プロフィール・経歴

プロフィール

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浅井久仁臣(あさい くにおみ)。1947年9月17日、愛知県岡崎市生まれ。

AP(米)通信アジア総局記者を経て、フリーランス。主にTBS契約特派員として30年間にわたり戦(紛)争などの取材。

2003年にTV報道から退いた後は、SNSや講演・ワークショップに重心を移してのジャーナリズム活動。東京や埼玉で「メディア塾」を主宰。

同時進行で、阪神淡路大震災、東日本大震災などの被災地で、防災ヴォランティア・グループ「ACT NOW」を率いての支援活動。「災害時帰宅難民ウォーク」「図上災害想定訓練」などを発案、指導。

他に、ASE英会話スクールを35年にわたり運営、英語教育を超えた「人材発掘・養成」。

原発事故を契機に2012年、岡崎に帰郷。2017年春より妻神直子と「Global Studies Cafe」を開き、国際教育や国際交流を主軸に運営

「徳川平和に世界遺産を」推進協議会設立に向けて活動中。


経歴

生い立ち

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1947年 愛知県岡崎市連尺町に生まれる。

1948年 父俊夫の死去。

1952年 5歳にして記者になることを決意。

1953年 岡崎市立竜谷小学校入学。

1954年 岡崎市立男川小学校に転校。

1955年 肺浸潤で冨田病院に半年入院。

1960年 岡崎市立美川中学校入学。

1961年 小説『人間の條件』に強い衝撃を受けて、父への憧れが嫌悪に変わる。

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1963年 愛知県立岡崎高校入学

1965年 米ライフ誌で鮮烈デビューした岡村昭彦の『南ヴェトナム戦争従軍記』に強い影響を受け、岡村に弟子入り志願しようとヒッチハイクで東京へ家出

1966年 同高校卒業。大学受験に失敗、一年間の浪人生活。

1967年 カント学者で元文部大臣だった天野貞祐の教育方針に共鳴して手紙を書き、同氏が学長を務める獨協大学外国語学部英語学科に入学するが、3日で「理想と現実の乖離」に失望。半年で退学(除籍?)。
大宅壮一東京マスコミ塾に入塾するが、これにも失望して中途退塾。
友人と雑誌「facts」の創刊を決意。全国で吹き荒れた学生運動を現地取材するも挫折。

1969年 「金嬉老寸又峡事件」の公判で岡村昭彦と出会う。弟子入りをもくろむも断られる。
交通事故でむち打ち症。闘病生活を強いられる。加害者の背後にヤクザが存在したことで、それがやる気に繋がり、再起する。

英国留学~AP通信入社

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1970年 米国の大学への留学を目指すが、機会を得られず英国に渡る。英国でヒッチハイク中に全財産とパスポート、運転免許証を落とす(後日、拾われて大使館に届けられた)。パスポート再発行に行った日本大使館で秋山豊寛(当時TBS社員。のちに日本人初の宇宙飛行士になる)と出会う。
大学や専門学校で政治科学、ジャーナリズム、TESL(英語教育指導法)を学ぶ。
同年9月 パレスチナ解放勢力による4機同時ハイジャックに強く影響を受け、パレスチナ問題の研究に入る。

1971年 初の中東取材。紛争中の北アイルランドの現地取材。
同年夏 大学の勉強に飽き足らず、毎日新聞ヨーロッパ総局の助手になる。岡村昭彦と再会。
同年10月 昭和天皇欧州訪問取材にあたり、ロンドン・バッキンガム宮殿前で世界的なスクープ写真撮影。世界中の新聞に掲載される。米UPI通信から入社の誘いを受けるが断る。

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1972年 中東(イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、シリア、レバノン)長期取材。レバノンで拘束され、国外追放処分。

1973年 英国から車でヨーロッパ周遊。イスタンブールからバスで、イラクーイランーアフガニスタンーパキスタンを通り、インドまで旅をしてその後は空路で帰国。
Reuter通信とAP通信に合格。ベトナム戦争取材への可能性を考えてAPアジア総局に入社。日本の他、中国、北朝鮮を担当。

1975年 ベトナム戦争終結。同地での取材を目的にしていただけに目標を失う。

フリーランス・ジャーナリストへ

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1976年 ロッキード事件担当の傍ら、「モハメッド・アリvsアントニオ猪木の異種格闘技戦」「ベレンコ中尉(ソ連)亡命事件」を取材。異種格闘技戦ではアリと猪木両者に単独インタヴュー。
毛沢東死去(9月9日)報道を最後に9月、AP通信を退職。
同年10月 レバノン内戦取材に飛ぶ。約3か月間現地取材。内外の新聞、雑誌、放送メディアで報告。ビールス性肝炎にかかり帰国。

1977年 闘病生活の中で『レバノン内戦従軍記』を書き上げる。中学生の時に影響を受けた『人間の條件』を出版した三一書房から出版。
埼玉県浦和市(現さいたま市)で英会話スクールを立ち上げる。
TBS日曜総力特番のリポーター(この番組は海外で国際的な賞を受けたらしい)。

取材現場

1978年 TBSと文化放送からキャスターとしての声がかかる。TBSとの話を進める中で、「口ひげをそることが第一条件」と言われて丁重に話を断る。当時TBSは視聴率三冠王と言われ、「民放の雄」「報道のTBS」との名をほしいままにしていた。

1981年 初来日したアラファトPLO(パレスチナ解放機構)議長に到着から出発まで全行程密着取材。
参議院議員山口淑子(旧芸名・李香蘭)と出会う。

1982年 13人の写真家の作品を集めた写真展『光と影のエルサレム展』の事務局長。実行委員長にお願いした山口淑子と親交が深まり、彼女の個人的な政治顧問になる。
イスラエルとPLOとの「90日戦争」現地取材。アラファト議長と再会。単独インタヴュー。

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1983年 レバノン北部の難民キャンプで包囲攻撃を受けていたアラファト議長の拠点に潜入。議長の密着取材。

1987年 地獄と化した西ベイルートに西側ジャーナリストとして唯一潜入。そのスクープ映像がCBS(米)TVで放映された。
イラン・イラク戦争取材。「タンカー戦争」の主役のひとりとされたイラン革命防衛隊のラフィーク・ドスト大臣と世界初の単独会見。

1988年 イラク軍のミサイルと爆撃機を使っての毒ガス攻撃の現場(イラン南部)からその惨状を報告。

1989年 天安門事件取材にTBSから特派される。

1990年 湾岸危機発生。サッダーム・フセイン大統領(当時)とのインタヴューの調整で何度も現地入り。イラク政府との交渉の中で、同国の人質となっていた邦人救出を思いつく。アラブの要人に人気のあった山口淑子と共にイラクに救援機を飛ばす案を画策するも、それを聞きつけた中曽根康弘元首相に取って代わられる。

1991年 湾岸戦争にTBS報道局と社会情報局(当時)が私を特派。バグダッドから英語で現場中継。
TV東京の「湾岸戦争後の中東」をテーマにした特別ドキュメンタリー番組のキャスター。

1992年 英会話スクールの実態を描くNHKの特別番組の制作に協力。番組に出演、解説を務める。
同年12月 兄義澄死去

1993年 TBS報道番組『報道特集』の特派でボスニア内戦取材。国連救援機で包囲下のサラエボに入り、のちに「サラエボのロミオとジュリエット」と世界から謳われた男女の悲劇的な死をスクープ。
同年9月 米ホワイトハウスで行われたオスロ和平合意調印式の実況中継特別番組(日本テレビ)で解説者。
同年12月 大腸右半切手術。術後院内感染に罹り死線をさまよう。

1994年2月 ボスニア内戦取材に向かうが入国できず、PLO本部のあったチュニジアを訪れる。アラファトやオスロ合意までの秘密交渉の責任者アハマッド・クレイ(のちの自治政府首相)と長期間インタヴュー。その後パレスチナ取材。

災害支援ヴォランティア「ACT NOW」を設立

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1995年 阪神淡路大震災被災地でテント基地を設けて救援活動。災害支援ヴォランティア「ACT NOW」を設立。
都市型消防団を目指して「ACT NOW救助隊」を結成。浦和市消防本部で2年間の救助訓練を受けた。
その後もナホトカ号重油漏れ事故、中越地震、東日本大震災などで活動。
早大の浦野正樹教授や専修大の大矢根淳教授の研究グループ、野沢巌埼玉大教授の協力を得て、「図上想定訓練」「外国籍住民避難訓練」「帰宅難民ウォーク」「着衣泳訓練」などを先駆的に実施し、その普及に努めた。

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1996年 埼玉県で開かれたNPO全国集会の実行委員。
その後、埼玉県等の自治体の要請で、防災や災害に強いまちづくり条例づくりなどの各種委員会の委員を務めた。
英国のヴォランティア活動の視察。代表的なNGOオクスファムを中心にその歴史と法整備などを研究。

1997年 埼玉県知事の委嘱を受けて「ボランティアセンター設立」委員のひとりになるが、県側の心変わりに抗議して辞任。

1998年 埼玉NPO連絡会世話人を務めた後、さいたまNPOセンター理事。

2000年 東海豪雨の「泥かき活動」に若者と参加。

イラク戦争を経て、「メディア塾」を開設

2001年 世界同時多発テロ発生を受けてTBS報道局と優先契約。主要解説者として連日TV、ラジオで解説

2002年 イスラエル包囲下にあるアラファト議長府に潜入取材を試みるも失敗。イスラエル軍の発砲を受けて負傷。
のちにニュースアンカーの長野智子と共に再度パレスチナ取材。テレビ朝日『ザ・スクープ』で二週連続放映。一週目を終えたところでイスラエル大使館から抗議を受ける(大使館員がテレビ朝日に出向いた)も予定通り次週も放映した。
妻となる神直子との出会いがあった。

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2003年 TBSとの関係にひび。イラク戦争に特派されずに情報報道番組の主要解説者を務めるが、TBSの報道姿勢に疑問。その後他局と交渉に入るも考え方の隔たりが大きく、TV報道との訣別を決める。
同年春 TV報道界と袂を分かったことを契機に東京と埼玉で「メディア塾」を開設。同時に2年間、北海道新聞の新人記者研修を担った。
また、全国各地で講演したり、災害時想定訓練を指導したりした。並行して学校の建物耐震化促進への活動。

2004年 中越地震の被災地である小千谷市と長岡市に救助隊を派遣。

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2007年 さいたま市議選に「学校の建物の耐震化」を唯一の公約として掲げて立候補するも最下位で落選。
同年7月 戦争体験者の証言を記録する平和活動団体「ブリッジ・フォー・ピース」代表の神直子と結婚。
同年7月 中越沖地震発生。このときも現地入り。

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2008年 劇団『縄文座』の旗揚げ公演となる『縄文のヴィーナス』の脚本、主演。東京の「MAKOTOシアター銀座」で4回公演。

2011年 東日本大震災。福島第一原発事故で被災し、町長以下町機能ごとさいたま市に避難してきた双葉町町民の支援活動。約1500名の避難者のための街頭募金活動と炊き出しを担当。約850万円を集め、連日の炊き出しを実施。のちに旧騎西高校に移転した避難者の為の什器備品、暖房器具に充てた。
その後、被災地に行き、いわき市、石巻市、女川町などで支援活動。

岡崎市に転居~「グローバル・スタディーズ・カフェ」オープン

2012年5月 関東の拠点をすべて閉じて、妻・神直子とともに愛知県岡崎市の中山間地に転居。SNSや講演活動を通してジャーナリスト活動。

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2013年 息子駿仁誕生。1026グラムの超低体重児で4か月半後に退院できたものの、その後、再入院、再々入院、転院を繰り返す危機の連続。講演活動を制限して本格的に子育てに関わることを決める。630日間の酸素治療を終えた後も次々に難題が降りかかるが、多くの方たちの支援を得て健やかに育ち、2020年には無事小学校に入学。

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2017年4月 岡崎市康生通東に国際交流や平和活動の拠点「グローバル・スタディーズ・カフェ」をオープン。徳川家康公が成し遂げた偉業とその意義を現代に活かす道はないかと動き始めた。徳川平和の象徴の一つである朝鮮通信使招聘(しょうへい)にヒントを得て『現代版朝鮮通信使』を2年連続で岡崎に招いた。

2019年 世界中から岡崎でヴォランティア活動をする若者を招く事業をスタート。北米を中心とした国々から約70名が参加。
同年10月 大樹寺清掃活動を開始。

2020年 「徳川平和に世界遺産を」推進協議会設立に動き出す。

2021年12月 「竹千代チャンネル」を開設。“竹千代”に扮した息子と二人で、徳川家康公の歴史をたどる予定。

竹千代チャンネル