私の人生劇場

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第23回 「三河管理教育① ~城北中学校初代校長・鈴村正弘」

 世の中が日米安保に明け暮れる1960年頃、岡崎では後に日本全国から「三河管理教育」と呼ばれて注目される動きが生まれていました。ベビーブーム(1947~49年。3年間出生総数約800万)によって児童数が激増。町の中心部にある竜海中学と葵中学の過密状態を解消しようと、新しい中学校創設構想が具体化していたのです。

 その名は岡崎市立城北中学校。徳川家康の生まれた岡崎城から数百メートルの場所ということもあり、計画段階から「どんな中学ができるのか」と世間は注目しました。

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 校長に選ばれたのは、鈴村正弘

 28歳で梅園小学校の教頭になり、31歳で葵中学校の校長に抜擢された教育界では知らぬ者がいない人物でした。葵中学では、就任早々「国際化するであろう世の中の動きに先駆けて」と、終戦直後に国際規格の50メートルプール建設を企画。文部省がカネを出し渋ると、自分で費用を集めて造ってしまうという荒業をやり遂げたことでも勇名をはせていました。

 教育委員会から「どの町にもない、理想の学校づくりをせよ」との命を受けた鈴村は、それまでに市内の学校を回り自分好みの教員28人を集めました。その中に、母千代子の名がありました。

 実は、鈴村と千代子には、その10数年前から縁があったのです。

 戦時中のことでした。岡崎の高等女学校を卒業した千代子は、当時名古屋にあった「愛知県女子師範学校」に入学します。そして、在学中に「教生(教育実習生)」として行った先の愛知県第一師範学校附属国民学校で鈴村と出会いました。実習クラスの担任が鈴村だったのです。

 千代子は女子師範学校卒業後、岡崎市内の学校に赴任しますが直ぐに「寿退職」。夫の赴任地の北朝鮮(ピョンヤン)に渡ったために、鈴村とは疎遠になります。しかし、夫の死後教員に復職した千代子はやがて鈴村と再会します。

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 そんな経緯から千代子は鈴村の寵愛を受け(愛人説もありました!ただし、それが事実無根なのは私が一番知っています。笑)、「城北創立28人衆」のひとりに選ばれたのです。

 おそらく鈴村の思惑があったのでしょう。人事発表はギリギリまで行われませんでした。表向きには1961年4月1日に全員が招集されて初会合とされていますが、選ばれた28人衆の“たたかい”は開校の61年以前から始まっていました。特に鈴村の息のかかった年長者は秘密裏に何度も会合を重ね、「学校づくり」を熱く語り、開校時にはそれまで何年も仕事を共にしてきたかのような連帯感が生まれていたのです。

 

 開校してからというもの、連日千代子は最終バスでの帰宅。男性教諭に至っては “シンデレラアワー”を過ぎるのが日常化します。その光景に周辺の住民は「不夜城の城北」とあだ名しました。

 鈴村の下に集まった教員たちは、平均年齢32.7歳と若かったものの(戦時中に教員だった者は3人)、軍国教育を受けて育った「戦中世代」です。欧米のものを含め多くの書物から「戦後教育」を模索しますが、鈴村を筆頭として教員たちの根底にある視点は戦前のもの。また、『修身教授録』『恩の形而上学』で知られる神戸大学教授森信三が「城北教育」の根幹に強く影響を及ぼしたので、基本姿勢が世間で言う「管理」に行きついたのも当然と言えば当然でした。

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 教え方の基本は、同じことの繰り返しと徹底的な暗記。記憶(知識)偏重教育と非難されようが、毎日のようにテストをして、それをまた週単位、月単位で試験を重ね、知識を詰め込んでいくのです。学内実力テストも頻繁に行いました。

 教育委員会が鈴村に求める「理想的な中学校」には、「ケンコー(県立岡崎高校のことを地元の人はこう呼ぶ)に何人合格させるか」が当然含まれていたと千代子は言います。実際に、そのやり方は功を奏して一年目から7、80人の合格者を出して教育関係者の度肝を抜きました。結果的にケンコーになんとか入れても授業についていけない生徒が続出。一部教育関係者は、妬みもあって、ひどいことにそれらの生徒たちを“絞り切ったボロ雑巾”と揶揄しました。

 この部分については、28人衆の子どもであり、彼らの同期生だった私が一番よく知っています。そう呼ばれた生徒たちのためにも同じ岡高生だった私が言っておかなくてはなりません。

 同級生を含めて周りに城北の卒業生は多くいましたが、それなりに存在感があり、確かに勉強に疲れ切った面はあったもののボロ雑巾のような生徒はいませんでした。

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 鈴村が厳しく当たったのは生徒だけではありません。教員に対する手厳しい指導もそれまでの常識をはるかに超えるものでした。

「子供の成績が振るわんのはお前たちの教え方が悪いからだ。もっと教え方を磨け!」

 と厳しく言い渡します。

 鈴村が突然教室に現れて授業を観察することもありました。「30分以上その場にいると、後で校長室に呼ばれるんですよ」と元教員が証言するように、鈴村の気に入らない授業をしていた教師は、後で校長室に呼ばれて授業の進め方から板書の仕方まで厳しい注意・指導を受けました。

 鈴村は昼食後にも予告なしに教室に姿を見せました。入ってくるなり生徒全員に弁当箱を机の上に出させて(当時給食ではなかった)中身を点検。「米粒が、おかずが残っとる」と生徒を斬り、返す刀で担任も「指導がなっとらん!」とバッサリ一刀両断したと言います。

 教員たちこそ教養を身につける必要があると、鈴村は「教員たるもの読書を怠ってはいかん。給料の半分とは言わんが2割から3割は本代に使え」と命じました。それを徹底させたかったのでしょう。定期的に読書会を開くようになりました。また、国語の大切さを教員に浸透させようと、俳句会をこれまた職員室でもうけました。このふたつの会は、形態こそ変わりましたが今も続いており、まさに鈴村の遺産と言えるでしょう。

 千代子は退職後、市内各地で俳句会の講師を務めるようになりますが、城北中学では94歳まで続けていました。

 

 城北の体育授業は軍事教練を想起させると言われましたが、確かにその指摘は当たらずとも遠からず。冬場に男子生徒を上半身裸でグラウンドを走り回らせる教員もいました。それに抗議してくる保護者もいましたが、「教員も同じ格好ですから」と鈴村はその抗議を一蹴したと言います。毎年大寒に行われる保護者を巻き込んでの「暁天かけ足」(60年後の今も続いている)はその象徴とも言えました。

 そうして鍛えられた生徒たちは運動部でも成果をあげて、市や三河地区、後には県や国で行われた競技会で突出して優秀な成績を収めて多くの優勝旗や表彰状を学校に持ち帰りました。

 その凄まじい「城北方式」が世間に知られるのに多くの時間を要しませんでした。経済成長が錦の御旗の時代です。世の中全体が競争原理に支配され、今だったらしごきそのものと批判されるであろう「東洋の魔女」(東京オリンピックで金メダルをとった女子バレーチームの通称)を「『為せば成る』のお手本」と崇(あが)める空気がありました。言ってみれば、世の中全体が“ガンバリズム”に包まれていたのです。当時は鈴村のやり方を受け入れる要素であふれていたのです。

 

 体罰は常態化していました。ただ、これは城北中学だけのことではなく市内の多くの学校で日常的に行われていました。保護者の中には「センセー、言う事聞かんかったら一発二発見舞ってやってください」という人が珍しくない時代です。教師たちは罪悪感なく往復ビンタを生徒のほおに見舞っていました。

 男性教諭に交じってと言うか、率先してと言うべきか千代子も暴力に頼る教師の一人でした。それも女子生徒ではなく、男子生徒に制裁を加えていたのです。

 私が高校に入って間もない頃です。後ろの席のアベ君が“ゲッ”と言ったかと思うと、「ねえねえ」と私に呼びかけてきました。振り返ると手には学校から渡されたばかりの生徒名簿があります。当時は個人情報の開示は普通に行われており、そこには保護者の名前や職業まで書かれていました。配られた生徒名簿の中に「浅井千代子 教員」という文字を発見、アベ君はピンときたようでした。

「あんたのお母さん、電気ババア?」

 いきなりの強烈な表現に、私が真意を測りかねていると、

「気が強いよなあ。だって、背伸びして番長に往復ビンタ喰らわしていたよ」

 それまでに千代子から何度もビンタの洗礼を受けていただけに、私はさもありなんと思いましたが、他の城北の卒業生からも何度も言われたので「体罰は止めなよ」と言ったことがあります。千代子の口からは「言って分からんだもん。体に教えてやるしかない」と予想した通りの答えが返ってきました。

 

 そんな状況もあって、全国の教育関係者が「城北教育」の現場をこの目で見ようと視察に押し寄せ、その名は全国に轟くようになっていったのです。

 全国的人気を追い風に、城北中学の校長を12年間務めた鈴村は、自らの理想を貫くために次の段階に入ります。1972年9月、任期半ばで退任、同年10月に岡崎市の三代目の教育長に就いたのです。しかも、突拍子もないやり方で教育界の最高峰に上りつめたのです(次回に続く)。

 

*写真は『城北十年』(1971年6月19日発行)から拝借いたしました。

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