私の人生劇場

少年期

第7回 「母の背中」

浅井久仁臣 Early days 2.jpg

 これまでは母千代子に対する否定的な見方ばかりを書いてきましたが、もちろん彼女に良い面がなかったわけではありません。母が見せた「背中」は、私の「背骨」の一部となり、のちの私のヴォランティア活動や人とのかかわり方に少なからぬ影響を与えました。

 母の背中の見せ方で特に私に影響を与えたのは、他人への思いやりです。

 自分に余裕があるからではなく、逆にどんなに苦しい状況にあっても他人を思いやる母の姿勢は、いくら時間が経過しても風化することなく心に残り続け、繰り返しになりますが、私が成長するにつれじわじわとその良さが心に広がっていったのです。

 

 最初に千代子が背中を見せたのは、私が小学1年生の冬でした。これを書いている今、私の目の前にいるのがちょうど1年生の冬を迎える息子の駿仁ですから何か「あの頃」が無性に懐かしく感じられます。

 第二次世界大戦が終わってからもしばらく、町には傷痍軍人の姿がありました。白衣に松葉づえをついたりして歩く姿はあちこちで見られました。また、街頭でアコーディオンやギターを弾きながら物乞いをする姿もよく見かけました。しかし、(先ほど調べてみると)1950年頃になると街頭での物乞いが禁止されるようになり、彼らを苦しめました。そんな影響もあったかもしれません。私が住んでいた田舎にまで傷痍軍人の姿が見られるようになったのです。

 

 親子三人が夕食を終えてしばらくした時間でしたから午後8時ごろだったと思われます。

「こんばんは」

 玄関の戸を何者かが開けて家の奥に向かって声をかけてきました。そう。今でもそうですが、田舎の家は夜寝る時以外は玄関に鍵をかけません。

 男の声でしたが聞きなれたものではなく、私も興味本位で誰が来たかと母と一緒に玄関に行きました。目の前にいたのは、白衣こそ着ていませんでしたが、くたびれた軍服に身を包んだ傷痍軍人でした。どちらの腕だったか覚えていませんが、不自由でした。長く風呂に入っていないのでしょう。肌は薄汚れ、異臭を漂わせていました。

「少しでもいいです、何でもいいですから食べものをめぐんでいただけませんか」

 男の声には力が感じられず、しぼりだすような話し方でした。

「今食事を終えたところですから少し時間がかかりますが、おにぎりくらいなら…。お待ちいただけますか?」

 と言うと、ためらうことなく母は台所に向かい、かまどに火を入れてコメを炊き始めました。炊きあがると母は手を真っ赤にしながらいくつも握り飯をつくり、漬物を添えて竹の皮で包むと、そこに紙幣を入れた封筒を乗せて風呂敷で包みました。

 「え?何で?うちには余分なおカネなんかないのに」と口にこそ出さなかったものの、それを見ていた私には母の行動が不可解でした。当時の教員の給料は低く、のみならず遅配されることもしばしば。従って、古新聞を使って八百屋などで使う紙袋を作る内職をしていました。母は日常の中で「金欠金欠。おカネがない」と口癖になるほど言っていたので、家にはカネの余裕があるとは思えませんでした。

「少しですがおカネも入れておきました。それではお元気で」

 母は感情を顔に出すことなく、男に言いました。

 風呂敷を受け取ると男は嗚咽(おえつ)しました。言葉を詰まらせて深々とお辞儀をすると暗闇に消えていきました。私は、彼を見送って玄関の鍵をかけると家の中に戻っていく母の背中を見ていました。

 

 次に背中を見せたのは、それから数か月後のことでした。

 当時は豆腐屋が自転車の後ろに大きな木製の水槽のような箱を乗せ、そこに入れてきた豆腐を売り歩いていました。

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 ある日のこと。家の前で大きな音がしました。何事かと家から飛び出る母を追って私たち兄弟も外に出ました。

 道には自転車が転がり、大きな木の箱から豆腐が大量に散乱していました。その傍らには小柄なおにいちゃんが呆然と立ち尽くしていました。当時は高校に進学しないで中学を卒業するとすぐに店や工場に就職するのが普通でしたから、おそらく中学を卒業して豆腐屋で見習いをしていた少年だったのではないでしょうか。昔の運搬用の自転車は頑丈な作りで重く、明らかにそのおにいちゃんには手に負えるものではありませんでした。また、道路は未舗装ですから車輪をとられやすく、自転車に乗っている人が転ぶのは珍しくありません。

 少年は母を見た途端、大声で泣きだしました。

 母は多くを聞かずに「全部でいくらなの?」と少年に尋ねました。そして、金額を聞くと家に戻りカネを取ってきて少年に渡したのです。金額は憶えていませんが、私にとってはかなり多額に思えて、母の行動が信じられませんでした。また、家にそんなカネがあるのも驚きでした。

 そのように「背中」を見せても母から私たちに説明や相談はありません。子供たちはどんな状況でもただ見ているだけで見た現実を受け入れるしかなかったのです。

 

 金銭を伴う場面だけではなく、生活に大きな影響を及ぼすようなこともありました。

 小学5年生の時だったと思います。

 ある日、「お話があります」と言われて、兄と私は母の前に座らされました。

「これから〇〇君というおにいさんが家に来ます。どの位泊っていくかは分かりません。言葉に気を付けるようにしなさい」

 知らされた情報としては、母親がかつて竜谷小学校で〇〇君を一年間受け持ったこと。彼が家庭環境に恵まれず、中学を卒業してから仕事先などで受けるイジメや差別に耐えられず、幾度か自殺をはかったという話だけでした。

 異論を唱えたり質問をさせてもらえないまま、間もなくして〇〇にいちゃんがイソーローとして姿を見せました。それから一緒に生活するようになったのです。

 移り住んできた時はお互いに軽い緊張もありましたが、〇〇にいちゃんは決して一緒にいて嫌な存在ではなく、それどころか将棋をやったりして遊んでくれるので、私は学校から帰るのが楽しみでした。数か月して「元気になったので」と言っていなくなった時は寂しさを感じたものです。

 それからしばらくして、母からとても悲しい知らせを聞かされました。

「〇〇君は新しい仕事をし始めたんだけど、そこでもまたイジメられて汽車の中で服毒自殺をしてしまいました」

 小学生にはとても厳しい現実を突きつけられたわけですから、丁寧な話し合いとか説明が必要でしたが、母にはそんな余裕はなく、ただ事実関係を伝えられただけでした。

 

 そんなことがあったのに、しばらくすると今度はまたイソーローが家に来ることになりました。

「Sさんは旦那さんに離婚させられたんだけど、ご両親が出戻りを許さないから泊るところが無いんだって。だからしばらく家においてあげます」

 出戻りとは、離婚して実家に戻ることです。Sさんの実家は、当時小学生でも知っているような有名な会社です。そうと聞かされ、「そんな金持ちがなんで貧乏なわが家に?」と思いましたが、とにかく母が家長です。家長が絶対な時代にあって口答えは許されません。

 〇〇にいちゃんの時とは違ってSさんがいる毎日はけっして楽しいものではありませんでしたが、それなりに対応していました。

 母にその話を伝え、Sさんのその後を聞くと、「あの子はかわいそうだったね。何一つ悪いことをしたわけでもないのに結局実家に入れてもらえなくて、今も寂しく施設に入っているよ」とのことでした。

 

 こういった母が見せてくれたぶれない姿勢は「あの時代」ならではのものではありますが、今に通用しないものではありません。これからも困難に直面した時などに思い出しながら道しるべのひとつとして活用させてもらおうと思っています。

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