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書家・丹羽勁子さん来訪
岡崎を代表する書家の丹羽勁子さんが、Global Studies Cafeに顔を出されました。
私が今取り組んでいるプロジェクトのクラウドファンディングのリターン品に、丹羽さんが書いた「厭離穢土 欣求浄土」の8文字を入れたTシャツをご用意する予定です。
「平和のふるさと・岡崎」を皆さんが身に着ける8文字で埋めたいとの想いでいっぱいです。
家康公とキリシタン迫害
行きつけの書店で大石学教授が総監修する『日本の歴史』を息子に買い与えると、夢中になって読んでいます。
第7巻「江戸幕府の確立~江戸時代前期~」を読んだ8歳児、早速「僕は家光、父上は秀忠、そして母上はお江の方」と役割を決めてそう演じるように仕切ります。
しかし、読み進む内に「パパ、キリシタン弾圧のことを教えて」「アマクサシローってかっこいいね」と言って来ました。家康公を、江戸時代を評価する方達の多くが、強い疑念にかられる例の宗教弾圧です。僕もかつてはそうでした。8歳児、なかなか良いところに目を付けたなと思わずニヤリ。
これは、〝目の前の(分かりやすい)悲劇〟に目を奪われてしまい「着眼大局」の姿勢で考えないと混乱してしまう史実です。先ずは、時代の流れを説明しました。
この時代は世界中で欧州列強が「領土拡大」を競っていました。〝新大陸〟を求めて世界の未開地に先遣隊を送り込み武力制圧すると、そこへ今度は地元民を教育する集団を入れました。聖職者と語学教師の集団です。
そのように新大陸を軍事面、文化面、そして精神面で絡めとり植民地支配すると、その後はそこにあるさまざまな産物を搾取して巨万の富を得ていきました。マルコ・ポーロ以来、日本の魅力は世界で広く知られていました。列強は当然日本を標的にしました。
「コロンブスの新大陸発見」から約100年後に江戸幕府を開いた家康公は、ウィリアム・アダムズなどから欧州列強の脅威を知ることとなります。「日本が戦いに明け暮れていた間」に世界が大きな地殻変動をしていたことを教わります。花火など物珍しいものを持参して披露する列強の特使の申し出や提言に懐疑的であった家康公は、侵略・占領された地域と同じ轍を踏まないためにいろいろな策を講じました。
そのひとつが、キリスト教禁止と鎖国と言われる一見すると閉鎖的な保護主義政策です。確かに多くの人命を奪い、人心を苦しめたやり方でしたが、当時の状況を様々な観点で考えると、仕方がなかった、他に選択肢は考えにくかったと言えるのではないでしょうか。
8歳児には、自分が住んでいるところが他の国に占領・植民されたらどうなるか、どう思うかを考えてみようと提案していろいろな可能性を話し合いました。
着実に成長する子供の姿は、他人の子でもそうですが、見ていて本当に楽しいものですね。
タケチヨ近影
『竹千代チャンネル』の主役駿仁は小学校2年生の8歳児です。ここ数年「和」にハマっています。
読む本のほとんどは「日本の歴史」。YouTube『YUKIMURA CHANNEL』をこよなく愛しているので、戦国時代の知識は父の私をはるかに上回っています。
必然的に、髪型はちょん髷(ただし、学校に行くときは髪を下ろします)、冬でも着物を着て素足に下駄なり草鞋を履き、時に六尺ふんどしを楽しんでいます。使う言葉が時代劇調で、親はそこまで覚悟を決めていないので結構恥ずかしい思いをすることがあります。
先日は母親が学んでいる『和の講座』に出席。「楽しかったあ」と言いながら「お帰り」と言って出迎える私の胸に飛び込んできました。
岡崎市でもコロナ感染が拡大しており、しばらくは大樹寺墓所の供花・清掃は中止だよと言うと、先ほど寝る前に「日曜日の大樹寺のお掃除、行こうよお」と言って床に就きました。良い環境で育てられることに感謝です。
〝タケチヨ〟の奇跡
1月16日は妻の誕生日。
彼女のリクエストを受けて蒲郡にあるホテルのレストランに夕食の予約をして、「さあ出かける準備をしよう」という時に母(98歳)が入所する施設から一本の電話。
スタッフと話をしていて、明らかに異常なサイン(酸素飽和値が88)を出している老母に対する施設の処置がまずいと判断した私は、施設の近くでこれまでも時折かかっているトヨタ記念病院への緊急搬送をお願いしました。
こんな時期(コロナ禍)ですから私ひとりで行くつもりでしたが、〝タケチヨ〟が「僕もおばあちゃんに会いに行く!」妻も「おかあさんに会いたい!」と言ってくれたので、家族三人で病院に駆けつけました。母の入所施設はコロナ感染拡大に伴って面会禁止。会えない日々が続いていたのです。
私たちは救急車よりも病院に早く着いたので「緊急搬入口」で母の到着を待ちます。
間もなくして到着した救急車から担架で運び出される祖母の姿を確認した後、緊急処置室へ。
「おふくろ」
傾眠か昏睡か、その状態は分かりませんでしたが、目をつぶっている母の耳元で声をかけてみました。母は半開きの眼差しで声の主である私を見たものの、それもほんの一瞬で再び眠りに落ちていきます。
「おばあちゃん」
その時、タケチヨが呼びかけました。するとなんとしたことか。母の目がパッと開き、しかも全開で乙女のような輝きを放っています。
「としくん!」
息苦しそうではありましたが、母の口から声まで出ました
「よく来てくれたねえ」
相好を崩すとはまさにこのこと。心の底からの喜びが顔全体に現れています。
「おばあちゃんの手を握ってあげてもいいよ」
と声をかけると、タケチヨは手を伸ばして母の手をしっかり握ってやります。すると驚いたことに、酸素飽和値が100にまで上がりました。それを見た妻もふたりの看護師も仰天。看護師の一人が思わず〝すっごーい。クスリだね〟と声を上げました。
それから約30分。病室に運び込まれるまでタケチヨはずっと母の手を握り続け、酸素飽和値も100のままでした。その姿に看護師さんも感心しきり。
その間に私は医師と面会をしていました。
「入院していただくつもりでしたが、数値も悪くないので施設に帰って頂く選択肢もあります」と医師は言いましたが、〝タケチヨの奇跡〟は長く続くものではないとの変な確信があった私は、入院による経過観察をお願いしました。
案の定、入院した母はその後酸素飽和値が下がり、発熱。酸素治療を受けるようになりました。肺炎か尿路感染症の可能性もあるので今も病床にあります。昨日電話で主治医から受けた報告では、最悪のケースもあり得るとのことでした。
「限界かな」と思う一方で、敗戦後、極寒の北朝鮮を乳飲み子を抱えてソ連兵から10か月間逃げまわり、10か月後に帰国した〝鉄の女〟ですから再び奇跡を起こして100歳に到達して欲しいとの望みも捨てきれません。
妻の誕生日の話を付け加えておきます。病院を出たのが午後7時半を過ぎてしまい、蒲郡のホテルでのお祝いはドタキャン。次回に持ち越しになりました。幸いなことに代わりに行った近くのイタリア料理店が料理ももてなしも良かったので妻はとても喜んでくれました。
それともう一つ付け加えさせていただきます。
このトヨタ記念病院は、タケチヨが生まれた病院です。しかも、その住所が「平和町一丁目一番地」なのです!
戦争と平和をテーマに人生を生きる私たち夫婦にとって、愛息がこの地で生まれたことは、送り主は分かりませんが授かりものと思っています。
中日新聞の取材を受けました
中日新聞からも、クラウドファンディングに関する取材を受けました。
岡崎とはほぼ無縁でここに赴任した記者に家康公のイメージを聞くと、やはりいい面よりも悪い印象が強く、妻と私の話を聞いて、これまで持っていたものとはあまりに違うと驚いていました。
家康と聞くと出てくる「好戦的な武将」「ずる賢い人間」「妻子や異教徒を殺す残忍な男」「国を閉じる閉鎖的な指導者」といった一般的な印象は、明治以降の家康公及び徳川幕府へのネガティブ・キャンペーンと、学校現場における明治偏重教育によって作られたものですが、相当根深く浸透していますね。根本から見直してもらうためには粘り強く年月をかけてやっていく必要があると感じました。