私の人生劇場

幼少期

第4回 「5歳児の決意」

 母千代子の実家から、再び竜谷村の父の実家に戻された私は、息子がいない伯父に我が子のようにかわいがられたことで安心を取り戻しました。伯父を「おとうちゃん」と呼ぶよほどの懐きようでした。そんな弟をこころよく思わない兄は何度も「おとうちゃんじゃない」とたしなめましたが、呼び方を変えることはありませんでした。

 心が安らぐようになっても時に不安に襲われます。親に甘えたい時期でもありました。しかし、千代子は常に背筋をピンと伸ばして「淺井家の男は武士。弱音を吐くな。泣くんじゃない。涙を見せるな。頭の上からお父さんが見てるからね」とけんもほろろでしたので、彼女に心の内を吐露したことはありません。

 家長の祖父米太郎も幼い私の心に配慮を見せる人ではなく、階段から転げ落ちても「うるさい!」と怒鳴る人です。5歳児の顔を見ると、何かと苦言を口にしました。今思い返しても米太郎との楽しい思い出は何一つ思い浮かびません。

 

 俊夫の実家は室町時代から広大な田地田畑と山林を所有していました。しかし、米太郎とその弟が稀代の遊び人で毎夜の芸者遊び。私を取り上げてくれた産婆(助産師)は、米太郎に水揚げされた元芸者さんだったというから話になりません。

 また、淺井家は代々華道遠州流の家元で、米太郎は当時岡崎にあった日清紡績の女工さんを教える立場にありました。後になって聞いたことですが、彼は何人もの教え子と関係を持ってトラブルが絶えなかったそうです。

 派手な女性関係による散財に加えて、私が生まれた年から実施された農業改革(地主制度の改革)で、淺井家所有の山林や田畑は大幅に縮小。私が居候として入った頃には自宅の敷地も削られ、住居も小さくなっていました。

 破産状態にあって夜遊びがままならなくなった米太郎は、朝から晩まで長火鉢に座って家族の動きを監視。なんやかやと口出ししていました。孫、特に男子には厳しく、叱られた思い出しかありません。

 それを受け継いだのが俊夫のすぐ下の叔母でした。口を開けば、「淺井家の格」。そして学歴の大切さ。

 叔母は「淺井家の男が大学に行くんだったら東大しかない」と言ってはばからず、当時はまだ珍しかった教育ママを貫き、息子をめでたく東大に入れます。彼女の息子、つまりは私のいとこはのちに「原子力村」の中核を担うようになります。

 ただ、彼とは成人してからも交流がありましたが、2011年の福島原発事故の際に意見が真っ向から対立。その後は音信不通となっています。

 その叔母が、東大は出ていなかったものの「淺井家の男」として認めたのは、トヨタ自動車でハイラックスの5代目開発責任者であった浅井重雄です。ただ、年が離れていたこともあり、私にとっては近寄りがたく、「遠くから眺める存在」でした。

 

 “おとうちゃん”のことは大好きでしたが、俊夫を慕う気持ちは日に日に増していき、周りの大人に「お父ちゃんの話をして」と聞いて回るようになりました。

 すると、大人たちは一様に「俊夫さんは本物の武士だったな」と言いながら、自分たちが知る俊夫像を話してくれました。一部の人は「(淺井)長政の生まれ変わりだったよ」と言う人もいたりして、幼かった私の頭は大混乱。

 大きくなってから整理してみると、私の祖先が室町時代に近江から流れてきていて(竜谷村史から)、それが歴史上の人物「淺井長政」の親族であったとどこかで言われるようになり、偶然父が武道の高段者の青年将校で中国戦線において武勲を挙げ、死んだのが長政と同じ28歳。そんな事実と与太話とがないまぜにして語られるうちに、いつの間にか前述の話が事実であるかのように言われるようになったということです。

 そして中には、「俊夫さんは『武士は他人に腹は切らせません』と腸結核の手術を断った」とまで言う人がいました。後日談ですが、母にその辺りを質(ただ)したところ、「それはない。手遅れだった」とにべもない(そっけない)答えが返ってきました。

ミクス 岡崎の文化人 1.png

 父の実家の近くに広忠寺という松平・徳川家由来の寺があります。その寺は読んで字のごとく、徳川家康公が父松平広忠を菩提するために建てたものです。そこには、広忠と結婚する予定であったお久の方と、ふたりの間にできた勘六と恵最(えさい)が住んでいました。ふたりは家康公の異母兄弟ということになります。勘六はのちに松平忠政を名乗り、「桑谷松平3000石」の旗本になり、徳川家臣団に名を連ねます。家康公と同じ年の同じ日に生まれたと言われる恵最は、僧門に入り、樵暗恵最(しょうあんえさい)と名乗ったと「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」などにあります。

 

 その広忠寺に時折、村の戦争体験者たちがたむろして体験談を語り合っていました。私はそこによく顔を出しては前述したように「お父ちゃんの話を聞かせて」とせがんでいたのです。

 いろいろな話を聴くうちに、「戦争がお父ちゃんをうばった」と勘違いした5歳児は、「だったら戦争をなくしたい」と思うようになりました。

 そんな思いに駆られるようになった私はある時、「おとなになったら戦争をなくす仕事がしたい。どんな仕事があるの?」と元日本兵たちに聞きました。

 すると、ふたりが「そうだな。新聞記者だな」と教えてくれました。

 ふたりにすれば軽く思い付きで答えたのでしょうが、真に受けた少年くにおみは、それからことあるごとに「僕は新聞記者になる」と言うようになりました。 

 彼らの言葉は私にとって、体の芯にまでずしんと来る重さで響ました。それからどんな苦境に直面しても「お父ちゃんのために記者になるんだ」と頭の中で呪文のように唱えて自分に言い聞かすのでした。

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