第2回 「出生。一年後の父の死」
再会した三人は岡崎市連尺町に新居を構え、再スタートを切ります。父は公職追放の憂き目に遭い希望した職に就けず、運送業(と言っても、大八車やリヤカーを使ったもの)を始めました。
間もなくふたり目の子供(久仁臣)の妊娠が確認されます。しかし、それとほぼ同時に、俊夫が深刻な病に罹っていることが分かります。腸結核でした。主治医の冨田清(世界的音楽家冨田勲の父)によると、戦地で以前肺結核に罹っていたものの重症化せずに気が付かず、腸に転移したのではないかとの診たてでした。
「アメリカにはペニシリンという薬がある。それさえあれば治るのだが」
と冨田医師は悔しそうに千代子に語ったと言います。
軌道に乗りかけた事業も暗転。
「結核と分かると、それまで出入りしていた人たちはぱったりと姿を見せなくなるわよね、当然だけど。でも、何よりそれがつらかった」
「赤ちゃんができたからおなかが空いて仕方がなかった。とにかく町にはどこも食べるものがなくてね。連尺や康生を大きなおなかを抱えて知り合いの所に物乞いに行ったよ。何度も気を失いそうになりながら」
かつて母はその頃を思い出して懐かしそうに語ってくれました。
「甘いものが大好きだったから食べさせてあげたいんだけど何もなくてね。ある時、『大福が食べたいな』とお父さんに言われたんだけど、手に入らなくて…」
その言葉を受けて、俊夫の命日には毎年、大福を墓に供えるようにしています。
1947(昭和22)年9月17日、私が生まれた時、隣の部屋で俊夫が病に伏していたそうです。そして、私が最初の誕生日を迎えたひと月半後、「お前には本当に苦労を掛けるな」との言葉を遺して父はこの世から去りました。齢(よわい)28の若さでした。
家族会議が開かれ、住んでいた家を売却。一家三人は父の実家の世話になることになりました。
(写真は1948年12月に売却された生家の権利証)