新着情報

佐世保から東京へ戻った後も、私は「多動性」の性格そのもの。興味を持てば、どこにでも姿を現していました。

その後も、全共闘を中心とした反戦運動や大学改革を求める運動、そして三里塚での成田国際空港建設反対闘争が吹き荒れ、世の中は大きく揺れていました。全国の多くの大学が学生によって占拠され、授業さえ行えない状態になっていました。

その象徴が、1969年冬、東大の安田講堂をめぐって繰り広げられた全共闘と機動隊の攻防戦です。同じ年、東大では入学試験そのものが中止されました。

私は新聞社やテレビ局の記者でもなければ、学生運動の活動家でもありません。ただ、その「現場」に自分の足で立ち、自分の目で見たかったのです。

そうするうちに、子どもの頃から抱いていた、「ジャーナリストになりたい」という思いは、ますます強くなっていきました。

ところがその一方で、私生活では難問が次々と降りかかってきました。

一時期は、「なんでこんなにオレに試練が」と、やけくそになりそうになることもありました。そして、そんなことで余裕を失っている自分自身に苛立つことも少なくありませんでした。

いったん東京を離れよう。一度、自分の生活を整理して、「ジャーナリストになるための仕切り直し」をしなければならない。

そう考え私たは東京を離れることにしました。

行き先に選んだのは、静岡でした。静岡を選んだのには理由があります。私が憧れていた戦場カメラマン、岡村昭彦が、時折、静岡に姿を現すと知ったからです。

1968年、寸又峡温泉で金嬉老がライフルとダイナマイトで武装して温泉宿に立てこもり、全国の耳目を集めた、いわゆる「寸又峡事件」。

その裁判で、岡村が特別弁護人を務めていると知ったのです。

ならば、静岡に移住だ。

単純といえば、実に単純です。

静岡に移り住んだ私は、建設現場や水産会社などで働いて生活費を稼ぎ、その合間を縫って裁判所へ足を運びました。

もちろん、裁判そのものにも関心がありました。金嬉老は、戦前の日本によるアジアへの侵略を鋭く糾弾し、在日朝鮮人への差別を独特の視点から取り上げて弁論していました。しかし、私の目的はただひとつ。

「岡村昭彦に会うこと」です。

そして、とうとうその時がやってきました。

法廷に、金嬉老の特別弁護人として岡村昭彦が現れたのです。

その姿を見た時の胸の高鳴りは、今でもハッキリと覚えています。

「ああ、本物の岡村昭彦だ」

憧れ続けてきた戦場カメラマンが、いま自分の目の前にいるのです。

法廷での岡村の存在は圧巻でした。少なくとも当時の私には、被告の訴えに十分耳を貸すことなく、粛々と「罪」を裁こうとしているように見えた裁判官や検事を向こうに回し、独特の歴史観や文明・文化論まで持ち出して弁舌を振るう岡村は、光り輝いて見えました。

公判が終わると、裁判所の庭で岡村は大勢の人たちに囲まれました。

新聞記者はもちろんのこと、彼の著作を読んで憧れていた人たち――いわば「岡村ファン」です。

私は少し離れたところで、自分の番が来るのを待ちました。

一人減り、二人減り……。

ようやく私の番になりました。

岡村昭彦の前に立った「くにおみ青年」。

心臓が激しく鳴っていました。あまりに大きな心音なので、岡村本人にまで聞こえてしまうのではないかと思ったほどです。

私は岡村に簡単に自己紹介をしました。そして、自分がジャーナリストを目指していること、岡村に憧れてここまで来たことを伝えようとしました。

ところが――。

私が言葉を継ぐ前に岡村昭彦から返ってきたのは、たったひと言でした。

「ぼくは弟子は取らないよ」……。

すべてが終わったような気がしました。

私は二の句を継げず、それ以上、何も言えませんでした。

憧れ続け、高校時代には家出までして上京し、日本にいるはずもない岡村を追い求めました。そして、それから数年後。東京を離れて静岡までやって来て、働きながら裁判所へ通い、ようやく目の前にすることができた人。

その人から返ってきた言葉が、「ぼくは弟子は取らないよ」でした。

そういわれて、私は岡村の前から、すごすごと引き下がりました。

ところが。

私と岡村昭彦の関係は、これで終わりませんでした。むしろ、ここから始まったのです。

1968年1月16日の夜。

私は東京駅から西へ向かう夜汽車に乗っていました。

目的地は長崎県佐世保。数日後、米海軍の原子力空母「エンタープライズ」が入港する予定で、寄港に反対する学生や労働者、市民が全国から集まると予想されていました。

金欠のハタチの若者だった私は、急行料金を惜しみ、普通列車だけを乗り継ぐことにしました。記憶では、佐世保まで二日間近く、50時間ほどかかったように思います。

夜汽車の車輪が、規則正しくレールを叩いていました。窓ガラスは冷たく、暗い車窓には、街の灯りが流れては消えていきます。

車内には煙草の煙が充満し、弁当の残り香、男性客の強烈なポマードの匂いなどが絡み合った独特の空気がこもっていました。

その揺れの中で、私は半月ほど前の出来事を思い返していました。

以前書いた1967年の暮れ、東京から岡崎の実家まで、一人で歩いて帰った時のことです。

真冬の約320キロを、しかも激しく車が行き交う国道1号線をひとりで歩いた経験は、本当に得難いものでした。

若者特有の夢と悩みが入り混じり、自分でも収拾がつかなくなっていた私は、これからどう生きるのかを考え、頭の中を整理する時間を必要としていたのです。


ところが、実家で待っていたのは、母の過干渉と、私の将来をめぐる母や兄との激論でした。

二人が怒るのには理由がありました。

私は浪人までして入った大学を早々に辞め、さらに、高い授業料を払ってもらって通っていた大宅壮一東京マスコミ塾も退塾していたのです。

「いったい、お前は何をするつもりなんだ」

二人は口をそろえて私を詰(なじ)りました。

大学とマスコミ塾を辞める代わりに、働きながら貯金してアメリカ留学を準備しているのだと説明しても、温かい言葉は返ってきませんでした。

そんなやり取りを思い返しながら、私は暗い車窓を眺めていたのです。

前日の1月15日は成人の日でした。当時、成人の日は1月15日に固定され、各地で成人式が行われていました。前年9月に20歳になった私も対象でしたが、式に出るつもりはありませんでした。

〝新人類〟と大人たちから揶揄されていた私たちは、何かにつけて「大人」に反発していました。少なくとも私の周囲では、成人式に出る若者は多くなかったように記憶しています。

私が佐世保へ向かったのは、反戦運動に参加するためではありません。

エンタープライズの寄港、それを阻止しようとする若者たち、そして彼らを封じ込めようとする警察。その対峙を、私はある種の「戦争」として捉えていました。

そこで何が起きるのか、自分の目で確かめたかったのです。

当時の私には、できるだけ多くの社会問題を直接見ておきたいという強い思いがありました。後にジャーナリストになったからではなく、その仕事に就く前から、そうした衝動を抱いていたのです。

佐世保までの直通列車はありません。普通列車を乗り継ぎ、ようやく九州・博多駅に着きました。

そこで、私より先に「全学連列車」と呼ばれた列車で大勢の学生が到着し、駅で警察と激しく衝突したと聞きました。

全国から若者たちが佐世保を目指して九州に入っていたのです。私も博多で列車を乗り換え、さらに西へ向かいました。

◆ 高台の上から見たエンタープライズ

佐世保に着いたのは19日の朝でした。

私は、どうやって行ったかの記憶はありませんが、港を見渡せる高台の上へ向かい、そこから巨大な原子力空母「エンタープライズ」を見ました。

灰色の巨大な戦艦の甲板の上には小さく見える艦載機が並び、遠くからでも、その存在が港全体を押さえつけているように感じられました。

米国とヴェトナムが激しく戦っていた時代です。この空母から飛び立った戦闘機や戦闘爆撃機が、民衆の頭上に爆弾を落としている――。そう思うと悲しくなり、同時に怒りがこみ上げました。

エンタープライズには通常兵器だけでなく、核兵器も搭載されているのではないかと言われていました。

日本には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則があります。だから、時の佐藤栄作政権は、日本の基本方針である非核三原則は守られている、と繰り返していました。

一方、米国は艦船への核兵器搭載の有無を明らかにしない政策をとっていました。

エンタープライズにも核兵器が積まれているのではないか――。そんな疑念が広がっていたのです。

後になって、冷戦下の米海軍の主力空母には、艦載機から投下する核爆弾などが通常配備され、エンタープライズも例外ではなかったことが明らかになっています。

寄港に反発したのは学生だけではありません。佐世保の人々の感情も強く刺激されていました。

港や米軍基地周辺でデモ隊と機動隊の衝突が激しくなるにつれ、多くの地元住民が現場を見に来るようになりました。

◆ 学生と機動隊――その間にいた市民

いわゆる「過激派」と呼ばれた全学連の学生たちは、機動隊と激しくぶつかりました。

角材が空気を切り裂き、投石が機動隊を襲います。
路面や機動隊員の盾に当たって乾いた音を立てました。学生たちの怒号と、機動隊員の掛け声が重なり、何がどこから聞こえてくるのか分からないほどでした。

ジュラルミンの盾を構えた警官たちが、金属の擦れる音を響かせながら一歩ずつ押し返してきます。ヘルメットの列が近づくたび、目の前の空気が狭くなるように感じました。

その間を、若者たちが走って逃げていきます。靴音が路面を激しく叩き、転んだ者を別の学生が引き起こします。その中には女性もいました。

やがて、白い煙が路上を這うように広がりました。

催涙弾です。

鼻の奥を刺す刺激臭が一気に押し寄せ、喉が焼けるように痛みました。目を開けていられず、涙で視界がにじみます。人の顔も、盾も、角材も、白い煙の向こうで輪郭を失っていきました。

周囲には、大勢の佐世保市民が集まっていました。咳き込みながら後ずさる人、手やハンカチで口元を覆う人、それでもその場を離れず、衝突の行方を見つめる人。誰もが息苦しさに耐えながら、目の前で起きていることを見届けようとしていました。

私が強く感じたのは、機動隊員もまた若かったということです。当時の警察官には高校卒業後に入った者も多く、対峙する大学生とは同じ世代でした。

その中には、

「お前ら、大学に行かせてもらっているくせに、甘えてるんじゃない!勉強だけしてろ!」

と学生に感情をぶつける者もいました。

怒鳴り声は、催涙ガスの刺激臭と、汗や土ぼこりの匂いが混じった現場の空気を震わせました。

そこには、単なる「警察対デモ隊」では捉えきれない、同じ時代に生まれながら異なる境遇に置かれた若者同士の衝突がありました。

警察側の行動も、私には「規制」の範囲を超えているように見えました。逃げる学生を追い、警棒を振るう。倒れた者にも容赦しない。

倒れた学生の周囲に人が集まり、誰かが「やめろ、やめなさい」と叫びます。しかし、その声は別の怒号や靴音にかき消されました。

その光景を見た住民たちの空気は、次第に変わっていきました。

学生のやり方や実力行使に賛同しているわけではない。それでも、「警察はやり過ぎではないか」という怒りが広がったのです。

機動隊に追われた学生が人垣に逃げ込むと、市民(多くは中高年)がスクラムを組んでかばうこともありました。

人垣の中から、「この子を殴るな」「もうやめろ」という声が上がります。市民の肩や背中が押し合い、警察の盾がその輪に食い込んでくる。誰かの腕が伸び、逃げ込んだ学生をさらに奥へ押しやりました。

佐世保で起きていたのは、単純な「過激派学生と警察の衝突」ではなかったのです。

◆ 催涙弾で目を真っ赤にした市民たち

機動隊が放つ催涙弾は、学生だけを選びません。現場を見守る市民も巻き込まれます。

白い煙が足元から広がり、風向きが変わるたびに人の群れへ押し寄せました。目に入った瞬間、熱い砂を擦り込まれたような痛みが走ります。鼻水と涙が止まらず、息を吸うたびに喉の奥がひりつきました。

私は目を真っ赤にして咳き込みました。周囲にも、涙を流しながら激しく咳をする人が大勢いました。

誰かが水を求め、別の誰かがハンカチを差し出します。けれども、布を口に当てても刺激臭は消えません。視界はぼやけ、目の前の人の顔さえ判別しにくくなりました。

「やめろ!」

「規制を緩めろ!」

怒号が飛び、私も声を上げました。

声を張り上げても、催涙弾の破裂音や警官の怒鳴り声、逃げる人々の足音にかき消されます。それでも、黙っていることはできませんでした。

1月21日、佐世保橋では再び激しい衝突が起きました。一部の学生が佐世保川を渡り、近くにある米軍基地への侵入を試みるほど、事態は先鋭化していました。

橋の上には人が密集し、逃げ場がありませんでした。欄干の向こうには川面が見えます。前方からは機動隊が迫り学生たちと押し合っている。足元には投げ捨てられた旗や紙片が散らばり、踏みつけられるたびに乾いた音を立てました。

私は全学連の仲間ではありませんでした。それでも、目の前の警察の行動には黙っていられず、多くの市民と共に割って入り、機動隊員に声を上げました。

機動隊員の盾が目の前まで迫って来ました。警棒を握る手が見え、ヘルメットの下から荒い息づかいが聞こえます。こちらも声を張り上げ、押し返されまいと足を踏ん張りました。

その時、新聞やテレビのカメラを意識することはありませんでした。目の前で展開される〝戦争〟に心を奪われていたのです。

◆ 市民が「第三の主役」

翌1月22日の主要各紙は、前日の佐世保橋周辺の状況を大きく報じました。

朝日新聞の社会面には、記事と共に一枚の写真が掲載されました。見出しは、

「市民が『第三の主役』」

写真の左下には、機動隊員に鋭い視線を向け、声を上げる20歳の私が写っていました。

朝日新聞の表現は、私が佐世保で感じたことそのものでした。

あの街で向き合っていたのは、学生と機動隊だけではない。そこには市民がいたのです。

その新聞を岡崎の母も見ました。

後日、帰京した私に電話がかかってきました。

「あんたはいったい何をやってるの?言ってたことと違うじゃないの!」

母は激怒していました。

無理もありません。私は大学と大宅壮一東京マスコミ塾を辞め、その代わりにアメリカ留学を準備していると説明していたのです。

ところが新聞には、佐世保橋の上で機動隊に食ってかかる息子の姿が載っている。

母や兄には、私が将来と向き合うことから逃げ、「反戦運動に逃げ込んでいる」ように映ったのでしょう。

しかし、私の中では矛盾していませんでした。アメリカの大学でジャーナリズムを学ぶことも、佐世保へ向かったことも、同じ線の上にありました。

できるだけ多くの社会問題を、直接、自分の目で見ておきたい。

それだけだったのです。

◆ 私にとっての「成人式」

現地へ行く。自分の目で確かめる。人から聞いた話だけで判断せず、そこで何が起きているのかを自分で考える。

私はまだジャーナリストではありませんでした。

けれども振り返れば、その後何十年にもわたって続けることになる生き方は、すでにこの20歳の冬に芽を出していたのかもしれません。

自治体がおぜん立てしてくれた成人式には出ませんでした。

その翌日、私は夜汽車に乗って佐世保へ向かいました。

今思えば、あの旅こそが、私にとって本当の「成人式」だったのかもしれません。

見出し画像

ネパールと中国の国境地帯を襲った大規模な洪水と土石流。

死者は800人近くに達し、ネパール、中国双方で3000人以上が行方不明になっている。被災者は9万人を超えるとみられている。

日本政府は8月28日、ネパール政府からの要請を受け、テントや毛布などの緊急援助物資を供与すると発表した。

もちろん、それは必要な支援だ。

しかし、この災害で求められているものは、それだけなのだろうか。

ネパールのカナル外相はJNN(TBS系ネット)の取材に対し、安否が分からなくなっている日本人5人について、「日本政府に全面的に協力する」と語った。(TBS NEWS DIG⁠)

そこで日本のジャーナリストが最も関心を向けているのは、やはり「日本人5人の安否」である。

日本の報道機関である以上、日本人の安否を確認することは重要な仕事だろう。

しかし、そこで質問を終わらせてしまっていいのだろうか。

私なら外相に、こう聞きたい。

「いま、ネパールが最も必要としている支援は何か」

「日本の救助隊や災害救援の専門家に来てほしいか」

「日本政府に具体的に何を求めたいか」

実は、ここには注意しなければならない事実がある。

ネパール政府は災害直後の28日、外国の救助隊について「必要ない」との立場を示していた。したがって、日本が直ちに国際緊急援助隊を送り込まなかったことだけを取り上げて、日本政府を批判するのは正確ではない。

ところが、状況は変わってきた。

被害がさらに拡大する中、ネパール外務省は、トンネル内での捜索、DNA鑑定、遺体の冷蔵保管、損傷した遺体の法医学的な身元確認など、専門性を必要とする分野について国際社会の支援が必要だと表明している。

ここからが、日本政府と日本の報道機関の仕事ではないのか。

日本には国際緊急援助隊がある。

救助、医療、災害対応などについて海外に派遣できる仕組みを、長年かけて築いてきた。

ネパール側が当初、外国救助隊を必要としないと判断したのなら、それは尊重すべきだ。

しかし、いま新たに専門的な国際支援を求め始めているのであれば、日本政府は何ができるのかを直ちに検討する必要がある。

外務省は物資供与を発表した際、「今後も同国のニーズに応じて必要な支援を検討する」としている。

ならば、記者が政府に聞くべきことは明確だ。

・ネパールから新たな人的・技術的支援の要請は来ているのか。

・来ていないのであれば、日本側から「何が必要か」と具体的に働きかけているのか。

・トンネル捜索や法医学的な身元確認など、日本が提供できる専門能力はないのか。

・国際緊急援助隊を派遣する準備をしているのか。

そして何より、いつまで「検討」しているのか。

「日本人5人は無事なのか」

もちろん、それは大切だ。

しかし、800人近くが命を失い、3000人以上が行方不明になっている災害を前に、日本のジャーナリズムの問いがそこだけに集中するのであれば、私は情けなく思う。

問うべきことは、もう一つある。

「日本は、この人たちを救うために何ができるのか」

私は、その問いを日本政府に突きつけることも、ジャーナリストの仕事だと思う。

高市首相の「台湾有事」発言で日中関係が拗れる中、その核心の一つとして浮上するのが「尖閣問題」です。

その議論に、長年この問題に取材者として関わってきた私は、ずっと違和感を抱いています。

なぜなら、いま語られている尖閣問題と、私が1970年代に取材現場で見聞きした尖閣問題との間には、大きな隔たりがあるからです。

1972年、田中角栄首相が北京を訪れ、日中国交正常化交渉が行われました。

その際、田中首相が尖閣諸島について尋ねると、周恩来首相は「今回は話したくない」という趣旨の言葉で、議論を避けました。

領有権について双方の主張は違う。しかし、その問題をここで争って、日中国交正常化という大きな目的を壊してはいけない。

いわば「大同小異」の考え方です。

そして、日本側もそれを受け入れ、国交正常化を実現しました。

◆ 鄧小平が語った「次の世代に」

それから6年後の1978年。

日中平和友好条約が締結され、鄧小平副首相が来日しました。

10月25日、東京の日本記者クラブで記者会見が開かれました。

約400人の報道関係者が集まった大変な会見でした。

私は当時、AP通信東京支局の記者として、その会場にいました。

尖閣について質問された鄧小平は、国交正常化の際にも双方がこの問題に触れないことにした、平和友好条約交渉でも同じだった、という趣旨の説明をしました。

そして、尖閣問題は一時棚上げしても構わない、自分たちの世代には知恵が足りないかもしれないが、次の世代はもっと知恵を持っているだろう、と語りました。

私はその言葉を会場で直接聞いていました。

重要なのは、鄧小平が突然「棚上げ」を思いついたわけではないことです。

1972年の周恩来と1978年の鄧小平には、一貫した考え方がありました。

領有権について一致できなくても、それを日中関係全体を壊す問題にはしない。

そして少なくとも当時の日本政府も、それによって国交正常化や平和友好条約を止めることはしませんでした。

現在の日本政府は「尖閣諸島をめぐり、解決すべき領有権の問題はそもそも存在しない」「棚上げについて中国側と合意した事実はない」という立場です。

しかし、1970年代の日中外交の実態を見るなら、それだけでは説明し切れないものがあります。

明文化された「領有権棚上げ協定」があったかどうかという問題と、双方が尖閣を日中関係全体の障害にしないという政治的判断を共有していたかどうかは、別の問題だからです。

◆ キッシンジャーに直接聞いた

もう一つ、忘れられない経験があります。

1974年、米国務長官だったヘンリー・キッシンジャーが東京に立ち寄った時のことです。

半世紀以上前のことなので細かな日程の記憶は曖昧です。木村俊夫外相との会談後だったようにも覚えていますし、中国から戻ってきた際だったという記憶もあります。

当時、APなど外国報道機関は、日本の記者クラブ制度の中で不利な扱いを受けることが少なくありませんでした。

そこで私は、キッシンジャー本人を個人的に捕まえて質問しました。

「尖閣諸島の領有権について、米国政府はどのように考えているのですか」

正確な言葉までは覚えていませんが、キッシンジャーは、

「これまでの米国政府の方針に変更はない」

という趣旨の答えをしました。

私はその時、妙な印象を受けました。

「この人は、尖閣を日本のものだとは考えていないのではないか」

もちろん、キッシンジャーがそう言ったわけではありません。

あくまで、その時の私の受け止めです。

ところが、半世紀近くたって公開された米国政府の内部文書を読むと、興味深い記録が出てきます。

米国政府の基本的な立場は、沖縄返還に伴って尖閣諸島の「施政権」は日本へ返したものの、最終的な「主権」がどこに帰属するかについては判断しない、というものでした。

さらに1974年1月31日の米国務省幹部会議では、中国の海洋進出について話している最中、キッシンジャー自身が、中国を尖閣の方へ向かわせることはできないか、と冗談とも皮肉とも取れる発言をしています。

これをもって「キッシンジャーは尖閣を中国領だと考えていた」と断定することはできません。

しかし少なくとも、彼が「尖閣は当然日本領である」と考え、日本の領有権を全面的に支持していたとは言い難いでしょう。

そう考えると、1974年の東京で彼の短い返答を聞いた時に私が抱いた違和感も、あながち的外れではなかったのかもしれません。

◆ 「抑止力」で本当に日本を守れるのか

そして半世紀が過ぎました。

中国は、1970年代とは比較にならないほど巨大な経済力と軍事力を持つ国になりました。

それに対して日本では、中国の軍事力に対抗するため、防衛力をさらに強化しなければならないという議論が主流になっています。

しかし、私はそこにも大きな疑問を感じます。

私はこれまで、いくつもの戦争を取材してきました。

その経験から見ると、中国のような巨大な軍事大国に対して、日本が軍事力を増強することで「抑止力」を確保し、安全を保障できるという発想は、私にはどうしても現実的とは思えません。

日本は狭い国土に人口、産業、発電施設などが集中しています。

原子力発電所も多数あります。

戦争が始まれば、ミサイルを何発持っているか、何発迎撃できるかという計算だけでは済みません。

一発の攻撃が、日本社会に取り返しのつかない被害を与える可能性があります。

「攻撃すればこちらも反撃するぞ」と中国に思わせることだけが、安全保障なのでしょうか。

私はむしろ逆だと思っています。

◆ 「日本を壊したら中国も困る」国を作る

日本が目指すべきなのは、中国に、

「日本を壊したら、中国自身も大変な損失を被る」

と思わせるような国造りと関係作りではないでしょうか。

経済だけではありません。

技術、学術、文化、教育、人的交流、自治体、観光――幾重にも関係を張り巡らせ、政治的対立が起きても簡単には切断できない関係を作るのです。

これは中国に迎合するという話ではありません。

中国を信用せよ、という話でもありません。

中国という巨大な隣国はなくなりません。

日本も中国も、この場所から引っ越すことはできないのです。

米国との同盟関係も当然、重要です。

しかし、「米国の核の傘があるから大丈夫」「いざとなれば米国が日本を守ってくれる」という前提だけに、国家の生存を委ねることにも私は疑問を持っています。

米国によるイスラエルへの支援を見て、「日本も同盟国だから米国は必ず守る」と語る人もいます。

しかし、米国にとってイスラエルと日本はまったく同じ存在ではありません。

歴史も、国内政治との関係も、地政学的位置も違います。

まして相手が核兵器を持つ中国となれば、米国自身がどこまで危険を引き受けるのかは、誰にも保証できません。

◆ 1972年と1978年に戻って考える

だからこそ私は、1972年と1978年の日中関係を、もう一度きちんと振り返る必要があると思っています。

周恩来も鄧小平も、尖閣問題を「解決」したわけではありません。

田中角栄も福田赳夫も、日本の領有権を放棄したわけではありません。

解決できない問題を抱えたまま、それでも日中関係を前へ進めたのです。

それを「問題の先送り」と批判するのは簡単です。

しかし私は、そこに政治の知恵を感じます。

尖閣をめぐって双方が一歩も引かず、台湾有事を想定して軍備を増強し、互いを仮想敵国のように扱っていく。

その先に、本当に日本の安全があるのでしょうか。

高市首相の「台湾有事」発言を契機に日中関係が再び緊張している今だからこそ、台湾を含む日中関係そのものを、国民的なレベルで議論し直す時期に来ていると思います。

その際、1972年の日中共同声明と1978年の日中平和友好条約を、もう一度読み返すことから始めてもいいでしょう。

そして、尖閣をめぐって周恩来と鄧小平がなぜ「今は争わない」という選択をしたのかも考えてみるべきです。

日本にとって本当に必要なのは、

「中国との戦争にどう備えるか」だけではなく、「中国との戦争をどうすれば起こさずに済むのか」を国家戦略として考えることではないでしょうか。

私は、そこから日中関係をもう一度組み立て直すべき時期に来ていると思っています。

2026.08.29 (Sat)  16:39

執筆再開のお知らせ

 長らく執筆を怠っていましたが、執筆再開を望む声をいただいてきました。そんなお声がけをいただいても何だかんだと言ってサボっておりました。

 

 ただ、3年前に病気をしたこともあり、時間的余裕も出てきましたし、と同時に「あの世に召される時期」も近付いてまいりますと、中途半端な形で自分の生きざまをこの世に残すわけにいかないとの思いが頭をもたげてまいります。

 

 そこでこの度、「人生劇場」の幕を再び上げることとなりました。

 

 とにかく規格外れの人生です。皆さんが驚かれる展開になることは間違いないので、どうぞ「しょうがないやつだなあ」「それはないだろう」などと〝合いの手〟を入れながらお読みください。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 ...