私の人生劇場

少年期

第12回「冨田勲との“出会い”」

「清先生も大変だのん。勲さんが慶応に入って医者になる勉強をしとると思っとったのに、音楽をやっとったげな」

 入院して間もなくの頃でした。患者たちは火鉢を囲んで手を当てながら、そして時折、炭を火箸でいじりながら日なが一日何かと噂話に花を咲かせていました。その時に出てきた話です。

「ねえねえ。いさおさんって誰?」

 まだ小学三年生になる前だったと思いますが、何か聞き捨てならない空気を感じて、くにおみは大人の会話に首を突っ込みました。

「勲さんは院長先生の長男さんだよ。清先生は勲さんをお医者にさせたくてわざわざ県高(岡崎高校を当時の人たちはそう呼んだ)から東京の慶応高校に移らせて、そこから慶応大学の医学部に入れようとしたんだよ。でも、勲さんは言うことを聞かん人だから、親に逆らって文学部で音楽を勉強しとらした」

 患者の一人がそう説明してくれました。

 以下は、その場で患者たちから、また後年現病院長の冨田裕さんから、それに他から知り得た情報などを総合したものです。

冨田勲さんの生い立ち

 冨田清先生は若い頃には紡績会社「鐘紡」の嘱託医として東京や北京で働いていたそうです。当時6歳だった勲さんは、ある日清先生に連れられて北京市天壇公園にある『回音壁』の前に立ちます。

 「思いがけない方向から聞こえてくる不思議さに魅せられた」と勲さんが述懐しているように、回音壁に「音楽との運命的な出会い」を感じた勲さんは、帰国して実家の冨田病院に戻ってからも戦時下でしたが音楽に熱中、「ピアノを弾き続ける少年」になりました。

 1945年1月13日深夜、愛知県の三河湾を震源とする「三河地震」が起き、1,961人の死者(気象庁調べ)を出しました。冨田病院には多くの負傷者が運び込まれました。また同年7月には米軍の空襲により岡崎市の中心部が焼かれ、この際も病院は阿鼻叫喚の現場となり、勲少年は強い衝撃を受けます。それが後になって『イーハトーヴ交響曲』の作曲に力強く影響したと、勲さんは話されています。

 先に書いたように、清先生は地元岡崎高校に進学していた勲さんをわざわざ東京の慶応高校に転校させます。長男の勲さんを慶応大学医学部に入れて「医者への道」に進ませようとしたのです。そんな親の目論見もなんのその、勲さんは上京するやいなや、自分で師匠(平尾貴四男小船幸次郎弘田龍太郎)を見つけて作曲の勉強を始めました。つまり、親の言うことを聞くふりをして一応慶応大学には進みましたが、端(はな)から医学部に入るつもりはなく、文学部に籍を置いていたのです。患者が噂していたように、文学部で音楽を勉強していた訳ではありませんでした。

 勲さんの“わがまま”で犠牲を被ったのは弟の稔さんでした。現病院長の裕さんの話では、「父(稔さん)が言うには、当時慶応高校の生徒であれば願書に『医学部』と書けば入れたそうです。だから、稔の進学時には、祖父はわざわざ上京して目の前で本人に入学願書を記入させました」とのことです。

 

 勲さんが音楽の才能を発揮するのに時間を要しませんでした。1952年、大学2年生で朝日新聞社主催の全日本合唱連盟コンクールに応募した作品、合唱曲「風車」が1位になりました。当時はこういったコンクールは少なく、それだけに注目度も高く、すぐに親に知られることになります。

 勲さんの一連の"裏切り行為”が清先生の逆鱗に触れたことは言うまでもありません。父子関係も一時かなり危ういものになったようです。

 患者のうわさ話から「こんな親への反発の仕方もあるのか!」と“イケナイにおい”を感じたくにおみは、8歳にして、のちに「世界のイサオトミタ」になる冨田勲さんに興味を抱き、まさに“星”のごとく仰ぐようになりました。それからは、勲さんが小学生の頃に機関車ごっこをしていたと聞いた庭の片隅で、ひとり木片を並べて遊んだりしたものです。約半年の入院生活を終えてからも、新聞や雑誌で勲さんの記事を読むと、ひとり興奮していました。 

 患者さんたちから「火鉢トーク」を聞いた翌年、1956年11月から12月にかけてメルボルン五輪が開催されます。このときの日本女子体操チームの演技の伴奏曲を書いたと新聞で知ったくにおみは、我が事のように喜びました。記憶は定かではありませんが、近くの家のTVか、映画ニュース(映画館では二本映画を見られ、その間にニュースが上映された)で、勲さんのメロディを聴いて心を躍らせたものです。

 画面から流れてくるメロディにある種の満足感を覚えたのか、その後しばらくは特に勲さんを意識することはありませんでした。

 

 ただ、1950年代後半だったと思いますが、母千代子が勤めていた岡崎市立福岡中学校の校長から「冨田病院と縁があるなら冨田勲さんにうちの校歌を書いてくれるよう頼んでくれんかん?」と頼まれたと聞かされました。

 後に勲さんが世界的な音楽家になるとは夢にも思わなかった千代子は、気軽に清先生にお願いしてしまいました。

 そうしたところ清先生は「お安い御用。頼んどくでね」と快諾したと母は言います。しかも「勲さんにいくらカネをあげたか」と聞く私に、「『そんなもんいらん』と清先生に言われてお言葉に甘えた」と悪びれずに言う千代子の言葉に唖然としました。「勲さんが可哀想」と思ったのです。

 福岡中学が校歌を作ってもらったと聞きつけた幾つもの学校や町や村が作曲を依頼したと聞くと、「そんなもので勲さんに時間を取らすなよ」と怒りに近いものを覚えました。

 しばらくして再び「冨田勲」の名前を意識するようになったのは、NHK大河ドラマの第一作『花の生涯』の制作発表の記事を読んだ時です。なんと、勲さんが番組のテーマ音楽を担当することになったのです。大河ドラマは、NHKが「映画に負けない大作」を目指して始まった大型娯楽時代劇です。実際、「日曜夜の顔」として半世紀以上、今も国民に愛され続けています。

 『花の生涯』は、まさに鳴り物入りで1963年4月に始まりました。内容は激動の幕末を舞台に活躍した大老・井伊直弼の生涯を描いたものです。オープニングテーマは圧巻。くにおみはその番組同様(高校)一年生。新しい環境を迎えた時期で、それも相まって第一回目が始まった時には、TVから流れてくる音楽に大きな胸の高鳴りをおぼえました。「僕の勲さんが活躍している」……誰に言うわけでもなく、知られるわけでもなく、ひとり悦に入っていました。

 

 それを機に勲さんは、CMやアニメ、TV番組のテーマ曲と幅広く活躍。売れっ子作曲家への道を歩み始めました。大河ドラマもその後4回担当することになります。

 しかし、世の中はやがて全共闘運動が吹き荒れ、血気盛んな私の最大の関心事は政治的なものに変わっていき、いつの間にか勲さんのことを忘れていました。

 勲さんが再び僕の前に“現れた”のは1975年のことになります。

(続く)