私の人生劇場

少年期

第11回 「結核病棟生活と新聞」

冨田病院 1.jpg

 入院生活は退屈そのもの。

 結核は法定伝染病です。

 外出も許されず、遊び相手もいなくて育ち盛りのくにおみは最初、時間を持て余して病棟内を行ったり来たり。今のようにゲームが豊富にあるわけではなく、日がな一日ため息ばかりついていました。ただ、冨田病院の建物は、江戸時代には“お代官様のお屋敷”だったものです。中庭で遊ぶことができたのでそれが貴重な息抜きとなりました。庭に寝転がり、空を飛び交うジェット戦闘機(小牧と浜松に自衛隊基地がある)とその飛行機雲を見ながら、新聞記者として活躍する自分の将来を夢見ていたのです。

 

 そう夢想する内。

「そうだ。新聞記者になるんなら新聞が読めんといかん」

 と思い立ちましたが、残念ながら天才肌ではありません。また、勉強を好むタイプでもなかったので、8歳になっても読める漢字の数はかなり限定的で新聞を読むのは至難の業。そこで思いついたのが、暇を持て余していた患者のおじさんたちに教えてもらうことです。当時はTV放送はなく、ラジオのみ。そのラジオ放送も選択肢は少なく、大人たちは病棟内にある新聞を競って読んでいました。

 人たらしの面があったことに加え、小児はひとりだけでしたから、くにおみは人気者でした。それをいい事に新聞を読んでいる大人の膝にちょこんと座り、「これ、なんて読むの?意味は?」と聞き続け、徐々に新聞を読めるようになっていきました。

 それが日常化してしばらくした頃。

 中庭に向かって縁側に座り、新聞を読んでいる若い男性患者の背中に「〇〇さん」と言いながら抱きつきました。

“うるさい!”

 怒声と共にくにおみの体は宙に浮き、中庭に転がされました。

 想像だにしなかった展開にくにおみは泣くことも忘れて〇〇さんを庭から見上げました。目に入ってきた〇〇さんの表情は、いつもの優しいおじさんではありません。でも、彼自身もそんな自分に耐えられなかったのでしょう。悲しそうな顔をしてその場を立ち去りました。

 記憶にあるのはそこまでで、その後どうなったかは覚えていません。今思うに、彼は入院生活を送る中で苦悩していたのでしょう。そんな“オトナの事情”など分かるはずもなく、くにおみは〇〇さんを恨み、それからは彼に近づくことはありませんでした。

 

 数か月で新聞に書かれている内容を大方理解できるようになったくにおみは、母に新聞購読をねだりました。

「まだ早いです。それよりも学校の勉強をしなさい」

 予想通りの返事でしたが、相変わらず学校の勉強には手を付けませんでした。

 入院期間は約半年。退院してからもくにおみは新聞を読み続けました。幸いにして、我が家は新聞や雑誌(サンデー毎日や暮らしの手帖)を購読していたのです。

 優等生タイプの兄義澄は、「そんなに毎日何時間も新聞を読んでるんじゃない。勉強しろ!」と私から新聞を取り上げたり、隠したりするようになりました。母千代子も勉強をするようにとうるさくは言いませんでしたが、新聞を読んで遊んでいると思ったらしく、くにおみを温かい目で見ることはありませんでした。

 教育者である母の子供に対する姿勢は、当時の流れそのもので欠点探しが基本でした。つまり、「何でも疑ってかかる」姿勢です。それゆえ、担任や周囲(母や兄)に叱られてもかたくなに宿題を拒み、漢字の書き取り練習をする姿さえ見せたことのない私が試験で高い国語能力を見せることに、疑いのまなざしを向けてきました。

 

 5年生の時だったと思います。

「座りなさい」

 千代子がこういう時は、子供に有無をいうスキはありません。ちゃぶ台で彼女に向き合いました。

「今から私が言う漢字を書いてごらんなさい」

 と言うと、千代子は次々に単語を言いました。そんなに難しい漢字ではなく全てを書き終えました。千代子の表情が少し緩みました。

「あんた、どこで漢字を覚えたの?」

「だって、僕は毎日新聞を読んでるじゃん。こんくらいの漢字なんかお茶の子さいさいだよ」

 そう答える私に珍しく柔らかい表情を見せました。後年、千代子は「書き順なんか無関係。あんたは絵を描くように漢字を書いたわね」と述懐しました。

 

 入院生活は辛いものでしたが、そういった収穫をもたらしてくれました。それだけではありません。他にも大きな贈り物をもたらしてくれました。次回は「世界的音楽家冨田勲との“出会い”」を紹介します。

(*写真は『冨田病院 開業110周年記念誌』から拝借いたしました。)