私の人生劇場

少年期

第28回 「『理由一杯の反抗』と覚醒」

 (今回のタイトルは、お気付きの方もいるかもしれませんが、かつて世界の若者を熱狂させた俳優ジェームズ・ディーンの映画『理由なき反抗』を意識しました。

 くにおみは彼の生い立ちや主演映画『エデンの東』『理由なき反抗』の役柄と演技、そしてその生きざまに激しく共感。自分の姿をそこに投影させた時期もあります。しかしながらそれは高校に入ってからですので、その辺りのことは「高校編」で書きます。いや、気が向いたら書きます)

 

 反抗期真っただ中のくにおみは、それからは目の前にいる戦争世代に対しても牙をむくようになりました。戦争に関わってきた大人たちが汚く見えて仕方がなかったのです。

 元日本兵には〝人殺しが!〟と厳しい視線を向けるようになり、相手が偉そうに大きな態度を見せようものなら「あんたは戦争で何してきたんだよ!よくそんな大きなことが言えるな!」とかみつき、非戦闘員であった人が「最近の若いもんは」と説教じみたことを言おうものなら「戦争中のきさまたちのだらしなさより戦後生まれの俺たちの方がましだよ!」などと言い放っていたのです。幼い頃は大好きだった〝お父ちゃん〟(父の兄)が話してくれる戦争体験談にも違和感を持つようになり、しばらく父の実家に寄り付かなくなりました。

 

 反抗的な態度の最大の〝被害者〟は、くにおみが通う美川中学の教員でした。

 偉そうにしているけど教え子たちを洗脳して戦場に送り込んだのは奴らだ、と考えるようになりました。口には出さなかったものの、

「どれだけ多くの生徒を戦場に送り込んだと思ってんだ?! その責任を取ることなくのうのうと教員を続けている。それだけじゃない。戦争が終わったらてのひら返しで平和だ、民主主義だと言っている」

 と思うくにおみの彼らを見る目は憎悪に満ちていました。そのような接し方ですから、教員も感じとるのでしょう。私を快く思いません。

 

「浅井はリーダー気取りだが、みんなもよく考えるように。彼のような傲慢な人間は一生親友ができないだろう」

 そう言ったのは1年生のときの担任で、2年生では音楽を担当した教師Nでした。確か、2年生3学期の授業中でした。そう言われて心穏やかでいられるくにおみではありません。

 悔しさ、怒りを抑えて何とか感情を爆発させずに授業を終えることが出来ましたが、私の気持ちを察した5,6人の仲良しが授業後すぐに慰めに来てくれなかったら、Nを追いかけて拳を見舞って〝暴力生徒〟のレッテルを貼られていたかもしれません。 

 「生意気言うんじゃねえ。ちったあアニキをみならえ」と言って手を挙げてきたのは理科を担当したS(兄の担任だった)でした。返されたテストの採点に「ここんとこ合ってますよ。先生が間違ってます」と見直しを求めた私に、Sは説明することなくビンタをくれました。それに反応して思わず私も、軽くですがビンタを返してしまいました。Sは「なめんなよ~っ!」と激昂。さらに殴るそぶりを見せました。

 自主練仲間で親友の鈴木が、「先生が悪いじゃないですか」と間に入ってくれてそれ以上の大ごとになりませんでしたが、彼の介入が無ければ私はおそらく反射的にSを叩きのめしていたことでしょう。

 それからSと私の間には常に火花が散っていたのは言うまでもありません。ただ、通知表の成績(5段階評価)を、Sは私情を入れずに、テストの結果通り「5」にしました。

 

 昼休み時間に教職員専用の駐輪場に行って自転車のタイヤの空気を抜いたこともあります。ひとりの男性教員(名前を記憶していない)が見ているのを承知でやりました。

 当然その教員に「アサイ、何やってんだ!」と咎(とが)められましたが、相手は戦争体験を自慢げに語ることで知られる元日本兵で、くにおみの敵視の対象になっていた人物です。ただただ無言で相手をにらみました。相手の出方次第では噛みつくつもりでした。その教員も怒ってはみたものの、ふてぶてしい態度にどう対応していいか困ったのでしょう。「もう二度とやるんじゃないぞ。抜いた空気は入れておけ」というセリフを残してその場を去りました。

 自分で書くのも気が引けますが、私は一応成績面では学年では常に三本の指に入る、いわば優等生でした。「成績の良い俺は悪いことをしても許されるんだ。不公平じゃないか」とその場面を自分勝手な締めくくり方をした私は、それでまた戦争世代への憎しみを増大させていったのです。

 

 登校もマイペースで、老いた母千代子の思い出話のひとつに、

「隣の人たちに言わせると、あんたは慌てる風もなく学校の始業のベルが鳴ると(家は学校のすぐ近く)おもむろに家を出て行っとった」

 というものがありますから、くにおみの〝不良ぶり〟が隣近所の大人の間でも噂になっていたことは間違いありません。

 そんな荒れた私を心配して小学校5、6年生の担任であった山田が「どうしちゃった? 期待してたのに中学に入ってから(お前の)いい話は聞かんぞ」と声をかけてきたことがあります。山田のことは以前書いたように一時期大好き(その後ある出来事をきっかけにその好感度は変化しました)でしたから、声をかけてもらったこと自体はありがたく受け取りましたが、「どうせ悪い話ばっかり聞いているのだろうから話しても無駄」と思い、心の内を打ち明けることはありませんでした。

 

 1947年生まれは〝ベビーブーム一期生(出生児数約270万人)〟です。多くの家庭に経済的な余裕が生まれてきたこともあり、日本国中で受験戦争が激化しました。

 郊外の中学校と言っても生徒数は町なかの大規模校と変わらない美川中学にもその空気が伝わってきます。主要試験の結果(順位)が実名で毎回校内の目立つところに大きく貼りだされるようになりました。上位にランクされる自分の名前に最初は得意げだったくにおみですが、やがてその学校側のやり方に疑問を持つようになり、校長室に抗議に出かけます。案の定、校長と教頭に「競争に勝ってこそ成功者だ!これからももっと頑張るように。君には期待しているよ」と軽くあしらわれたくにおみは、自分の思いを理解してもらえなかった悔しい気持ちを抱えて校長室を後にしました。

 

 そんな手の付けられない反逆児だったくにおみが中学2年生の後半になると少し落ち着きを見せるようになります。きっかけは、Fという同期生とHという美術教師の存在でした。

 美川中学校には、美合小学校と男川小学校の卒業生が通っていました。Fは美合、私は男川出身でした。

 Fのことは入学してすぐに目にとまって気になり、それから高校を卒業するまで6年間意識し続けました。成績はいつも最優秀で、野球部でも活躍する、いわば「文武両道」の典型でした。見た目も爽やかでナイスガイ。美合小出身の生徒の口から彼の悪口は一切聞かれません。性格も良かったのです。「大手企業の社員の息子は出来が違うなあ」と半ば憧れの〝田舎もん目線〟で彼を見ていました。

 ただ、意識はするものの自分から彼に近付こうとはしませんでした。今思えば、Fは自分のような半分崩れた存在などには目もくれないだろうとの思いもあって、遠目に見ていたかもしれません。

 Fを見て「生まれ変わろう」と決めたくにおみは、勝手に彼を〝ライバル〟と決めて自分を鼓舞することに利用しました。

 その後、Fと私は同じ高校に進みますが、その学び舎でもふたりの間に交流は生まれませんでした。しかし、彼の存在が私の意識から消えることはなく、遠くから「星(スター)」のごとく見続けたのです。それは共に高校を卒業して大学に進んでからも続き、京都大学に入った彼が学生運動に関わり退学したとの噂を耳にした時は、「正義漢のあいつらしいな」と思ったものです。

 そんな彼とは奇縁でつながっていました。中高で交流が無かったのに、大人になってから何度もくにおみの人生劇場にFは登場しました。誰もが「そんな話、ありえないでしょう」と思うようなAとのエピソードは「青年期」の項で詳しく書きます。

 

 もうひとりくにおみに大きな影響を与えた美術教師のHは、出会った時から〝他の大人〟とは次元の違う空気を漂わせていました。

 Hの美術の授業は、「美術嫌い」のくにおみをも魅了しました。私は小学生の時から絵を描くことが不得手で、それを見る親や教師からほめられた記憶がなく、「下手くそ」の烙印を押され続けていました。そんな環境の中でくにおみが真面目に絵を描くはずがありません。当然のことながら通知表の成績も常に「2」です。それを最初目にした母親には「えっ、2なの?! あんた、授業中に何やっとるの?」と蔑まれ、鼻で笑われました。

 

 Hは出会ってすぐに「浅井、君の絵、私は好きだな」と言ってくれました。Hは一回目の授業で「絵の下手な人間はいない」と生徒に言っていたので、最初はそのほめ言葉を「誰に対しても言っているのだろう」と特別なものととりませんでした。ところが1学期の通知表を見てその言葉に嘘がない事を知ります。5段階評価の最高だったのです!

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 近くの種畜場で描いた私の絵も、Hは授業中に皆の前で絶賛してくれました。それは画用紙いっぱいに一頭の牛を描いたもので、勢いはあるものの優れた技術に裏打ちされているわけではありません。Hの評価を聞いて私の絵をのぞきに来た級友たちは複雑な表情で〝ふ~ん〟と言って納得できずに引き下がっていきます。

 でも、くにおみにとっては級友たちの反応はどうでもいい事。Hにほめられたことが重要、それが殊の外嬉しかったのです。くにおみとHの間に美術の授業以外でそれ以上のふれあいがあったわけではありません。それは学友Fに近付こうとしなかった心模様と通底します。 

 子供は大人のちょっとした声掛けに力をもらうものです。くにおみは他人から見ればどうということはないHの言葉と評価がきっかけでやる気に火が付き、それまで真面目に取り組んだことのない美術の授業を真剣に受けるようになりました。勉強全体にも良い影響を及ぼすようになりました。学ぶことに楽しさが増してきたのです。試験を受けるのが待ち遠しくて仕方がなかったのは、後にも先にもこの時期だけです。なかなか取れなかった「学年1位」の成績も〝副産物〟として転がり込んできました。

 

 しかしながら、そんな美術教師Hとも間もなくして別れる日が来ます。

 2年生の3学期も終わりになる頃、Hは授業の冒頭で「皆さんに話があります」と言い、いきなり「人生」を語り始めました。細かくは覚えていませんが、

「人生は一回勝負。誰にでもやりたいことに挑戦する権利がある。他人に遠慮して夢を捨てないで欲しい。岡崎は出る杭は打たれる保守的で常に同調を求められる所だが、それに負けないで自分に素直に生きていこう」

 といった内容の話でした。

 そして最後に、「私はこの春、教師をやめて東京に行き、プロの画家になります」と宣言したのです。うろ覚えですが、「二紀会に所属して活動するつもり」と言われたような気がします。 

「えっ、〝僕のH先生〟がいなくなる?!」

 Hの別れの言葉を聞いて、あまりの衝撃に頭の中が混乱。整理がつきませんでした。あれやこれや考えている内に「それではこれで私の授業は終わります。さようなら」とHは最後の授業を終えて我々の前から姿を消しました。

 それまでの8年間の学校生活で唯一最後まで好感を抱いた教師です。今考えても、なぜ彼の後を追わなかったのかは自分でも分かりません。職員室で話をさせていただかなかったことが我ながら理解できません。その時はとにかく足が動かなかったのです……。そして、心に大きな空洞が感じられるほどの喪失感だけが残りました。

 

 学友Fと美術教師Hに触発されたくにおみは、短い間に大きく変貌。

 「高校卒業後は岡崎を離れて大学は早稲田の政治経済学部新聞学科又は東大の文Ⅲに入り、東大の場合は『新聞研究所(現東大大学院情報学環)』で磨きをかける」「在学中または卒業後に米国留学」と決めて、そこに至るまでの工程表を作成しました。

 「克己(おのれにかつ)」と大書した工程表は次のような内容でした。

 

【中学最終年は、読書禁止。どんな状況でも二度と喧嘩はしない。「冷水摩擦5年計画」完結。ルーテル教会の英会話レッスンとラジオ英会話をやり遂げる。岡崎市主催の英語スピーチコンテストに3年連続で学校代表になって入賞する。筋トレと竜宮(遊泳禁止だった大平川の渓谷)での週2回の水泳。英米のペンパルを探して文通。弱点の理科を克服して高校は名古屋の旭丘か東海に入学。】

【高校のクラブ活動は柔道かラグビー。名古屋港に通って外国船訪問。そこで英語を磨く。世界中の船員と知り合いになる(当時の名古屋港は入国管理がいい加減で接岸された外国船に乗ることが出来た)。AFSの交換留学制度で米国留学を目指す。早稲田の新聞学科に入る。】

 

 そして母や兄の目に触れてはいけないのでそこには書きませんでしたが、心の中で「ストリップには行かない」と決意しました。

 中学3年生の目標の多くはほぼクリアしました。しかしながら、旭丘高校か東海高校に通いたいとの希望は、母親の「そんな余裕はうちにはない」のひと言で砕かれ、仕方なく岡崎高校入学を決めます。

 受験科目が9教科で、1教科でも零点をとると不合格との噂があり、母親は私立の受験を勧めましたが、「公立一本」で受験に臨みました。苦手の職業家庭科(現技術・家庭科)も付け焼刃でクリア。1963年春、岡崎高校の生徒となりました。

 

筆者注

 美術教師と学友の名前を伏せたのは、美術教師のご遺族とのやり取りの中で「知られたくない事実」があるかもしれないと考えたからです。学友についても、学生運動と大学中退の事実が不都合をもたらす可能性があると考え、匿名にしました。

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