1978年発売)では発売翌年のグラミー賞で "Best Engineered Recording"に2回目のノミネートをされています。1983年のアルバム『大峡谷』では3回目のノミネートをされました。以降『バッハ・ファンタジー』(1996年)まで、勲さんのアルバムはいずれも世界的なヒットを記録しています。

 Isao Tomitaはレコードの世界にとどまらず、1979年に日本武道館で開催したピラミッド・サウンドによる立体音響ライブ『エレクトロ・オペラ in 武道館』を機に広大な空間に翼を広げます。

 1984年にオーストリアのリンツでドナウ川両岸の地上・川面・上空(ヘリコプターを使用)一帯を使って超立体音響を構成し、8万人の聴衆を音宇宙に包み込む壮大な野外イベント『トミタ・サウンドクラウド(音の雲)』と銘打ったコンサートを催して世界を驚かせました。以後、サウンドクラウドを世界各地で公演しました。ドナウ川では「宇宙讃歌」、続いてニューヨークのハドソン川では「地球讃歌」、日本の長良川では「人間讃歌」を成功させ、共感するミュージシャンと共に音楽を通じて世界平和を訴え続けてきたのです。

 

 これはまさしく私が勲さんに求めていた姿でした。戦火(岡崎空襲)や自然災害(三河地震)を体験し、その体験を自らが作り出した音に乗せて世界平和へアピールする姿は私にとってのヒーローそのものでした。

 それだけに2012年、故郷に活動の場を移した私は、勲さんの功績を後世に伝える場づくりをしたいとの考えに至りました。

 その年、第11代岡崎市長に就任した内田康宏氏を表敬訪問した際、「岡崎市で『Isao Tomita Museum』を造りませんか」と提案しました。提案した直後は「それは盲点でした」と膝を乗り出した内田氏でしたが、しばらくして再度市長室を訪れると、「あまり客を呼べないのではないですかね」と腰が引けていました。

 だからといって簡単にあきらめる性質ではありません。それからは市内外の有力者に会うたびにこの話題を持ち出しました。勲さんの実家である冨田病院を訪れると、既に冨田裕病院長にも私の動きが伝わっていたようで歓迎していただきました。しかしながら、病院長から私の動きを伝え聞いた勲さん本人は「そういうものは私が死んでからにしてくれ」と返事をしてきたそうです。その反応にもまた、私は「勲さんらしいな」と満足でした。

 

 老境に入っても勲さんの創作意欲は衰えを見せず、80歳になった2012年に壮大な交響曲を完成させます。その新たな世界に挑戦する勲さんの姿をNHKのカメラが追いかけていました。

 以下は、NHKの番宣です。

  日本を代表する作曲家の一人、冨田勲さん(80歳)。自身の集大成となる「交響曲」を作曲しました。その名も「イーハトーヴ交響曲」。テーマは、冨田さんが長年描きたいと思い続けてきた、作家・宮沢賢治の世界です。賢治の4次元的・宇宙的な世界観を、どうやって音楽で表すか。悩んだ末、冨田さんが思いついたのは、なんとインターネットの動画サイトで大人気のバーチャル・シンガー“初音ミク”の起用。こうしてオーケストラと初音ミク、200人の合唱が奏でる、前代未聞の壮大な交響曲が生まれることに。その5か月に及ぶ制作過程に密着。なぜ宮沢賢治の世界に初音ミクなのか。そして、交響曲誕生の裏に秘められた、賢治の「雨ニモマケズ」をめぐる10年越しの約束とは。みずからも少年時代に大地震に被災したという冨田さんが交響曲に託した、東北の被災者への思いとは。人生の集大成だ、という「イーハトーヴ交響曲」に込められた冨田さんの思いに迫ります。

 10年かけて大作を完成させた勲さんがTVカメラの前で「最終段階で苦労していた私の背中を押して完成させてくれたのは東日本大震災でした」といった趣旨の発言をされましたが、それは私なりの解釈ですが、少年時代に三河地震の直後に実家の病院で見た記憶が勲さんの中でよみがえり、力を与えたという意味だったのではないでしょうか。そう話す時の勲さんの瞳はまるで少年のように輝いていました。

 「イーハトーブ交響曲」を完成させた後も前に進むことをやめない勲さんは、『ドクター・コッペリウス』と題するバレエ作品に取り掛かっていました。2016年春の近親者からの報告では、「完成まであとわずか」という話でした。

 しかしながら2016年5月5日、突然の訃報が入りました。レコード会社との打ち合わせを済ませ、好物のうなぎを食べた直後に倒れ、そのまま数時間で帰らぬ人となったそうです。

 幾度か会う機会があったのに、ついぞ一度も言葉を交わすことなくこの世を去ってしまわれた冨田勲さん。それはそれでとても残念ですが、8歳の頃から憧れ、勝手に背中を追いかけてきた私にとって、あなたはスターであり続けます。

 Isao Tomitaの凄さ、素晴らしさが岡崎では高く評価されなくて記念館の創設も理解を得られない現状ですが、これからも諦めることなく言い続けていくつもりです。 (写真提供:小野修平氏)

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第14回 「暴力オトナ世にはばかる」

 半年後に退院したものの、それからは再び‟暗黒の日々”が続きました。

 小学校に復学しても授業を受けられるのは午前中のみ。昼食後は家に帰って横になるのを強制されました。主治医の清先生は、

「食事をした後最低1時間は寝ていないとだめだよ。その間に栄養が肺に行って、くんちゃんは強くなっていくんだからね」

 と言葉は優しくても厳しい目つきで言うのです。

 それに加えて、母から、兄義澄が帰宅するまで家でおとなしくしていろと厳命されました。活発な育ち盛りのくにおみにとっては苦痛そのもの。拷問にも似た言いつけでした。

 

 近所の友達の家に遊びに行くことも許されませんでした。母は結核になった自分の子供が周囲にどう見られるのかをとても気にしていて、禁を破って友達の家に遊びに行こうものなら烈火のごとく「なんであんたは私の言うことが聞けないの!」と怒り、口ごたえするくにおみに時には手をあげる(頬にビンタ)ことさえありました。

 3年生の時に日課とされた絵日記には、反抗する意味もあったのでしょう、ただただ「学校から帰るとねた」とだけ連日書いていました。教師に何度「他にしたことも書きなさい」と言われても頑なにそれだけを書き続けたのです。

 

 そんな単調な生活の中で、新聞はますます重要性を増し、まさにくにおみの「心の友」になった感がありました。

 宿題や勉強をしないで新聞ばかり読んでいる弟に、義澄は「新聞なんか読んでるんじゃない! 宿題やれ! 勉強しろ!」と口うるさく言って新聞を取り上げるので、挙句の果ては取っ組み合いの喧嘩です。そんなこともあって、私は義澄を心の底から忌み嫌うようになりました。

 今から思えば、かわいそうなのは義澄です。従順な義澄は母親の命令を守って弟に対しているだけですから何ひとつ間違ったことをしているわけではありません。でも、くにおみにそんな分別はつきませんから兄弟の関係は悪くなる一方で、喧嘩が絶えませんでした。

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 義澄は、当時では珍しくヴァイオリン(注)を習っていました。小学生のときには、何故か小学校の講堂でソロ演奏したこともあります。

 かといって、格別うまいわけではなく、本人はやる気なし。やらされてる感は半端ではなく母のいないところでは、まるでノコギリを引くようにギーコギーコと練習。そんな状態で上達するはずがありません。千代子は練習の成果が見られないことに苛立ち、怒声を張り上げ、これまた時にビンタを食らわしていました。

 義澄の母に対する不満は当然のことながらくにおみに向けられました。それもあってやかましくうざったく感じたと思います。

 

 そんな母と兄にいや気がさして、くにおみは幾度も家出をしました。近くの森の中にある‟秘密基地”が逃げ場でしたが、時には遠い父の実家に逃げ込むこともありました。

 ある時、父方の叔母から「あなた、優しい素敵なおかあさまがいるのになんでそんなに家出するの?」と真顔で聞かれたことがあります。

 以前書いた教育ママのハシリのおばです。相手が相手だけに、説明したり、言い訳したりしても分かってもらえるはずはないと考えたくにおみは聞き流しました。

「何そんな顔して。親切に聞いてあげているのに。ねえさん(義理の姉の千代子)が怒るのも分かるわ」

 そう言って立ち去るおばをただ見ているくにおみでした。

 

 口うるさかったのは家族・親族だけではありません。小学校3、4年生を担任したナカガワは、戦時中の悲惨な軍隊体験を引きずって教育現場に戻ってきた教師でした。今思えば、精神的に病んでいたと思います。男女を問わず、気に入らない教え子には毎日のように暴力をふるっていました。

 算盤授業があるときは覚えが悪かったり、態度が悪かったりする子供の頭をそろばんで叩きます。感情をコントロールできないから叩き方も手加減できなかったのでしょう。時にそろばんの珠が飛んだこともありました。今でもその光景は一枚の写真のように記憶にあります。その殴り方も罵声を浴びせながら行う、映画で見るような狂気の世界で、子どもたちを震え上がらせました。

 

 授業中も自分の教え方の拙さを反省する事なく覚えの悪い子に腹が立つようで、暴力のターゲットはその子たちに集中していました。感情のはけ口にしていたのです。

 当時は、てんかん、どもり(吃音)、ズーズー弁(強い東北弁)、せんじん(在日朝鮮人)といった言葉が平気で使われていた時代でした。彼はとくに苛立ちを覚えるのか、「××のくせして!」と吐き捨てながら、そうした差別される要素を抱える子供たちに暴行を加えていました。

 小学3、4年生の子供には恐怖そのもの。目の前で繰り広げられる暴力にただ震え上がって見ているしかありません。ほとんどの子供は目を閉じて嵐が過ぎ去るのを待ちました。私もそれに抗議したり、親に言いつけたりする勇気はなく、放課(授業の間の休憩時間)に教室の隅でうずくまった同級生の所に行き声をかけるのが精いっぱいでした。遠足に行っても集団から離れて昼食をとる在日コリアンの子の隣に座り、弁当を分け合って食べたりしました。

 それを見た一部の子が「くにおみもチョーセンだ」とからかうようになり、それからしばらくはそう言われるのが怖くて在日コリアンの子たちに声掛けができなくなってしまいました。そんなからかいに屈する自分が悔しくて涙したこともあります。後日談ですが、高学年になり体力に自信を持てるようになってからはその関係は逆転、暴力行為はしなかったものの遊びや運動会の中で「かわいがらせて」もらいました(笑)。

 

 私は「教員の子供」ということからか、ナカガワの狂気の被害に遭う事はありませんでした。しかしおそらく、教室で行われる暴行に対して子供にしては鋭い目を向けていたのでしょう。ある時呼び出されて、「何か俺に文句があるんなら言ってみろ」と言われたことがあります。 

 そのような背景があったからでしょう。4年生の最後になって「鬼滅の刃」がクニオミに襲いかかりました。

 その頃までに体力が少しついてきたこともあり、放課後も友達と遊ぶことが許されるようになっていました。体力と押しの強さがものをいう子供の世界です。病気になる前に子分だった子たちが戻ってきていつの間にか小さな‟群れ”を率いていました。

 ある日くにおみは仲間に言います。

「ナカガワの『みこ』を成敗しよう」

 鬼退治しに行く桃太郎気取りでした。

 教師のお気に入りの女子を子供たちは「みこ」と呼んでいました。ナカガワのみこМの‟お姫様ぶり”に気分を悪くしていた私たちは、ある日校庭で彼女の行方を遮り、態度を改めろと迫りました。

 ある程度予想されたことではありましたが、彼女は職員室に駆け込み、私たちは怒り心頭のナカガワに教室に呼び出されました。

 全員ビンタを食らい、黒板の前に立たされ、「黒板に向かって○回(何回か忘れました)頭を下げて謝れ!」と怒鳴られました。軽く頭を黒板に当てるだけの私たちにナカガワは「ちゃんと謝れ!」と怒鳴りました。つまり、黒板に額を強くぶつけろという命令です。

 そう言われると、へそ曲がりのくにおみは「おはようございま〜す」と言いながら黒板にお辞儀をしました。

 「なめんじゃねーぞ!」と言ったかと思うと、ナカガワは私に襲い掛かり髪の毛を引っ張り、床に叩きつけ、そして何度も足蹴にしました。

 「謝れえー」と言われてそれに従う子供ではありません。おそらく反抗的な目を相手に向けたのでしょう。体を持ち上げられてビンタを食らい倒れたところで何度も蹴られました。

 そうされながらもくにおみは意外に冷静で、それまでに元日本兵から聞かされて来た軍隊の上官による下級兵士へのいじめを想像して歯を食いしばっていました。

 

 その夜帰宅した千代子は息子の異変にすぐ気が付きましたが、「転んだ」と言うくにおみにそれ以上聞くことはありません。顔の腫れ具合から、教師である彼女はなんらかの暴行によるものと推察できたはずです。今から思えば、母も何かほかに心を奪われる問題を抱えていたのかもしれません。

 そんな母を見て、「母は事実を知りたくないのか」、「自分はこれを言ってはならないのか」、「自分にも非があるから怒られるかもしれない」など様々な考えが錯綜し、私はその出来事をついぞ千代子に話すことはありませんでした。

 ですから、5年生で担任が変わると知った時、「ナカガワから解放される」と小躍りして喜んだのは言うまでもありません。

 

 くにおみは小さい頃から異常な動物好きでした。特に、大の犬好きで退院してから犬を飼いたいと言い続けていました。

「スピッツをくれる人がいるんだけど欲しい? ちゃんと面倒を見られる?」

 仕事から帰宅した千代子がある時、くにおみに聞いてきました。

【注】ヴァイオリン教師の妻は琴の先生で、その師匠はアイドル並みに人気があり有名だった箏曲家宮城道雄。視覚障碍者だった宮城は1956年、刈谷市内を走行中の国鉄(現JR)の汽車から転落して亡くなった。琴の先生はその際、遺体の身元確認に呼ばれている。当時の汽車は、乗降ドアが手動で走行中でも開閉できた。

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第15回 「ボロ雑巾になった僕の天使」

 仕事から帰宅した千代子がある時、くにおみに聞いてきました。

「スピッツをくれる人がいるんだけど欲しい? ちゃんと面倒を見られる?」

「みれるみれる!」

 くにおみは大喜び。千代子から言われたいくつかの条件を即のんで、

「お願いします、お願いします」

 と頭を下げました。

 

 しばらくして、小さな子犬が我が家に来ました。くにおみの目には天使のようでした。子犬独特の匂いがたまらなくて肌身離さず。寝る時も自分の寝床に入れていました。下校しても「道草を食うことなく(死語ですね)」家に直行です。近所に見せびらかしにいくこともありました。どんな名前にしようかと自分で辞書を開き、フランス語で友達を意味するアミと名付けました。

 アミとの生活はそれまでの暗くて辛い日々を忘れさせてくれました。

 しかし悪夢がくにおみに襲いかかります。

 我が家に遊びに来た母方の実家のいとこがくにおみの愛犬を見て「アミが欲しい!」と駄々をこねたのです。そして火が付いたように泣き、暴れました。

 普通であれば、周りの大人が駄々っ子を言い聞かせるはずです。ところが、いとこの母親が「くんちゃ、これおくれん」と言ったのです。いとこは「本家の跡取り息子」ということもあって甘やかされて育ち、時に手が付けられない状態になるわがままな子でした。

 くにおみが首を縦に振るはずがありません。絶対にダメだと抵抗しました。ところが信じられないことに、千代子を含めて大人たちが「またもらってきてあげるから」「おにいちゃん(年上)なんだから」と言ってアミを奪い、いとこに渡してしまったのです。私が猛烈に抗議したのは言うまでもなく、大暴れしましたが、アミは連れ去られてしまいました。

 約束通り、千代子はしばらくしてビーグル犬をもらってきました。名前を同じアミと付けたもののスピッツのアミとは違います。‟白い天使”と一緒に寝た日々が忘れられず、思い出してはひとりしのび泣いていました。千代子に対してはいつまでも口をきかずにいたのですが、すると「男はいつまでも昔のことをぐずぐず考えるんじゃない!」と逆切れされました。

 それから半年ほどして母の実家を訪れたくにおみは、信じられない光景に茫然自失となりました。久しぶりにアミに会えると楽しみに玄関に入ったくにおみの前に、白い天使がボロ雑巾のようになって現れたのです。熱湯を浴びて大やけどを負ったと言われましたが、それ以上は何を言われたか記憶にありません。滂沱(ぼうだ)の涙が止まりませんでした。目の前が見えなくなるほどの涙でした。アミの痛々しい姿に触れる手はおそらく怒りで震えていたと思います。

 オトナの横暴とはまさにこのこと。くにおみの大人、特に母親への不信感は筆舌に尽くせないレヴェルにまで達しました。その一方で、周りの大人たちはくにおみを破天荒なひねくれ者とレッテルを貼り、事あるごとに話題にして笑いの種にしていました。

 そんなこともあってくにおみは「早く大人になって母や兄、それにくだらない大人たちから解放されたい」との想いを強くするのでした。亡き父と話す時間も多く、「お父ちゃん、助けて。僕を強くして」と空を見上げては涙していました。

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第16回 「東海オンエアの福尾りょうさん」

【番外編】

 人気ユーチューバー「東海オンエア」と言えば、今や岡崎市の知名度アップの切り札。

 その中核メンバーの福尾りょうさんと僕の間に妙な縁があることが判明しました。

 

 先日、ひょんなことからりょうさんの実家が、桑谷町にある僕の父親の実家の隣と分かりました。僕は幼児期に父の実家に数年間住んでいただけに親近感が湧きます。

 彼の実家はその昔、食べ物から雑貨までを広く扱うよろず屋。りょうさんの曾祖母が、野外作業を終えた男衆に長火鉢で炙ったスルメやちくわなどを肴に酒を提供する店でもありました。食糧難の時代でいつも腹を空かせていたガキには、目の前でうまそうに竹輪を一本丸かじりする大人は羨ましい限りで、早くオトナになりたいと思ったものです。

 りょうさんの曾祖父は左官屋で、自動車がまれにしか走っていない時代にオート三輪を購入、村道を土煙(当時の道路は未舗装)で走る姿は、子供の目にカッコよく映りました。

 夫婦には当時、小学校高学年〜中学生の息子(りょうさんの祖父たち)が4、5人いていずれもがわんぱく盛り。元気の良い兄弟でしたからその行動も桁外れで、大人の目を盗んではオート三輪を乗り回していました。また、店の前の広場は名鉄バスの折り返し場で、常に多くの人が出入りする、老若男女が集う村の社交場の様相を呈していたのです。

 僕の少年時代の1ページに関わるというだけでなく、成長に欠かせない場所だっただけに、りょうさんに何か不思議な縁を感じてしまいました。

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第17回 「冷水摩擦で異次元へ」

「きよし先生、僕は強くなって早くたいそう(体育の授業)をやりたい。それに大人になったら新聞記者になりたい。どうしたら体を強くできるの?」

 5年生になり体力が向上するにつれてより強い体を求めるようになったくにおみは、ある日主治医にたずねました。

「そりゃあ方法はあるよ。でも、くんちゃんには無理だな。おとなでも難しいんだから」

 冨田清先生はそう言います。「教えてください。絶対にやるから」と食らいつくくにおみを見て“してやったり”と思ったのではないでしょうか。

「それじゃあ、くんちゃんには特別に教えてあげよう」

 清先生は引き出しから手ぬぐいを出して、

「これは冷水まさつと言うんだけどね」

「???」

「手ぬぐいかタオルを冷たい水に入れてしぼり、それで体をこするんだよ。首、胸から腹、背中、腕、そして脚まで、真っ赤になるまで同じ所を50回ゴシゴシやるんだ。それを毎朝、寒い冬も一年中やれば風邪をあんまり引かんようになる。3年やればそりゃあ医者要らずと言って強くて健康な体になるな。でも、あんまりみんなに教えんよ、これは。みんなが健康になると医者いらずになって商売あがったりだから」

 と最後はいつものユーモアたっぷりの独特の言いまわしと笑顔で健康法を紹介しました。

「あ、でも今やっちゃあいかんよ、寒すぎるからね。あったかくなったら始めるんだ」

 診察室を出ようとするくにおみに清先生はそう念を押しました。

 

 人生を左右しかねない朗報を得てくにおみが春まで待てるはずはありません。早速翌朝から冷水摩擦を始めました。それを見た千代子は「なにやってるの。風邪引いても知らないからね。どうせ三日坊主なんだから」と冷ややかな視線を送ってきました。

 場所として選んだのは温かい寝室ではなく風呂場でした。風呂場と言っても屋内にはなく、家屋と接しているもののいったん屋外に出てからドアを開けて出入りしなければなりません。床はむき出しのコンクリートの上にすのこが置かれているだけのもの。しかもトタンで囲われているだけですから寒風が入ってきます。気持ちが悪くなる様な寒さでした。

 同じところを50回強く擦ります。ただでさえ病弱で鍛えられていなかった柔肌は真っ赤になり、数日で肌荒れを起こしました。母や兄からは依然として冷めた目で「体中血が死んでる(血がにじむ)じゃないか。やめとけやめとけ。それでまた病院に行くことになるぞ」と言われました。

 

 でもくにおみがくじけることはありませんでした。これまで病弱であったことからくる悔しさは、少年の心を強くしていました。

 三日坊主は一ヶ月を超え、その冬風邪をひかなかったこともあり、春を迎えてもやる気満々。そして、夏に入ると母や兄のくにおみを見る目が少し変わってきました。千代子が珍しく目を細めて「あんた、よう続くねえ」と言ったのです。

冨田病院

 夏休みも終わりに近付いた頃でした。冨田病院に定期健診に行った時のこと。(※写真は現在の冨田病院)

「おめでとう。よくがんばったね。冬から初めてここまで続いたのはくんちゃんが初めてだ。二学期からはたいそうの授業を受けていいよ」

 清先生は丸顔をさらに丸くしてそう言いました。

 “やったあ!”

 くにおみは、天にも昇るという表現が当時はよく使われましたが、まさにそんな境地、夢心地でした。

「きよしせんせい、お願いだからおかあちゃんに電話しといてくれる?たいそうを始めていいって」

 自分の報告で千代子が納得するはずがないと考えたくにおみは、主治医の冨田清にそう言って頭を下げました。

 帰りのバスの中で、乗客の目を気にして言葉にはしなかったものの、何度も何度も心の中で「たいそうができる、たいそうをやっていい」と‟叫んで”いると涙で窓外の景色がかすんで見えました。

 

 その年の秋空の下、校庭には嬉々として体育の授業を受けるくにおみの姿がありました。

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第18回 「僕の英語修行①」

 1958―59年は、敗戦国日本が「戦後混乱・復興」から完全に脱却したと子供のくにおみにも実感できた時期でした。一般的に戦後復興期は1954年までとされ、同年末から高度成長期に入ったとされますが、くにおみ少年の目にはこの年が「新しい日本」のスタートに見えたのです。

 東京タワーの完成、1万円札の登場、明仁皇太子(平成天皇)の「お妃選び」、それに加えて経済成長率が軽く10%を超える岩戸景気があり、それらすべてが市民生活に明るさと希望をもたらした感がありました。

 安月給だった公立学校教員の給与にも好況が反映され、三種の神器のひとつの洗濯機が我が家にお目見えしたのもこの年でした。

 

「あんたんとこまだ買っちゃああかんよ。一緒に使おまい」

 と言って、母千代子は隣の本多家に“神器”の共有を提案。配達されると、それは両家(二軒一棟)の裏背戸口のど真ん中に置かれました。5人の子供たちが届けられた洗濯機を囲んで、目を丸くして不思議な機械の中を覗き込んでいたことは言うまでもありません。

 余談ですが、結果的にこれは千代子にとって大正解。隣家の主婦かをるさんは、申し訳ないからと、多忙の千代子に代わって我が家の洗濯物までをも干してたたんでくださったのです。

 家の増築も行いました。我々の成長を見て必要と思ったのでしょう。二段ベッドのある小さな子供部屋を造ってくれました。そして4畳半に床の間付きという小っぽけな客間を造り、千代子は悦に入っていました。くにおみはそれを見て、「見栄っ張り」と冷ややかな視線を送っていました。

 

 勢いのある流れの早い「浮世」でしたが、その一方でくにおみに「戦争」を意識させる暗雲が日本を覆い始めた年でもありました。

 その正体は日米安保条約です。

 当時、米国は東西冷戦下にあって、東南アジアへの本格的な軍事介入を画策していると言われていました。そのためにも後方支援の拠点として米国は日本を必要とし、翌1960年の安保改定では、不利な条件をいろいろ押し付けてくるのではないかと、野党、労働組合、学生連合は警戒を呼び掛けていました。

 

 5歳の時に「戦争を無くす仕事をしたい」と思い、元日本兵から「それなら新聞記者になることだ」と言われたことは以前書きました。でもそれは漠然とした思いであり、具体性を伴ったものではありませんでした。しかし、新聞を毎日読み進むにつれ、戦争が現実味を帯びてくると、くにおみの危機アラートが作動したのです。

「東南アジアでアメリカが戦争をやるかもしれない。冷戦を考えると他の地域でも起きるかもしれない。だったら英語ができないとダメじゃないか!」

 くにおみは英語の必要性にその時突然気が付きました。

 しかし、当時は英語を学ぶ環境は学校以外にありません。裕福な家庭であればいろいろな方法があったでしょうが、浅井家にはそんな余裕はどこを見てもありません。隣近所に「英語がペラペラ」を自称する男性〇〇さんがいましたが、どこかその偉そうな態度が気に食わなくて彼に教えを請う気にはなれませんでした。

 しばらくラジオでNHKの「基礎英語」をやってみましたが、ヤル気満々の11歳には単調でためになるとは思えませんでした。

 「何か方法はないものか?」

 あれやこれや考えましたが、妙案は浮かびません。

 

 そんなある日、家の近くで“ガイジンさん騒動”がありました。軽オートバイに乗った白人少年が住宅地に迷い込んできたのです。少年は取り囲んだ住民(まさに老若男女)に何か英語らしい外国語で懸命にまくし立てますが、住民は全く理解できずに顔を見合すのみ。

「〇〇さんに頼めばいいじゃん。あの人だったら英語ペラペラだから」

 とひとりのおばさんが言いました。

 それを聞いたわれわれ子供たちはすぐ近くにある〇〇さんの家に行き、事情を話して助けを求めました。でも、彼は気のりしない様子。重い腰を上げようとはしません。

 その様子を見て「なんだ。ほんとはしゃべれないじゃん」と捨て台詞を残してわれわれはまたガイジンさんのいた場所に戻りましたが、そこには彼の姿はもうありませんでした。

 

 その出来事から数日後、くにおみに名案が浮かびました。

 早速その週末、実行に移します。

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第19回 「僕の英語修行②」

 前回の騒動から数日後。くにおみに名案が浮かびます。

 名案とは、岡崎市の玄関口である名鉄本線東岡崎駅に行き、そこでガイジンさんを探し出すことでした。その人から英語を教わればいいじゃないか、というわけです。

 ところが朝から夕方まで改札口で見張ったものの外国人と思しき人はひとりも通りません。

 そこで「名案その2」が頭に浮かびました。

「電話帳を見れば、名前はカタカナで書いてあるはずだ」

 くにおみは目の前にあった電話ボックスに入り、電話帳をめくってカタカナの人名を探しました。二人の外国人らしい名前が見つかりました。電話番号、住所を書き写し帰宅。英語を得意としていた兄義澄(当時中3)からガイジンさん説得に必要な英語の言い回しを教えてもらいました。

 

 言い回しを頭に叩き込んだくにおみは次の週末、まちなかに行き、住所から家を探し出しました。写真でしか見たことのないモダンな家を前にすると、さすがに胸が高鳴ります。息を整えて、玄関の呼び鈴を押しました。

 しばらくするとドアが開きました。

「シ……シロクマ?!」

 目の前に現れた女性は背が高いだけでなく体格も良く、さらに真っ白な肌をしていたので、田舎の少年にはそう見えたのです。

「アワワワ……」

 意表を突かれて、練習してきた英文もそうですが、日本語すら口をついて出てきません。

「ご用件は?」

 けげんな表情の相手は流暢な日本語で聞いてきました。落ち着きを取り戻したくにおみが趣旨を説明すると、「いいですよ。それでは土曜日にどうですか?」と話はトントン拍子。土曜日の午後にレッスンが行われることになりました。

 話がまとまり落ち着きを取り戻したくにおみが帰り際に建物全体を見ると、隣の建物はキリスト教の教会でした。彼女はそこの宣教師だったのです。訪問時は緊張していたのでそれに全く気が付かなかったのです。その教会は今も伝馬通にある「日本福音ルーテル岡崎教会」です。教会堂は近年、国の登録有形文化財に登録されました。

日本福音ルーテル教会岡崎教会.jpg

 レッスンが始まり、しばらくすると宣教師である彼女は聖書を渡し、日曜礼拝に誘ってきましたが、くにおみは全く関心を示しません。何度かの勧誘の後、彼女はあきれ顔で「アサイさんは本当に英語が好きですね」と皮肉まじりに言いました。でも、英語を習いたい一心のくにおみは、勧誘をかわしながら5年ほど通い続けました。

 彼女は英国スコットランド出身で、後で分かるようになったのですが、結構訛りの強い英語を話す人でした。それに、後年自分で英語教授法を習ってみて分かったのですが、彼女の教え方はお世辞にも上手なものではありませんでした。だから、後から入会してきた生徒はすぐにやめてしまいます。しかし、とても丁寧に優しく英語を教えてくれたのは私にはありがたいことでした。

 

 英語の勉強に火が付いたくにおみは、ラジオの英会話番組にあまり魅力を感じなかったものの、毎朝冷水摩擦をした後必ず聴くようにしました。

 中学に入ると、教科書の内容を録音したソノシートを使って教科書を丸覚えする勉強法を思いつきました。でも、貧乏な我が家にはレコードプレイヤーがありません。そこで英語教師の古井先生に直談判。学校でソノシートを購入してもらいました。それも3年連続で買っていただきました。完全に依怙贔屓(えこひいき)です。

 だから毎学年、1学期は早く登校し、ソノシートを聞いて教科書を丸暗記していました。教科書を見ないで「聞き覚え」ますから発音が悪くなるはずはありません。生意気なくにおみは、古井先生に「先生、そのtogetherの発音違いますよ」などと授業中に指摘して恩人に恥をかかせるというひどいことをしていました。

 古井先生は決しておとなしい先生ではなく、いやどちらかと言えば、剣道部の顧問で授業中も竹刀を持ち歩き、時折り生徒を殴るような今だったら大きな問題になりかねない言動をする暴力教師でした。

 でも、よほど私との相性が良かったのでしょう。古井先生から一度として叱られたり殴られたりすることはなかったし、逆に可愛がられていたのです。

 

 当時、「岡崎市英語暗唱大会」が毎年開かれ、公立中学校の代表がしのぎを削っていました。私は毎年、学内選考なしで美川中学校の代表に選ばれました。中心市街地の学校の代表に伍して好成績を収められたのも古井先生のおかげでした。

 

 当時流行ったペンパルとの文通もやりました。ませていたんですね。相手に選んだのはスコットランドと米国のおねえさん。女子高生でした!! ビートルズの存在を知ったのは、スコットランドのおねえさんからです。デビュー間もない彼らの話を聞かされたとき、「カブトムシ好き?」と怪訝に思ったことは今でもはっきり覚えています。

 

 高校に入ると教員の英語会話力の低さに我慢できず、学校教育の枠から完全にはみ出したくにおみは、活躍の場を名古屋に移しました。名古屋港に足しげく通うようになったのです。

 当時、名古屋港の入国管理体制は緩く、埠頭に入って外国人船員と接触できました。しばしば船内に招き入れられることもありました。真剣に船に隠れて密出国しようかと考えたこともあります。

 

 大学に入り、上京してからは“ナンパ師”になり、東京各所で片っ端から外国人に話しかけ、英語を磨き続けました。中には、仕事場や家に招じ入れてくださる方もいて今でもその方たちへの感謝の気持ちは忘れていません。

 中でも、米国人のトーマス・コーツさんから受けた恩は大きなものがありました。日比谷公園のベンチで新聞を読んでいたコーツさんに話しかけたことがきっかけでした。話が弾み、「次回は飯田橋にある私のオフィスに来てください」と言っていただき、それからは週に2回、彼の事務所を訪問しました。レッスンの後は必ずレストランでごちそうになりました。

 私が米軍のヴェトナム戦争における蛮行に怒って話すことでも、途中で口をはさむことなく聴き入り、話し終えると私の英語の欠点を書き、おススメの言い回しも添えられたメモを渡してくださるのです。雑談から、コーツさんの政治姿勢がかなり私と違っていることがうかがえましたが、自分の考え方を若輩者の私に押し付けることは決してありませんでした。

 私が米国の大学でジャーナリズムを学びたくて、100以上の大学と交渉中と知ると、「South Dakota州立大学の学長が私の友人で、あなたのことを彼に話したら学費、寮費をすべて免除して受け入れたいと言っています。ただ、あなたの希望するジャーナリズム学部(学科)が残念ながら無いので政治科学専攻になります」

 と考えられないようなオファーをしていただきました。しかし、頑なで愚かなくにおみは、「ジャーナリズム学部でないならお断りします」と答えてしまいました。

 その後の英語修行については、また「青春篇」でご紹介したいと思います。

 

 このように私の英語修行はあまりに破天荒で若い人たちの参考にならないかもしれません。しかし「やりようによっては想像もつかないようなチャンスが転がり込んでくるかもしれませんよ」と伝えたくて自らの体験を書いてみました。

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第21回 「死と隣り合わせの日常」

 小学校高学年の時期の話を続けます。「死」を意識させられた多くの出来事に見舞われた年頃でもあったので、周りの大人たちへの想いと共にその心情を綴っておきたいと思います。

 「死への意識」の“めざめ”は3,4年生の頃からで、祖父母の死に始まり、シロー君や叔父たけおの自死と続き、「杉浦先生の溺死」、級友本多君の交通事故死、そして伊勢湾台風の被災と、何度も死神が現れて幼い少年の胸の内を激しく揺さぶります。

父方の祖父米太郎

 妻を亡くしてそれまでの好き勝手な人生に初めて向き合ったのでしょうか。または、脳梗塞で肢体不自由になった己が姿に絶望したのでしょうか、首を吊って自死をはかりました。家族に見つけられて一命を取り留めたものの、その後衰弱は一挙に進み、豪放磊落の数多くのエピソードを残して、

この世を去りました。

 通夜や葬儀には多くの人が参列しました。それまでは祖父に「本家と分家」「旧大地主と旧小作人(農地改革後も村における旧地主の権威は絶大・絶対でした)」という関係性から首根っこを押さえられていた人たちは、「通夜振る舞い」や「精進落とし」で酒が入るとタガが外れたようになり、自分と米太郎との関り、特に迷惑を被った話を面白おかしく話す輪を作り、時に爆笑の渦を成していました。その光景は米太郎を嫌っていたくにおみには面白く、詳しく聞きたくて輪の中に入って聴き入りました。

 それを苦々しく見ていたプライドの塊の叔母の一人から、

「くんちゃん、何が面白いの!あんな小作人どもの言うことを信じちゃだめよ。私は父さんを心の底から尊敬していたし、失って本当に辛いんだから」

 といさめられましたが、それを気にすることなくその後も話を聞いて回りました。

シロー君の自死

 スズキシロー君は、本連載の第7回「母の背中」でも触れましたが、母千代子の元教え子で、幾度かの自殺未遂の後に我が家の居候となり数ヶ月間リハビリ生活。「元気になった」と社会復帰したものの、仕事仲間からのいじめに遭い、堪え切れずに服毒自殺してしまいました。

叔父たけおの服毒自殺

 母方の叔父たけおは小さい頃に日本脳炎を患い、上下肢にしょうがいを持っていました。

 多くの嫌な体験をしたのでしょう。卑屈な性格でした。くにおみにとっては「いつも暗い顔の優しくしてくれたことのない人」。母の実家に預けられていた時、叔父たちからいじめを受けていたことは前に述べましたが、彼にとってもおそらく「うっぷんを晴らす」相手としてくにおみは最適だったのでしょう。叔父は弟そうしちろうと二人で、幼いクニオミをいじめました。

 それでもと言うか、だからと言うべきか、たけおは学業で頑張って国立大学を受験するまでになりました。

 しかしその結果は、「桜散る」。

 試験の結果を知って失意のどん底に陥ったたけおは、兄こうじの下宿を訪ねたものの生憎の不在。宿に戻るとその夜、誰にも心の内を明かすことなく短い命を閉じました。くにおみが小学5年生のときでした(1958年)。

 気の毒だったのは、心根の優しいこうじです。突然警察から呼び出され、遺体確認をさせられ、心が折れかかっていたのではないでしょうか。それを契機に、かなり長い間週末になると我が家に来て、長姉である千代子に心情を吐露したり、私たち兄弟と時間を過ごしたりするようになりました。

杉浦先生の溺死

 当時はまだ水泳プールを有する学校は少なく、くにおみの通っていた男川小学校では水泳の授業を近くの大平川で行っていました。小学6年生になってもまだ水泳の許可をもらえていなかったくにおみは、「見学組」です。

 水しぶきを上げて楽しそうに泳ぐ友達の姿がうらやましく、「早く泳げるようになりたい」と指をくわえて見ていました。

 そんな和やかな空気が一変したのは、授業が始まって間もない頃でした。

 少し離れた場所に教員たちが大声を上げながら急行し、変わり果てた杉浦先生を運び出して、私がいる目の前に置いたのです(もしかしたら、私の記憶違いで自分からそちらに近付いたかもしれません)。

 そこで教員たちがどんな処置を行ったかの記憶はありません。記憶にあるのは全身が紫色に変わり果てた先生の姿です。溺死と発表されましたが、大人になって危機管理を勉強したあと「あれは心臓発作だったのでは」と当時のことが思い出されました。

 帰郷したときに現場にいた教員に聞いたところ、「お前の言う通りだが、俺が杉浦のことを思って校長や警察にはそう報告した」と言われました。当時は、溺死と心臓発作では教育委員会の扱いが違ったのだそうです。

遊び仲間の本多君

 同じ年、本多君が国道一号線(我が家から数百メートル)を自転車で走行中に交通事故で命を落としました。

 木工所を営む父親の血筋でしょう。とても器用で遊び道具を作るのはいつも遊び仲間の間では彼の役割でした。くにおみは家も近く、放課後は毎日のように遊んでいました。

 数時間前まで元気に楽しく遊んでいた友達が突然いなくなり、それまでの「死」とはまるで受け止め方が違います。とにかく涙が出て仕方がないのです。もちろん、「男は泣くな!武士は涙を見せないものだ!」という家です。家族の前で泣くことはありません。ベッドの中で布団にくるまって嗚咽をかみ殺していました。

 翌日登校すると、担任の山田先生が私を呼び、「葬式でお別れの言葉を読むように」と告げました。友を失って落ち込んだくにおみには酷な命令でした。

「それは無理です。許してください」

 とだけ小さな声を吐き出すようにして伝えました。

「それは困る。もう決まっとることだ。お前のここのところの成績の伸びは凄い。だから推薦したんだ」

 と言い放つ山田の言葉が信じられませんでした。

 くにおみは山田が大好きでした。怖い存在ではあるものの情熱をぶつけてくる彼を「ぶーちゃん」と呼び、とても慕っていました。だからそんな理不尽なことを言うぶーちゃんが信じられず、顔をじっと見つめてしまいました。すると、我慢していたものが体の底から込み上げてきます。号泣してしまいました。

「そんなに泣かんでも……」

 くにおみはぶーちゃんの顔を見ていませんでしたが、おそらく声のトーンからは困った表情をしていたに違いありません。

「他の子に頼むからいいわ」

 ぶーちゃんは優しい声でそう言うと、くにおみには重すぎる任を解いてくれました。

伊勢湾台風

 「死」と直面する場面は、さらにその秋、くにおみの前で展開されます。

 1959年9月26日に上陸し5千人を超える死者を出した伊勢湾台風は、小学6年生の少年に「生の重み、死の恐怖」を思い知らせるレッスンを与えたのです。

 台風が発生して日本列島に近付くにつれ、気象庁は「超大型」の台風であると警戒を呼び掛けていましたが、笛吹けども踊らずで、我が家どころか隣近所にもその日の夕刻になってもまるで緊張感はありません。粗末な造りなのに暴風雨に備える家はほとんどなく、我が家ではその夏に来た台風の時のある近隣住民のあたふたぶりを夕食時に笑っていました。

 「増築したからうちは大丈夫」と、兄の義澄とくにおみは変な安心感をさえ口にしていました。

 

 しかし、もうその頃には台風は潮岬近くに上陸(午後6時)。その影響で家の外では強い風が吹き始めていたのです。

 8時頃になると強風は暴風雨になった気配。それにあおられてガラス戸(採光を優先して床上5、60センチ位から上はガラス)が内側に膨れてきます。長い人生の中でもあれほどの暴風は、後にヨルダンの土漠で見舞われた竜巻くらいなもので、60年経った今でもそのゴーッという轟音と、何か空間全体が吸い込まれるような異様な空気感は、耳の奥に心の底に残っています。

「こんなことならガラス戸に板を打ち付けておけばよかった」

 千代子が悔やみますが、時すでに遅し。

 われわれの顔から笑みが消え、あたふたと対策に追われます。対策と言ってもほぼ為すすべはなく、古い建物には雨戸が無いのでガラス戸に内側から毛布を垂らしてそれを釘で打ちつけたりしました。

 時間が経つにつれ暴風雨は勢いを増し、母と兄はガラス戸がレールから外れないように必死に手で押さえています。今思えば、ガラス戸が破損していたら破片が体中に刺さり大変な事態になっていたかもしれません。絶対にやってはならないことでした。

 一方の僕はと言えば、情けないことに取り乱して押し入れに潜り込み、布団に顔を埋めて「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」をブルブル震えて唱え続けていました。

 なぜ自分がそのような呪文に救いを求めたのかは分かりません。普段から信仰心が篤(あつ)かったわけではないですから、考えられるとすれば、祖母がよく唱えていた呪文であること、また数年間で立て続けに経験した「死への恐怖」の影響です。

 

 その点兄義澄は立派でした。冷静にふるまう姿は、くにおみには中学三年生の兄が若武者のようにたくましく見えたものです。千代子も後年になってその点を高く評価、「あの時の義澄は頼もしかったわよねえ」と述懐しています。

 今から思えば午後9時頃だったでしょう。聞いたことのない轟音をともなって一段と風が強くなりました。

“ガッシャーン”

 という大きな音が建て増しした部屋から聞こえ、義澄の「かあさん、ガラスが破られた!」という声がしました。

 後で分かったことですが、風上の隣家から飛んできた瓦が雨戸とガラスを突き破ったのです。すると、ガラス戸の上の壁が落ち、天井が破られ屋根の一部が吹き飛びました。

「隣に逃げます!」

 千代子の掛け声で風下にある玄関を出て隣の本多家に逃げ込みました。吹きさらしの我が家に比べて隣家への風当たりは弱く、家族は余裕の表情です。温かい笑顔で迎えられました。そこでくにおみはひと安心。同い年や年下の子の前でみっともない姿は見せられないとの気持ちが働いたのでしょう。落ち着きを取り戻しました。

 

 上陸時の勢力としては、本州へ上陸した台風の中では今でも史上最強の記録の伊勢湾台風ですが、その進行速度もけた外れに速く(時速60-90キロ)、日本列島を瞬く間に縦断。

 しばらくすると猛り狂った暴風雨は収まり、明け方になるとまさに台風一過。嘘のように青空が広がりました。周辺の家屋は多くが甚大な被害。家の前で頭を抱える大人の姿は印象的でした。

 

 このようにこの時期に何度も死に直面したクニオミは、自分の弱さ、己の限界を思い知ることになります。

 ただその一方で、弱さをさらけ出した事で吹っ切れたのでしょう、逆に自信がわいてくるのを実感。何事にも積極的になり、英語の勉強に、解禁されたスポーツにとエネルギーを発散させるスーパー元気中学生になっていきます。

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中年期

第20回 「阪神大震災『活動記録室』誕生裏話」

 日本の代表的な防災工学者・室崎益輝さんから、NPO法人「市民活動センター神戸」(KEC:Kobe Empowerment Center)の総会が6月5日(土)に行われたとの報告がありました。

 実はこのKFC、

 いやこれではフライドチキンですよね。

 KEC。これは僕が言い出しっぺで作られた組織なんです。

 と言っても、ホントに提案しただけで、あっという間に僕の手から離れてしまったので僕が作ったと胸を張れるものではありません。僕が言い出したことをここまでにしていただいた多くの皆さんの力の結集に、これぞ「エンパワーメント」と喜んでいます。

 NPO法人「市民活動センター神戸」はNPO支援事業や調査研究事業、政策提言事業、東日本大震災支援事業など幅広い活動を行う団体で、その設立は1995年にさかのぼります。

ACT NOW 2.gif

 アレは、26年前の2月のことでした。

 阪神・淡路大震災が起きてひと月余り。

 神戸市長田区役所に設けられたヴォランティアルームには、いつものようにヴォランティア組織の代表が集まっていました。その数ははっきり覚えていませんが、30人近くいたと思います。

 会議が始まる前で雑談をしていた時、何人かが疲れきった表情で、「普賢と同じ轍を踏んでいる」「奥尻でも同じだった」と愚痴をこぼしていました。その人たちは、見るからに長年被災地支援活動に携わっている感じでした。「普賢」とは雲仙普賢岳の火砕流(1991年)、「奥尻」とは北海道南西沖にある小さな島を襲った地震災害(1993年)を指します。

 同席者のほとんどは僕を含めて“初心者”。“ヴェテラン”の話をただ聴くのみ。その場には一日の疲れもあって、どんよりとした重い空気が流れていました。

 

 気怠い空気を変えたくて、僕が口を開きました。

「だったら提案します。『各グループの地震発災直後から自分たちは、組織はどう動いたか』の記録を今からでも遅くありません。スタートからきちんと残したらどうでしょうか?」

「形式はいろいろ考えられます。例えば取材グループを作って対話形式の調査を行うのも良いですよね」

「得られたものをマニュアル化して冊子にし、ヴォランティアだけでなく行政関係者など誰でもがその情報を共有できるようにしたら良いんじゃないですか?」

 ヴェテランの人たちは何も応えません。あくまでも想像ですが、新参者の僕に対して違和感があったのでしょう。「遠くから来た年上のうるさいオヤジが放つ思いつきになんか付き合ってられないよ」といった雰囲気すらありました。

 気まずい沈黙と重い空気がその場を支配しました。

 その時です。まるでドラマのような展開がありました。

「浅井さんの言ってることは正しいですよ。なんでみなさん浅井さんの言うことを考えてみないのですか?」

 僕の左手奥から男性の声が上がりました。スウェーデン人留学生のケネスです。彼とはそれまでに挨拶をした程度。東大で研究する「学者の卵」くらいの認識しかありませんでしたから、突然の発言に驚きました。それは他のメンバーに強いインパクトを与え、その場の空気は一変。僕の発言は提言とされ、具体的な検討に入りました。

 担当するメンバーが決まり、僕を代表とする動きになりましたが、僕は神戸に常駐するわけではなく、関東と関西を行き来する“通いヴォランティア”。それに40代後半でしたから、なるべく早く誰か若い人に担ってもらうことを条件に「暫定代表」になりました。

新聞雑誌記事 4 読売新聞1995年1月25日.jpg

 地震発生後、僕は「ACT NOW」の仲間と、浦和と神戸をひと月に何回か往復していました。活動がスタートして何回目かの神戸訪問の時、W氏を紹介されました。

 W氏が活動の中心メンバーになっていると聞いてビックリ。仮にせよ代表の僕の承諾なしに知らない人が中核を担っているのはあり得ないこと。ただ、W氏の押しの強さを見て、さもありなんと追認せざるを得ませんでした。

 次に神戸を訪れた時、信じられない報告を得意満面のW氏から受けました。

「浅井さん、喜んでください。この活動を草地さんが引き受けてくださるそうです。お礼の挨拶に行きましょう」

 草地さんとは草地賢一さんのことで、まさに「神戸YMCAの顔」。この世界の重鎮で、ヴォランティア活動と行政の重要なパイプ役としても有名でした。それだけに異論はありませんでしたが、あまりに強引なやり方に驚かされたのは事実です。

 お会いした草地さんには「若い力で展開していただけるよう」お願いして、僕は活動から身を引きました。

 

 この活動は1995年3月に「震災・活動記録室」として正式に発足し、実吉威氏などの若い力が核となって着実な成長を遂げてきました。

 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/7-11/eqb22_051.html

 1999年10月に「市民活動センター神戸」に改称。そして今では、“災害列島”と化した日本にとってはなくてはならない存在になったのです。

 

 自慢話にもならない自慢話でしたが、最後に、市民活動センター神戸の設立趣旨をご紹介しておきます。

「市民が自発的に課題を発見し、それを市民なりのやり方で解決すること。行政や政治や企業活動を含めた望ましい社会のあり方について、発言し、行動し、仕組みを創りだしてゆくこと。市民には本来そのような力が備わっており、その市民自身の力以外にこの社会を住み良くしてゆく原動力はない」

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