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2022.01.18 (Tue)  21:25

東海愛知新聞一面に掲載

東海愛知新聞 2022年1月16日.jpeg

 1月16日(日)。東海愛知新聞に掲載していただきました。しかも、一面トップです。

 早速、朝一番で嬉しい入金のお知らせが入りました。その後もいろいろな方面の方から「読んだ」「見たよ」の声をかけられた一日でした。

 しかも、この日は妻の誕生日。

 「最高の誕生日プレゼントをいただいた!」と大喜びでしたよ、東海愛知新聞さん。 (インターネット版はこちら

 厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど。「えんりえど」とも読む)。

 皆さんもこの八文字を、「関ヶ原の戦い」などの戦場を扱った漫画、アニメ、映画やドラマで、徳川軍が旗印・馬印にしているのをしばしば見ているはずです。

 これは、「極楽浄土に往生する(生まれ変わる)ことを心から願い求めること」という意味で、浄土宗で使われる「信ずる者への救いの道」つまりは「篤(あつ)く信ずれば、来世では幸せの世界が待っている」という教えですね。

 古くは、源信(942~1017年)の『往生要集』の冒頭にこの言葉が書かれています。浄土教の根底思想です。

 「私たちが住むこの世界は苦悩に満ちた穢れた世であり国土であり、それを厭(いと)い離れることを願うことであり、心からよろこんで浄土に生まれることをねがい求める」と浄土真宗本願寺派布教使であり、龍谷大学講師の西光義秀さんはご自分のウエブサイトで分かりやすく解釈されています。

 この言葉が徳川軍に使われた背景には、桶狭間の戦いで〝敗軍の将〟として生き延びた当時満17歳の松平元康(後の家康公)の姿があります。

 織田軍の追っ手を振り払い、故郷岡崎の菩提寺・大樹寺に逃げ込んだものの門の外には追ってきた敵軍が気勢を上げていました。「もはやこれまで」と観念した元康は先祖代々の墓所の前で自害しようとします。

【当時、有力武将の首級、特に兜を付けた兜首は価値が高く、下級武士は戦場で名の知れた部将を探し回りました。逆に部将は自分の首を取られることを最大の恥と考えていたのです。ですから、元康が、雑兵に首を取られるくらいなら自分の家臣に介錯(斬首)させて敵に分からない所に埋めさせた方がまし、と考えたとしても不思議ではありません】

 するとそこへ寺から出てきた登誉(とうよ)上人が「代々松平家は平和な世の中を創ろうとしてきた。その想いをあなたは断ち切るのか?」といさめ「厭離穢土・欣求浄土」を授け、平和国家建設にまい進するよう励ましたと言われています。

 その言葉に勇気づけられた元康は〝生まれ変わり〟、墓前に大願成就を誓ったそうです。そしてそれからは、いくさ場に八文字の書かれた旗印を掲げ、「天下泰平」と記した軍配を振るって天下を取ったのです。

*この若き家康公を奮い立たせた『厭離穢土欣求浄土』を世の中に広めるために、Tシャツなどをリターン品として作る予定です。それを実現するためにも一人でも多くのクラウドファンディングへの支援を必要としています。ご支援のほどよろしくお願い致します。

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 現在実施中のクラウドファンディングについて、地方紙『東海愛知新聞』の取材を受けました。

 脇で〝父上〟を見守るのは、共演者の駿仁(としひと)通称としくんです。としくんは昨年まで私を〝パパ〟と呼んでいましたが、歴史にハマったためか呼び方を変えてきました。

 背後からは岡崎を代表する画家「柄澤照文」さんが独特のタッチで江戸中期の康生(家康が生まれた町)周辺を描いた絵が読者にメッセージを送っています。

 岡崎の方ならよくご存じですが、柄澤さんの絵は平和そのもの。見ているだけで怒りを忘れ、ほほが緩み、あたたかい気持ちにさせてくれます。それだけでなく、柄澤さんはかつて自分で新聞を発行していたほどの取材者でもあります。絵を描くために丁寧な取材を重ね、得た情報を絵に描き込んでいるのです。この絵には、朝鮮からの平和友好使節団『朝鮮通信使』の行列と熱烈歓迎した町民の姿が見られます。450人もの代表団を迎えて歓迎式典を行った岡崎藩の迎賓館『御馳走屋敷』も描かれています。

 我が家の年末年始の旅は、アフガニスタンで斃れた中村哲さんを九州で偲んだ後、広島県呉市に続きます。蒲刈町下島にある松濤園を訪れるためです。

 ここには「朝鮮通信使資料館『御馳走一番館』」があります。江戸時代に12回にわたって朝鮮から日本に送られた平和友好大代表団(約450人)を出迎えた接待所に想いを馳せる資料が多く見られる記念館です。

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 皆さんご存じのように、豊臣秀吉は1592年、明(当時の中国)の制圧を夢見て朝鮮半島に大軍を送り込みます。「文禄・慶長の役」です。しかし、李朝鮮と明の連合軍の抵抗の前に苦戦を強いられ、半島で身動きできなくなってしまいます。その最中、秀吉が1598年、急逝。主を失った豊臣政権軍は大混乱に陥りました。

 秀吉の後を継いだ五大老の筆頭格になった家康公は、予定通りの増員を主張する有力大名を制して、即時停戦と帰国命令を出して戦争を終結させます。

 2年後の関ヶ原の戦いで雌雄を決した家康公は1603年に江戸幕府を開きます。そしてすぐに李氏朝鮮との〝国交回復〟を目指して朝鮮に使者を送りました。

 1604年、李王朝は軍師であり交渉人である僧侶、惟政を日本に送り込みます。家康公は惟政を京都まで呼び寄せて数か月観察、翌1605年、伏見城で会見しました。会談の内容は諸説ありますが、両者の「腹を割った話し合い」はおおいに盛り上がり、惟政の「日本軍が拉致して日本に連れてきた朝鮮人を全員返していただきた」との要求を無条件で受け入れた家康公は「我が国は150年間戦争ばかりしていて文化的に後れをとった。貴国から文化使節団を送って欲しい」との要請をします。

 李氏朝鮮側にとっても日本の情報収集ができるわけですから異論があるはずはありません。ただやはり警戒心を解くまでには時間がかかり、純粋な文化的外交使節団になるまでには数十年を要しましたが、かくして朝鮮通信使が何度も日本に送られるようになったのです。

 これも「徳川平和」のシンボルの一つと言えましょう。

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