私の人生劇場

幼少期

第3回 「時代に翻弄(ほんろう)された幼少期」

【本文に入る前に】

 ここで書くことは、私を知る人には驚きをもって受け取られるでしょう。

 私はこれまで「どんな時にも明るさを忘れずにエネルギッシュに生き抜く姿」を見せようと、昭和、平成そして令和を駆け抜けてきました。「ジャーナリスト、教育者、社会貢献活動家の三足のわらじ」を履くようになったのもその結果です。そんな私の姿に共感して仲良くなってくださった方も少なくないはずです。それだけに私の人生の「負の部分」を発表することにためらいがなかったわけではありません。しかし、成長期において深く傷つき、時に屈折してひねくれた姿も「浅井久仁臣」そのものです。劣等感と優越感が極端に混在する若者に力を添えてくださった多くの皆さまとの交流が私の人生のダイナミズムを形成し、「多くのコンプレックスを抱えた三河の山猿」から「うるさいほど自信に満ちた国際ジャーナリスト」に仕立て上げていったのです。読者の皆さんにはその部分も共有して実像に近付いていただき、『浅井久仁臣 人生劇場』から何かをつかんでいただこうとあえて書くことにしました。

 

【本文】

 俊夫の実家に入った千代子は地元の竜谷小学校から復職の誘いを受けて教員に復帰しました。

 千代子にとってふたりの子育ては負担が大きいと判断した親族は会議の結果、暴れん坊で手に負えない次男坊の私を他家に養子縁組する断を下します。(注)

 段取りが整うまでの間、4歳の私は遠く離れた南設楽郡作手村(現・新城市)の千代子の実家に預けられました。実家は、祖父母、曾祖父、叔父(長男)夫婦にその長女、それに叔父叔母が5人と総勢11人の大所帯でした。

 そこにいたずら坊主の私が加わったことにより、当時は終戦後の混乱に加えて朝鮮戦争の影響もあって食糧事情が相当ひっ迫しており、ただでさえ余裕のなかった人たちの生活がさらにギスギスしたものになっていました。

浅井久仁臣 Early days 5.jpg

 特に、育ち盛りの叔父ふたり(当時小学校高学年と中学生)にとっては、私がいることで自分たちの食べる分が削られることになったわけです。彼らが私を歓迎するはずはなく、「邪魔な存在」に対するイジメを始めました。いくら暴れん坊でも4歳です。年長者に敵(かな)うはずはなく、心が傷つきやがて円形脱毛症になりました。診療所に連れていかれ脱毛した頭の患部に注射を打たれるのは、幼かった私には地獄の苦しみ。その痛みとそれに伴う恐怖は70年近く経った今でもハッキリと記憶に残っています。

 しかし、実は信じられないことですが、そうした円形脱毛症にまつわることは憶えていますが、イジメを受けたこと自体、約10年前まで私には全く記憶にありませんでした。そんなことがあるのかと不思議に思われるかもしれませんが、本当に覚えていなかったのです。

 では、なぜイジメと断言するのか?

 

 それは私が還暦の頃のこと。

 東京に住んでいた叔父のひとりが末期がんでホスピスに入所している時、子供の頃の私に対するイジメ行為を告白したのです。彼の妻である叔母が認知症になっていたこともあり、私は時折、彼の自宅やホスピスに出かけて買い物や食事の世話をしていました。

「俺たちは子供のころ、お前にあんなに酷いことをしたのになんでこんなに良くしてくれるんだ?」

 ある日叔父はベッドで体を起こすと、そう聞いてきました。

 私は、困っている近親者に手を差し伸べるのは至極当然のことと思いお世話していましたが、後ろめたさを持つ叔父には不思議でならなかったようです。

「イジメられていた?それも身内のこの人に?」

 私は自分の耳を疑いました。

「そういうことだったのか!それで苦しかったのか、脱毛症になったのか!」

 その告白にそれまでの謎が一挙に解けた気がしました。だから叔父にはそれに対して怒るのではなく、感謝の念を伝えました。 

 でも疑問は残りました。

 ならばなぜその記憶が自分にないのか?という疑問です。「幼児性健忘」と思いましたが、それでは説明がつきません。

 その後いくつかの専門書を紐解いていくと、「解離性健忘」に目が止まりました。

「そんなこともあるんだ」

 その記述を読んで腑に落ちた気がしました。

 話を当時に戻します。

 祖父母の家に一時的に預けられていた私に、千代子は時折り、会いに来たようです(これも記憶にありません。母や親族から聞いた話です)。でも、「なぜおかあちゃんとおにいちゃんと一緒に住めないのか」を理解できなかった4歳児が親に見捨てられたと感じるのは普通です。やがて訪れる千代子を遠ざけるようになったそうです。

 会っても寄り付かない我が子に目が覚めたらしく、千代子は養子縁組を解消、私を再び自分の手元に戻しました。

 

(私が「養子に出されそうになった」ことを知らされたのは、中学生の時でした。反抗姿勢に手を焼いた千代子は私の頬にビンタを見舞った後、「あんたなんかは養子に出しとけばよかった。かわいそうだと思って養子の話をやめてやったのに」と言ったのです。それを聞いた私は、すべての時が止まったような気がしました。私の反抗は確かに度を越していました。激務を抱えて最終バスで帰宅する毎日の千代子は、おそらく心神耗弱と言っても過言ではないほどでした。しかし、子供にとって親の愛情は絶対です。母親の心無い発言は、幼児期のつらい体験に加えて多感な思春期の私を苦しめることになります)

 

 再び一緒に住むようになっても、「男は泣くな!女々しいことを言うんじゃない!」「ててなしご(父親のいない子)は世の中で馬鹿にされます。しっかりしなさい」と兄や私を叱り、時に体罰を加えてくる母に、私は心を開けなくなっていたと思います。だから、叔父たち(母の弟たち)から受けていたイジメのことを言っても信じてもらえないとあきらめたのでしょう。私はその事を母に打ち明けることなく、これはあくまでも私の推測ですが、イジメられたことも時間の経過とともに記憶から消えていったのではないでしょうか。

 しかし受けた心の傷は容易に癒えるものではなく、当時は毎夜のように“おそがい(三河弁で「恐ろしい」)夢”に悩まされ、寝るのが怖くなった時期が長く続きました。一度母に悪夢で苦しんでいることを訴えましたが相手にされず、二度とそれを口にしませんでした。その代わり、父方の祖母こまに話を聞いてもらいました。

 今でも祖母との会話とその光景をいくつかはっきりと記憶しています。

 私がイジメを受けていたことは当然知っていたのでしょう。不憫(ふびん)に思っていたはずです。

 こまは落ち着いた口調で「こうやってごらん」と枕を叩きながら「おそがい夢は見ませんように」と呪文を唱えてくれました。

 

 それから数年後、後述しますが私は肺浸潤に罹り半年間入院します。その時付き添ってくれたのが祖母で、毎夜「おそがい夢を見ないようにお願いして」とせがんでいました。

 ところがしばらくして無理がたたったか祖母が別の病院に入院してしまいます。見舞った彼女の前で涙を見せる私に、母たち大人は「やっぱりおばあちゃんっ子だね」と半分からかうような言い方で笑いましたが、私は呪文を唱えてくれる祖母がいなくなるのが怖かったのです。残念なことに、祖母はそれからしばらくして他界。私は大きな後ろ盾を失ってしまいました。

 

【あとがき】

 母や親族へのうらみつらみに思えるような内容でしたが、私にはこれらの人たちに対する感情的なしこりは全くありません。

 それは、私の人生に関わった大人たちにとっては当時の常識に従って判断したものであり、悪気があっての行動ではなかったからです。また私につらく当たった叔父たちに関しても、理不尽な「大人の都合」を押し付けられたから「そのはけ口」として私を標的にしてしまった可能性が高いからです。

 いずれにしても、「時代」がそうさせたと思います。「おんな・こども」に人権はないも同然で、男社会の論理でものごとが進められていく時代がいかに醜悪であるかその一端をお分かりいただけたと思います。ここから私たちが学ばなければならないのは、女性はもちろんのこと、子供もひとりの人間であり、形やレヴェルはいろいろにせよ、基本的には「女性や子供の視点」が生かされていく社会づくりに努力していくことの大切さです。間違っても「古き良き時代」などと言って懐かしんだり、その再現を願ったりしてはなりません。

 

【注 養子】

  日本には伝統的に世継ぎ(男子)に恵まれぬ夫婦が、「家系を断絶させないため」に男子を欲しがりました。余裕のない親が次男以下を養子に出すことは珍しくなかったのです。