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2022.09.11 (Sun)  11:42

エリザベス女王崩御

 エリザベス女王は、記者としては一度はインタヴューさせていただきたい存在でしたね。特に第二次世界大戦を女王の立場からどう受け止めていたか、は世界の誰もが聞いておきたかったことではないでしょうか。でも、残念ながら一度もその機会は巡ってきませんでした。

 女王との縁というほどのものではありませんが、スクープというジャーナリストにとっては得難い経験の中で間近にその素顔を見ることはできました。それは1971年10月、戦後初めて欧州を歴訪した昭和天皇の取材をした時でした。「エンペラー・ヒロヒト」は、英国とオランダでは複雑な感情で民衆に迎えられました。訪問に反対する動きも多くありました。 日本が先の戦争で英国やオランダと戦火を交え、日本の捕虜の扱いが酷かったことから両国では当時まだ反日感情が根強くあったのです。英国人に天皇訪問の感想を聞くと、半数近くは、「Mixed feeling」と答えたものです。 

 

 英国で勉強しながら毎日新聞ロンドン支局で働いていた僕は、上司の小西特派員から「バッキンガム宮殿に馬車で向かう天皇と女王の写真を撮ってきてくれ。スクープ写真を頼んだよ」と冗談混じりに言われて、宮殿前のThe Mall通りの歩道で馬車を待ちました。 大観衆が待ち構える中、まるでヴィクトリア朝時代から時空を超えて現れたかのような雰囲気を醸し出しながら馬車が近づいてきました。 カメラを構え何回かシャッターを切ります。当時のカメラは今のように便利ではありませんでした。ピントやシャッタースピード、それにレンズの絞りを合わせて一枚写真を撮るとそれを巻き上げてまた同じ操作をして次の写真を撮ります。その操作だけでも結構大変で、そちらに神経を使わされていました。 その時です。右前方の沿道の群衆から男が飛び出してきました。 男はそのまま車道に出ると手に持っていたコートを馬車に向かって投げつけたのです。

コートは馬車に当たることはなくふたりの頭上を飛び越えて反対側の路上に落ちました。 シャッターを切りながら自分の左目(右目はカメラのファインダー)で女王の表情を見ていました。その表情は今でも記憶にハッキリ、一枚の写真のように残っています。見事な態度でした。一瞬驚いた様子でしたが、直ぐに凛とした姿勢で大観衆に向かって笑顔を浮かべたのです。 危機管理の国です。警護スタッフは沈着冷静。場を乱さずに対応、馬車はまるで何事もなかったかのように通り過ぎて行きました。だからその周辺にいた人以外は、ハプニングに気付かなかったはずです。 僕は脱兎の如く群衆をかき分けて逮捕現場に入り、警護スタッフに捕らえられた男に声を掛けました。 ウェールズから来たと言う男は、ビルマ戦線で日本軍に捕まった父親が虐待されて精神障害を患った。天皇ヒロヒトにその罪を償わせたかったと吐き捨てるように言い、僕の前から連れ去られました。

 大観衆の中での出来事です。何人もの人のカメラにその瞬間は収められているだろうと思いながら支局に戻り小西さんに報告しました。

「凄いじゃないか。直ぐにUPI(当時APに次ぐ大手の国際通信社)で現像してきて」

 と小西さんに言われ、UPIの暗室に飛び込みました。当時は、フィルムに画像を収め、それを現像して印画紙に焼き付けていたのです。 暗闇の中で胸のときめきを抑えながらネガフィルムを見ます。そして印画紙に画像が浮かび上がってきました。UPIの暗室係たちから称賛の声が上がります。ほとんどの写真がちょっとピンボケながら一応現場をとらえていました。 写真を持ってオフィスに戻ると小西さんが「浅井君、よくやった。早速東京に送ろう」と電送の手続きに入りました。 東京本社の天皇随行カメラマンAと支局長の硬い表情が気になりましたが、当時僕はまだ24歳。「やった!スクープだ!」とはしゃいでいました。

 すると、支局長が私の席に来て、

「君はウチの正式の社員じゃないから相談だけど、君が撮ってきた写真はAが撮ったということにしてもらえないか?まあ、本紙の夕刊の第2社会面に小さく載るだけだし」

 ととんでもないことを言います。びっくりして「それでAさんは了解したんですか?」と聞くと、その場に彼はいなかったものの「同意している」とのことでした。 小西さんはふたりだけになると、「こんなことになって申し訳ない」と頭を下げてきました。僕を何かと可愛がってくださる小西さんを困らせるのは本意ではありません。渋々同意しました。 そこへUPI写真部のスタッフが現れて、「今のところ、この場面を撮ったのはダンナ(僕の当時のあだ名)あなただけだ。写真を世界に配信したい。キミのフルネームを教えてくれ」と申し込んできました。毎日とUPIの間では相互協定の中で写真提供の取り決めがあったようです。毎日の写真は、UPIが希望すればほぼ自動的に配信網に乗せられて世界中に配信できたのです。「(世界に配信して)良いですよね、〇〇さん」僕は(心の中で勝ち誇って)興奮して支局長に同意を求めます。 支局長は苦虫を噛み潰したような顔をして同意しました。

 

 英国や欧米諸国ではその日の夕刊と翌朝の主要紙の多くが僕の写真を大きく使いました。すると、毎日新聞はグラフ雑誌『毎日グラフ』の全面を使ってこの写真をAの名前で掲載しました。数日後、「本社からのお礼だよ」と高級万年筆とボールペンのセットが支局長から手渡されましたが、僕は翌朝、彼のデスクの上にお断りの手紙と共にその包みを戻しておきました。

 エリザベス女王にインタビューできたらその時の気持ちも聞いてみたいと思っていました。でも他界されてしまいました。もうどんなことがあってもその辺りを聞く機会は無いですね。

 

【注1】 空中のコートの色が薄く見にくかったため、UPIの暗室係と相談の上、見やすく加工してあります。

【注2】 UPI通信は、ホワイトハウスの会見室の最前列で歴代米大統領に厳しい視線を投げ続けたヘレン・トーマス記者やヴェトナム戦争でピュリッツァー賞を受賞した沢田教一さんが所属したことで日本人にも知られた通信社ですが、90年代前半に倒産、後にアラブの富豪に買い取られました。 その後、いつの間にか統一教会の手に渡り、ヘレン・トーマスは「57年間のUPI勤務を終えてフリーランスとなる」と表明しました。UPIは与えられていた大統領への代表取材の席をはく奪され、その席はブルームバーグに移されています。

 

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