新着情報
「千葉水害」に見る熊谷俊人の凄さ
8月13日から14日にかけて千葉県を中心に起きた集中豪雨による大きな被害が出ています。
そのニュースを追いながら、私は一人の政治家の仕事ぶりに改めて感心しています。
千葉県知事の熊谷俊人さんです。
私はFacebook以外のSNSについては確認していませんが、熊谷さんはFacebookで、日頃からかなりの頻度で県政について報告しています。
そして今回の災害が発生してからは、ほぼ毎日です。それも早朝です。
「おはようございます」
そんな言葉で始まる報告が、朝早くから掲載されるのです。
先週の金曜日、私が午前6時50分にFacebookを開くと、熊谷さんの投稿には「30分前」と表示されていました。
つまり、午前6時20分ごろには、すでにその日の報告を出していたことになります。それは、金曜日だけではありません。
知事は災害対応の真っ最中です。
被災地に出向き、市町村長や消防、行政関係者と話し、状況を把握し、次々と判断を下さなければならない。
ただでさえ県知事という仕事は激務です。その中で、朝早くから県民に向けて、自分の言葉で状況と対策を伝え続けている。
私は、この姿勢はもっと高く評価されていいと思っています。
そして、そんな熊谷さんのFacebookを読みながら、昔のことを思い出しました。
彼との初対面の印象は、ズバリ、
「政治家には向いていないのではないか」
私が熊谷俊人さんに初めて会ったのは、彼がまだ千葉市議会議員だった頃でした。
そう思ったくらいですから、正直に言えば、彼から強い印象は受けていません。
その後、2009年6月、熊谷さんは31歳で千葉市長に当選します。当時、政令指定都市の市長として全国最年少でした。
その直後、彼の選挙参謀を務めていたひとりから、
「熊谷市長のブレインの一人になってほしい」
と声をかけられました。
そして、支援者の一人の自宅に、十数人ほどが集まったと記憶しています。
そこには、さまざまな分野の専門家がいました。妻も私と同じように参加を求められていました。
そこで私は、熊谷さんにいくつか質問をし、提言もしました。
ところが、反応が鈍い。
私たちの話を否定するわけでもない。横柄でもない。むしろ誠実そうな若者でした。
しかし、こちらが投げかけたものに食いついてくるような反応がない。
会を終え、妻と話しました。
「彼は私たちを必要としていないね」
二人とも、ほぼ同じ印象でした。
結局、私たち夫婦は「ブレイン」の一人として名を連ねることはしませんでした。
それどころか当時の私は、熊谷俊人という若者に、政治家としてそれほど魅力を感じていませんでした。
人を惹きつける華があるわけでもない。強烈な個性があるわけでもない。
「政治家には、あまり向いていないのではないか」
そんな印象さえ持っていました。
「こんな市長のもとで働いてみたい」
ところが、それからしばらくすると、熊谷さんについての評判が私の耳にも入ってくるようになりました。
それも、聞こえてくるのは賞賛する声ばかりでした。
その中に、私の熊谷俊人を見る目を変える一言がありました。
永堀満さんから聞いた言葉です。
少し説明しておきます。
私は1995年に「アクトナウ救助隊」という民間救助隊を結成し、浦和(現さいたま)市消防本部で、3年間にわたって本格的な救命・救助訓練を受けました。
永堀さんは、そこで私たちを鍛えてくれた隊長です。
後に消防大学校の講師を務め、「全国レベル」の救助のプロでした。
私にとっては、いわば「救助の師匠」です。
その永堀さんが、千葉市で開かれた全国救助訓練大会に出席し、熊谷市長の挨拶を聞き、その場での言動にも接した後、私にこう言ったのです。
「千葉の市長は凄いですよ!こんな市長のもとで働いてみたい」
驚きました。
永堀さんがお世辞でそんなことを言う人ではないことを、私はよく知っていました。
長年、人命救助の現場で人を率いてきた人物が、一人の若い市長を見て、
「この人のもとで働いてみたい」
と言う。
私には、とても重い言葉でした。
ひょっとすると、私は熊谷俊人という人物を見誤ったのではないか。
そう思い始めました。
その後の熊谷さんは、千葉市長として着実に実績を積み重ねていきます。
市長を3期務める間に、その評価と人気は確かなものになっていきました。
そして2021年、千葉県知事選に挑戦し、当選します。
最初の知事選では、自民党県連は別の候補を推しました。
ところが、4年間の熊谷県政を経て迎えた2025年の2回目の知事選では、状況が変わりました。
かつて熊谷さんと戦った自民党県連も独自候補を立てず、今度は熊谷さんを支持する側に回ったのです。
政治の世界ですから、昨日の敵が今日の味方になること自体は珍しくありません。
それでも、熊谷さんが市長、そして知事として仕事を積み重ねる中で、かつて自分と対立した勢力からも支持を得る政治家になったことは間違いありません。
私は、熊谷俊人という政治家の面白さは、ここにあるような気がします。
初対面で人を圧倒するタイプではない。
強烈なカリスマ性で人を従わせる政治家でもない。
むしろ、仕事をすればするほど評価が上がっていく政治家なのです。
「朝6時20分の県政報告」
そして今、私は再び熊谷さんの仕事ぶりに注目しています。
今回の集中豪雨への対応です。
被災地を訪れ、市町村長や関係者と状況を確認する。
対策を進める。
そして翌朝になると、
「おはようございます」
と、県民への報告が始まります。
午前6時台です。
政治家のSNSには、「どこへ行った」「誰と会った」「こんな活動をした」という自己PR的なものも少なくありません。
もちろん、それも有権者への報告でしょう。
しかし、災害時に行政トップが果たす「伝える」という仕事は、それとは違います。
いま何が起きているのか。
行政は何を把握しているのか。
何をすでに行ったのか。
何がまだできていないのか。
そして、これから何をするのか。
それを責任ある立場の人間が、自分の言葉で住民に伝え続ける。
これもまた、危機管理です。
災害対応で激務を続けながら、朝早くからそれを続ける。
一度や二度ならできるでしょう。
しかし、それを毎日のように続けるのは容易なことではありません。
私は、この熊谷俊人さんの姿勢は、もっと高く評価されるべきだと思います。
そして、17年ほど前のことを思い出します。
誠実そうではある。
しかし、政治家としては魅力に乏しい。
私は、あの若者をそう見ていました。
どうやら私は、熊谷俊人という政治家を見誤っていたようです。
ただ、それを恥ずかしいとは思いません。
むしろ、人間はこれほど成長できるものなのか、と感心しています。
そして同時に、政治家を評価する時に本当に見るべきものは、華やかな演説でも、強烈な個性でもないのだと、熊谷俊人さんから改めて教えられているような気がします。
何を考え、何を実行し、それを住民にどう伝えるのか。
そして、それを黙々と続けられるのか。
政治家の本当の力とは、案外、そういうところに現れるのかもしれません。
『はだしのゲン』にハマっているうちの9歳児
うちの9歳児は去年から漫画『はだしのゲン』にハマっています。グローバルスタディーズカフェに置いてあった全10巻の1冊目に手を伸ばしてからずっと読み続けています。それも、彼の読書の特徴ですが何回も同じものを読み返します。先週末の東京への旅にも既に何回か読んだ何冊かを持って行きました。
その姿を見ると、多くの方はさもありなんという反応をされます。我々夫婦のどちらかが薦めたと勘違いされるのです。でも、どちらもそういうことはしません。カフェの本棚にあった10冊を手に取るようになり、自分から読むようになったのです。
僕はあまり漫画に接してこなかったので、この大作も読んでいません。話題になった本ですからどのような本かは分かっていましたが内容は知りませんでした。例のごとく、この本を読みながら彼の質問攻めが始まった時は、そんなわけで戸惑いました。
「山口組って岡崎にもあるの?」
「若頭は親分とどんな関係?」
と、質問がヤクザ関係に限定されていたからです。そこから彼の興味が被ばくのもたらした惨状ではなく、「ヤクザ」にあることが見えてきました。
面白い視点だなと彼の質問に答えることに徹しました。半年読み続けるとヤクザに飽きたのか、今度は警察組織に関心が移りました。それは今も続いており先の東京行きでは、警察博物館に行ってきました。
数ヶ月前のこと。僕がテレビで原爆投下やその後の惨劇を取り上げた番組を観ていると、隣に座りいろいろ質問してきました。すると、質問の中に原爆投下のことが含まれるようになりました。それを見ていたのか、妻の直子が「そろそろ広島に連れて行かない?」と提案しました。
頃や良しとはこの事。お盆休みには広島方面に出かけることにしました。先週、防災工学者の室崎益輝さんが先週Facebookで原爆死没者追悼平和祈念館を紹介されていました。室崎さんが紹介されている追悼平和祈念館に行くのは当然です。
だからといって僕の考え方を彼に押し付けるつもりはありません。もちろん連発してくるであろう質問の中に僕の意見を求めるものがあれば答えるつもりですが、基本的には旅で目にするものをどう受け止めるかは彼の自由です。彼が漫画の舞台である町を本を携えて訪れ、祈念館などを見て歩く内にどう見方や考え方が変化していくかを楽しもうと思っています。
もちろん我々は被災地であった所にお邪魔させていただく立場です。無礼な振る舞いや相手を傷つけかねない発言を慎むように事前に話し合うつもりです。
追悼・雨宮剛教授
7月8日(土)、雨宮剛先生の追悼交流会が都内で開かれました。
妻・直子の恩師、雨宮剛。
本当に、この方の存在無くしては、現在の「神直子」はありません。
先の大戦で日本は一気に米軍のいるフィリピンを占領したものの、その後態勢を立て直して攻勢に転じた米軍の前に惨敗。日に日に支配地域を失っていきました。米軍との間で激戦を繰り返すうちに、日本は補給路を絶たれ、窮地に陥った日本兵はありとあらゆる残虐行為を行いました。そして、各地に地獄絵をもたらしたのです。
当然のことながら、戦後のフィリピンの人たちの反日感情は凄まじいものでした。
しかしながら、日本が戦後の奇跡の回復を遂げて経済大国の道を歩むようになると、両国関係に大きな変化が生じます。当時の独裁政権が「反日」から「親日」に舵を切ったのです。つまり、進出してくる日本企業や大金を持ち込んでくる日本人観光客に両手を広げて歓迎するよう国民に命じました。
人々は「生きるため」に複雑な感情を抑えて〝ジャパンマネー〟に群がるようになり、
調子に乗った日本のバカな男たちは大挙して札束を腹巻きに入れて、〝カネはあんぞ買春ツアー〟に出かけていたものです。これは決して大袈裟ではなく、当時の新聞を見ていただければ分かりますが、社会現象にまでなりました。
当然のことながら、それを良しとしない人たちもたくさんいて、中には日本人観光客や進出企業をターゲットに実力行動に出るグループも出て来ました。
半世紀も前の話ですが、ミンダナオ島のサンボアンガでモロ民族解放戦線によって日本人の新婚旅行中の夫婦が拉致されました(当時AP通信記者だった僕は現地取材しています)。約10年後の1986年には三井物産の社員が誘拐されています。
一方で、そのような歪んだ両国関係を是正しようと動く人たちもいました。
その中の一人が雨宮教授でした。学生たちを現地に送り込み、地元民との交流を図らせたのです。前述の三井物産社員の拉致事件の2年後にスタディツアーを始めたと聞き、雨宮教授に生前、
「学生たちが反政府勢力に拉致される危険性は当然お考えになられましたよね? 対策はどんなことを講じられ、万が一の際はどうされるおつもりだったのですか?」
と尋ねたことがあります。
雨宮さんは、
「現地の教会関係などの有力者を通していろいろな手は打っていましたよ。でも、何が起きるか分かりません。ですから、学生たちが拉致されたら、彼らの身代わりになる用意をしていました。また、いつでも大学に出せるように辞表を持ち歩いていましたね」
とお答えになられました。
そんな覚悟があったからこそ学生たちに強い影響を与えることができたのだ、とその時僕は納得したことが今も思い起こされます。雨宮さんの蒔いた種は教え子たちによって様々な形で開花され、日比関係の懸け橋構築に寄与していることは間違いありません。




