第39回 「青春放浪・大学受験浪人②」
(前回のつづき)
夏休みで帰郷したSは、当時はやり始めていた長髪姿で私の前に現れました。
その頃大都会の若者たちは、折からの反戦ムードに加えて欧米の流行の影響もあり、男性でも長髪にする者が多く、肩まで届く長さの髪を揺らして歩く姿も珍しくありませんでした。そんな光景を新聞やTVでは見ていたものの、実際にその雰囲気を田舎に持ち帰ってきたSからくにおみは新鮮な〝ニオイ〟を感じました。
東京の大学生活の話を聞くうち、Sが長期間部活動でアパートを留守にすると知ったくにおみの頭に〝妙案〟が浮かびました。
「お前がいない間、アパートを借りられないかな?もちろん家賃に上乗せして大家に払うからさ」
とSに持ち掛けました。当時のくにおみは無意識でしたが、今思えば相手の都合や事情などお構いなしで、自分が思い付いた話に相手を巻き込んでいたと思います。Sのアパートを借りる話もいつの間にか「三者が得する話」になっていました。
東京に戻ったSから大家の承諾を得たとの連絡を受けたくにおみは早速上京。Sと巣鴨駅で待ち合せました。
アパートは独身の高齢女性が幾部屋かを貸す下宿屋でした。部屋は4畳半の和室で、トイレや風呂はなく、今なら大学生は敬遠する様式ですが、当時はそれが標準。かねてより家族から早く独立したかった私には申し分のない条件でした。
それまでにいろいろないきさつがあり、志望校を早稲田大学から東京外国語大学に変えていた私には、その大学の近くで生活できる心理的なメリットは大きく、高校入学以来失っていた勉学意欲もわいてきました。
予備校も東京外語の受験に特化したコースを持つ「高田外語」を選びました(閉鎖してしまったのでしょうか。ネットではその名前を見つけられませんでした)。
国立大学ですから受験科目に数学が増えました。高校一年生以来まともに勉強していませんでしたが、本格的に勉強し出すと〝勘〟が戻り、楽しささえ感じられます。授業態度にもそれが現れていたのでしょう。積極的に講師に関わる私の姿に「できる奴」と勘違いしたクラスメートが教えを乞いにくることもありました(笑)。
成績もそれを反映して右肩上がりになりました。しかし余裕を持つとまたぞろくにおみに悪い癖が出ます。
神田の古本屋街に足しげく通っているとき、ある哲学者と〝出会い〟ます。出会うと言っても本にハマったという意味です。
その哲学者の名は西田幾多郎。京都大学の教授を務め、「京都学派」の創始者として知られる人物です。ただし、その頃を振り返ると、「西田哲学」に傾倒したと言うよりも、彼の言葉「頂天立地(誰に頼ることなく生きる事)自由人」と、その四高時代の豪放磊落な生き方に〝自分を見た〟からに過ぎなかったかもしれません。
師弟の間にあたたかな交流があり自由闊達に振舞えた校風は、明治政府の方針で送り込まれてきた旧薩摩藩の教師陣の上意下達、武断的なやり方によって突如変わってしまいますが、抵抗した挙句に「こんな学校やめてやる」と中途退学してしまう、自分を貫いた西田の生き方に共鳴したのです。
そんな西田への共鳴・憧れから京都大学に入りたいとも思いましたが、「過去問」ではかった自分の理科や数学の実力では合格圏に遠く及ばず、もう一年浪人しないと歯が立たないと気付かされ、〝我に返った〟くにおみは高田外語に通い続けました。
また、一週間に2,3回は、予備校から近かった早稲田大学のキャンパスに足を運びました。前年からの学費値上げに始まった学生たちの反対運動は「学生会館管理問題」「ヴェトナム戦争反対」にまで広がり、日を追って盛り上がりを見せ、活動家たちのアジ演説を聴いているだけでも何となく心躍るものがありました。「新聞記者になるのだから」と、演説の内容だけでなく、学生たちの感想やキャンパスの雰囲気を一文にまとめることもしていました。
小遣い銭が欲しかった私は、〝悪事〟に手を染めることもありました。
自分が受験生の立場でありながら友達の学生証を使って経歴を偽り、赤ペンを持ち、大手受験事業者が行なっていた現役受験生向けのテストの添削をして報酬を得ていたのです。「受験生が受験生に受験の手ほどきをする」のですから犯罪であることには違いがありません。遅きに失した感はありますが、〝被害者〟の方にはペコリ、心よりお詫び申し上げます。と言っても、あまり反省をしていませんが……。
新宿にある「歌声喫茶」に顔を出し、大声を張り上げる日もありました。「英語でナンパ」も再開して、手当たり次第に外国人に話しかけて、彼らとの交流を楽しむこともありました。
そんな日常を送るくにおみの姿は受験浪人生と言うよりも大学生そのものでした。
そのように東京の「頂点立地アパート生活」は充実していました。しかし問題が無かったわけではありません。「南京虫」と「アヘアへ」に悩まされました。南京虫は、アパートに巣くう〝吸血鬼〟のことです。
帰郷したSが「皮膚病になっちまった」と言っていたものが、実はアパートに巣くう「5ミリの悪魔」の仕業だったのです。皮膚病と信じ込み塗り薬はないものかと相談に行った薬局で、私の全身に広がる真っ赤な斑点を見た薬剤師から「ふたつ並んで刺されています。南京虫の特徴です」と言われました。
笑い話のような光景でしたが、テキは肌を露出している部分の血を吸いに来るので両手に靴下をはめて寝たこともあります。天井から落ちてくるというので、寝床の上の天井に紙を張ったこともあります。結局、バルサンという駆除剤で簡単に問題解決しましたが、その2,3週間はあまりの痒さに夢でうなされたりしたものです。
「アヘアへ」問題は、南京虫よりタチが悪く、寝不足どころか、本能に訴えかけてくるものがあり、10代後半の若者を大きく悩ませました。
アヘアへとは、男女のむつごとから発せられる女性の嬌声です。安普請の建物で周りを囲まれているため、夜になるとあちこちから聞こえてきたのです。
ある夜勉強をしていると、どやどやと5人(4人だったかも?)の若い男たちが、私の部屋に入ってきてあいさつをすることもなく明かりを消して窓に張り付いたことがありました。
何か声を上げたとき、ひとりが〝しーっ〟と言って私に静かにするように言いました。
「な~んだ。いないか」
と言う声と共に明かりがつけられました。
「えっ?!」
「誰?」
両者の間でそんなやり取りがあり、風変わりな自己紹介が始まり、状況説明が行われました。
彼らはSと同じ大学に通う仲間たち。隣のアパートのカポー(男女)が繰り広げるLive Showの見物に来たというのです。しばらくは気まずい空気が漂いましたが、そこは若者たちの気楽さで直ぐに打ち解けて酒盛りが始まりました。
間もなくして岡崎に戻った私は、元の浪人生活に戻りました。
ある日新聞を読んでいたくにおみは、一ヵ月の間にふたつの大きな人物紹介記事に目がとまります。
その人物の名は、天野貞祐。前述の西田幾多郎の門下生で、吉田内閣で文部大臣を務めた後、1964年に獨協大学を創設し初代学長をしていた哲学者です。「語学教育を基本にしたグローバル人材の育成」方針は、文部大臣時代の天野を知る野党勢力や日教組から「反動教育」とのそしりを受けていましたが、「西田幾多郎の門下生」は何とも魅力的。また、天野の発する言葉から魅力を感じたくにおみは天野学長宛に自己紹介と質問を書いた手紙を送りました。
返事は期待していませんでしたが、一週間と間を置かずして天野からの返書が届きました。そこには私が大学に期待する答えが的確に書かれており、「あなたのような若者を私は育てたい。頑張って入学してください。お待ちしています」と書かれていました。
もうひとりは、当時「マスコミの帝王」の異名を取り、毎日のようにテレビや新聞にその姿を見せて独特の評論活動を続け、1967年1月に『東京マスコミ塾』を開講した大宅壮一でした。特に、受講希望者が殺到して競争率が100倍を超えたとの報道もくにおみを刺激、「上京したら絶対に入塾してやる」と心に決めます。
そのようにして、ちょっぴり大変な、でもそれなりに楽しめた浪人生活はあっという間に終わり、獨協大学外国語学部に入学することにしました。
予想通り獨協入りに母は猛反対。入学手続きに行く私についてきました。大学のキャンパスに入っても入学金や授業料を渡してくれません。
「もう一度聞くけど、本当にこの学校で良いの?後悔しない?」
と未練がましく言います。しかし、くにおみの心が揺れることはありません。「そんな往生際の悪いことを言いなさんな」と言って右手を出す私に、彼女は落胆した表情で腹巻に隠し持ってきた大金を取り出して渡してくれました。
その姿にくにおみの心が動揺しないはずはありません。憐れみすら感じました。また、「親を裏切り続けるのか!」と長年周囲から言われてきた親族からの言葉も頭をよぎります。
「ついてくるなよ。俺一人で行くから」
母の姿や親族から受けてきた言葉への感情を振り捨てるように、くにおみはカネの入った封筒を母から奪い取るようにして、事務管理棟に向かいました。そこまでついてこようとする彼女を「ここで待ってろよ」と手で制して支払いを済ませました。
それから入学までの日々は上京準備であわただしく、あっという間に過ぎました。
母から何度も「N先生だけにはご挨拶に行くのよ。あれだけお世話になったんだから」と二年生の担任の自宅に挨拶へ行くように言われました。確かに担任として、また指導係でもあったNに何かと面倒をかけたことは事実です。お礼に伺うのは当然だとその気になりました。
ただ、その直前にとてもいやなことがあり、心がすさんでいた私はNを前に冷静でいられる自信がありません。ひとりの友達に同行してもらいました。どの友達に同行を頼んだのかの記憶が無くなっていましたが、数年前に会った友人Hとその話をすると、「俺だよ。お前に突然頼まれて訳の分からんまま付き合わされたじゃないか」と言われて、彼であることが思い出されました。
玄関で応接してくれたNの妻に用件を伝えると、「しばらくお待ちください」と彼女は奥に姿を消しました。
ところが、Nはなかなか現れません。友達と「どうしたんだろう?」といぶかっていると、私たちの前に姿を見せたのはNではなく再び彼の妻でした。
「腰を痛めているので臥(ふ)せっております。起き上がれません。これから頑張ってくださいとのことです」
というような話をされました。何か彼女の表情に影を感じましたが、「お大事にしてください」とあいさつして辞去しました。
話は半年ほど先に飛びます。
夏休みに帰省した友達から「お前、N先生にお礼参りに行ったんだって?」と言われました。
「本当に御礼に行ったのに、逆の意味にとられたか!ばからしい」とその友達に言ったものの、冷静になって考えると、「それもやむなし」と思えました。在校時にかけた迷惑はおそらくNにとっても常識をはるかに超えるもの。そう受け取られてしまったのは残念でしたが、冷静に考えれば、その頃は「生徒の教師に対するお礼参り」が珍しくない時代でした。生徒指導を担う立場の教員にとってはそれが自己防衛。危機管理だったのでしょう。
そんなカバンに詰め込みきれない想い出と「やってやるぞー」という青雲の志と共に、1967年4月、くにおみは上京しました。