私の人生劇場

少年期

第27回 「穢れた英雄」

 居間のちゃぶ台に積まれた6冊の本。タイトルに惹(ひ)かれて手に取ったのは『人間の條件』でした。当時大きな話題になっていた超ベストセラーです。その数か月前にアンドレ・マルロー著の同じタイトル(條件ではなく条件)の本を読んでいたことと、本の紹介に「筆者の従軍体験」とあったことにも気を引かれたと記憶しています。それに加えて、〝好みの〟性描写も散見されます。

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 新書版の6巻からなっていました。母が勤務先の城北中学校教職員読書会の課題図書として購入してきたもので、目ざとくそれを見つけた私がそれに手を伸ばしたのです。

 著者の五味川純平が自らの戦時体験をもとに書いた小説です。1956年から3年近くをかけて三一書房(筆者注)から出版されて総販売数で1400万部、後に映画・TVドラマ化が何度もされた話題作でした。

 

 「筆者の従軍体験」の文句に惹(ひ)かれて読み始めたのは、くにおみが従軍記者を志していたことの他に、かつて父が置かれた状況をもっと知りたかったことにもありました。

 第一部は、主人公が徴兵を免れるために満州(現中国東北部)に渡り、軍需会社の鉱山の労務管理に従事するところから始まります。

 夕刻に読み始めてその夜、第一巻をあっという間に読了。読み終えた時には窓の外が明るくなっていました。そう。徹夜して読んだのです。ただ正直に言うと、一巻目は主人公と新妻との甘い新婚生活とそれに伴う刺激的な描写に気を取られて生唾を飲み込みながら一気に読んでしまったと言った方が正確かもしれません。

 人生初めての徹夜です。その日は、学校に行っても眠くて〝使いもの〟になりません。授業中に顔を机にうち伏して眠っていました。教員の中には起こそうとした人もいたようですが、同級生の話では、皆あきらめたそうです。

 

 『人間の條件』のストーリーは戦時下の若者の悩みを克明に描いていきます。それが自分の悩み多き人生にも重なってしまい、くにおみは読み進めていく内に完全にこの本の世界にはまっていきます。いつの間にか性描写は姿を消し、残酷な場面の連続となりますが、次の日もまた次の日も帰宅してすぐに続きを読み始めて、東の空が明るくなるころに読み終え、明け方に少しだけ横になり登校します。

 当然のことながら学校では連日の「熟睡」です。数日後、職員室に呼び出されました。

 「お前、俺の授業だけじゃなく他の授業でも寝てばっかりらしいな。何があった? 言ってみろ」と言う担任に「別に何もないですよ。なんか眠いだけです」と不貞腐れた態度で面倒くさそうに答えたように記憶しています。そんな私に担任は何か捨て台詞を言いましたが、詳しくはその言葉を思い出せません。

 放課後、担任に呼び出されてお説教を受けている間も、頭の中は本のことで一杯です。早く帰宅して読みたくて仕方がなかったのです。説教が終わるとそそくさと帰宅してすぐに読み始めたのは言うまでもありません。

 

 物語の主人公の梶は、炭鉱で働く特殊工人(中国人捕虜)の不当処刑に抗議して軍警察である憲兵に睨(にら)まれ、軍隊に送り込まれてソ満国境の警備につかされます。間もなくして攻め入ってきたソ連軍に所属部隊が叩き潰され、梶は生き残った数名の戦友と共に満州の原野を逃げまどいます。

 逃げおおせずにソ連兵に捕まってしまうのですが、妻との再会を夢見る梶は収容所から脱走。ひとり雪原を彷徨します。必死の逃避行も大自然と地元住民の仕打ちの前に行き先を見失い、雪に埋もれて息を引き取ります。

 

雪は降りしきった。

遠い灯までさえぎるものもない暗い曠野を、静かに、忍び足で、時間が去って行った。

雪は無心に舞い続け、降り積もり、やがて、人の寝た形の、低い小さな丘を作った。

 

 最後のページを読み終えたくにおみは涙ぐみ、天を仰ぎました。

 侵略戦争の実態と極限状況のもとでの人間的良心の問題、また愛する人への愛情の貫き方を、作者の入隊、実戦、捕虜の経験をもとに重層的に描いた戦争文学作品です。多感な思春期の只中にあったくにおみにはあまりに衝撃的な内容でした。

 後になってその内容があまりに劇的で一部の評論家などから〝安っぽい創作メロドラマ(恋愛物語)〟だとの指摘もされましたが、読者・視聴者の多くは戦争を知る世代です。戦争で辛酸をなめた若者です。現実離れした恋愛話仕立てとは受け取らず、自分の身にも起き得た話ととらえたのでしょう。我先にと本を求め、前述したように超ベストセラーになりました。

 

 読了してから数日後「オカザキ(岡崎市の繁華街を郊外の住民はそう呼んだ)に出た」くにおみは、『岡崎書房』に足を運びます。そして引き寄せられるように太平洋戦争関連の本が並ぶ書棚の前に立ちました。

 一冊の本がこれまた吸い寄せられるようにくにおみの目に入ってきました。

 『三光 : 日本人の中国における戦争犯罪の告白』。

 「三光」とは「殺光・焼光・搶光」を表し「殺しつくし、焼きつくし、奪いつくす」という意味を持つ中国語。中でも制圧した町や村で捕まえた地元民を〝丸太〟と呼んで木や棒にくくりつけて銃剣で刺す刺突(しとつ)訓練や、血管に毒素や空気、細菌を入れて死に至るまでを研究するなどの人体実験の記述を読む内、くにおみは息苦しくてその場に立ち続けるのも辛くなり、店を出ました。

 その種の話はそれまでにも本や新聞で読んだり、〝シベリア帰り〟(旧ソ連で過酷な抑留生活を経験した元日本兵)の人々から聞いたりしていましたから知ってはいたものの、その本を読み進めていく内に、心身のバランスが崩れやすい年頃ということもあったのでしょう。「日本軍は、いやおやじはこんなことをしていたのか!」と、失望と怒りに震えてある種の〝内部崩壊〟を起こしてしまったのです。

 

 本ブログ『私の人生劇場』でも第1回から8回にかけて書いたように、1歳で死別した父親の影を幼少期から追い続けてきたくにおみの中で俊夫は英雄でした。それがこの2冊の本によって英雄から一転、「穢(けが)れた英雄」に変わったのです。

 召集されてなくなく戦場に駆り出された憐れな下級兵士なら「上官の命令に抗(あらが)えなかった。仕方なかった」と思えたかもしれませんが、父俊夫は陸軍通信学校を卒業して兵士を命令する立場にあったエリート軍人です。最初は通信兵でしたが、実戦を重ねるうちにその武功から精鋭の騎馬部隊に所属するようになり、中国各地の最前線を馬蹄で荒らし回り、多くの現地人を蹴散らしていたのです。戦争初期には「日本唯一の武人を称える」金鵄勲章を授与されています。叙勲は、故郷の人たちが「村の誇り」と称えた〝功績〟ですが、裏を返せばそれはつまり、いかに父が「多くの中国人の命を奪った」か、「たくさんの中国の村や町を壊した」かを意味するもの。『人間の條件』の梶のように戦争の被害者の側面を持つとは考えられませんでした。

 

 仏壇に置かれた軍服姿の俊夫の写真を破りたい衝動にかられました。それまで大事にしていた父の遺品(乗馬用の長靴や軍服、オーバーコート)さえ捨てたくなりました。最終的には「母や兄にとっても大事なもの」「僕はどうせこの家から出て行く身だから」と思いとどまり、押し入れの奥にしまい込むことで良しとしました。

 しばらくしてから母と対峙しました。戦争責任について彼女の見解を求めたのです。いや、言葉汚くののしったと言った方が正確かもしれません。

 今から思えば、彼女も北朝鮮で10か月間辛酸をなめたわけですから酷なことをしたものです。普段は厳しい表情でこちらの気持ちへの配慮に欠けた表現で叱責することが多かった母ですが、この時ばかりは息子の刺すような言葉と視線を受け止めきれなかったかもしれません。口答えすることなく、「お父さんは加害者かもしれないけど、戦争という時代の被害者でもあったのよ」と父をかばうにとどめました。

 これを機にそれまで毎日拝んでいた仏壇に手を合わせることもなくなりました。

 

 筆者注:後年、私のデビュー作『レバノン内戦従軍記』(1977年)はこの三一書房から世に出していただきました。

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