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追悼・雨宮剛教授
7月8日(土)、雨宮剛先生の追悼交流会が都内で開かれました。
妻・直子の恩師、雨宮剛。
本当に、この方の存在無くしては、現在の「神直子」はありません。
先の大戦で日本は一気に米軍のいるフィリピンを占領したものの、その後態勢を立て直して攻勢に転じた米軍の前に惨敗。日に日に支配地域を失っていきました。米軍との間で激戦を繰り返すうちに、日本は補給路を絶たれ、窮地に陥った日本兵はありとあらゆる残虐行為を行いました。そして、各地に地獄絵をもたらしたのです。
当然のことながら、戦後のフィリピンの人たちの反日感情は凄まじいものでした。
しかしながら、日本が戦後の奇跡の回復を遂げて経済大国の道を歩むようになると、両国関係に大きな変化が生じます。当時の独裁政権が「反日」から「親日」に舵を切ったのです。つまり、進出してくる日本企業や大金を持ち込んでくる日本人観光客に両手を広げて歓迎するよう国民に命じました。
人々は「生きるため」に複雑な感情を抑えて〝ジャパンマネー〟に群がるようになり、
調子に乗った日本のバカな男たちは大挙して札束を腹巻きに入れて、〝カネはあんぞ買春ツアー〟に出かけていたものです。これは決して大袈裟ではなく、当時の新聞を見ていただければ分かりますが、社会現象にまでなりました。
当然のことながら、それを良しとしない人たちもたくさんいて、中には日本人観光客や進出企業をターゲットに実力行動に出るグループも出て来ました。
半世紀も前の話ですが、ミンダナオ島のサンボアンガでモロ民族解放戦線によって日本人の新婚旅行中の夫婦が拉致されました(当時AP通信記者だった僕は現地取材しています)。約10年後の1986年には三井物産の社員が誘拐されています。
一方で、そのような歪んだ両国関係を是正しようと動く人たちもいました。
その中の一人が雨宮教授でした。学生たちを現地に送り込み、地元民との交流を図らせたのです。前述の三井物産社員の拉致事件の2年後にスタディツアーを始めたと聞き、雨宮教授に生前、
「学生たちが反政府勢力に拉致される危険性は当然お考えになられましたよね? 対策はどんなことを講じられ、万が一の際はどうされるおつもりだったのですか?」
と尋ねたことがあります。
雨宮さんは、
「現地の教会関係などの有力者を通していろいろな手は打っていましたよ。でも、何が起きるか分かりません。ですから、学生たちが拉致されたら、彼らの身代わりになる用意をしていました。また、いつでも大学に出せるように辞表を持ち歩いていましたね」
とお答えになられました。
そんな覚悟があったからこそ学生たちに強い影響を与えることができたのだ、とその時僕は納得したことが今も思い起こされます。雨宮さんの蒔いた種は教え子たちによって様々な形で開花され、日比関係の懸け橋構築に寄与していることは間違いありません。