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ネパールと中国の国境地帯を襲った大規模な洪水と土石流。

死者は800人近くに達し、ネパール、中国双方で3000人以上が行方不明になっている。被災者は9万人を超えるとみられている。

日本政府は8月28日、ネパール政府からの要請を受け、テントや毛布などの緊急援助物資を供与すると発表した。

もちろん、それは必要な支援だ。

しかし、この災害で求められているものは、それだけなのだろうか。

ネパールのカナル外相はJNN(TBS系ネット)の取材に対し、安否が分からなくなっている日本人5人について、「日本政府に全面的に協力する」と語った。(TBS NEWS DIG⁠)

そこで日本のジャーナリストが最も関心を向けているのは、やはり「日本人5人の安否」である。

日本の報道機関である以上、日本人の安否を確認することは重要な仕事だろう。

しかし、そこで質問を終わらせてしまっていいのだろうか。

私なら外相に、こう聞きたい。

「いま、ネパールが最も必要としている支援は何か」

「日本の救助隊や災害救援の専門家に来てほしいか」

「日本政府に具体的に何を求めたいか」

実は、ここには注意しなければならない事実がある。

ネパール政府は災害直後の28日、外国の救助隊について「必要ない」との立場を示していた。したがって、日本が直ちに国際緊急援助隊を送り込まなかったことだけを取り上げて、日本政府を批判するのは正確ではない。

ところが、状況は変わってきた。

被害がさらに拡大する中、ネパール外務省は、トンネル内での捜索、DNA鑑定、遺体の冷蔵保管、損傷した遺体の法医学的な身元確認など、専門性を必要とする分野について国際社会の支援が必要だと表明している。

ここからが、日本政府と日本の報道機関の仕事ではないのか。

日本には国際緊急援助隊がある。

救助、医療、災害対応などについて海外に派遣できる仕組みを、長年かけて築いてきた。

ネパール側が当初、外国救助隊を必要としないと判断したのなら、それは尊重すべきだ。

しかし、いま新たに専門的な国際支援を求め始めているのであれば、日本政府は何ができるのかを直ちに検討する必要がある。

外務省は物資供与を発表した際、「今後も同国のニーズに応じて必要な支援を検討する」としている。

ならば、記者が政府に聞くべきことは明確だ。

・ネパールから新たな人的・技術的支援の要請は来ているのか。

・来ていないのであれば、日本側から「何が必要か」と具体的に働きかけているのか。

・トンネル捜索や法医学的な身元確認など、日本が提供できる専門能力はないのか。

・国際緊急援助隊を派遣する準備をしているのか。

そして何より、いつまで「検討」しているのか。

「日本人5人は無事なのか」

もちろん、それは大切だ。

しかし、800人近くが命を失い、3000人以上が行方不明になっている災害を前に、日本のジャーナリズムの問いがそこだけに集中するのであれば、私は情けなく思う。

問うべきことは、もう一つある。

「日本は、この人たちを救うために何ができるのか」

私は、その問いを日本政府に突きつけることも、ジャーナリストの仕事だと思う。

高市首相の「台湾有事」発言で日中関係が拗れる中、その核心の一つとして浮上するのが「尖閣問題」です。

その議論に、長年この問題に取材者として関わってきた私は、ずっと違和感を抱いています。

なぜなら、いま語られている尖閣問題と、私が1970年代に取材現場で見聞きした尖閣問題との間には、大きな隔たりがあるからです。

1972年、田中角栄首相が北京を訪れ、日中国交正常化交渉が行われました。

その際、田中首相が尖閣諸島について尋ねると、周恩来首相は「今回は話したくない」という趣旨の言葉で、議論を避けました。

領有権について双方の主張は違う。しかし、その問題をここで争って、日中国交正常化という大きな目的を壊してはいけない。

いわば「大同小異」の考え方です。

そして、日本側もそれを受け入れ、国交正常化を実現しました。

◆ 鄧小平が語った「次の世代に」

それから6年後の1978年。

日中平和友好条約が締結され、鄧小平副首相が来日しました。

10月25日、東京の日本記者クラブで記者会見が開かれました。

約400人の報道関係者が集まった大変な会見でした。

私は当時、AP通信東京支局の記者として、その会場にいました。

尖閣について質問された鄧小平は、国交正常化の際にも双方がこの問題に触れないことにした、平和友好条約交渉でも同じだった、という趣旨の説明をしました。

そして、尖閣問題は一時棚上げしても構わない、自分たちの世代には知恵が足りないかもしれないが、次の世代はもっと知恵を持っているだろう、と語りました。

私はその言葉を会場で直接聞いていました。

重要なのは、鄧小平が突然「棚上げ」を思いついたわけではないことです。

1972年の周恩来と1978年の鄧小平には、一貫した考え方がありました。

領有権について一致できなくても、それを日中関係全体を壊す問題にはしない。

そして少なくとも当時の日本政府も、それによって国交正常化や平和友好条約を止めることはしませんでした。

現在の日本政府は「尖閣諸島をめぐり、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」「棚上げについて中国側と合意した事実はない」という立場です。

しかし、1970年代の日中外交の実態を見るなら、それだけでは説明し切れないものがあります。

明文化された「領有権棚上げ協定」があったかどうかという問題と、双方が尖閣を日中関係全体の障害にしないという政治的判断を共有していたかどうかは、別の問題だからです。

◆ キッシンジャーに直接聞いた

もう一つ、忘れられない経験があります。

1974年、米国務長官だったヘンリー・キッシンジャーが東京に立ち寄った時のことです。

半世紀以上前のことなので細かな日程の記憶は曖昧です。木村俊夫外相との会談後だったようにも覚えていますし、中国から戻ってきた際だったという記憶もあります。

当時、APなど外国報道機関は、日本の記者クラブ制度の中で不利な扱いを受けることが少なくありませんでした。

そこで私は、キッシンジャー本人を個人的に捕まえて質問しました。

「尖閣諸島の領有権について、米国政府はどのように考えているのですか」

正確な言葉までは覚えていませんが、キッシンジャーは、

「これまでの米国政府の方針に変更はない」

という趣旨の答えをしました。

私はその時、妙な印象を受けました。

「この人は、尖閣を日本のものだとは考えていないのではないか」

もちろん、キッシンジャーがそう言ったわけではありません。

あくまで、その時の私の受け止めです。

ところが、半世紀近くたって公開された米国政府の内部文書を読むと、興味深い記録が出てきます。

米国政府の基本的な立場は、沖縄返還に伴って尖閣諸島の「施政権」は日本へ返したものの、最終的な「主権」がどこに帰属するかについては判断しない、というものでした。

さらに1974年1月31日の米国務省幹部会議では、中国の海洋進出について話している最中、キッシンジャー自身が、中国を尖閣の方へ向かわせることはできないか、と冗談とも皮肉とも取れる発言をしています。

これをもって「キッシンジャーは尖閣を中国領だと考えていた」と断定することはできません。

しかし少なくとも、彼が「尖閣は当然日本領である」と考え、日本の領有権を全面的に支持していたとは言い難いでしょう。

そう考えると、1974年の東京で彼の短い返答を聞いた時に私が抱いた違和感も、あながち的外れではなかったのかもしれません。

◆ 「抑止力」で本当に日本を守れるのか

そして半世紀が過ぎました。

中国は、1970年代とは比較にならないほど巨大な経済力と軍事力を持つ国になりました。

それに対して日本では、中国の軍事力に対抗するため、防衛力をさらに強化しなければならないという議論が主流になっています。

しかし、私はそこにも大きな疑問を感じます。

私はこれまで、いくつもの戦争を取材してきました。

その経験から見ると、中国のような巨大な軍事大国に対して、日本が軍事力を増強することで「抑止力」を確保し、安全を保障できるという発想は、私にはどうしても現実的とは思えません。

日本は狭い国土に人口、産業、発電施設などが集中しています。

原子力発電所も多数あります。

戦争が始まれば、ミサイルを何発持っているか、何発迎撃できるかという計算だけでは済みません。

一発の攻撃が、日本社会に取り返しのつかない被害を与える可能性があります。

「攻撃すればこちらも反撃するぞ」と中国に思わせることだけが、安全保障なのでしょうか。

私はむしろ逆だと思っています。

◆ 「日本を壊したら中国も困る」国を作る

日本が目指すべきなのは、中国に、

「日本を壊したら、中国自身も大変な損失を被る」

と思わせるような国造りと関係作りではないでしょうか。

経済だけではありません。

技術、学術、文化、教育、人的交流、自治体、観光――幾重にも関係を張り巡らせ、政治的対立が起きても簡単には切断できない関係を作るのです。

これは中国に迎合するという話ではありません。

中国を信用せよ、という話でもありません。

中国という巨大な隣国はなくなりません。

日本も中国も、この場所から引っ越すことはできないのです。

米国との同盟関係も当然、重要です。

しかし、「米国の核の傘があるから大丈夫」「いざとなれば米国が日本を守ってくれる」という前提だけに、国家の生存を委ねることにも私は疑問を持っています。

米国によるイスラエルへの支援を見て、「日本も同盟国だから米国は必ず守る」と語る人もいます。

しかし、米国にとってイスラエルと日本はまったく同じ存在ではありません。

歴史も、国内政治との関係も、地政学的位置も違います。

まして相手が核兵器を持つ中国となれば、米国自身がどこまで危険を引き受けるのかは、誰にも保証できません。

◆ 1972年と1978年に戻って考える

だからこそ私は、1972年と1978年の日中関係を、もう一度きちんと振り返る必要があると思っています。

周恩来も鄧小平も、尖閣問題を「解決」したわけではありません。

田中角栄も福田赳夫も、日本の領有権を放棄したわけではありません。

解決できない問題を抱えたまま、それでも日中関係を前へ進めたのです。

それを「問題の先送り」と批判するのは簡単です。

しかし私は、そこに政治の知恵を感じます。

尖閣をめぐって双方が一歩も引かず、台湾有事を想定して軍備を増強し、互いを仮想敵国のように扱っていく。

その先に、本当に日本の安全があるのでしょうか。

高市首相の「台湾有事」発言を契機に日中関係が再び緊張している今だからこそ、台湾を含む日中関係そのものを、国民的なレベルで議論し直す時期に来ていると思います。

その際、1972年の日中共同声明と1978年の日中平和友好条約を、もう一度読み返すことから始めてもいいでしょう。

そして、尖閣をめぐって周恩来と鄧小平がなぜ「今は争わない」という選択をしたのかも考えてみるべきです。

日本にとって本当に必要なのは、

「中国との戦争にどう備えるか」だけではなく、「中国との戦争をどうすれば起こさずに済むのか」を国家戦略として考えることではないでしょうか。

私は、そこから日中関係をもう一度組み立て直すべき時期に来ていると思っています。

2026.08.29 (Sat)  16:39

執筆再開のお知らせ

 長らく執筆を怠っていましたが、執筆再開を望む声をいただいてきました。そんなお声がけをいただいても何だかんだと言ってサボっておりました。

 

 ただ、3年前に病気をしたこともあり、時間的余裕も出てきましたし、と同時に「あの世に召される時期」も近付いてまいりますと、中途半端な形で自分の生きざまをこの世に残すわけにいかないとの思いが頭をもたげてまいります。

 

 そこでこの度、「人生劇場」の幕を再び上げることとなりました。

 

 とにかく規格外れの人生です。皆さんが驚かれる展開になることは間違いないので、どうぞ「しょうがないやつだなあ」「それはないだろう」などと〝合いの手〟を入れながらお読みください。

2002年5月、私は自分が埼玉県で経営していた英会話学校のニュースレターに、「いよいよ始まった小学校の『英語教育』」という文章を書いています。

久しぶりにその文章を読み返して、当時のことを少しずつ思い出してきました。

私が日本の英語教育について本格的に取材したのは、1990年代初めのことです。

1992年には、講談社が発行していた月刊誌『Quark』で英会話教育を取り上げました。同じころ、NHKの教養番組でも日本の英語教育について解説しています。

その後だったと記憶しています。

文部省の若い官僚が私のところへやって来ました。

これから小学校で英語を扱うことについて、どう考えるか。そんな趣旨で私の意見を聞きに来たのです。

その時、私が聞いた説明で印象に残っていることがあります。

小学校に「英語」という教科を新しく設けるという話ではない。

あくまで「国際理解教育」の一環として、子供たちが外国語や外国文化に触れる機会をつくる、という話でした。

私はそれなら理解できると思いました。

実際、その後の政策を調べ直してみると、私の記憶とかなり一致します。

1996年の中央教育審議会答申では、小学校段階で外国語そのものの習得を目的とするのではなく、国際理解教育の一環として外国語に触れるという方向が示されました。

そして1998年に告示された小学校学習指導要領でも、英語は独立した教科にはなりませんでした。

新しく設けられた「総合的な学習の時間」の中で、

「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等」

を行う、という位置づけでした。

ところが、2000年前後になって、私は驚きます。

話が少し違う方向へ進んでいたからです。

文部省は2000年12月に『小学校英語活動実践の手引』を作成し、翌2001年に刊行しました。

そこでは、英語活動は「聞く・話す」という音声を中心とし、英語の音やリズム、単語や表現に触れ、さらに英語による自己表現まで行うことが想定されていました。

しかも、それを担当するのはALTだけではありません。

学級担任が中心となり、場合によっては担任だけでも英語活動を行うことが想定されていたのです。

私はこれを知って、文部科学省に電話をしました。

以前、私の意見を聞きに来た若手官僚とは別の担当者でした。

私はかなり強い調子で言ったようです。

その時のことを、2002年5月に書いた文章にはこう記しています。

「これまでのわが国の読み書き偏重の英語教育ではなく、小学校ではオーラル主体の教え方でやって欲しい」

という文部科学省の考え方に対して、

「小学校の先生にそんな能力がある人がどれだけいると思っているのか」

と猛烈に抗議した、と。

なぜ私がそこまで怒ったのか。

24年前の自分の文章と当時の文部省資料を読み合わせてみると、理由がよく分かります。

私は小学校で子供たちが外国語に触れることに反対していたわけではありません。

まして、国際理解教育に反対していたわけでもありません。

問題は、「国際理解」という理念で始まったものが、十分な準備もないまま事実上の英語教育へと姿を変えつつあったことでした。

英語教育の専門的訓練を受けていない小学校の担任に、「読み書きではなくオーラル中心で教えてください」と言う。

これは簡単な話ではありません。

英語を話せることと、英語を教えられることは違います。

まして子供たちに外国語の音を聞かせ、発音させ、会話を引き出し、間違いにどう対応するかまで判断するとなれば、それはすでに専門的な教育技術です。

ところが、それを担う教師の養成も研修も十分ではありませんでした。

私が当時住んでいたさいたま市について調べると、その実態はさらに心配なものでした。

前年の夏休みに行われた小学校教員向けの「英語に親しむ指導法」研修会に、市内から参加した教師はわずか39人。

研修期間は2日間、合計6時間でした。

私は2002年の記事でこう書いています。

「教育の現場において『試行錯誤』が許されるのは、事前にあらゆる想定をしたり、研究、実験授業などを繰り返した結果、『失敗する可能性は高いが、やってみる価値は十分にある』と判断した時」

である、と。

そして、

「小学校における英語教育は、見切り発車の状態でスタートしてしまいました」

と結論づけています。

改めて政策の流れを追ってみると、文部省がある日突然、「国際理解をやめて英語を教科にしよう」と方針転換したわけではありません。

むしろ、その方が問題の本質をよく表しています。

看板は「国際理解」のままだったのです。

しかし、その看板の下で授業方法が具体化されていくにつれ、「英語の音を聞く」「英語を話す」「英語表現を使う」「英語で自己表現する」といった活動が増えていきました。

そして、それを担任が教える。

制度上は「英語」という教科ではない。

しかし教室で起きていることは、次第に「英語の授業」に近づいていったのです。

おそらく私は、その変化に違和感を覚えたのでしょう。

その後、小学校英語はさらに制度化されます。

2008年の学習指導要領改訂を経て、2011年度から小学5、6年生の「外国語活動」が必修となり、さらに2020年度からは5、6年生で正式な教科「外国語」となりました。

振り返ってみれば、1990年代に若い文部官僚から聞いた、

「教科としての英語ではありません。国際理解教育の一環です」

という説明から、日本の小学校英語はずいぶん遠いところまで来たことになります。

2002年、私は記事の最後にこう書きました。

「これからも私はこの自分にとっての専門分野である問題を『監視』し続けて時折り皆さんに相談したり、ご報告をさせていただきます。」

あれから24年。

当時の文章を読み返してみると、これは単なる昔話ではないように思えます。

教育改革で本当に問われるべきなのは、新しい制度を作ったかどうかではありません。

その理念を現場で実現できる人を育てたのか。

制度を導入する前に、その問いにどこまで答えたのか。

小学校英語をめぐって私が2002年に感じた違和感は、いまの教育行政を考えるうえでも、決して古びてはいないと思います。

8月13日から14日にかけて千葉県を中心に起きた集中豪雨による大きな被害が出ています。

そのニュースを追いながら、私は一人の政治家の仕事ぶりに改めて感心しています。

千葉県知事の熊谷俊人さんです。

私はFacebook以外のSNSについては確認していませんが、熊谷さんはFacebookで、日頃からかなりの頻度で県政について報告しています。

そして今回の災害が発生してからは、ほぼ毎日です。それも早朝です。

「おはようございます」

そんな言葉で始まる報告が、朝早くから掲載されるのです。

先週の金曜日、私が午前6時50分にFacebookを開くと、熊谷さんの投稿には「30分前」と表示されていました。

つまり、午前6時20分ごろには、すでにその日の報告を出していたことになります。それは、金曜日だけではありません。

知事は災害対応の真っ最中です。

被災地に出向き、市町村長や消防、行政関係者と話し、状況を把握し、次々と判断を下さなければならない。

ただでさえ県知事という仕事は激務です。その中で、朝早くから県民に向けて、自分の言葉で状況と対策を伝え続けている。

私は、この姿勢はもっと高く評価されていいと思っています。

そして、そんな熊谷さんのFacebookを読みながら、昔のことを思い出しました。

彼との初対面の印象は、ズバリ、
「政治家には向いていないのではないか」

私が熊谷俊人さんに初めて会ったのは、彼がまだ千葉市議会議員だった頃でした。

そう思ったくらいですから、正直に言えば、彼から強い印象は受けていません。

その後、2009年6月、熊谷さんは31歳で千葉市長に当選します。当時、政令指定都市の市長として全国最年少でした。

その直後、彼の選挙参謀を務めていたひとりから、

「熊谷市長のブレインの一人になってほしい」

と声をかけられました。

そして、支援者の一人の自宅に、十数人ほどが集まったと記憶しています。

そこには、さまざまな分野の専門家がいました。妻も私と同じように参加を求められていました。

そこで私は、熊谷さんにいくつか質問をし、提言もしました。

ところが、反応が鈍い。

私たちの話を否定するわけでもない。横柄でもない。むしろ誠実そうな若者でした。

しかし、こちらが投げかけたものに食いついてくるような反応がない。

会を終え、妻と話しました。

「彼は私たちを必要としていないね」

二人とも、ほぼ同じ印象でした。

結局、私たち夫婦は「ブレイン」の一人として名を連ねることはしませんでした。

それどころか当時の私は、熊谷俊人という若者に、政治家としてそれほど魅力を感じていませんでした。

人を惹きつける華があるわけでもない。強烈な個性があるわけでもない。

「政治家には、あまり向いていないのではないか」

そんな印象さえ持っていました。

「こんな市長のもとで働いてみたい」

ところが、それからしばらくすると、熊谷さんについての評判が私の耳にも入ってくるようになりました。

それも、聞こえてくるのは賞賛する声ばかりでした。

その中に、私の熊谷俊人を見る目を変える一言がありました。

永堀満さんから聞いた言葉です。

少し説明しておきます。

私は1995年に「アクトナウ救助隊」という民間救助隊を結成し、浦和(現さいたま)市消防本部で、3年間にわたって本格的な救命・救助訓練を受けました。

永堀さんは、そこで私たちを鍛えてくれた隊長です。
後に消防大学校の講師を務め、「全国レベル」の救助のプロでした。

私にとっては、いわば「救助の師匠」です。

その永堀さんが、千葉市で開かれた全国救助訓練大会に出席し、熊谷市長の挨拶を聞き、その場での言動にも接した後、私にこう言ったのです。

「千葉の市長は凄いですよ!こんな市長のもとで働いてみたい」

驚きました。

永堀さんがお世辞でそんなことを言う人ではないことを、私はよく知っていました。

長年、人命救助の現場で人を率いてきた人物が、一人の若い市長を見て、

「この人のもとで働いてみたい」

と言う。

私には、とても重い言葉でした。

ひょっとすると、私は熊谷俊人という人物を見誤ったのではないか。

そう思い始めました。

その後の熊谷さんは、千葉市長として着実に実績を積み重ねていきます。

市長を3期務める間に、その評価と人気は確かなものになっていきました。

そして2021年、千葉県知事選に挑戦し、当選します。

最初の知事選では、自民党県連は別の候補を推しました。

ところが、4年間の熊谷県政を経て迎えた2025年の2回目の知事選では、状況が変わりました。

かつて熊谷さんと戦った自民党県連も独自候補を立てず、今度は熊谷さんを支持する側に回ったのです。

政治の世界ですから、昨日の敵が今日の味方になること自体は珍しくありません。

それでも、熊谷さんが市長、そして知事として仕事を積み重ねる中で、かつて自分と対立した勢力からも支持を得る政治家になったことは間違いありません。

私は、熊谷俊人という政治家の面白さは、ここにあるような気がします。

初対面で人を圧倒するタイプではない。

強烈なカリスマ性で人を従わせる政治家でもない。

むしろ、仕事をすればするほど評価が上がっていく政治家なのです。

「朝6時20分の県政報告」

そして今、私は再び熊谷さんの仕事ぶりに注目しています。

今回の集中豪雨への対応です。

被災地を訪れ、市町村長や関係者と状況を確認する。

対策を進める。

そして翌朝になると、

「おはようございます」

と、県民への報告が始まります。

午前6時台です。

政治家のSNSには、「どこへ行った」「誰と会った」「こんな活動をした」という自己PR的なものも少なくありません。

もちろん、それも有権者への報告でしょう。

しかし、災害時に行政トップが果たす「伝える」という仕事は、それとは違います。

いま何が起きているのか。

行政は何を把握しているのか。

何をすでに行ったのか。

何がまだできていないのか。

そして、これから何をするのか。

それを責任ある立場の人間が、自分の言葉で住民に伝え続ける。

これもまた、危機管理です。

災害対応で激務を続けながら、朝早くからそれを続ける。

一度や二度ならできるでしょう。

しかし、それを毎日のように続けるのは容易なことではありません。

私は、この熊谷俊人さんの姿勢は、もっと高く評価されるべきだと思います。

そして、17年ほど前のことを思い出します。

誠実そうではある。

しかし、政治家としては魅力に乏しい。

私は、あの若者をそう見ていました。

どうやら私は、熊谷俊人という政治家を見誤っていたようです。

ただ、それを恥ずかしいとは思いません。

むしろ、人間はこれほど成長できるものなのか、と感心しています。

そして同時に、政治家を評価する時に本当に見るべきものは、華やかな演説でも、強烈な個性でもないのだと、熊谷俊人さんから改めて教えられているような気がします。

何を考え、何を実行し、それを住民にどう伝えるのか。

そして、それを黙々と続けられるのか。

政治家の本当の力とは、案外、そういうところに現れるのかもしれません。

 

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