第24回 「三河管理教育② ~その裏側と国立研究所誘致」
三河教育界の怪物・鈴村正弘は岡崎市教育委員会の教育長になるために奇手を繰り出しました。
なお、ここに書く耳を疑うような話は、主にひとりの証言に基づくものであることを最初に記しておきます。
鈴村と〝二人三脚〟を組み、種々様々な教育行政を実行した元市長の内田喜久(よしひさ)に2017年、「鈴村さんとのエピソードをお聞かせいただきたい」と申し入れて話を聞きました。
その時、1925年生まれの内田は92歳。かつては「ミニ角栄」と呼ばれ、切れ者と言われた内田も、寄る年波には勝てず年相応の記憶の衰えもあるだろうと思っていました。しかしながら、実際に会ってみると、記憶の正確さのみならず、その饒舌さや発するエネルギーは70代、いや60代と言っても過言ではないほど。こちらの質問に期待を超える答えで受けてくれました。
「鈴村さんはどうしても教育長になりたくてね。市議を全部イタヤに呼んで芸者を挙げて接待。教育長にならせてくれと、力を貸してくれと市議たちに頭を下げたんですよ」
鈴村が教育長になるまでのいきさつを聞くと、内田はいきなりそう話し始めました。
内田の話では、当時市議会が教育長人事にも力を持っていたとのこと。だから鈴村は市議たちの力を借りようと彼らを芸者接待したというのです。まあ、市議の中には共産党員もいましたから「市議全部」とは大げさでしょうが、当時の内田の勢い(前年の初出馬市長選挙では、現職の太田光二の34,705票に対してダブルスコアの73,275票を獲得)を考えれば、かなりの市議が内田の下に集まっていたことは間違いないでしょう。
イタヤとはかつての花街・板屋町のことで、正式には龍城連と言いました。現在は住宅街に変容していてその面影もほとんど見られませんが、江戸時代から昭和まで、岡崎だけでなく周辺の町から多くの男たちが芸妓や娼妓を求めてにぎわう街でした。岡崎には4か所の花街がありましたが、中でもイタヤはその代表格でした。また、城北中学の学区に存在しており、鈴村がしばしば利用したという話もうなずけます。
後年母千代子が私に「城北の運動会の来賓テントに白塗りのキレイどころ(芸者)が並ぶのよ。今だったら父兄(保護者のこと)やマスコミが大騒ぎだわね」と言ったことがありますから、鈴村が「芸者政治」を〝得意技〟の一つにしていたことは間違いないでしょう。
芸者を挙げての工作を聞いて素早く反応したのが、鈴村の対抗馬と目されていた人物とそのグループだったと内田は続けます。
「『中日新聞に取り上げさせよう』と彼らはいきり立ったんだ。でも、対抗馬の女房が菓子折りを持って市議の家を回ったことが分かってね。その案は立ち消えになった」
ただ、これは、鈴村を支持していた内田が反対派の動きについて語ったことです。この辺りのいきさつの〝裏どり〟しようと当時をよく知る人数名に確認を求めましたが、彼らの一部が1980年に起きた内田父子の買収騒ぎに関わっていたこともあるからか口をつぐんでしまい、そのいずれからも話を聞くことができませんでした。
いずれにしても、鈴村は希望通りに1972年10月、教育長の座に就きました。
「鈴村さんが教育長になってすぐにふたりで東京に行ったんですよ。いろいろあいさつ回りをしなければなりませんからね。前市長の太田光二さんが(在任中に)言ってた学芸大の跡地利用の話も形をつけなければいけません。太田さんの話では、上智大学が『岡崎キャンパス』を造る意欲を示しているということでした」
学芸大学とは国立愛知学芸大学のことで、60年代まで本部キャンパスは岡崎市明大寺町に、分校は名古屋市に置かれていましたが、文部省の指導もあり、愛知教育大学と改称して統合されることになりました。それを受けて両市の感情的とさえ言える熾烈な誘致合戦が繰り広げられますが決着はつかず、折衷案として地理的に中間の刈谷市への統合・移転が決められます。そうして1970年、刈谷市に国立愛知教育大学が誕生しました。
「上智大学に行ってみると、びっくりしたことに、上智大学側は『何のことですか?』なんですよ。太田(光二・前市長)さんは嘘言ってたんだ、って分かってね」
太田が嘘を言っていたかを確かめるために、後日、当時市政に関係していた人物に聞いてみましたが、〝上智キャンパス構想〟を詳しく覚えている人はいませんでした。「そんな話もあったような気がするなあ」という反応でしたから、太田が上智側と正式な話し合いを持っていたかそうしていなかったかは分からない、というのが私の結論です。
内田の話を続けます。
「それで困ってしまいましてね。鈴村さんと『どうしましょう?』ですよ。すると、鈴村さんが『親しい後輩が文部省で局長をやっとります。そいつにちょっと会いに行きましょう』と言ったんですよ」
そう話す内田の表情がパッと明るくなり、面白い展開が次に待ち構えているということは明らかでした。
「その局長を文部省に訪ねて事情を話すと、『だったらちょうどいい話があります。実は、大規模な国立研究所を創る計画がありましてね』と言うんですよ。『いろんなところが手を挙げています。私が岡崎に持っていけるよう頑張ってみますから手を挙げてください』とも言ってくれました」。
これだけを聞いて(読んで)も皆さんには信じがたいでしょうが、私が知る限り、鈴村正弘という人物は人たらしで〝奇跡を呼ぶ男〟。計り知れない幅広い人脈と〝ひきの強さ(強運)〟、それに加えた交渉上手で数々の軌跡を起こしてきましたから私には腑に落ちます。
局長が持ち出したのは、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所などから成る国立科学研究所の構想でした。「自然科学の幅広い領域を研究対象」とするとともに、「国際的な研究活動をおこなう」目的で創られる日本を代表する研究者が集まる研究機関の創設は、内田と鈴村にとっては願ってもない話です。
そのあたりの事情を同研究機構生理学研究所の初代所長であった江橋節郎は、鈴村正弘が他界した直後に出版された追悼集『櫻大樹』で次のように書いています。ちなみに、江橋は筋肉研究の世界的権威でノーベル賞候補にもなった生理学者です。
「岡崎の研究所の生みの親は、第二次世界大戦後の焼け跡の中から立ち上がり、復興の熱意に燃えた若い研究者達でした。彼らが我々も世界に通用する研究所がほしいとの要望から、各々手弁当で集まり、企画し学術会議に働きかけ、紆余曲折の末、やっと昭和42年(1967年)に通過し、昭和48年(1973年)には学術審議会が文部省に答申するところまでこぎつけました。
その答申の情報をいち早く入手して、早速岡崎に誘致すべく熱心に行動を起して下さったのが、当時の教育長鈴村先生でした。そして文字通り全力投球、御自分でも生理学研究所十年の歩みに『教育長は東京から岡崎に出張しているなどと新聞に冷やかされたほど東奔西走の毎日でした』と書かれておられる程の御活躍ぶりでした。文部省への陳情はもとより、分子研の○○、基生研の○○、生理研の○○など、それぞれの担当の先生のところを廻られる周到な根回しぶりでした。すべて東京在住の方ばかりに御連絡をとる為には殆ど東京暮しとなってしまわれたわけです。」
誘致に成功すると、鈴村は岡崎教育界の〝鈴村一派〟を総動員、研究所の立ち上げに全面的な協力を惜しみなく提供しました。研究者たちの家探しから子供たちの転校手続きまでありとあらゆることに「鈴村流おもてなし」が施されたそうです。
1975年4月、最初の研究所である分子科学研究所が、旧愛知学芸大学の跡地に設立されました。
また、市民との接点も鈴村流のやり方で案出されました。
市民大学の開講、研究所の市民開放、小中学校教員の研究所の利用等々、市民と研究所の懸け橋は鈴村の手によるものだ、と江橋は記しています。研究所は〝鈴村正弘〟と共に発展し、大型機器の予算が付くなど充実し、研究所に所属するスタッフも500人を超える大世帯となりました。
そして1981年4月、分子研、基生研、生理研を統合した岡崎国立共同研究機構(後の大学共同利用法人自然科学研究機構)の創設にこぎつけます。学園・学研都市を自負してきた岡崎市にとっては願ってもない流れです。
ところがその時すでに、研究所の誘致を推し進めた〝両輪〟に異変が起きていました。
市長を務めていた内田は前述した選挙違反事件と汚職事件で前年に辞職。また、鈴村は前の月に起きた城北中学3年生の自死の対応に追われる毎日だったのです。(次回に続く)
*古い写真は『城北の歴史』(1984年3月14日発行)から拝借いたしました。