第9回 「本多家の人々」再会
「新しい家を見に行きます」
竜谷村から約7キロ離れた福岡中学に転勤した数か月後、母は私たちにその理由を言うことなく転居話をしました。
気難しい兄はぶつくさ言っていましたが、私は大賛成でした。それは、住んでいた家に男衆が夜な夜な来ては母親に言い寄っていたからです。大体は酒の勢いを借りて来て母にまとわりつきます。そんな嫌な光景を目にしたくなかっただけに私は喜んで賛同しました。
新しい家と言っても中古住宅です。しかも戦後のどさくさに建てられた分譲型の市営住宅で、2軒でひと棟。見てくれはそれなりのものでしたが、内覧をすると、部屋の数も6畳と4畳半のふた間だけだし、いかにも安普請です。風呂もなく魅力に欠けます。
母の顔が曇りかけたように見えました。
ところが、家の持ち主が「お隣の本多さんです」と家に入ってきた隣人を紹介した時から状況が一変します。
「まあ、齋藤さんじゃないの!」
入ってきた隣人に旧姓を呼ばれた母は、相手に反応します。
「え、かをるさん?!」
ふたりはなんと高等女学校の同級生でした。まるで女子高生のように手を取り合ってはしゃぐ姿は、それまでに見せたことのない母の一面でした。
「私ねえ、職業軍人と結婚して北鮮にいたの。上の子も向こうで産んで…」
「私は満州。旦那が満鉄に勤めてたんだけど…」
とガールズトークは止まりません。
ひとしきり話をすると、「ねえ、一緒に住もう。力を合わせていこうよ」とかをるさんから誘いがありました。母も「そうね。そうしよう」と自分に言い聞かせるように同意しました。
かくして私たちの移転先が決まりました。
それは浅井家にとって後々大きな幸運をもたらす運命的な出会い、転機となりました。
本多家の家族構成は、街中で小さな本屋を営む喜久治さんと妻のかをるさん。それに3人の子供でした。喜久治さんは豊富な知識の持ち主でユーモアのセンスがあるおじさんでした。本屋と言っても、古くなったり傷んだりした図書館の本を整えることが主な仕事のようでした。市内の学校を周り、古くなった蔵書の修理をするわけですが、いわゆる"サムライ商法”で、失礼ながらあまり稼ぎはよくありません。でも、暗い影を見せることなく、いつも冗談を言って周りを和ませ、なおかつ私にはいろいろなことを教えてくれる“物知り博士”でした。
私にとっての忘れもしない喜久治さんとの思い出と言えば、「サボ事件」です。
千代子はくにおみにカネを持たせて床屋に行かせようとしますが、くにおみはそのカネをお菓子に変えてしまいます。困った千代子は新発売のサボと名付けられた頭髪用のカミソリを買ってきました。私を庭に連れ出し、それを手に髪の毛を切り始めました。ところが、千代子はその使い勝手がよく分からずに思案投げ首状態。すると、そこに喜久治さんが通りかかります。
「おっ、くにちゃん、ついに捕まったな。なんだそれ?そうだな。それはね、貸してごらんなさい。こうやって使うんですよ」
喜久治さんはお得意の物知り顔でサボを持つと私の後ろに回り、髪に当てて勢いよく梳(す)きました。
「あっ!」
「アッ!」
喜久治さんと千代子の声が同時にしました。
頭に伝わる感触と「ザッ」という音、それにふたりの息をのむ声で私にも状況がつかめました。その後、ふたりが懸命に修復を図りますが、素人のやることです。ますます状況が悪化しました。
「こりゃああかんね。くにちゃん、床屋へ行こう」
喜久治さんは私を車に乗せて床屋へ連れて行きました。結局、床屋でも手の施しようがなく、くにおみは丸坊主にされてしまいました。
そんなことがあっても、喜久治さんはうらおもてがなく、どんな時にもひょうひょうと余裕の表情でした。
妻のかをるさんは体の中から優しさがにじみ出ているような人でした。
私が肺結核になった時も、(退院後でしたが)いやな顔一つしないで家に受け入れて、自分の子たちと分け隔てなく面倒を見てくれました。
ところが、我が家は周りからは白い目で見られていたようで、そんな周囲の目を気にすることなく友人の家に上がり込むくにおみに、千代子は苛立ちを覚えたのでしょう。「あんたは近所でどんな目で見られてるのか分かってるの?他人の家に上がるのはやめなさい」といさめたことがあります。
それだけに、かをるさんの優しさがひと際くにおみの心をつかみました。ご実家が寺ということを聞いており、「お寺の人はみんな優しい」と子供心に思い込んだものです。
千代子は1960年に新設された城北中学校で勤めるようになると、毎夜のように終バスで10時過ぎに帰宅していました。
母から注文を受けた八百屋が肉屋、魚屋と回り品物をそろえて配達してくれていました。かをるさんはそれを自分の家の食材と合わせて全員の夕食を作ってくれたのです。寂しがり屋のくにおみにはおいしい食事もさることながら、大人数で食事ができることが嬉しくて仕方がありませんでした。
「いつもおいしいご飯をありがとう」と礼を言う我々きょうだいの気持ちをくんで「うちはあんまり肉が買えないのよ。一緒だと肉が食べられるからこちらこそありがとう」と言ってくれるかをるさんは、私の成長にとても重要な存在だったのです。
隣家に同世代の子供たちがいたのもくにおみにとっては幸運でした。三人のそれぞれが温かい付き合い方をしてくれ、その交流は2021年現在も続いています。