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1968年1月16日の夜。

私は東京駅から西へ向かう夜汽車に乗っていました。

目的地は長崎県佐世保。数日後、米海軍の原子力空母「エンタープライズ」が入港する予定で、寄港に反対する学生や労働者、市民が全国から集まると予想されていました。

金欠のハタチの若者だった私は、急行料金を惜しみ、普通列車だけを乗り継ぐことにしました。記憶では、佐世保まで二日間近く、50時間ほどかかったように思います。

夜汽車の車輪が、規則正しくレールを叩いていました。窓ガラスは冷たく、暗い車窓には、街の灯りが流れては消えていきます。

車内には煙草の煙が充満し、弁当の残り香、男性客の強烈なポマードの匂いなどが絡み合った独特の空気がこもっていました。

その揺れの中で、私は半月ほど前の出来事を思い返していました。

1967年の暮れ、東京から岡崎の実家まで、一人で歩いて帰った時のことです。

真冬の約320キロを、しかも激しく車が行き交う国道1号線をひとりで歩いた?と思われるかもしれませんが、若者特有の夢と悩みが入り混じり、自分でも収拾がつかなくなっていた私は、これからどう生きるのかを考え、頭の中を整理する時間を必要としていたのです。

ところが、実家で待っていたのは、母の過干渉と、私の将来をめぐる母や兄との激論でした。

二人が怒るのには理由がありました。

私は浪人までして入った大学を早々に辞め、さらに、高い授業料を払ってもらって通っていた大宅壮一東京マスコミ塾も退塾していたのです。

「いったい、お前は何をするつもりなんだ」

二人は口をそろえて私を詰(なじ)りました。

大学とマスコミ塾を辞める代わりに、働きながら貯金してアメリカ留学を準備しているのだと説明しても、温かい言葉は返ってきませんでした。

そんなやり取りを思い返しながら、私は暗い車窓を眺めていたのです。

前日の1月15日は成人の日でした。当時、成人の日は1月15日に固定され、各地で成人式が行われていました。前年9月に20歳になった私も対象でしたが、式に出るつもりはありませんでした。

〝新人類〟と大人たちから揶揄されていた私たちは、何かにつけて「大人」に反発していました。少なくとも私の周囲では、成人式に出る若者は多くなかったように記憶しています。

私が佐世保へ向かったのは、反戦運動に参加するためではありません。

エンタープライズの寄港、それを阻止しようとする若者たち、そして彼らを封じ込めようとする警察。その対峙を、私はある種の「戦争」として捉えていました。

そこで何が起きるのか、自分の目で確かめたかったのです。

当時の私には、できるだけ多くの社会問題を直接見ておきたいという強い思いがありました。後にジャーナリストになったからではなく、その仕事に就く前から、そうした衝動を抱いていたのです。

佐世保までの直通列車はありません。普通列車を乗り継ぎ、ようやく九州・博多駅に着きました。

そこで、私より先に「全学連列車」と呼ばれた列車で大勢の学生が到着し、駅で警察と激しく衝突したと聞きました。

全国から若者たちが佐世保を目指して九州に入っていたのです。私も博多で列車を乗り換え、さらに西へ向かいました。

◆ 山の上から見たエンタープライズ

佐世保に着いたのは19日の朝でした。

私は、どうやって行ったかの記憶はありませんが、港を見渡せる山の上へ向かい、そこから巨大な原子力空母「エンタープライズ」を見ました。

灰色の巨大な戦艦の甲板の上には小さく見える艦載機が並び、遠くからでも、その存在が港全体を押さえつけているように感じられました。

米国とヴェトナムが激しく戦っていた時代です。この空母から飛び立った戦闘機や戦闘爆撃機が、民衆の頭上に爆弾を落としている――。そう思うと悲しくなり、同時に怒りがこみ上げました。

エンタープライズには通常兵器だけでなく、核兵器も搭載されているのではないかと言われていました。

日本には「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則があります。だから、時の佐藤栄作政権は、日本の基本方針である非核三原則は守られている、と繰り返していました。

一方、米国は艦船への核兵器搭載の有無を明らかにしない政策をとっていました。

エンタープライズにも核兵器が積まれているのではないか――。そんな疑念が広がっていたのです。

後になって、冷戦下の米海軍の主力空母には、艦載機から投下する核爆弾などが通常配備され、エンタープライズも例外ではなかったことが明らかになっています。

寄港に反発したのは学生だけではありません。佐世保の人々の感情も強く刺激されていました。

港や米軍基地周辺でデモ隊と機動隊の衝突が激しくなるにつれ、多くの地元住民が現場を見に来るようになりました。

◆ 学生と機動隊――その間にいた市民

いわゆる「過激派」と呼ばれた全学連の学生たちは、機動隊と激しくぶつかりました。

角材が空気を切り裂き、投石が機動隊を襲います。
路面や機動隊員の盾に当たって乾いた音を立てました。学生たちの怒号と、機動隊員の掛け声が重なり、何がどこから聞こえてくるのか分からないほどでした。

盾を構えた警官たちが、金属の擦れる音を響かせながら一歩ずつ押し返してきます。ヘルメットの列が近づくたび、目の前の空気が狭くなるように感じました。

その間を、若者たちが走って逃げていきます。靴音が路面を激しく叩き、転んだ者を別の学生が引き起こします。その中には女性もいました。

やがて、白い煙が路上を這うように広がりました。

催涙弾です。

鼻の奥を刺す刺激臭が一気に押し寄せ、喉が焼けるように痛みました。目を開けていられず、涙で視界がにじみます。人の顔も、盾も、角材も、白い煙の向こうで輪郭を失っていきました。

周囲には、大勢の佐世保市民が集まっていました。咳き込みながら後ずさる人、手やハンカチで口元を覆う人、それでもその場を離れず、衝突の行方を見つめる人。誰もが息苦しさに耐えながら、目の前で起きていることを見届けようとしていました。

私が強く感じたのは、機動隊員もまた若かったということです。当時の警察官には高校卒業後に入った者も多く、対峙する大学生とは同じ世代でした。

その中には、

「お前ら、大学に行かせてもらっているくせに、甘えてるんじゃない!勉強だけしてろ!」

と学生に感情をぶつける者もいました。

怒鳴り声は、催涙ガスの刺激臭と、汗や土ぼこりの匂いが混じった現場の空気を震わせました。

そこには、単なる「警察対デモ隊」では捉えきれない、同じ時代に生まれながら異なる境遇に置かれた若者同士の衝突がありました。

警察側の行動も、私には「規制」の範囲を超えているように見えました。逃げる学生を追い、警棒を振るう。倒れた者にも容赦しない。

倒れた学生の周囲に人が集まり、誰かが「やめろ、やめなさい」と叫びます。しかし、その声は別の怒号や靴音にかき消されました。

その光景を見た住民たちの空気は、次第に変わっていきました。

学生のやり方や実力行使に賛同しているわけではない。それでも、「警察はやり過ぎではないか」という怒りが広がったのです。

機動隊に追われた学生が人垣に逃げ込むと、市民(多くは中高年)がスクラムを組んでかばうこともありました。

人垣の中から、「この子を殴るな」「もうやめろ」という声が上がります。市民の肩や背中が押し合い、警察の盾がその輪に食い込んでくる。誰かの腕が伸び、逃げ込んだ学生をさらに奥へ押しやりました。

佐世保で起きていたのは、単純な「過激派学生と警察の衝突」ではなかったのです。

◆ 催涙弾で目を真っ赤にした市民たち

機動隊が放つ催涙弾は、学生だけを選びません。現場を見守る市民も巻き込まれます。

白い煙が足元から広がり、風向きが変わるたびに人の群れへ押し寄せました。目に入った瞬間、熱い砂を擦り込まれたような痛みが走ります。鼻水と涙が止まらず、息を吸うたびに喉の奥がひりつきました。

私は目を真っ赤にして咳き込みました。周囲にも、涙を流しながら激しく咳をする人が大勢いました。

誰かが水を求め、別の誰かがハンカチを差し出します。けれども、布を口に当てても刺激臭は消えません。視界はぼやけ、目の前の人の顔さえ判別しにくくなりました。

「やめろ!」

「規制を緩めろ!」

怒号が飛び、私も声を上げました。

声を張り上げても、催涙弾の破裂音や警官の怒鳴り声、逃げる人々の足音にかき消されます。それでも、黙っていることはできませんでした。

1月21日、佐世保橋では再び激しい衝突が起きました。一部の学生が佐世保川を渡り、米軍基地への侵入を試みるほど、事態は先鋭化していました。

橋の上には人が密集し、逃げ場がありませんでした。欄干の向こうには川面が見えます。前方からは機動隊が迫り学生たちと押し合っている。足元には投げ捨てられた旗や紙片が散らばり、踏みつけられるたびに乾いた音を立てました。

私は全学連の仲間ではありませんでした。それでも、目の前の警察の行動には黙っていられず、多くの市民と共に割って入り、機動隊員に声を上げました。

機動隊員の盾が目の前まで迫って来ました。警棒を握る手が見え、ヘルメットの下から荒い息づかいが聞こえます。こちらも声を張り上げ、押し返されまいと足を踏ん張りました。

その時、新聞やテレビのカメラを意識することはありませんでした。目の前で展開される〝戦争〟に心を奪われていたのです。

◆ 市民が「第三の主役」

翌1月22日の主要各紙は、前日の佐世保橋周辺の状況を大きく報じました。

朝日新聞の社会面には、記事と共に一枚の写真が掲載されました。見出しは、

「市民が『第三の主役』」

写真の左下には、機動隊員に鋭い視線を向け、声を上げる20歳の私が写っていました。

朝日新聞の表現は、私が佐世保で感じたことそのものでした。

あの街で向き合っていたのは、学生と機動隊だけではない。そこには市民がいたのです。

その新聞を岡崎の母も見ました。

後日、帰京した私に電話がかかってきました。

「言ってたことと違うじゃないの!」

母は激怒していました。

無理もありません。私は大学と大宅壮一東京マスコミ塾を辞め、その代わりにアメリカ留学を準備していると説明していたのです。

ところが新聞には、佐世保橋の上で機動隊に食ってかかる息子の姿が載っている。

母や兄には、私が将来と向き合うことから逃げ、「反戦運動に逃げ込んでいる」ように映ったのでしょう。

しかし、私の中では矛盾していませんでした。アメリカの大学でジャーナリズムを学ぶことも、佐世保へ向かったことも、同じ線の上にありました。

できるだけ多くの社会問題を、直接、自分の目で見ておきたい。

それだけだったのです。

◆ 私にとっての「成人式」

現地へ行く。自分の目で確かめる。人から聞いた話だけで判断せず、そこで何が起きているのかを自分で考える。

私はまだジャーナリストではありませんでした。

けれども振り返れば、その後何十年にもわたって続けることになる生き方は、すでにこの20歳の冬に芽を出していたのかもしれません。

成人式には出ませんでした。

その翌日、私は夜汽車に乗って佐世保へ向かいました。

いま思えば、あの旅こそが、私にとって本当の「成人式」だったのかもしれません。

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