私の人生劇場

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第20回 「阪神大震災『活動記録室』誕生裏話」

 日本の代表的な防災工学者・室崎益輝さんから、NPO法人「市民活動センター神戸」(KEC:Kobe Empowerment Center)の総会が6月5日(土)に行われたとの報告がありました。

 実はこのKFC、

 いやこれではフライドチキンですよね。

 KEC。これは僕が言い出しっぺで作られた組織なんです。

 と言っても、ホントに提案しただけで、あっという間に僕の手から離れてしまったので僕が作ったと胸を張れるものではありません。僕が言い出したことをここまでにしていただいた多くの皆さんの力の結集に、これぞ「エンパワーメント」と喜んでいます。

 NPO法人「市民活動センター神戸」はNPO支援事業や調査研究事業、政策提言事業、東日本大震災支援事業など幅広い活動を行う団体で、その設立は1995年にさかのぼります。

ACT NOW 2.gif

 アレは、26年前の2月のことでした。

 阪神・淡路大震災が起きてひと月余り。

 神戸市長田区役所に設けられたヴォランティアルームには、いつものようにヴォランティア組織の代表が集まっていました。その数ははっきり覚えていませんが、30人近くいたと思います。

 会議が始まる前で雑談をしていた時、何人かが疲れきった表情で、「普賢と同じ轍を踏んでいる」「奥尻でも同じだった」と愚痴をこぼしていました。その人たちは、見るからに長年被災地支援活動に携わっている感じでした。「普賢」とは雲仙普賢岳の火砕流(1991年)、「奥尻」とは北海道南西沖にある小さな島を襲った地震災害(1993年)を指します。

 同席者のほとんどは僕を含めて“初心者”。“ヴェテラン”の話をただ聴くのみ。その場には一日の疲れもあって、どんよりとした重い空気が流れていました。

 

 気怠い空気を変えたくて、僕が口を開きました。

「だったら提案します。『各グループの地震発災直後から自分たちは、組織はどう動いたか』の記録を今からでも遅くありません。スタートからきちんと残したらどうでしょうか?」

「形式はいろいろ考えられます。例えば取材グループを作って対話形式の調査を行うのも良いですよね」

「得られたものをマニュアル化して冊子にし、ヴォランティアだけでなく行政関係者など誰でもがその情報を共有できるようにしたら良いんじゃないですか?」

 ヴェテランの人たちは何も応えません。あくまでも想像ですが、新参者の僕に対して違和感があったのでしょう。「遠くから来た年上のうるさいオヤジが放つ思いつきになんか付き合ってられないよ」といった雰囲気すらありました。

 気まずい沈黙と重い空気がその場を支配しました。

 その時です。まるでドラマのような展開がありました。

「浅井さんの言ってることは正しいですよ。なんでみなさん浅井さんの言うことを考えてみないのですか?」

 僕の左手奥から男性の声が上がりました。スウェーデン人留学生のケネスです。彼とはそれまでに挨拶をした程度。東大で研究する「学者の卵」くらいの認識しかありませんでしたから、突然の発言に驚きました。それは他のメンバーに強いインパクトを与え、その場の空気は一変。僕の発言は提言とされ、具体的な検討に入りました。

 担当するメンバーが決まり、僕を代表とする動きになりましたが、僕は神戸に常駐するわけではなく、関東と関西を行き来する“通いヴォランティア”。それに40代後半でしたから、なるべく早く誰か若い人に担ってもらうことを条件に「暫定代表」になりました。

新聞雑誌記事 4 読売新聞1995年1月25日.jpg

 地震発生後、僕は「ACT NOW」の仲間と、浦和と神戸をひと月に何回か往復していました。活動がスタートして何回目かの神戸訪問の時、W氏を紹介されました。

 W氏が活動の中心メンバーになっていると聞いてビックリ。仮にせよ代表の僕の承諾なしに知らない人が中核を担っているのはあり得ないこと。ただ、W氏の押しの強さを見て、さもありなんと追認せざるを得ませんでした。

 次に神戸を訪れた時、信じられない報告を得意満面のW氏から受けました。

「浅井さん、喜んでください。この活動を草地さんが引き受けてくださるそうです。お礼の挨拶に行きましょう」

 草地さんとは草地賢一さんのことで、まさに「神戸YMCAの顔」。この世界の重鎮で、ヴォランティア活動と行政の重要なパイプ役としても有名でした。それだけに異論はありませんでしたが、あまりに強引なやり方に驚かされたのは事実です。

 お会いした草地さんには「若い力で展開していただけるよう」お願いして、僕は活動から身を引きました。

 

 この活動は1995年3月に「震災・活動記録室」として正式に発足し、実吉威氏などの若い力が核となって着実な成長を遂げてきました。

 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/7-11/eqb22_051.html

 1999年10月に「市民活動センター神戸」に改称。そして今では、“災害列島”と化した日本にとってはなくてはならない存在になったのです。

 

 自慢話にもならない自慢話でしたが、最後に、市民活動センター神戸の設立趣旨をご紹介しておきます。

「市民が自発的に課題を発見し、それを市民なりのやり方で解決すること。行政や政治や企業活動を含めた望ましい社会のあり方について、発言し、行動し、仕組みを創りだしてゆくこと。市民には本来そのような力が備わっており、その市民自身の力以外にこの社会を住み良くしてゆく原動力はない」

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第23回 「三河管理教育① ~城北中学校初代校長・鈴村正弘」

 世の中が日米安保に明け暮れる1960年頃、岡崎では後に日本全国から「三河管理教育」と呼ばれて注目される動きが生まれていました。ベビーブーム(1947~49年。3年間出生総数約800万)によって児童数が激増。町の中心部にある竜海中学と葵中学の過密状態を解消しようと、新しい中学校創設構想が具体化していたのです。

 その名は岡崎市立城北中学校。徳川家康の生まれた岡崎城から数百メートルの場所ということもあり、計画段階から「どんな中学ができるのか」と世間は注目しました。

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 校長に選ばれたのは、鈴村正弘

 28歳で梅園小学校の教頭になり、31歳で葵中学校の校長に抜擢された教育界では知らぬ者がいない人物でした。葵中学では、就任早々「国際化するであろう世の中の動きに先駆けて」と、終戦直後に国際規格の50メートルプール建設を企画。文部省がカネを出し渋ると、自分で費用を集めて造ってしまうという荒業をやり遂げたことでも勇名をはせていました。

 教育委員会から「どの町にもない、理想の学校づくりをせよ」との命を受けた鈴村は、それまでに市内の学校を回り自分好みの教員28人を集めました。その中に、母千代子の名がありました。

 実は、鈴村と千代子には、その10数年前から縁があったのです。

 戦時中のことでした。岡崎の高等女学校を卒業した千代子は、当時名古屋にあった「愛知県女子師範学校」に入学します。そして、在学中に「教生(教育実習生)」として行った先の愛知県第一師範学校附属国民学校で鈴村と出会いました。実習クラスの担任が鈴村だったのです。

 千代子は女子師範学校卒業後、岡崎市内の学校に赴任しますが直ぐに「寿退職」。夫の赴任地の北朝鮮(ピョンヤン)に渡ったために、鈴村とは疎遠になります。しかし、夫の死後教員に復職した千代子はやがて鈴村と再会します。

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 そんな経緯から千代子は鈴村の寵愛を受け(愛人説もありました!ただし、それが事実無根なのは私が一番知っています。笑)、「城北創立28人衆」のひとりに選ばれたのです。

 おそらく鈴村の思惑があったのでしょう。人事発表はギリギリまで行われませんでした。表向きには1961年4月1日に全員が招集されて初会合とされていますが、選ばれた28人衆の“たたかい”は開校の61年以前から始まっていました。特に鈴村の息のかかった年長者は秘密裏に何度も会合を重ね、「学校づくり」を熱く語り、開校時にはそれまで何年も仕事を共にしてきたかのような連帯感が生まれていたのです。

 

 開校してからというもの、連日千代子は最終バスでの帰宅。男性教諭に至っては “シンデレラアワー”を過ぎるのが日常化します。その光景に周辺の住民は「不夜城の城北」とあだ名しました。

 鈴村の下に集まった教員たちは、平均年齢32.7歳と若かったものの(戦時中に教員だった者は3人)、軍国教育を受けて育った「戦中世代」です。欧米のものを含め多くの書物から「戦後教育」を模索しますが、鈴村を筆頭として教員たちの根底にある視点は戦前のもの。また、『修身教授録』『恩の形而上学』で知られる神戸大学教授森信三が「城北教育」の根幹に強く影響を及ぼしたので、基本姿勢が世間で言う「管理」に行きついたのも当然と言えば当然でした。

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 教え方の基本は、同じことの繰り返しと徹底的な暗記。記憶(知識)偏重教育と非難されようが、毎日のようにテストをして、それをまた週単位、月単位で試験を重ね、知識を詰め込んでいくのです。学内実力テストも頻繁に行いました。

 教育委員会が鈴村に求める「理想的な中学校」には、「ケンコー(県立岡崎高校のことを地元の人はこう呼ぶ)に何人合格させるか」が当然含まれていたと千代子は言います。実際に、そのやり方は功を奏して一年目から7、80人の合格者を出して教育関係者の度肝を抜きました。結果的にケンコーになんとか入れても授業についていけない生徒が続出。一部教育関係者は、妬みもあって、ひどいことにそれらの生徒たちを“絞り切ったボロ雑巾”と揶揄しました。

 この部分については、28人衆の子どもであり、彼らの同期生だった私が一番よく知っています。そう呼ばれた生徒たちのためにも同じ岡高生だった私が言っておかなくてはなりません。

 同級生を含めて周りに城北の卒業生は多くいましたが、それなりに存在感があり、確かに勉強に疲れ切った面はあったもののボロ雑巾のような生徒はいませんでした。

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 鈴村が厳しく当たったのは生徒だけではありません。教員に対する手厳しい指導もそれまでの常識をはるかに超えるものでした。

「子供の成績が振るわんのはお前たちの教え方が悪いからだ。もっと教え方を磨け!」

 と厳しく言い渡します。

 鈴村が突然教室に現れて授業を観察することもありました。「30分以上その場にいると、後で校長室に呼ばれるんですよ」と元教員が証言するように、鈴村の気に入らない授業をしていた教師は、後で校長室に呼ばれて授業の進め方から板書の仕方まで厳しい注意・指導を受けました。

 鈴村は昼食後にも予告なしに教室に姿を見せました。入ってくるなり生徒全員に弁当箱を机の上に出させて(当時給食ではなかった)中身を点検。「米粒が、おかずが残っとる」と生徒を斬り、返す刀で担任も「指導がなっとらん!」とバッサリ一刀両断したと言います。

 教員たちこそ教養を身につける必要があると、鈴村は「教員たるもの読書を怠ってはいかん。給料の半分とは言わんが2割から3割は本代に使え」と命じました。それを徹底させたかったのでしょう。定期的に読書会を開くようになりました。また、国語の大切さを教員に浸透させようと、俳句会をこれまた職員室でもうけました。このふたつの会は、形態こそ変わりましたが今も続いており、まさに鈴村の遺産と言えるでしょう。

 千代子は退職後、市内各地で俳句会の講師を務めるようになりますが、城北中学では94歳まで続けていました。

 

 城北の体育授業は軍事教練を想起させると言われましたが、確かにその指摘は当たらずとも遠からず。冬場に男子生徒を上半身裸でグラウンドを走り回らせる教員もいました。それに抗議してくる保護者もいましたが、「教員も同じ格好ですから」と鈴村はその抗議を一蹴したと言います。毎年大寒に行われる保護者を巻き込んでの「暁天かけ足」(60年後の今も続いている)はその象徴とも言えました。

 そうして鍛えられた生徒たちは運動部でも成果をあげて、市や三河地区、後には県や国で行われた競技会で突出して優秀な成績を収めて多くの優勝旗や表彰状を学校に持ち帰りました。

 その凄まじい「城北方式」が世間に知られるのに多くの時間を要しませんでした。経済成長が錦の御旗の時代です。世の中全体が競争原理に支配され、今だったらしごきそのものと批判されるであろう「東洋の魔女」(東京オリンピックで金メダルをとった女子バレーチームの通称)を「『為せば成る』のお手本」と崇(あが)める空気がありました。言ってみれば、世の中全体が“ガンバリズム”に包まれていたのです。当時は鈴村のやり方を受け入れる要素であふれていたのです。

 

 体罰は常態化していました。ただ、これは城北中学だけのことではなく市内の多くの学校で日常的に行われていました。保護者の中には「センセー、言う事聞かんかったら一発二発見舞ってやってください」という人が珍しくない時代です。教師たちは罪悪感なく往復ビンタを生徒のほおに見舞っていました。

 男性教諭に交じってと言うか、率先してと言うべきか千代子も暴力に頼る教師の一人でした。それも女子生徒ではなく、男子生徒に制裁を加えていたのです。

 私が高校に入って間もない頃です。後ろの席のアベ君が“ゲッ”と言ったかと思うと、「ねえねえ」と私に呼びかけてきました。振り返ると手には学校から渡されたばかりの生徒名簿があります。当時は個人情報の開示は普通に行われており、そこには保護者の名前や職業まで書かれていました。配られた生徒名簿の中に「浅井千代子 教員」という文字を発見、アベ君はピンときたようでした。

「あんたのお母さん、電気ババア?」

 いきなりの強烈な表現に、私が真意を測りかねていると、

「気が強いよなあ。だって、背伸びして番長に往復ビンタ喰らわしていたよ」

 それまでに千代子から何度もビンタの洗礼を受けていただけに、私はさもありなんと思いましたが、他の城北の卒業生からも何度も言われたので「体罰は止めなよ」と言ったことがあります。千代子の口からは「言って分からんだもん。体に教えてやるしかない」と予想した通りの答えが返ってきました。

 

 そんな状況もあって、全国の教育関係者が「城北教育」の現場をこの目で見ようと視察に押し寄せ、その名は全国に轟くようになっていったのです。

 全国的人気を追い風に、城北中学の校長を12年間務めた鈴村は、自らの理想を貫くために次の段階に入ります。1972年9月、任期半ばで退任、同年10月に岡崎市の三代目の教育長に就いたのです。しかも、突拍子もないやり方で教育界の最高峰に上りつめたのです(次回に続く)。

 

*写真は『城北十年』(1971年6月19日発行)から拝借いたしました。

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第24回 「三河管理教育② ~その裏側と国立研究所誘致」

 三河教育界の怪物・鈴村正弘は岡崎市教育委員会の教育長になるために奇手を繰り出しました。

 なお、ここに書く耳を疑うような話は、主にひとりの証言に基づくものであることを最初に記しておきます。

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 鈴村と〝二人三脚〟を組み、種々様々な教育行政を実行した元市長の内田喜久(よしひさ)に2017年、「鈴村さんとのエピソードをお聞かせいただきたい」と申し入れて話を聞きました。

 その時、1925年生まれの内田は92歳。かつては「ミニ角栄」と呼ばれ、切れ者と言われた内田も、寄る年波には勝てず年相応の記憶の衰えもあるだろうと思っていました。しかしながら、実際に会ってみると、記憶の正確さのみならず、その饒舌さや発するエネルギーは70代、いや60代と言っても過言ではないほど。こちらの質問に期待を超える答えで受けてくれました。

 

「鈴村さんはどうしても教育長になりたくてね。市議を全部イタヤに呼んで芸者を挙げて接待。教育長にならせてくれと、力を貸してくれと市議たちに頭を下げたんですよ」

 鈴村が教育長になるまでのいきさつを聞くと、内田はいきなりそう話し始めました。

 内田の話では、当時市議会が教育長人事にも力を持っていたとのこと。だから鈴村は市議たちの力を借りようと彼らを芸者接待したというのです。まあ、市議の中には共産党員もいましたから「市議全部」とは大げさでしょうが、当時の内田の勢い(前年の初出馬市長選挙では、現職の太田光二の34,705票に対してダブルスコアの73,275票を獲得)を考えれば、かなりの市議が内田の下に集まっていたことは間違いないでしょう。

 イタヤとはかつての花街・板屋町のことで、正式には龍城連と言いました。現在は住宅街に変容していてその面影もほとんど見られませんが、江戸時代から昭和まで、岡崎だけでなく周辺の町から多くの男たちが芸妓や娼妓を求めてにぎわう街でした。岡崎には4か所の花街がありましたが、中でもイタヤはその代表格でした。また、城北中学の学区に存在しており、鈴村がしばしば利用したという話もうなずけます。

 後年母千代子が私に「城北の運動会の来賓テントに白塗りのキレイどころ(芸者)が並ぶのよ。今だったら父兄(保護者のこと)やマスコミが大騒ぎだわね」と言ったことがありますから、鈴村が「芸者政治」を〝得意技〟の一つにしていたことは間違いないでしょう。

 芸者を挙げての工作を聞いて素早く反応したのが、鈴村の対抗馬と目されていた人物とそのグループだったと内田は続けます。

「『中日新聞に取り上げさせよう』と彼らはいきり立ったんだ。でも、対抗馬の女房が菓子折りを持って市議の家を回ったことが分かってね。その案は立ち消えになった」

 ただ、これは、鈴村を支持していた内田が反対派の動きについて語ったことです。この辺りのいきさつの〝裏どり〟しようと当時をよく知る人数名に確認を求めましたが、彼らの一部が1980年に起きた内田父子の買収騒ぎに関わっていたこともあるからか口をつぐんでしまい、そのいずれからも話を聞くことができませんでした。

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 いずれにしても、鈴村は希望通りに1972年10月、教育長の座に就きました。

「鈴村さんが教育長になってすぐにふたりで東京に行ったんですよ。いろいろあいさつ回りをしなければなりませんからね。前市長の太田光二さんが(在任中に)言ってた学芸大の跡地利用の話も形をつけなければいけません。太田さんの話では、上智大学が『岡崎キャンパス』を造る意欲を示しているということでした」

 学芸大学とは国立愛知学芸大学のことで、60年代まで本部キャンパスは岡崎市明大寺町に、分校は名古屋市に置かれていましたが、文部省の指導もあり、愛知教育大学と改称して統合されることになりました。それを受けて両市の感情的とさえ言える熾烈な誘致合戦が繰り広げられますが決着はつかず、折衷案として地理的に中間の刈谷市への統合・移転が決められます。そうして1970年、刈谷市に国立愛知教育大学が誕生しました。

「上智大学に行ってみると、びっくりしたことに、上智大学側は『何のことですか?』なんですよ。太田(光二・前市長)さんは嘘言ってたんだ、って分かってね」

 太田が嘘を言っていたかを確かめるために、後日、当時市政に関係していた人物に聞いてみましたが、〝上智キャンパス構想〟を詳しく覚えている人はいませんでした。「そんな話もあったような気がするなあ」という反応でしたから太田が上智側と正式な話し合いを持っていなかった可能性は十分にあるというのが、私の結論です。

 

 内田の話を続けます。

「それで困ってしまいましてね。鈴村さんと『どうしましょう?』ですよ。すると、鈴村さんが『親しい後輩が文部省で局長をやっとります。そいつにちょっと会いに行きましょう』と言ったんですよ」

 そう話す内田の表情がパッと明るくなり、面白い展開が次に待ち構えているということは明らかでした。

「その局長を文部省に訪ねて事情を話すと、『だったらちょうどいい話があります。実は、大規模な国立研究所を創る計画がありましてね』と言うんですよ。『いろんなところが手を挙げています。私が岡崎に持っていけるよう頑張ってみますから手を挙げてください』とも言ってくれました」。

 これだけを聞いて(読んで)も皆さんには信じがたいでしょうが、私が知る限り、鈴村正弘という人物は人たらしで〝奇跡を呼ぶ男〟。計り知れない幅広い人脈と〝ひきの強さ(強運)〟、それに加えた交渉上手で数々の軌跡を起こしてきましたから私には腑に落ちます。

 局長が持ち出したのは、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所などから成る国立科学研究所の構想でした。「自然科学の幅広い領域を研究対象」とするとともに、「国際的な研究活動をおこなう」目的で創られる日本を代表する研究者が集まる研究機関の創設は、内田と鈴村にとっては願ってもない話です。

 

 そのあたりの事情を同研究機構生理学研究所の初代所長であった江橋節郎は、鈴村正弘が他界した直後に出版された追悼集『櫻大樹』で次のように書いています。ちなみに、江橋は筋肉研究の世界的権威でノーベル賞候補にもなった生理学者です。

「岡崎の研究所の生みの親は、第二次世界大戦後の焼け跡の中から立ち上がり、復興の熱意に燃えた若い研究者達でした。彼らが我々も世界に通用する研究所がほしいとの要望から、各々手弁当で集まり、企画し学術会議に働きかけ、紆余曲折の末、やっと昭和42年(1967年)に通過し、昭和48年(1973年)には学術審議会が文部省に答申するところまでこぎつけました。

 その答申の情報をいち早く入手して、早速岡崎に誘致すべく熱心に行動を起して下さったのが、当時の教育長鈴村先生でした。そして文字通り全力投球、御自分でも生理学研究所十年の歩みに『教育長は東京から岡崎に出張しているなどと新聞に冷やかされたほど東奔西走の毎日でした』と書かれておられる程の御活躍ぶりでした。文部省への陳情はもとより、分子研の○○、基生研の○○、生理研の○○など、それぞれの担当の先生のところを廻られる周到な根回しぶりでした。すべて東京在住の方ばかりに御連絡をとる為には殆ど東京暮しとなってしまわれたわけです。」

 

 誘致に成功すると、鈴村は岡崎教育界の〝鈴村一派〟を総動員、研究所の立ち上げに全面的な協力を惜しみなく提供しました。研究者たちの家探しから子供たちの転校手続きまでありとあらゆることに「鈴村流おもてなし」が施されたそうです。

 1975年4月、最初の研究所である分子科学研究所が、旧愛知学芸大学の跡地に設立されました。

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 また、市民との接点も鈴村流のやり方で案出されました。

 市民大学の開講、研究所の市民開放、小中学校教員の研究所の利用等々、市民と研究所の懸け橋は鈴村の手によるものだ、と江橋は記しています。研究所は〝鈴村正弘〟と共に発展し、大型機器の予算が付くなど充実し、研究所に所属するスタッフも500人を超える大世帯となりました。

 そして1981年4月、分子研、基生研、生理研を統合した岡崎国立共同研究機構(後の大学共同利用法人自然科学研究機構)の創設にこぎつけます。学園・学研都市を自負してきた岡崎市にとっては願ってもない流れです。

 

 ところがその時すでに、研究所の誘致を推し進めた〝両輪〟に異変が起きていました。

 市長を務めていた内田は前述した選挙違反事件と汚職事件で前年に辞職。また、鈴村は前の月に起きた城北中学3年生の自死の対応に追われる毎日だったのです。(次回に続く)

 

*古い写真は『城北の歴史』(1984年3月14日発行)から拝借いたしました。

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第25回 「三河管理教育③ ~鈴村教育長とおかん、それに私」

 1972年だったと思います。日時が確かでないのは、私の当時の日記が行方不明になったことと、岡崎市教育委員会に問い合わせても「鈴村正弘教育長欧州訪問」の詳しいデータが何も残っていないためです。

 当時英国ロンドンで生活していた私のもとに母千代子から〝伝令〟が飛んできました。

「教育長になられた鈴村先生が近くヨーロッパを訪問なさいます。英国ではあなたがお世話をすると言っておきましたからよろしく。私たちの関係は絶たれていても、これは別問題。あなたが鈴村先生から受けた御恩は忘れないでそちらで返すように」

 千代子とはその数年前に対立が激化、親子関係を絶ちその後一切連絡を取っていませんでした。居場所についても知らせてありませんでしたが、母は私の友人から連絡先を聞きだして連絡してきたのです。

 鈴村にお世話になったと言われても、私にその記憶はありません。覚えているのは、中学高校時代に何度か城北中学の校長室に呼び出されてお説教を受けたことです。それを御恩と言い切る千代子に「相変わらずだな」と思いましたが、「教育長になった鈴村さんと会って日英教育談義をやるのも悪くないな」という好奇心がないわけではなく、受け入れることにしました。

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鈴村正弘と“おかん”(1965年)

 滞在していたホテルに行くと、鈴村は相変わらずの人懐っこい笑顔で温かく迎えてくれました。その手に左翼的論調で鳴る月刊誌『世界』を持っているのが気になりましたが、私からあえて触れなかったためか、話題になることはありませんでした(後になって分かったことのひとつですが、鈴村の知識欲には思想の境界はなく、俗に言う右から左まで幅広い層の人や書物から吸収していました。また人的交流もあったようです)。

 鈴村は私たち親子の関係修復を試みたかったようですが、私にその気がないと分かるとそこにこだわることなく、英国の教育事情を熱く語る私の話に耳を傾けてくれました。そして、翌日連れて行った現地校でも校長や教員の話を熱心に聴き、いくつも質問をしていました。その姿に、英国の教育環境の良いところがふるさと岡崎に少しでも生かされるのではないかと望みを持ちましたが、残念ながらその後ロンドンや東京に伝わってくる「三河管理教育」の現状にはその辺りの〝効果〟は認められませんでした。

 私がお世話をしたと言ってもその程度で、鈴村は翌日、次の訪問地に向けて慌ただしく旅立っていきました。

 

 しばらくして兄から結婚したとの報告が入りました。鈴村夫妻に仲人をお願いしたと聞き、千代子に押し切られる彼の姿を思い浮かべて「かわいそうに。でも、おふくろの言いなりになるのも兄貴らしいな」と思いました。

 鈴村は多忙を極めた時期なのにわざわざ長野にある結婚相手の実家にまで出かけて結納に同席したとのこと。彼の面倒見の良さには舌を巻きました。

 後に列席者から聞いたところによると、結婚披露宴では「ロンドンに留学している弟さんから祝福の国際電話が入りました」と司会者が紹介し、会場が盛り上がったそうです。結婚することさえ知らされていなかった私が電話を入れるはずがありません。また、義澄がそんな演出を思いつくこともありえません。その話を聞いた時には、義澄はすでに他界していましたから〝演出〟が誰によって考えられ実行されたのか確認できず、謎のままです。

 

 鈴村と私との再会は、20年後の、兄義澄が急逝した1992年12月19日でした。

 ひと月前に急性白血病と診断された義澄は、「おふくろを頼む」を遺言に、あれよあれよという間に病気を悪化させ他界してしまいました。

 妻子ではなく母親を心配して人生を閉じた義澄。それはもしかしたら敗戦直後の10か月間に及ぶ極寒の北朝鮮の逃避行(一緒に逃げた軍官舎の仲間の3割から4割が落命)で、生まれたばかりの自分を守り抜いてくれた母親との誰も入り込むことができない〝絆〟がそう言わせたのかもしれません。

 遺体が病院から実家に戻ると、さすがです。最初に家に来たのは鈴村でした。来たというよりも乗り込んできたという表現が合っているかもしれません。

「くにおみ、いいか、これは義澄の葬式じゃない。おふくろの葬式だと思え。明日の新聞に記事が載るようにしたから人がたくさん来る。大変なことになるぞ。手伝いを何人も送り込んでやるからそのつもりで頑張って仕切れ」

 そう言って玄関を去る鈴村に深々と頭を下げていた千代子は、振り向きざまに私に言いました。

「分かったわね。それじゃあ、よろしく」

「ちょっと待ってくれよ。それじゃあ兄貴がかわいそうだろう。兄貴にふさわしい送り方をしてやろうよ」

 と抗議をしましたが、母は聞く耳持たず。また兄嫁も夫婦関係に亀裂が入った状態でしたからどうでもよい表情を見せていました。

 

 鈴村は自分の所に出入りする記者たちを手なずけていたのでしょう。翌朝新聞各紙には兄の訃報が記事になって掲載され、実家の電話が鳴りっぱなしになりました。実は、千代子はその10数年前、岡崎市を含む西三河で初めての公立学校の女性校長になり、退職後は「婦人会館」の館長を務め、各地で講演を行う「女性のフロントランナー」として注目される存在だったのです。だから、新聞記事では、その長男が急逝したという書き方をされていました。でも、兄は会社勤めをやめて補習塾を自宅で開いていた〝名もない〟平凡な一市民です。新聞にその死去を報じられるような立場ではありません。

それを読んだ私は、「こんなクソ記事書きやがって」と兄の死を紙面に取り上げた記者たちをなじり、恨みました。

 昼を過ぎると、鈴村と共に学校の校長・教頭クラスの教員たちが実家に現れ、千代子と打ち合わせをして慌ただしく通夜の準備をしていきました。くそまじめで地味に生きてきた義澄には似つかわしくない派手な通夜になりそうな気配です。私は母を人目のつかないところに呼び出しました。

「いい加減にしなさいよ。兄貴がかわいそうじゃないか。やつは名もない平凡な市民だよ。あなたの見栄でこんなにして」

「仕方がないの。鈴村先生のお考えがあるんだから。この場は私の顔を立てて」

 珍しく懇願の表情を見せる千代子に〝母親の顔〟を見た私は、それ以上強くは言えずに、

「それじゃあ、せめて焼き場(火葬場)では僕と甥っ子たちの思ったような形で兄貴を送らせてもらうからね」

 とだけ言ってその場を離れました。

 

 高校生と小学生の甥には、

「焼き場では兄貴の好きだった歌で送ってやろう。やつが好きだった歌を10曲位選んでテープに録音しておいてくれるかな?」

 と頼み、通夜と葬儀は〝鈴村応援団〟の邪魔にならないように全体のまとめ役に徹すると心に決めました。

 案の定と言うか、予想をはるかに上回る弔問客が静かな住宅街に押し寄せました。返礼品が足らなくなり、3回追加注文するほどでした。通夜を行った部屋は、自宅を改造した塾の教室ですから一般的な家よりもかなりたくさん人が入れましたが、それでもとても全員は入りきれません。人の流れを作って順々にお帰り頂きました。

 式を始める直前に雨が降り出しました。外に並んで待つ方たちに挨拶をしていると、「大変。葬儀屋さんが怒ってる」とお呼びがかかりました。

 家の中に戻ると、叔父の一人が台所で「葬儀屋だったら天気予報を見てテント位用意しとけ!」と怒鳴り散らし、葬儀屋もそれを受けて「テントの注文は受けていない。そんな無理を言うんだったら引き揚げさせてもらう」とやり合っているではありませんか。「こんな時に問題を起こさんでくれよ」と思いながらふたりを引き離し、葬儀屋の言い分を聞き、説得にかかります。

「雨が降るなんて天気予報はなかったですよ。それをいきなり頭ごなしに怒鳴りつけられて……」

 と興奮して訴える葬儀屋の社長は好人物で話の分かる人でした。こちらの話をよく聞いてくれ、機嫌がなおり事なきを得ました。こういった時には人間性が出るものです。言葉を荒らげていたのは高校の教員をする真面目一徹の叔父でした。他にも親戚の何人かが何かと口をはさんで私を困らせました。その点鈴村応援団は手助けすることはあっても、余計なことを言ったりしません。とても助かりました。

 

 この一件を見ても分かるように、鈴村正弘という人物は、確かに一方的なやり方で物事を進めますが、状況を読む力、先見性、それに責任の取り方、いずれをとっても凡人ではありませんでした。それに比べ、一部の親戚は状況も分からずに口出しをしてくるだけです。その違いは明らかでした。

 通夜に来てくれた弔問客の中に本多康希(こうすけ)さん、「隣の康ちゃん」がいました(本多家の人々について書いた第9回第10回に登場)。30年ぶりの再会です。静岡の病院の勤務医になっていた康ちゃんは、仕事を終えた足で駆けつけてくれたのです。人込みの中に姿を見つけて近寄ろうとする私を康ちゃんは手で制し、義澄と最後のお別れをした後少し言葉を交わすとそのまま去りました。目が合った時、その目にはうっすらと涙が浮んでいました。心を揺さぶられた私は「こうちゃん、ありがとう」と、その背中に心の中でお礼を言いました。

 義澄の教え子たちも来てくれました。

 受験対策を主軸にして生徒を増やそうと言う兄嫁には耳を貸さず、義澄は頑固に「補習」にこだわりました。だから、生徒の中には当時問題視されていた〝茶髪の子〟もいました。そういった子たちが、おそらくみんなで話し合ったのでしょう。全員が500円玉を握りしめて、私の前に差し出してきたのです。私がその行為に胸が詰まったのは言うまでもありません。

 

 翌朝の荒井山九品院で行われた葬儀にも多くの参列者がありました。

 応援団を引き連れて鈴村が現れた時には、参列者の人波からどよめきが上がりました。元教育長というだけなのにまるで芸能人のお出ましです。しかし自分の存在はわきまえている方です。この場では出しゃばることなく、多くの事は語らずに葬儀が終わると静かに会場を後にしました(〝鈴村伝説〟では「どの様な場面でも傍若無人にふるまい、喋りまくってその場を去る」となっています)。

 葬儀や火葬を巡ってもいろいろな出来事がありましたが、その辺りは「壮年期」編で詳しく書くことにして、ここではこれ以上触れないでおきます。

 

 全てを終えて実家に戻ると、千代子が「明日鈴村先生の所へお礼に行くから同行しなさい」といつものように命令口調で言いましたが、私は「もう勘弁してくれよ。東京でやらなきゃいけない仕事が溜まっているからこのまま帰るわ」と断り、帰途につきました。

 葬儀を終えて、私はひとり静かにあの世に行った義澄と〝話したかった〟のです。鈴村との付き合いに疲れ切った私は、鈴村を前にして大人しく頭を下げ続ける自信がありませんでした。また、千代子に鈴村とじっくり話す機会を持たせたいという〝親孝行〟な気持ちも、その一方で心の隅にありました。

 こうして振り返ってみても、千代子(浅井家)にとって鈴村の存在の大きさは尋常ではありませんでした。10代後半で教生(教育実習)に行った先で訓導(指導)を受け、以来60年近く目をかけてもらった千代子が人もうらやむ教員人生を歩めたのも鈴村無くしては考えられません。

 兄の死から8年後、巨星はこの世から姿を消しました。享年83歳でした。

 千代子が、『櫻大樹―鈴村正弘先生追慕―』(2001年刊行)に寄せた追悼文にこんな記述がみられます。

「お世話になった長男が、平成四年に白血病で他界しました。逆縁ほど辛いことはありません。悲嘆のどん底だった時、先生は私の親しい人達に周りから支えてやるようにと、陰にまわって心遣いをしてくださいました。何かにつけて本当に長い間お世話様になりました」

 そして詠んだのが、

『大往生の訣(わか)れといえど夜長星』

 さらに、

「訃報が届いてすぐお宅に伺った時、先生の御遺体はまだ病院から戻っていらっしゃいませんでした。ふと庭を見ると、紅馬酔木(べにあせび)の花が真っ盛りで、その向こうの縁側の靴脱ぎ石の上に、昨日まで履いておいでだったであろう庭草履が、揃えられてありました」

 と書き、

『どこからか声聞こえそう紅馬酔木』

 と詠んで追悼文をしめています。

 

 鈴村が亡くなった時、千代子はおそらく私の鈴村に対する見方を誤解したのでしょう。私のもとには訃報が届けられませんでした。知らせを受けていれば当然葬儀に参列、お顔を拝見してお別れをさせていただきました。

 これ一つをとっても分かるように、この時点に至っても母子の心のボタンは掛け違ったままだったのです。

 

【これで「三河管理教育」の項はひとまず終わり、次回はまた「少年くにおみ」に戻ります】

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