私の人生劇場

少年期

第22回 「アンポ、アンポに明け暮れた一年」

 1960年は「アンポ(安保)」に始まり、「アンポ」に終わった一年でした。

 世界大戦が終わって15年。くにおみが生まれた年に始まった共産主義国家群と資本主義圏の対立する「東西冷戦」は厳しさを増すことはあっても和らぐ気配はありません。日米同盟の重要性が謳(うた)われ、この年の1月、日米相互協力及び安全保障条約(安保)が調印されました。

 戦争の匂いを感じた学生や労働者たちが「それは再び戦争への道に進むこと。『過ちは二度と犯しません』との誓いはどうした!」と条約批准阻止を叫び、連日のように街頭デモを繰り返すようになり、世の中には騒然とした空気が流れていました。そのさまをマネして東京の子供たちが「アンポ、ハンターイ」と叫んでいるという話が新聞などで報じられるほどでした。

 

 4月、くにおみは美川中学校に入学。高校生になった義澄が安保をめぐって母と議論をするようになり、わが家でも「アンポ」が他人事ではなくなりました。くにおは新聞を読んでいますから議論の内容は理解できましたが、理路整然と話す兄にある種の敬意をもってふたりのやりとりをただ見ているだけでした。

中部日本新聞 1960年6月16日、1面

 春を過ぎると、我が家の安保論議は国会周辺の大荒れの展開を反映して激しいものになりました。6月15日、全学連と労組員が大挙して国会に押し寄せ警官隊と激突した際に起きた、樺美智子(東京大学学生)さんの死が義澄に与えた影響は大きく、かつてない落ち込みを見せていました。

 当時若者の間で流行っていたのが西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』。

 雨の中を警官隊と衝突して傷つき、敗北感の中を帰宅するデモ参加者の愛唱歌とも言われました。それを口ずさむ義澄が「オトナ」に見えたものです。因みに、この歌の歌手西田佐知子の夫は、TVの司会でおなじみの関口宏です。

 同月19日に新安保条約が自然成立。それまでの混乱の責任を取って岸信介首相が辞意を表明、後継者に躍り出た池田勇人が打ち出した「所得倍増計画」に世の中の関心が移っていくと、くにおみの国政への興味は次第に薄れ、折から始まったローマ五輪(8月25日~)に目が移っていくようになります。

 

 五輪実況中継はTVでも行われましたが、その頃はまだラジオ放送が主体でした。ラジオ放送でもスポーツ好きのくにおみには十分で、情景を想像しながら贔屓(ひいき)の選手を応援したものです。時差の関係もあり深夜、ラジオ短波放送から流れてくる山中毅や田中聡子などの日本水泳選手団の活躍などに胸躍らせていたのです。短波放送特有の振幅変調は音量が波のように大きくなったり小さくなったりで、イヤフォンをしていても聞き取りにくく、深夜だというのに耳に神経を集中させていました

 いくつもの競技の中継が今でも記憶に残っていますが、中でも男子マラソンの中継でアナウンサーが「先頭に躍り出てきたエチオピアの選手は裸足です! 靴を履いていません」と興奮して伝えた放送はくにおみの度肝を抜きました。

 裸足のランナー、アベベ・ビキラは42.195キロをそのまま走りぬき先頭でゴール。金メダルに輝いたから世界中が大騒ぎ。くにおみも翌朝学校で、何人もの友達をつかまえてその凄さを何とか伝えたいと熱弁をふるいました。同級生は興味津々で話を聞いてくれました。

 

 9月末に行われたジョン・F・ケネディとリチャード・ニクソンの米国大統領選挙史上初のテレビ討論にも熱が入りました。ほんの一部分しか放映されませんでしたが、全編を見たいと心から思ったものです。

 ふたりの政治家が相対して議論する様に「これがアメリカの民主主義か」と目を丸くしたものです。ケネディが43歳の若さということにも、古だぬきが跋扈(ばっこ)する日本政界を見慣れたくにおみには新鮮だったのです。

 “当然のことながら”級友たちは翌日、くににおみの相手をさせられます。しかし、彼らはこれにはあまり食いついてこなくて大きな人の輪はできませんでした。

 

 中学に入ったくにおみは英語の勉強以外は宿題を含めてほとんどすることはなく、解き放たれた暴れ馬のようにいろいろな運動部に顔を出して仮入部、スポーツに興じるようになります。

 しかし、クラブ活動は、主治医の清先生から「まんだあんまり激しいのはすすめられんな。卓球あたりかな」と言われたこともあり、しぶしぶ卓球部を選びます。

 ところが女子の卓球部はありましたが、男子卓球部はありませんでした。そこで、仲間を募って学校側と男子卓球部創設の交渉に入ります。ベビーブームの世代です。ひとクラス55人にしても校舎に収まりきらない状況で、全てにおいて余裕がない時代でした。

「女の子でも卓球台が1台しかなくて場所もないから教室でやっているよね。そんな状態だから男は無理だな。それに卓球なんて男のやるもんじゃない。浅井、お前は運動神経も良いようだし他のスポーツをやりなさい」

 校長や教頭、担任はまるでこちらに耳を貸す姿勢を見せません。確かに卓球台を置く場所は校内にはなくて、女子部員たちは教室で放課後、机やいすを隅に積み上げて練習していました。

 教員たちの小ばかにした姿勢はくにおみの闘志に火をつけました。

「卓球は男のやるもんじゃない、女子のスポーツだというのは間違っています! 世界卓球で何度も優勝している荻村選手を知らないんですか?」

 当時、日本は荻村伊智郎選手を筆頭に強力なチームを構成して世界選手権などで個人・団体共に優秀な成績を収め、「卓球王国」の名をほしいままにしていました。

 学校側との粘り強い交渉が実を結び、数か月後卓球台が購入され、美川中学男子卓球部が誕生しました。部員も順調に増えて大会に出るようになるとキャプテンを決める必要が出てきて、言い出しっぺで実力的にもトップだったくにおみが選ばれます。

 しかしそこで悪い癖が出ます。達成感を満たされると間もなくして卓球への情熱が薄れていき、当然のことながらそうなると技術の進歩も鈍ります。自分よりうまくなっていく仲間もいました。すると負けん気の強い性格がマイナスに出て余計にやる気をなくし、退部を決めてしまいます。

 ひどい話です。くにおみの誘いに乗って入部した部員がほとんどです。彼らは必死に私を引き止めました。顧問の先生も説得に乗り出しました。でも一度言い出したら人の話を聞かない性格のくにおみはその年の秋口に退部してしまったのです。何人かの部員も後を追ってやめてしまいました。

 

 余談になりますが、時はぐ~んと下って2016年のことです。知人からある人を紹介されました。

「城北中学の卓球部のエースで岡崎のチャンピオンだった谷口さんです」

 そう聞いた私は、50年前の市内新人戦の時に見た彼の雄姿を思い出しました。一度も対戦していませんが、圧倒的な強さ・速さでした。

「谷口さん、あなたのことは覚えていますよ。かっこよかったです」

 と私が言うと、

「あなたは美川中学でしたよね?」

 と彼から言われました。私の実力は谷口氏とは比較にならないもの。なんとなく存在自体が目立ったのでしょう。でも、数回しか会っていないのにこちらの学校名を覚えていて驚きました。

 

 退部して自由の身となったくにおみはいろいろな部活動に遊び半分で顔を出したり、図書館で読書にふけったりしていました。すると、それは番長グループ【注】の目に留まり、校舎の裏に呼び出され「目立つな」と脅されるようになります。もちろんそんな脅しを怖がる少年ではありません。それからも好き勝手に行動していました。

 当然のことながら、目立つ存在は代替わりしても番長グループにとって邪魔なのでしょう。卒業するまで彼らとの確執は様々な形で続きました。

 勝手気ままな学校生活を送っていましたから、学校を休むこともしばしばです。

 

 10月12日、くにおみは父の実家の桑谷で行われた村祭りに姿を見せました。その日は今調べてみると平日。村に行くバスは一日に数本ですからおそらくその日と翌日は学校をさぼったと思われます。

 村祭りの最大イヴェントは、神社の境内で行われる芝居です。TVアンテナがこの村にもちらほら現れるようになりましたが、それでもまだまだその数は少なく、ドサ回りと呼ばれる旅回り一座の公演は大人気。農作業を早々に終えた村人たちはゴザや弁当を神社の境内に持ち寄り、ご機嫌の表情です。私もこの旅回り一座が大好きで、本家のいとこたちとごちそうを食べながら開演を心待ちにしていました。

 ところが、「ヌマさんが右翼に刺されて死んだげな」という周りの大人たちの会話でその高ぶりは一瞬にして落ち込みへと変わってしまいました。

中部日本新聞 1960年10月13日、1面

 ヌマさんとは当時日本社会党の委員長であった浅沼稲次郎のことです。安保騒乱の時は国会前に出向いて体を張って反対運動を指揮していると評判でした。メディアもおおむね彼には「大衆政治家」と好意的な伝え方をしていました。それだけに国民の人気も高く、右翼の標的にされたのでしょう。浅沼はその日午後、東京・日比谷公会堂で開かれた党首立会演説会で熱弁をふるっている最中に、壇上に駆け上がってきた右翼活動家の少年山口二矢(やまぐち おとや。当時17歳)に刺されて死亡したと言うのです。

 その日芝居を最後まで見ずに帰宅したのか、それともうわの空で芝居を見ていたのかは記憶にありません。

 安保反対デモで命を落とした樺美智子さんやデモ隊の画像が思い浮かび、「日本には民主主義は根付かないのか」と、子供心に何かとんでもないことが世の中で起きつつあるという不安に駆られていました。軍靴の足音が聞こえるような錯覚に陥ってしまったのです。

【注】番長グループ

 ベビーブームの子供たちは人数が多いというだけでなく、エネルギッシュで“規格外”。それに対して教員を含む大人たちは力で抑え込もうとしました。すると、反発するグループと学問の競争から落ちこぼれた生徒たちが徒党を組んで番長グループを結成し、校内だけでなく他校とも張り合うようになります。

 それがエスカレートすると、素手ではなく自転車のチェーンやナイフを携行、他校グループとのヤクザまがいの“出入り”も派手に行われるようになり、警察沙汰になることも少なくありませんでした。

 美川中学にも番長グループがあり、校内を肩で風を切って歩いていました。卒業式には警察官が10人以上来て警戒に当たったほどです。

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