私の人生劇場

少年期

第19回 「僕の英語修行②」

 前回の騒動から数日後。くにおみに名案が浮かびます。

 名案とは、岡崎市の玄関口である名鉄本線東岡崎駅に行き、そこでガイジンさんを探し出すことでした。その人から英語を教わればいいじゃないか、というわけです。

 ところが朝から夕方まで改札口で見張ったものの外国人と思しき人はひとりも通りません。

 そこで「名案その2」が頭に浮かびました。

「電話帳を見れば、名前はカタカナで書いてあるはずだ」

 くにおみは目の前にあった電話ボックスに入り、電話帳をめくってカタカナの人名を探しました。二人の外国人らしい名前が見つかりました。電話番号、住所を書き写し帰宅。英語を得意としていた兄義澄(当時中3)からガイジンさん説得に必要な英語の言い回しを教えてもらいました。

 

 言い回しを頭に叩き込んだくにおみは次の週末、まちなかに行き、住所から家を探し出しました。写真でしか見たことのないモダンな家を前にすると、さすがに胸が高鳴ります。息を整えて、玄関の呼び鈴を押しました。

 しばらくするとドアが開きました。

「シ……シロクマ?!」

 目の前に現れた女性は背が高いだけでなく体格も良く、さらに真っ白な肌をしていたので、田舎の少年にはそう見えたのです。

「アワワワ……」

 意表を突かれて、練習してきた英文もそうですが、日本語すら口をついて出てきません。

「ご用件は?」

 けげんな表情の相手は流暢な日本語で聞いてきました。落ち着きを取り戻したくにおみが趣旨を説明すると、「いいですよ。それでは土曜日にどうですか?」と話はトントン拍子。土曜日の午後にレッスンが行われることになりました。

 話がまとまり落ち着きを取り戻したくにおみが帰り際に建物全体を見ると、隣の建物はキリスト教の教会でした。彼女はそこの宣教師だったのです。訪問時は緊張していたのでそれに全く気が付かなかったのです。その教会は今も伝馬通にある「日本福音ルーテル岡崎教会」です。教会堂は近年、国の登録有形文化財に登録されました。

日本福音ルーテル教会岡崎教会.jpg

 レッスンが始まり、しばらくすると宣教師である彼女は聖書を渡し、日曜礼拝に誘ってきましたが、くにおみは全く関心を示しません。何度かの勧誘の後、彼女はあきれ顔で「アサイさんは本当に英語が好きですね」と皮肉まじりに言いました。でも、英語を習いたい一心のくにおみは、勧誘をかわしながら5年ほど通い続けました。

 彼女は英国スコットランド出身で、後で分かるようになったのですが、結構訛りの強い英語を話す人でした。それに、後年自分で英語教授法を習ってみて分かったのですが、彼女の教え方はお世辞にも上手なものではありませんでした。だから、後から入会してきた生徒はすぐにやめてしまいます。しかし、とても丁寧に優しく英語を教えてくれたのは私にはありがたいことでした。

 

 英語の勉強に火が付いたくにおみは、ラジオの英会話番組にあまり魅力を感じなかったものの、毎朝冷水摩擦をした後必ず聴くようにしました。

 中学に入ると、教科書の内容を録音したソノシートを使って教科書を丸覚えする勉強法を思いつきました。でも、貧乏な我が家にはレコードプレイヤーがありません。そこで英語教師に直談判。学校でソノシートを購入してもらいました。それも3年連続で買っていただきました。完全に依怙贔屓(えこひいき)です。

 だから毎学年、1学期は早く登校し、ソノシートを聞いて教科書を丸暗記していました。教科書を見ないで「聞き覚え」ますから発音が悪くなるはずはありません。生意気なくにおみは、「先生、そのtogetherの発音違いますよ」などと授業中に指摘して恩人に恥をかかせるというひどいことをしていました。

 F先生は決しておとなしい先生ではなく、いやどちらかと言えば、剣道部の顧問で授業中も竹刀を持ち歩き、時折り生徒を殴るような今だったら大きな問題になりかねない言動をする暴力教師でした。

 でも、よほど私との相性が良かったのでしょう。先生から一度として叱られたり殴られたりすることはなかったし、逆に可愛がられていたのです。

 

 当時、「岡崎市英語暗唱大会」が毎年開かれ、公立中学校の代表がしのぎを削っていました。私は毎年、学内選考なしで美川中学校の代表に選ばれました。中心市街地の学校の代表に伍して好成績を収められたのも古井先生のおかげでした。

 

 当時流行ったペンパルとの文通もやりました。ませていたんですね。相手に選んだのはスコットランドと米国のおねえさん。女子高生でした!! ビートルズの存在を知ったのは、スコットランドのおねえさんからです。デビュー間もない彼らの話を聞かされたとき、「カブトムシ好き?」と怪訝に思ったことは今でもはっきり覚えています。

 

 高校に入ると教員の英語会話力の低さに我慢できず、学校教育の枠から完全にはみ出したくにおみは、活躍の場を名古屋に移しました。名古屋港に足しげく通うようになったのです。

 当時、名古屋港の入国管理体制は緩く、埠頭に入って外国人船員と接触できました。しばしば船内に招き入れられることもありました。真剣に船に隠れて密出国しようかと考えたこともあります。

 

 大学に入り、上京してからは“ナンパ師”になり、東京各所で片っ端から外国人に話しかけ、英語を磨き続けました。中には、仕事場や家に招じ入れてくださる方もいて今でもその方たちへの感謝の気持ちは忘れていません。

 中でも、米国人のトーマス・コーツさんから受けた恩は大きなものがありました。日比谷公園のベンチで新聞を読んでいたコーツさんに話しかけたことがきっかけでした。話が弾み、「次回は飯田橋にある私のオフィスに来てください」と言っていただき、それからは週に2回、彼の事務所を訪問しました。レッスンの後は必ずレストランでごちそうになりました。

 私が米軍のヴェトナム戦争における蛮行に怒って話すことでも、途中で口をはさむことなく聴き入り、話し終えると私の英語の欠点を書き、おススメの言い回しも添えられたメモを渡してくださるのです。雑談から、コーツさんの政治姿勢がかなり私と違っていることがうかがえましたが、自分の考え方を若輩者の私に押し付けることは決してありませんでした。

 私が米国の大学でジャーナリズムを学びたくて、100以上の大学と交渉中と知ると、「South Dakota州立大学の学長が私の友人で、あなたのことを彼に話したら学費、寮費をすべて免除して受け入れたいと言っています。ただ、あなたの希望するジャーナリズム学部(学科)が残念ながら無いので政治科学専攻になります」

 と考えられないようなオファーをしていただきました。しかし、頑なで愚かなくにおみは、「ジャーナリズム学部でないならお断りします」と答えてしまいました。

 その後の英語修行については、また「青春篇」でご紹介したいと思います。

 

 このように私の英語修行はあまりに破天荒で若い人たちの参考にならないかもしれません。しかし「やりようによっては想像もつかないようなチャンスが転がり込んでくるかもしれませんよ」と伝えたくて自らの体験を書いてみました。

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