私の人生劇場

少年期

第8回 「破られた父の絵」

 太平洋戦争の終結とともに日本に上陸した米軍主導の占領軍は「GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)」との正式名称でしたが、一般的には進駐軍と呼ばれていました。

 進駐軍が持ち込んだ「平和の風」は、1947年に施行された日本国憲法に象徴され、日本国民に安堵をもたらしました。「戦争の放棄」のみならず「戦力の不保持」までをも世界に誓い、それを喜んだ若い夫婦は、生まれてくる我が子に憲法の一字をとって「憲治」「憲子」などと名付けました。憲法施行に合わせて「憲法音頭」という歌も作られたほどです。

 しかしながらその安堵も長続きはせず、進駐軍が主導した労働組合運動つぶしのすさまじさに民衆は恐れおののきます。さらに1950年に勃発した朝鮮戦争や日を追って厳しさを増す東西冷戦構造に「第三次世界大戦」を覚悟した人も少なくありませんでした。竜谷のような田舎でもいつ進駐軍が来るかもしれないと、女性たちの井戸端会議にその話題が上るようになりました。それを耳にする子供たちは、進駐軍という得体のしれない存在を恐れていました。

 

 小学1年か2年の頃、ある日家に遊びに来た年上の女の子たちに、くにおみは父俊夫の描いた絵を「僕のお父ちゃんはこんなに絵が上手だったんだ」と見せていました。

 それは、妻子と再会した俊夫が、よちよち歩きを始めた兄義澄の様々な仕草を描いたものでした。そこから俊夫の喜びがくにおみに伝わってきます。私は慈愛に満ちたタッチで描かれたこの素描(すびょう)が大好きで、何度手にしたか分かりません。

「くんちゃん、これはいかんよ(だめだよ)」

 絵を手にしたひとりの子が絵の裏を見てそう言いました。

「進駐軍に見られたらつかまっちゃうよ」

 と脅すのです。

 紙がなかなか手に入らない時代です。俊夫は、持っていた陸軍の飛行機が映るブロマイドの裏に絵を描いていたのです。確かに、写真には戦時中、米軍や中国を相手に戦っていた大日本帝国陸軍の主力戦闘機や爆撃機が映っていました。

「すぐに全部破ろまい(破ろう)」

 今となってはどの子がそう言ったかは覚えていません。

 頭の中が混乱状態になりました。僕の大事な宝を破る?そんなことは嫌だ。でも、進駐軍が来たらどうしよう?

 「善は急げ」とばかりに、戸惑う私を無視して女の子たちはビリビリ絵を破り始めました。数にして10枚はあったと思います。

 

 それは残酷な光景でした。泣き出したくなる気持ちを歯を食いしばって抑えていたと思います。私の心の中で、俊夫はいつも頭の真上で私たちを見守ってくれていました。写真が破られるのを呆気に取られて見ていたくにおみは、一瞬ですが、俊夫がどこか遠くへ行ってしまう錯覚に襲われました。

「わたしたちがどっか分からんとこにほかっといたげる(放っておいてあげる)から心配せんでいいよ」

 女の子たちはそう言うと、出て行きました。

 あまりのショックに言葉を失ったくにおみは、呆然と彼らの背中を見送りました。視線を落とすと、先ほどまで写真が貼られていた小さなアルバムが畳の上にありました。涙も出ないほどの悲しみに包まれました。その時の涙が今、これを書いている時に頬を伝っています。