私の人生劇場

少年期

第18回 「僕の英語修行①」

 1958―59年は、敗戦国日本が「戦後混乱・復興」から完全に脱却したと子供のくにおみにも実感できた時期でした。一般的に戦後復興期は1954年までとされ、同年末から高度成長期に入ったとされますが、くにおみ少年の目にはこの年が「新しい日本」のスタートに見えたのです。

 東京タワーの完成、1万円札の登場、明仁皇太子(平成天皇)の「お妃選び」、それに加えて経済成長率が軽く10%を超える岩戸景気があり、それらすべてが市民生活に明るさと希望をもたらした感がありました。

 安月給だった公立学校教員の給与にも好況が反映され、三種の神器のひとつの洗濯機が我が家にお目見えしたのもこの年でした。

 

「あんたんとこまだ買っちゃああかんよ。一緒に使おまい」

 と言って、母千代子は隣の本多家に“神器”の共有を提案。配達されると、それは両家(二軒一棟)の裏背戸口のど真ん中に置かれました。5人の子供たちが届けられた洗濯機を囲んで、目を丸くして不思議な機械の中を覗き込んでいたことは言うまでもありません。

 余談ですが、結果的にこれは千代子にとって大正解。隣家の主婦かをるさんは、申し訳ないからと、多忙の千代子に代わって我が家の洗濯物までをも干してたたんでくださったのです。

 家の増築も行いました。我々の成長を見て必要と思ったのでしょう。二段ベッドのある小さな子供部屋を造ってくれました。そして4畳半に床の間付きという小っぽけな客間を造り、千代子は悦に入っていました。くにおみはそれを見て、「見栄っ張り」と冷ややかな視線を送っていました。

 

 勢いのある流れの早い「浮世」でしたが、その一方でくにおみに「戦争」を意識させる暗雲が日本を覆い始めた年でもありました。

 その正体は日米安保条約です。

 当時、米国は東西冷戦下にあって、東南アジアへの本格的な軍事介入を画策していると言われていました。そのためにも後方支援の拠点として米国は日本を必要とし、翌1960年の安保改定では、不利な条件をいろいろ押し付けてくるのではないかと、野党、労働組合、学生連合は警戒を呼び掛けていました。

 

 5歳の時に「戦争を無くす仕事をしたい」と思い、元日本兵から「それなら新聞記者になることだ」と言われたことは以前書きました。でもそれは漠然とした思いであり、具体性を伴ったものではありませんでした。しかし、新聞を毎日読み進むにつれ、戦争が現実味を帯びてくると、くにおみの危機アラートが作動したのです。

「東南アジアでアメリカが戦争をやるかもしれない。冷戦を考えると他の地域でも起きるかもしれない。だったら英語ができないとダメじゃないか!」

 くにおみは英語の必要性にその時突然気が付きました。

 しかし、当時は英語を学ぶ環境は学校以外にありません。裕福な家庭であればいろいろな方法があったでしょうが、浅井家にはそんな余裕はどこを見てもありません。隣近所に「英語がペラペラ」を自称する男性〇〇さんがいましたが、どこかその偉そうな態度が気に食わなくて彼に教えを請う気にはなれませんでした。

 しばらくラジオでNHKの「基礎英語」をやってみましたが、ヤル気満々の11歳には単調でためになるとは思えませんでした。

 「何か方法はないものか?」

 あれやこれや考えましたが、妙案は浮かびません。

 

 そんなある日、家の近くで“ガイジンさん騒動”がありました。軽オートバイに乗った白人少年が住宅地に迷い込んできたのです。少年は取り囲んだ住民(まさに老若男女)に何か英語らしい外国語で懸命にまくし立てますが、住民は全く理解できずに顔を見合すのみ。

「〇〇さんに頼めばいいじゃん。あの人だったら英語ペラペラだから」

 とひとりのおばさんが言いました。

 それを聞いたわれわれ子供たちはすぐ近くにある〇〇さんの家に行き、事情を話して助けを求めました。でも、彼は気のりしない様子。重い腰を上げようとはしません。

 その様子を見て「なんだ。ほんとはしゃべれないじゃん」と捨て台詞を残してわれわれはまたガイジンさんのいた場所に戻りましたが、そこには彼の姿はもうありませんでした。

 

 その出来事から数日後、くにおみに名案が浮かびました。

 早速その週末、実行に移します。

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