第26回 「尊大な14歳」
1961年4月には中学2年生になりました。
「世界」への関心はますます強くなり、1月に起きたコンゴ共和国のルムンバ前首相の処刑、同じ1月のジョン・F・ケネディの米大統領就任、前年にアルゼンチンで拘束されてイスラエルに連行されたアイヒマンの裁判と死刑、4月のガガーリン(ソ連)飛行士による人類初の宇宙飛行、米CIAが仕掛けたピッグズ湾事件といった国際ニュースに目を奪われる毎日でした。
また、中学入学を機に主治医からの運動の全面的解禁を受けて、近くの大平川で夏のみならず冬も泳ぎ、気の合う仲間と毎日のように今で言う「筋トレ」とボクシングのまねごとに励んでいました。
人並み以上の体力をつけたことで多くの面において過度とも言える自信をつけたくにおみは、傍若無人な態度を取っていたのではないでしょうか。友人をつかまえてそういった国際問題の議論を吹っ掛けるような生意気で鼻持ちならない少年だったようです。「ようです」というのは、私にその記憶や自覚があまりないのです。
幸夫君と私 |
後年(2012年)私が〝若い妻〟を伴って45年ぶりに岡崎に戻ると、それを聞きつけた同級生や後輩たちが様々な形で『浅井久仁臣講演会』を催してくれました。市立美川中学校で2年、3年と2年間同級生だった柴田幸夫もそのひとりで、学区の公民館で講演会を開いてくれました。
司会を務めたその席で柴田は聴衆に私とのエピソードをこう紹介しました。
「浅井君には参りましたよ。朝学校に行くと、『今朝の新聞は読んだか。お前んとこは何新聞だ? 今週の朝日ジャーナルはどうだ?』ですからね。中学生がそんなに新聞や雑誌を読んでいるはずがないじゃないですか。『読んでいない』と言うと、『勉強が足らん』と叱られました(笑)」
柴田は岡崎市の収入役という要職に就く父を持つ、いわば〝サラブレッド〟。成績も優秀で学級委員をしていてクラスのまとめ役でもありました。そんな記憶があったので「でも、幸夫君は学級委員だったじゃないですか」と私が返すと、柴田は、
「冗談じゃないですよ。全部浅井君が我々の役目を割り振っちゃうんですから。『柴田、お前学級委員やれ!』ですからね」
と笑いながらですが、言い返してきました。
その辺りの事は正確に覚えていませんが、まあ、「当たらずといえども遠からず」で、その場では謝るしかありません。私もまた笑いながらですが謝罪しました。
くにおみの大きい態度は目立ったようで、校内外の不良グループからしばしば喧嘩を売られるようになります。
当時は、どの中学校にも「番長グループ(自転車のチェーンやナイフなどで〝武装〟)」が跋扈(ばっこ)しており、通っていた美川中学にも20名を超える喧嘩自慢やその取り巻きが構成するグループが存在しました。その連中にとって私は目障りな存在だったようで、幾度か彼らから呼び出しを受けます。一度は挑発に応じて一対一での勝負を条件に殴り合う事になりました。
〝キレる〟と冷静さを失い、手が付けられない暴れ者でしたから、相手が途中で私の勢いに気おされて許してくれと泣きを入れてきても、容赦なくこぶしと蹴りを見舞いました。想像するに私は鬼の形相だったのでしょう。それからは連中の私への態度は一変しました。
岡崎の繁華街でも同様の事が起きました。「美川の田舎モンがなんで来ただあ!こっち来い!」とリーダー格にイチャモンを付けられたことがあります(美川中学は郊外に位置した)。路地裏に連れていかれ、カネをせびられ、「カネを出さんなら踊る(殴り合い)かあ?」と絡まれました。脅し方がまだ初心者で慣れておらず、「そいで(それで)脅しとるつもりか?」と脅し方をあざ笑ったとたん殴り掛かられましたが、いわゆる「番長」格ではありませんから私の相手になるはずがありません。数発のカウンターパンチで崩れました。
ひとりを倒すと他の雑魚(ざこ)はあっという間に姿を消しました。
二度共相手を叩きのめすところまで経験する羽目に陥りましたが、〝勝った〟との優越感は湧いてきません。逆に、あまりに後味が悪くて「もう二度と人は殴らん」とひとりひそかに心に誓いました。
しかしそれからしばらくして兄義澄と衝突。相手が先に手を出したとはいえ、殴り返してしまいました。フツーの高校生の義澄が鍛えているくにおみに敵(かな)うはずがありません。兄も弟の成長に驚いたようでそれ以降は手を出さなくなりました。
また、当時我が家に居候をしていた叔母にも執拗になじられ、ある日我慢の限界を超えた私は、相手は女性ですから殴るわけにはいかず、目の前にあったガラス戸を素手で一撃。ガラスは一瞬にして大きな音と叔母の叫び声と共に砕け散りました。
そのような負けん気が強く、時に残虐性を伴う行動をするようになった要因のひとつは、それまでの負荷の大きい影の濃い育ち方(環境)にあったと言えるでしょう。いったん理性を失うと自分でも怒りを抑えきれなかったのです。またそれに加えてその年の「二冊の本との出会い」もくにおみに大きな影を落としました。その影響はあまりに大きく、精神状態を不安定なものにさせたのです。
「本との出会いが荒れた原因?」と訝(いぶか)られるかもしれません。「壊れた自分の言い訳を本のせいにするな」とお叱りを受けるかもしれません。でも、その確信は60年経った今も同じです。
話は少々複雑で長いので二冊の本との出会いは次回に回し、その前の話から始めます。
くにおみは政治に強い関心を持つ一方で、小学3年生くらいから芽生えてきた「性への興味」が年を追って異常な勢いで度を増し、中2当時は小説などで性描写を目にしたり、雑誌のグラビアで女優の水着姿を見るだけで妄想を掻き立てられ、異常な興奮を覚えるようになっていました。自慰行為にふけることも多く、あまりに強い性欲に「自分は病気?」と悩む日々が続いていました。
その一方で、いわゆるモテ期に入っていて告白されることも何度かありました。その頃はまだ全くと言っていいほど知られていなかったバレンタインデーには女子の何人かが家に来てチョコをくれたものです。そのひとりの手紙に書かれていた「浅井君って『大学の若大将』(その後人気になった映画シリーズ)の加山雄三みたいで好きです」という一文が気になって映画館に足を運ぶ〝純情さ〟も持ち合わせていました。
異性への興味は人一倍あるというのに、女子とどう付き合ったら良いかが分からず、彼女たちには温かい声をかけることをしませんでした。
ひねくれ者の私は、好意を持ってくれた同世代の女子に向き合うのではなく、不良を気取って町なかでナンパまがいのことをしたり、手紙を送りつけたり、またそれに加えて〝イケない大人の世界〟に首を突っ込んだりしました。「イケない大人の世界」とは大人の娯楽を意味します。
町なかに出たある日。市内の歓楽街に足を運び、ヌード劇場『世界ミュージック』の前をうろつきました。劇場の前には〝女体〟〝裸〟〝関西ヌード(意味不明)〟といった刺激的な言葉が躍る看板が立ち並んでいました。しかし、その前に立ち止まって正視する勇気はなく、劇場の前を二度三度と行ったり来たりするだけです。
「にいちゃん、さっきからうろちょろしてんな。入りたいんだろ?」
劇場の前にいた男が声をかけてきました。
それに対してただ立ち止まって返事をせずに相手を見ていると、「いくつか知らんけど、その体格だったらいいだろう。カネ持ってんなら入んな」と言われました。
「ハイ、大学生さん一枚!」
男は切符売りの女性にそう声をかけると私を中に招き入れました。ズボンのポケットの中に握りしめてきた紙幣(おそらく汗ばんでいた)を出し、切符をもらうと劇場に入りました。
厚いカーテンの前に立つ男が「おっ、にいちゃん、楽しんできな」と切符の半券を切ってカーテンを開けてくれました。中は真っ暗で様子が分かりませんでしたが、しばらくすると目が慣れてきました。思ったよりも狭い空間で、座席の数も30席位の劇場というよりは小屋という感じでした。7割方は席が埋まっていましたが、なぜか座らずに壁際に立つ人も10人以上います。
舞台の真ん中から客席の中央部分にせり出す桟橋状の細長いステージに全裸の女性が横たわって客席に微笑んでいました。彼女の股間を覗き込む客たちは、ある者はギラギラとまとわりつくような視線をストリッパーに向けていましたが、中には舞台上の踊り子と談笑する客もいます。「ありがとう」と股間を見せてもらったお礼を言う男もいます。
初めて目の当たりにする女体は白く輝いて見えました。後になって考えればスポットライトが当たっていたからだと思いますが、その時は「神々しいお姿」に見えて、その姿に圧倒されっぱなしです。またその一方で、普段は偉そうにしているであろう男たちが、緩み切ったにやけた表情で恥や外聞もなく踊り子たちの股間に顔を付けるようにして覗く姿に強い嫌悪感を覚えました。
数人の踊りを見ただけでくにおみは〝腹いっぱい〟。一時間ほどで小屋を出ました。超濃密な社会勉強となりましたが、それからは成人男性を見る目がとても厳しくなったように思います。
当然のことですが、くにおみの頭の中は劇場で目にした場面で占められ、昼も夜も、授業中も家にいる時も集中できない日々が続きました。
そのような政治への関心と体の急成長、それに伴う性の目覚めが複雑に交錯していた時、くにおみは居間のちゃぶ台(食卓)に積まれた6冊の本のタイトルに惹(ひ)かれて手に取ります。