私の人生劇場

青年期

第49回 「パレスチナと私①」

 私がパレスチナに興味を持ったのは1970年9月のことでした。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が4機の航空機を同時多発的にハイジャック。その内の3機をヨルダンの軍事空港に着陸させて世界を震撼させた事件を起こした時です。

 英国留学中であった私は、アルバイト先のTVに映し出された光景に衝撃を受けてそれから猛勉強をしました。そこから見えてきたのは、住んでいた土地をイスラエル軍に奪われ、近隣アラブ諸国に助けを求めて避難したものの長年難民キャンプのテントや小屋で不遇をかこっていたパレスチナ人の悲惨な姿でした。

 

 約半年の猛勉強の自分への褒美に、1971年7月、私は初めて中東の地に足を踏みました。訪れたのは触れた内戦が起きたヨルダンです。

 同時多発ハイジャック事件に端を発してアラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)とヨルダン正規軍の間で武力衝突が起き、結果的にPLOの主力勢力はヨルダン国外に追い出されていました。

 ヨルダンの首都アンマンには、戦闘こそ収まっていましたが、あちこちに戦争の傷跡が残されています。パレスチナゲリラに会ってみたいと歩き回っている内に、マルカ難民キャンプに行き着きました。一週間近くある家に泊めていただくことが出来ました。家と言っても、テントではなかったですがどこかから集めてきた古材とコンクリートブロックで造られた粗末な建物です。ひと部屋しかなく、それをカーテンで男女別に間仕切り、8人が住んでいました。

 初めて見る「ヤバニ(日本人)」は、人好きのパレスチナ社会で大人気。入れ替わり立ち代り老若男女が遊びに来ます。子どもたちにも大人気で、彼らが見つけたお気に入りの遊びは、私にアラビア語を教えること。アラビア語は日本語や英語にない喉の奥を鳴らせる発音をします。僕は僕で、子どもたちにウケる間違いを直ぐに〝マスター〟したので、それをすると彼らは笑い転げるのです。

 内戦を戦ったゲリラから直接話が聞けるのは刺激的でした。隠し持った武器を見せられた時は、それまでは画像や映像でしか見たことのなかったパレスチナゲリラを間近に見るだけに心拍数が上がりました。

 でも、それよりも私の心に強く響いたのは、「これがパレスチナにある私の家の鍵だよ。私たちはいつ戻れるか分からないし、もう20年以上経っているから家はないかもしれないけれど、この鍵を手放すことはない」という難民たちの悔しい言葉と表情でした。中には、「ヨルダン河の小高い丘から故郷の灯りを時折り見に行くんだ」とため息交じりに言う人もいました。実際にその場に連れて行ってもらうと、その男性の姿に心がしめ付けられました。

 それまではユダヤ人が受けてきた迫害の歴史が私の心を支配していましたが、その老人たちの姿が大きな転換点になりました。「こんな理不尽なことが許されていいものか」という強い憤りが心の底から湧き上がりました。

 

 2回目の中東訪問は、翌1972年4月でした。

 イスラエル社会を見るには、キブツの体験が必要とテルアビブの北に位置するキブツ・ガーシュに約ひと月半滞在しました。キブツはイスラエル全土に幾つもありました。この地に移住してきたユダヤ人は所有財産を全て投げ出してメンバーになり、そこで一生過ごすのです。形態としては農業共同体で、イスラエル建国に大きな貢献を果たし、キブツ出身者は特に軍部や政界においては大きな影響力を持っていました。

 キブツは外国からの若者をヴォランティアとして受け入れていました。ガーシュでもヨーロッパやアメリカ大陸から30人近い若者が粗末な小屋に住み、毎日、オレンジやアヴォカドの収穫に勤しんでいました。アジアからは私だけでした。ヴォランティアとイスラエル人メンバーとの交流はほとんどなかったので自分から積極的にメンバーの家を訪れて交流を深めました。

 そうして垣間見たキブツ社会は、意外なことに差別がはびこっていました。近くに住んで通ってくるパレスチナ人労働者に対するものだけでなく、同じキブツのメンバーに対しても冷たい目が向けられていたのです。

 「同じイスラエル人なのになぜ?」と差別を受けるメンバーのひとり(インド生まれ)にたずねると、「それはセファルディ(アジアやアフリカ、中東生まれの非白人系ユダヤ人)だからなんだ。その事はあまり触れない方が賢明だよ」と言われ、驚きました。

 そう。当時は同じユダヤ人でもアシュケナジ(白人系ユダヤ人)が優位に立ち、非白人系は差別の対象だったのです。結婚もセファルディがアシュケナジと一緒になるのは難しい状況でした。彼もアシュケナジの彼女(メンバーの娘)と結婚するのはとても大変だったし、結婚後も疎外感に苛まれていると私に訴えました。

 大半のメンバーは我々ヴォランティアに好意的でしたが、敬虔なユダヤ教徒のグループは最後まで私を受け入れようとはしませんでした。
 私の動きはキブツの幹部に目をつけられ、やがてやんわりとキブツからの退去を“勧め”られました。そんな「退去勧告」に抗う意味もなかったし、その頃、パレスチナ抵抗運動に活発化する動きが見られたこともあり、5月にキブツを出ることにしました。

 

 キブツを去ることにしてその日はオフ。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。

 パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。 (つづく)

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