私の人生劇場

青年期

第43回 「青春時代のリセット」

 「大宅壮一東京マスコミ塾」の退会を決めると私は事務局長の森川宗弘のもとを訪れました。退塾の意志を伝えると森川は昼食に私を誘います。

 連れていかれたのは、日本橋の高級レストランでした。〝お上りさん〟のくにおみはおそらく目を丸くしてキョロキョロしていたと思います。席に着くなり自分の気持ちを話し始めようとする私を制して「まずご飯を食べよう」と森川は言います。

 この辺りのタイミングは今思い出しても絶妙なものがありました。体育会系のノリで飲み込むように食べるくにおみは、出される皿をあっという間に平らげ、育ちの良さを感じさせる食べ方の森川が終わるのを待ちます。前菜から食後のコーヒーまであまりに時間がかかるので、間が持ちません。

 どんな話題だったか忘れましたが、森川はいろいろな世間話をしながらこちらの気持ちをほぐすような空気を作り続けます。言葉には表しませんでしたが、ひそかに〝さすが慶應の経済は違うな〟と、田舎者特有の慶應大学経済学部卒業生に対するコンプレックスに似た感情を持ちました。

 そして食後のコーヒーが出されると、森川がようやく「話を聞こうか」と言いました。 退塾するとの気持ちを話すと、森川は「分かった。好きなようにしたらいい」と言い、「ところでこれから浅井君がやりたいことを教えてもらえないか」と続けました。

 意外でした。あのように迷惑をかけて入塾を希望した私の不実をなじることなく、受け入れてくれる森川の度量に驚かされました。

 しかしそこで躊躇(ちゅうちょ)は禁物です。一気に退塾するだけでなく「大学を辞めること」「従軍記者に早くなりたいこと」「アメリカの大学でジャーナリズムを勉強したいこと」「留学するカネが無いので必死に働くこと」などなど思いのたけを話しました。一時間近く話したかと思います。まくしたてるくにおみの話をひとことも口をはさむことなく聞いていた森川は口を開くと驚きの言葉を発します。

「分かった。留学の費用は私が出す。アメリカでもイギリスでも勉強に行ってきなさい」

 くにおみは自分の耳が信じられません。森川の発した言葉が驚きのひと言。その意味が理解できなかったのです。

「そんなご厚意に甘えていいはずがありません。第一、僕の能力が足らなくて記者になれないかもしれません。そうなれば結果的に森川さんを裏切ることになってしまいます」

 と何とか吐き出すように言うと、

「それはそれで仕方がない。向こうで勉強してきたものを私の会社で発揮してもらえばいいよ。会社を上げるから僕の後を継いで社長をやればいい」

 森川は私を気楽にさせようと言ったのでしょうが、私には表面的な言葉の意味は理解できてはいるものの彼の真意を測りかねていました。 だから「そんなわけにはいきません」と答えるのが精いっぱいでした。

「そんなに結論を急がなくてもいい。ゆっくり考えればいいじゃないか」

 と森川に言われましたが、

「いや、どれだけ考えても答えは変わりません。ご厚意に甘えるわけにはいきません」

 くにおみは頑なに森川の申し出を断りました。

「それじゃあ、週に一回くらい会社に遊びにおいでよ」

 自分の考えにこだわることなく、森川は気楽にそう言いました。そんな形なら望むところです。「落ち着いたらそうさせていただきます」と約して別れました。

 

 森川に大学中退の意志を伝えたように、くにおみは大学に通い出してすぐに獨協大学は自分が身を置くところではないと考え、数か月で、厳密には3,4日で辞めようと心に決めていました。

 住んでいた学生寮も寮監から「お前がいるから寮の風紀が乱れる」と目の敵(かたき)にされており、最初の夏休みに里帰りしないで門限破りを繰り返し、何事もマイペースな私に、

「お前にはルールが分からんのか!うんざりだ。出てけ!退寮だ!」

「里帰りした連中が戻ってくる前に退寮してくれ。お前がいると空気が乱れてやりにくくて仕方がない。俺の神経がおかしくなる」

 とまで言われていました。

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 その頃、大学の同級生とサークル仲間の3人が退学を思いとどまるように説得に来ました。しかし、結果的にそのうちふたりはくにおみの影響を受けて退学してしまいます。

 退学したことは、ひとりについてはそれから約20年後、私の出した本を読んだと言ってくれた手紙で知ります。手紙には彼が翌年、早稲田大学文学部に入り、卒業後は出版界に入って活躍しているさまが書かれていました。

 リセットを決めたくにおみに迷いはありません。大学には何の手続きも取らなかったのでおそらく抹籍処分になったはずです。大学やマスコミ塾に加えて通っていた大手語学学校も「役に立たない。時間とカネの無駄だ」と中途退学しました。寮には「退寮者第一号」の〝名誉〟が残ったようで(笑)寮生の語り草になりました。

 その辺りの話は、64歳で故郷に妻直子と共に移住してから寮生活仲間だった友達から聞かされました。寮生たちは70代になった今も年に2回〝同窓会〟をやっているのです。

 

 寮を出たくにおみは板橋区の中板橋にある3畳間のアパートに移り住んでデパートの届け物の配達人になり、自転車の荷台にたくさんの荷物を積んで都内を走り回る生活を始めました。それだけでは留学費用は貯まりません。夜は地下鉄東西線の工事現場で明け方までつるはしを振るい、アパートで数時間泥のように眠るとまた配送センターに行くという超ハードスケジュールをこなしていたのです。

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