第21回 「死と隣り合わせの日常」
小学校高学年の時期の話を続けます。「死」を意識させられた多くの出来事に見舞われた年頃でもあったので、周りの大人たちへの想いと共にその心情を綴っておきたいと思います。
「死への意識」の“めざめ”は3,4年生の頃からで、祖父母の死に始まり、シロー君や叔父たけおの自死と続き、「杉浦先生の溺死」、級友本多君の交通事故死、そして伊勢湾台風の被災と、何度も死神が現れて幼い少年の胸の内を激しく揺さぶります。
父方の祖父米太郎
妻を亡くしてそれまでの好き勝手な人生に初めて向き合ったのでしょうか。または、脳梗塞で肢体不自由になった己が姿に絶望したのでしょうか、首を吊って自死をはかりました。家族に見つけられて一命を取り留めたものの、その後衰弱は一挙に進み、豪放磊落の数多くのエピソードを残して、
この世を去りました。
通夜や葬儀には多くの人が参列しました。それまでは祖父に「本家と分家」「旧大地主と旧小作人(農地改革後も村における旧地主の権威は絶大・絶対でした)」という関係性から首根っこを押さえられていた人たちは、「通夜振る舞い」や「精進落とし」で酒が入るとタガが外れたようになり、自分と米太郎との関り、特に迷惑を被った話を面白おかしく話す輪を作り、時に爆笑の渦を成していました。その光景は米太郎を嫌っていたくにおみには面白く、詳しく聞きたくて輪の中に入って聴き入りました。
それを苦々しく見ていた叔母の一人から、
「くんちゃん、何が面白いの!あんな小作人どもの言うことを信じちゃだめよ。私は父さんを心の底から尊敬していたし、失って本当に辛いんだから」
といさめられましたが、それを気にすることなくその後も話を聞いて回りました。
〇〇君の自死
〇〇君は、本連載の第7回「母の背中」でも触れましたが、母千代子の元教え子で、幾度かの自殺未遂の後に我が家の居候となり数ヶ月間リハビリ生活。「元気になった」と社会復帰したものの、仕事仲間からのいじめに遭い、堪え切れずに服毒自殺してしまいました。
叔父たけおの服毒自殺
母方の叔父たけおは小さい頃に日本脳炎を患い、上下肢にしょうがいを持っていました。
多くの嫌な体験をしたのでしょう。卑屈な性格でした。くにおみにとっては「いつも暗い顔の優しくしてくれたことのない人」。母の実家に預けられていた時、叔父たちからいじめを受けていたことは前に述べましたが、彼にとってもおそらく「うっぷんを晴らす」相手としてくにおみは最適だったのでしょう。叔父は弟そうしちろうと二人で、幼いクニオミをいじめました。
それでもと言うか、だからと言うべきか、たけおは学業で頑張って国立大学を受験するまでになりました。
しかしその結果は、「桜散る」。
試験の結果を知って失意のどん底に陥ったたけおは、兄こうじの下宿を訪ねたものの生憎の不在。宿に戻るとその夜、誰にも心の内を明かすことなく短い命を閉じました。くにおみが小学5年生のときでした(1958年)。
気の毒だったのは、心根の優しいこうじです。突然警察から呼び出され、遺体確認をさせられ、心が折れかかっていたのではないでしょうか。それを契機に、かなり長い間週末になると我が家に来て、長姉である千代子に心情を吐露したり、私たち兄弟と時間を過ごしたりするようになりました。
杉浦先生の溺死
当時はまだ水泳プールを有する学校は少なく、くにおみの通っていた男川小学校では水泳の授業を近くの大平川で行っていました。小学6年生になってもまだ水泳の許可をもらえていなかったくにおみは、「見学組」です。
水しぶきを上げて楽しそうに泳ぐ友達の姿がうらやましく、「早く泳げるようになりたい」と指をくわえて見ていました。
そんな和やかな空気が一変したのは、授業が始まって間もない頃でした。
少し離れた場所に教員たちが大声を上げながら急行し、変わり果てた杉浦先生を運び出して、私がいる目の前に置いたのです(もしかしたら、私の記憶違いで自分からそちらに近付いたかもしれません)。
そこで教員たちがどんな処置を行ったかの記憶はありません。記憶にあるのは全身が紫色に変わり果てた先生の姿です。溺死と発表されましたが、大人になって危機管理を勉強したあと「あれは心臓発作だったのでは」と当時のことが思い出されました。
帰郷したときに現場にいた教員に聞いたところ、「お前の言う通りだが、俺が杉浦のことを思って校長や警察にはそう報告した」と言われました。当時は、溺死と心臓発作では教育委員会の扱いが違ったのだそうです。
遊び仲間の本多君
同じ年、本多君が国道一号線(我が家から数百メートル)を自転車で走行中に交通事故で命を落としました。
木工所を営む父親の血筋でしょう。とても器用で遊び道具を作るのはいつも遊び仲間の間では彼の役割でした。くにおみは家も近く、放課後は毎日のように遊んでいました。
数時間前まで元気に楽しく遊んでいた友達が突然いなくなり、それまでの「死」とはまるで受け止め方が違います。とにかく涙が出て仕方がないのです。もちろん、「男は泣くな!武士は涙を見せないものだ!」という家です。家族の前で泣くことはありません。ベッドの中で布団にくるまって嗚咽をかみ殺していました。
翌日登校すると、担任の山田先生が私を呼び、「葬式でお別れの言葉を読むように」と告げました。友を失って落ち込んだくにおみには酷な命令でした。
「それは無理です。許してください」
とだけ小さな声を吐き出すようにして伝えました。
「それは困る。もう決まっとることだ。お前のここのところの成績の伸びは凄い。だから推薦したんだ」
と言い放つ山田の言葉が信じられませんでした。
くにおみは山田が大好きでした。怖い存在ではあるものの情熱をぶつけてくる彼を「ぶーちゃん」と呼び、とても慕っていました。だからそんな理不尽なことを言うぶーちゃんが信じられず、顔をじっと見つめてしまいました。すると、我慢していたものが体の底から込み上げてきます。号泣してしまいました。
「そんなに泣かんでも……」
くにおみはぶーちゃんの顔を見ていませんでしたが、おそらく声のトーンからは困った表情をしていたに違いありません。
「他の子に頼むからいいわ」
ぶーちゃんは優しい声でそう言うと、くにおみには重すぎる任を解いてくれました。
伊勢湾台風
「死」と直面する場面は、さらにその秋、くにおみの前で展開されます。
1959年9月26日に上陸し5千人を超える死者を出した伊勢湾台風は、小学6年生の少年に「生の重み、死の恐怖」を思い知らせるレッスンを与えたのです。
台風が発生して日本列島に近付くにつれ、気象庁は「超大型」の台風であると警戒を呼び掛けていましたが、笛吹けども踊らずで、我が家どころか隣近所にもその日の夕刻になってもまるで緊張感はありません。粗末な造りなのに暴風雨に備える家はほとんどなく、我が家ではその夏に来た台風の時のある近隣住民のあたふたぶりを夕食時に笑っていました。
「増築したからうちは大丈夫」と、兄の義澄とくにおみは変な安心感をさえ口にしていました。
しかし、もうその頃には台風は潮岬近くに上陸(午後6時)。その影響で家の外では強い風が吹き始めていたのです。
8時頃になると強風は暴風雨になった気配。それにあおられてガラス戸(採光を優先して床上5、60センチ位から上はガラス)が内側に膨れてきます。長い人生の中でもあれほどの暴風は、後にヨルダンの土漠で見舞われた竜巻くらいなもので、60年経った今でもそのゴーッという轟音と、何か空間全体が吸い込まれるような異様な空気感は、耳の奥に心の底に残っています。
「こんなことならガラス戸に板を打ち付けておけばよかった」
千代子が悔やみますが、時すでに遅し。
われわれの顔から笑みが消え、あたふたと対策に追われます。対策と言ってもほぼ為すすべはなく、古い建物には雨戸が無いのでガラス戸に内側から毛布を垂らしてそれを釘で打ちつけたりしました。
時間が経つにつれ暴風雨は勢いを増し、母と兄はガラス戸がレールから外れないように必死に手で押さえています。今思えば、ガラス戸が破損していたら破片が体中に刺さり大変な事態になっていたかもしれません。絶対にやってはならないことでした。
一方の僕はと言えば、情けないことに取り乱して押し入れに潜り込み、布団に顔を埋めて「なんみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」をブルブル震えて唱え続けていました。
なぜ自分がそのような呪文に救いを求めたのかは分かりません。普段から信仰心が篤(あつ)かったわけではないですから、考えられるとすれば、祖母がよく唱えていた呪文であること、また数年間で立て続けに経験した「死への恐怖」の影響です。
その点兄義澄は立派でした。冷静にふるまう姿は、くにおみには中学三年生の兄が若武者のようにたくましく見えたものです。千代子も後年になってその点を高く評価、「あの時の義澄は頼もしかったわよねえ」と述懐しています。
今から思えば午後9時頃だったでしょう。聞いたことのない轟音をともなって一段と風が強くなりました。
“ガッシャーン”
という大きな音が建て増しした部屋から聞こえ、義澄の「かあさん、ガラスが破られた!」という声がしました。
後で分かったことですが、風上の隣家から飛んできた瓦が雨戸とガラスを突き破ったのです。すると、ガラス戸の上の壁が落ち、天井が破られ屋根の一部が吹き飛びました。
「隣に逃げます!」
千代子の掛け声で風下にある玄関を出て隣の本多家に逃げ込みました。吹きさらしの我が家に比べて隣家への風当たりは弱く、家族は余裕の表情です。温かい笑顔で迎えられました。そこでくにおみはひと安心。同い年や年下の子の前でみっともない姿は見せられないとの気持ちが働いたのでしょう。落ち着きを取り戻しました。
上陸時の勢力としては、本州へ上陸した台風の中では今でも史上最強の記録の伊勢湾台風ですが、その進行速度もけた外れに速く(時速60-90キロ)、日本列島を瞬く間に縦断。
しばらくすると猛り狂った暴風雨は収まり、明け方になるとまさに台風一過。嘘のように青空が広がりました。周辺の家屋は多くが甚大な被害。家の前で頭を抱える大人の姿は印象的でした。
このようにこの時期に何度も死に直面したクニオミは、自分の弱さ、己の限界を思い知ることになります。
ただその一方で、弱さをさらけ出した事で吹っ切れたのでしょう、逆に自信がわいてくるのを実感。何事にも積極的になり、英語の勉強に、解禁されたスポーツにとエネルギーを発散させるスーパー元気中学生になっていきます。