私の人生劇場

青年期

第38回 「青春放浪・大学受験浪人①」

 私と同じ年に生まれた当時の若者たちは、ベビーブーム、後に団塊世代と言われた270万人(一年間の新生児数)の集団です。何事においても競争が付きまといました。「競争に勝ち抜くこと」に価値観が置かれ、〝ガンバリズム〟に追い立てられた世代です。

 大学受験においても同様で、有名大学に入ることが最大の親孝行。人気の高い大学・学部には20倍30倍もの受験生が殺到する、今では考えられない激しい競争にマスコミが付けた名が〝受験地獄〟。これは女性への門戸が大きく広げられて、女子が4年生大学に殺到したことも影響しています。親を含めて受験生は、大学受験生向けの雑誌『蛍雪時代』をバイブルのように抱え、血相を変えて自分たちが地獄に落ちないようにと頑張っていたものです。

 

 当時岡崎に予備校はなく、名鉄電車に揺られて一時間。名古屋駅近くの予備校・河合塾に通いました。今では全国に展開する大手予備校ですが、当時はまだ名駅校で2校目でした。

 今はあの辺りがどうなっているか知りませんが、当時はまだ戦後のどさくさのにおいプンプン。夕刻が迫ると〝お兄さん、いい子がいるよ。寄ってらっしゃいな〟とエプロン姿の女性が手引を始める怪しい場所、いわゆるドヤ街の近くにありました。ドヤとは、日雇い労働者向けの簡易宿泊所や性的サービスを提供する店や旅館が立ち並ぶ地域を言います。

 体験入塾のようなものはなく、手続きを取るまで教室の中をうかがい知ることはできなかったように記憶しています。だから最初の授業でその規模に仰天しました。大教室に数百人の生徒が詰め込まれたのです。そのあまりに非人間的な環境にやる気をそがれたくにおみはそれをいいことに勉強に身が入りません。

 苦情が多く出たこともあり、〝ゼミナール(ゼミだったかも?)〟と称する「少人数制のクラス」を急遽始めました。登録しましたが、少人数とは名ばかりで高校のひとクラスの規模(当時は約50人)です。

 今から思えば、河合塾もベビーブームの熱量に苦慮して試行錯誤の連続だったのでしょう。でも、大人社会のほぼ全てを否定的にしか見ないくにおみは、そのやり方が許せません。「詐欺じゃないか!」と事務局に怒鳴り込んだりしました。

 そんなこともあってやる気が起きず、6月までは仲間とつるんで遊んでばかりいました。「英会話修行」のために一時期は足しげく通った名古屋港からも足が遠のきます。

 

 ある時、友人のひとりSが失恋したと言ってひどく落ち込んでいました。何がしたい?と聞くと、「酒が飲みてえ。飲んで忘れてえ」と言うので、他にふたりの友人を加えて近くの酒屋でウィスキー・サントリーレッドの大瓶(2ℓ入り)を買ってきて4人で予備校の屋上に行き、酒盛りを始めました。

 4人の内、私とAはほとんど飲めなくてSとWのふたりがグイグイ飲みます。食堂から借りてきた湯呑で一気呑みするふたりに「しらふ組」は呆気に取られていました。ふたりはあっという間に大瓶を空にしてしまい、「もっと飲みてえ!」と言います。酔っぱらった状態で予備校にいるのはまずいと判断、外に出て酒屋で一升瓶に入ったぶどう酒(ワインなどと言えるシロモノではなかった)をふたりに買い与えました。そして近くの公園に行きました。

 大きな図体をしたふたりの若者がブランコに乗りながら一升瓶で酒をがぶ飲みする様は尋常ではありません。しかも時折り大声を上げます。

「まずいな、これは。何とかせんといかん」

 とAと話していると、心配していた事態となりました。警察官がふたり登場してきたのです。

「昼間から何やっとる!近所迷惑だぞ!隣は幼稚園じゃないか!」

 警察官は怒りの形相です。当時は〝おいこら警察〟と言われていた時代で、そういう威圧的な口の利き方をする警官が多かったです。

「お前ら、高校生じゃないのか?!」

「いや、浪人です。二浪ですよ。こんな老けた高校生はいないでしょ、おまわりさん。こいつが失恋して死にたいと言うものですから酒で慰めてやってるんですよ」

 こういう場面を切り抜けるのはくにおみの得意技です。私が警察官の相手をしました。しかし、ブランコの上でうなだれているふたりを見て「万事休す」と覚悟、次なる一手はないものかと思いを巡らすくにおみでした。

「それじゃあ、生年月日を言ってみろ!」

 と言う警察官に、

「私が昭和20年何月何日。こいつが同い年で4月、こっちも同い年で5月生まれです」

 と私がとっさにふたりが20歳になるようにさばを読んで答えました。

「なんでお前が全部答える?黙っとれ」

と警察官は私に言うと、

「おい、お前、お前はいつ生まれた?」

 とブランコに乗るふたりに聞きます。

「いや、見てくださいよ。まともにしゃべれる状態ではないですよ」

 〝まずい〟と思って私がそう言葉をはさみましたが、ふたりにはまだ若干意識があったようで、それぞれ私が警察官に答えていた生まれ年月で応答しました。

「分かった。だが、ここから移動しろ。また通報があったら次はトラ箱入りだぞ!」

 というセリフを残してふたりの警察官はその場から去りました。トラ箱とは、泥酔者を収容する警察の施設の事です。

 「この場にいてはまずい、どこか安全な場所に移そう」としらふのふたりは決断。SはAが、Wは私がかついで移動することに決めました。酔っ払いふたりは共に大柄です。しかも泥酔状態ときています。折から降り始めた雨の中を運ぶのは容易ではありませんでした。Wが何度も私の背中からずり落ち学生服を着ていた私のボタンが全部ちぎれてしまったほどです。

 しばらく行くと住宅団地があり、そこにふたりを座らせてAと〝作戦会議〟です。予備校から助っ人を連れてきて酔っぱらったふたりを近くの安宿に運び込むのが最善策と決まりました。Aがその場で監視役、私が応援してくれる友達を見つける役と決めて河合塾に急行。応援してくれる友人を探し出し、他の何人かから〝カンパしろ〟とカネを集めて3人が待つ場所に急いで戻りました。

「やばいぞ。警察が来る」

 不安気に待っていたAが珍しく緊張気味に言います。

 私が助けを呼びに行っている間に近くの住民に周りを囲まれてしまったこと、それに慌てた彼がふたりを手荒く扱ってしまったことを話し、「通報されたかもしれない」と言うのです。

 幸い直ぐに応援のふたりが見つけてきたタクシーが2台来ました。ふたりを別々に乗せ、我々も狭い空間に体を小さくして乗り込み、その場を離れました。そして近くの安宿に潜り込みました。宿にたどり着いても自分で歩くことができないふたりを部屋に運び込むことは至難の業でしたが、応援のふたりのお陰でなんとか布団に寝かせられました。

 ふたりの枕もとでAが「やばかった。一分遅れたらパトカーに捕まってた」と言います。彼の説明を聞いて本当に間一髪だったことが実感できました。私には見えなかったのですが、Aはタクシーの後ろ窓からパトカーを確認したというのです。

 まあ、終わり良ければすべて良しです。胃の中のものを吐き切ったふたりが意識を取り戻すまでには時間がかかりましたが、無事に帰宅することができて笑い話として関わった全員の記憶に残りました。

 

 「ヤーサンを下駄でポカリ事件」も忘れられない浪人時代の一ページです。

 予備校のやり方に不満な私たちの多くは間もなくして自分達で勉強する道を選びました。単独でやる者、何人かで集まりグループで勉強する者と様々でした。

 私が時折顔を出していたグループに、I を中心とした集まりがありました。他校の卒業生もまじわり楽しく群がっていました。

 そんなI からある日相談を受けました。ヤクザから脅されているので力を貸してくれないかというものです。話の概要は次のようなものでした。

 ある夜、Tの家に集まっていた仲間で岡崎城の近くの板屋町を散歩していた時のこと。闇夜に響く女の助けを求める声。〝すわ大変!〟と皆で駆けつけると、そこは男が女を殴るけるの暴行現場。それを見たOが、履いていた下駄を脱ぎ男の頭をポカリ。女性に感謝されると思いきや、彼女の口から出てきた言葉は「私のダンナに何するの!」。

 〝やばい〟と全員逃げようとしたもののひとりが捕まってしまいました。悪いことに、その暴力男はヤクザ。そしてカネを要求してきたのです。

 そう言われても、とても私たちに要求された金額を出す余裕はなく、私も一生懸命に友達から集めましたが大した額にはなりません。あちこちからかき集めたカネを渡しても相手は許してくれず、脅し続けてきました。それ以上は18歳の私には手に負えぬと思案投げ首の時、Wから「解決した」との連絡が入りました。

 それはまるでヤクザ映画のような話で、メンバーのひとりの祖母が悩んでいる孫を見て何事かと首を突っ込んできて〝ひと肌脱いだ〟と言うのです。彼女の登場でポカリ事件は一挙に解決したとのことでした。

 昔は彼女のように広い人脈を持ち、肝っ玉のすわったおばちゃん、おばあちゃんがいたものです。その事件も、それであと腐れなく解決されました。

 

 そんな風で、気ままな浪人生活は楽しくはありましたが、くにおみの成績は低迷したまま。7月に入るとさすがに「これでいいはずはない」と焦りを感じました。そんな時、東京の大学に通うSが夏休みで帰郷。彼の大都会の学生生活の話にくにおみは目を輝かせて聴き入りました。そして、どんないきさつからそうなったか記憶にありませんが、彼が帰郷中、空き部屋になっている彼の東京のアパートを使わせてもらうことになりました。

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