私の人生劇場

少年期

第10回 「本多家の人々」ともしび

 本多家の長男の康希(こうすけ)さんは3歳年上の5年生。長女の順子さんは同学年。そして次女の厚子さんは2、3歳年下でした。それぞれを、こうちゃん、じゅんこ、あつこと呼び、私はくにちゃんと言われていました。

 こうちゃんは、当時からくにおみの憧れの存在。同じ歳の兄よりも強く意識していました。成績も優秀で、岡崎高校から名古屋大学理学部に進み、そこから神戸大学の大学院に行きました。

 小学校か中学校だったかは覚えていませんが、勉強部屋どころか勉強スペースもなかったので、こうちゃんは押し入れに裸電球を持ち込み勉強していました。その姿に影響された私は真似をしたかったのですが、母と兄は「目が悪くなる」と猛反対。断念しました。

 中学生時代は警察沙汰になるようなこともしており、それがまた格好よく見えたものです。高校では柔道部に入り、ますます眩しく輝いて見えました。

大平町・乙川 1.jpg

 ある日、「くにちゃん、大平川に泳ぎに行こまい」とこうちゃんから誘われました。時は2月の特別寒い日でした。

 ふたつ返事のくにおみに、こうちゃんは「ほんじゃあ、風呂を沸かしていこう」と外に出ていきました。やり取りを聞いていた兄は「風邪引くぞ!」と神経質な表情を見せて小声で言いましたが、くにおみは意に介さず、こうちゃんと自転車に二人乗りして川に向かいました。

 現場に着くと、そこは吹きさらし。とても水の中に入れるような風景ではありません。

 「ヨシッ!」武者震いをしながらふたりは服を脱ぎだしました。

 そこに居合わせたひとりのおじさんが目を真ん丸にして「若いっていいなあ」と励みになる言葉をかけてくれました。その人は近くで馬を飼っており、時折りその辺りで馬の散歩をさせている姿を見かけていました。

(※数日前、この記事を書くために現場に足を運ぶと、そのお孫さんが馬を散歩させていました! 主に神事用に使う馬だそうです。)

イラスト 2.jpg

「ありがとうございます!」

 ふたりは、おじさんにそう言うが早いか、水に飛び込みました。

 しばらく泳いでいるうちに体も慣れて来て、魚を追いかけて潜ったり、飛び込んだりしていました。しかし、30分近く泳いで近寄ったふたりは、互いの顔を見てビックリ!こうちゃんの唇は真っ青でした。こうちゃんから見た私の唇も真っ青。ふたりとも歯がガチガチ音を立てています。

 再び自転車に乗って家に戻り、ふたりは仲良く風呂にザブンと入りました。湯のありがたさが体の芯にまでしみるようで60年経った今でもその感覚は(錯覚でしょうが)体に残っています。

 

 こうちゃんは大学院を出ても在学中の学生運動歴が影響して就職先がありませんでした。帰郷してブラブラしている彼を、千代子は自分が勤める中学校の校長に掛け合って臨時採用教員に導きました。

 そこでこうちゃんは運命的な出会いをします。同僚の英語教師と結婚。そして彼女の父親がこうちゃんに誘い水を向けたのです。「今から勉強をし直して医者にならないか」と。

 今でこそ「高齢受験」をする人がいますが、当時の日本の大学受験に対する考え方は違いました。こうちゃんは大学受験をする“適齢期”をはるかに過ぎていたのです。しかも超難関の名古屋大学医学部を相手にしての挑戦。非常に珍しいことでした。

 挑戦の結果は…

 見事合格しました。地元の中日新聞は「29歳の挑戦」を大きく報じました。

 こうちゃんはその後、呼吸器科の名医になり、私が関東にいた頃も遠隔地でしたが、信頼のおける主治医。実際に何度も(経営する英会話学校のスタッフで)助けていただきました。そして2012年に帰郷してからは、妻の直子や息子の駿仁の頼れる存在になっていただいています。直子はこうちゃんを「神」と呼ぶほどの信頼ぶりです(笑)。

 

 じゅんこは、同学年というばかりか、小中高と同じ学び舎に通いました。相手が優しくておとなしいのをいい事に、勝手に妹のように扱い、料理を作らせたりしました。

 とてもしっかりした子で、高校時代からアルバイトをして家計を助け、大学も授業料の格安だった愛知学芸大学(現愛知教育大学)に進み、理科の教員になりました。後になって、「千代子先生に憧れて教員になった」と聞いたので母に伝えると、千代子は目を細めて喜んでいました。

 あつこは年が離れていたこともあり、猫好きの甘えん坊のかわいい子というイメージしか残っていませんでしたが、我が家に遊びに来た医者の奥方と話している内に、あつこがその医者の下で長年勤めていたことが判明。ここでもまた強い縁を感じました。

 

 人好きのくにおみです。我が家がTVを購入して、毎週日曜日7時過ぎに本多家の5人が「テレビ見せてえ」と来てくれるのが嬉しくて仕方がありませんでした。少なくても8人。多い時には10人を超える人間が、対角線で言えば35.6センチの小さな箱に見入る光景は今から考えても微笑ましいものです。

 NHKの大河ドラマは1963年に始まりました。第一回目の『花の生涯』のテーマ音楽を作曲したのは、“われらが”冨田勲さんです。勲さんの実家の冨田病院にはほとんどがお世話になっているわけですから、目を輝かせて画面を食い入るように見つめ、壮大な音色に胸躍らせていたはずです。

 このように両家の往来は多く、5人はまるできょうだい。本当に仲の良い関係が出来上がっていきました。それまで不遇をかこっていたくにおみにとって、この環境は理想的。暗い幼少期に灯されたともしびでした。

 

 しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。

 小学2年生の冬。胸が苦しくなることが多くなり、痛みに耐えかねて母に訴えました。最初は相手にされませんでしたが、痛みが深刻なものであることを子供心に一生けんめい伝えると母の顔色が変わり、冨田病院に連れて行ってもらいました。

 診断はすぐに下りました。肺浸潤(肺結核)でした。

 そのまま感染病棟に収容された私は、それから半年間入院することになります。

(続く)