第50回 「パレスチナと私②」
(前回のつづき)
1972年5月8日。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。
パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。
スワいち大事、と私はキブツの自室に戻りカメラを手にすると、事務所の電話を借りて毎日新聞の欧州総局(在ロンドン)に電話を入れました。その頃の国際電話はオペレイターに申し込んでから30分程回線がつながるのを待たねばなりませんでした。その頃総局の助手として雇われていた私は、ボスである小西特派員に電話で指示を仰いだのです。前年の昭和天皇訪英時に世界的スクープとなった写真を撮っていただけに、小西さんも「浅井君だったら何か世界をあっと言わすような写真が撮れるかもしれないね」「いい写真が撮れたらUPI通信(当時は世界的通信社)に持ち込んで」と言っていただきました。
親しくしていたキブツのメンバーに頼んで近くの町ネタニアまで送ってもらい、レンタカーで空港に急行しました。初めてのハイジャック取材です。正直に言って何をどうしたら良いのかは分かりません。行き当たりばったりの「出たとこ勝負」でした。
そこで一案。空港ビルには報道陣が詰めかけているはず。私のような素人同然のカメラマンが同じ場所にいたのではスクープ写真は撮れないでしょう。「どこかいい場所はないか」と思いながら空港周辺を車で回りました。空港の敷地沿いの道路を車で走っていると、滑走路が見えて、機体にSABENAの文字が書かれた飛行機が確認できます。
そこで私は、無謀ですね、バカですね。車を降りて草原を歩き滑走路に向かって歩き出したのです。信じられないことに、当時は空港の周りには鉄条網や遮蔽物がなく、兵士の姿はあるもののどんどん滑走路に近付いていけます。
でも、甘くはありませんでした。近寄ってきた兵士たちににこやかな表情ながら厳しい口調で「逮捕されたいのですか?」と言われてしまいました。
引き下がるしかありません。車に戻り、空港ビルに急ぎました。それから数時間。何ら動きはなく、緊張が薄れて報道陣の中には居眠りする者もいました。
その時です。
私には聞こえませんでしたが、一部の記者には銃声が聞こえたようで、報道陣の集団が急に崩れて屋外に走り出しました。私は訳も分からず彼らの後を追いました。ただ、建物の出入り口で警備の兵士が大声で「記者証を見せるように!」と叫んでいます。
その頃の私はまだ記者の真似事をしているようなもの。毎日から記者証をもらえる立場にはなく、一瞬、ん?と思いましたが、結構若い頃から機転が利いた(ずる賢かったとも言います)私は、日本の運転免許証を振りかざして皆の後を追いました。当時の免許証は二つ折りで外側は黒(又は濃紺?)でしたから何となく記者証らしく見えたのです。
滑走路に出ると、私たちは遠くに駐機しているSABENA機目がけて走り出しました。でも、ここでも甘くはありませんでした。武装兵たちが私たちの前に立ちはだかって阻止したのです。そしてビルに押し戻されました。後になって分かったことですが、国際赤十字の制服を着たイスラエルの特殊部隊が飲食を届けるふりをしてハイジャックされた飛行機に突入。ハイジャッカーのひとりを殺害、他は取り押さえたのでした。取り押さえられたハイジャッカーは自爆装置を持っていたものの逡巡したのか、幸いにして何らかの理由で爆発せず、大事には至りませんでした。
帰途、車を運転しながら、その時になって初めて胸の高鳴りをおぼえました。それと同時に、「命を賭してまであのようなことをせざるを得ない」ゲリラたちへの同情心も禁じえませんでした。
キブツを離れてエルサレムの東部(アラブ地区)に入った私は、宿で旅装を解くと直ぐに旧市街に足を運びました。人通りがあまりない所を歩く内に道に迷いウロウロしていると、ふたりの少年から声をかけられました。
「You play Judo? Karate?」
ひとりが聞いてきます。近付いて行き、相手の顔面にハイキックを寸止めして、ひるんだところを首根っこに手をかけました。
怯える少年に笑顔で「大丈夫、傷つけないから。冗談だよ。何か僕に用かい?」と声をかけると、「こっちに来て!」と私の手を引っ張ります。そのまま洞窟のような回廊を連れて行かれました。
5,6分足早に歩いたでしょうか。奥の方から何か大勢の掛け声が聞こえてきます。すると、目の前に柔道場が現れました。柔道場と言っても畳ではなく古いマットレスのようなものが敷き詰めてあるだけです。着ている練習義も柔道着ではなく厚手のシャツのようなものでした。奥の方からがっしりした体躯の男が笑顔で迎えてくれました。雰囲気で道場主だと分かります。ハッサン・モグラビと男は名乗り、自分は本と8ミリ(無声映像)で柔道を学んだからしっかりしたものではない。本場の柔道を教えてくれないか、と言います。
私は高校時代に柔道部に所属したもののいい加減に練習していただけでしたし、東京の講道館やロンドンの道場で稽古はしていましたが、教えるほどのものではありません。そう断った上で青少年の稽古相手になりました。
そして数日後にはハッサンと兄弟のように仲良しになり、あちこちに連れて行ってもらい、いろいろな人に紹介されてパレスチナ社会に誘(いざな)ってもらいました。その後もエルサレムを訪問すると必ず彼の下を訪ね、兄弟のように仲良くなりました。
西岸地区からガザに行くにはイスラエルを通って行く必要があります。乗り合いタクシーでガザ北部の検問所に着くと、そこには長い車列ができていました。
5月でもガザは30度をこえる真夏です。乗ったタクシーは古くエアコンはききません。車内にいても〝地獄〟、車の外にいても強い陽ざしでこれまた地獄。
そんな中でも、パレスチナ人はただひたすら辛抱強く待ちます。バスに乗る人たちも同じで疲れ切った表情で前に進むのを待っています。検問所に足を運んでみると、イスラエル兵は余裕の表情で仲間同士で談笑しながらパレスチナ人たちの身元確認や荷物検査をしていました。
血の気が多く怖いもの知らずだった私は、イスラエル兵たちに「なんでもっと真剣に迅速にやってあげないのか」と詰め寄りました。そんな私に、数名の兵士が一様に「目を一瞬閉じて歯を鳴らしながら顔を上げて手でコチラを払う仕草」で応じ、リーダー格が「車に戻って待ってろ」と言いました。ここでひと悶着を起こしても通関作業が遅れるだけかもしれないと引き下がりましたが、パレスチナの人たちの気持ちが少し分かったような気がしました。
そうして入ったガザは、イスラエルとはまさに別世界。
通行・運搬手段の多くがロバ頼り。道路のほとんどは未舗装でした。下水設備もまともなものはなく、住宅やテントからの排水が通りにまであふれています。衛生環境は劣悪でした。高い建物はほとんどなくて、粗末な掘っ立て小屋が立ち並んでいました。
その頃先進国ではミニスカートが大流行。その一方で正装をする若者も多くいました。生活レベルやファッションもイスラエルは先進諸国並み。テルアビブやエルサレムのような都市はヨーロッパの主要都市と見紛う空気が流れています。それに比べて、ガザの人たちは日本の終戦直後を思わせる粗末な服装。そのギャップの大きさに驚かされます。
ガザに入っても私は臆することなく、難民キャンプや気になった施設に入って行きました。日本人に初めて会ったという人がほとんどで、多くがヒロシマやナガサキを例に挙げて、戦後復興を絶賛してくれました。失業率が高くて「日本で働き口はないか?」と聞いてくる人もいます。同じパレスチナ人でもガザはエジプトの影響が色濃く、話すアラビア語は大きく違い(と言っても、私のアラビア語は赤ちゃんレヴェル)、性格もライフスタイルも驚くほどの違いが感じられました。
2泊か3泊しかしませんでしたが、古くて使わなくなった漁船が地元民に提供された宿。次々に差し入れをもって入れかわり立かわり訪問してくる地元民と談笑。楽しく、そして勉強になったガザの滞在でした。
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