私の人生劇場

青年期

第41回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く②」

前回のつづき)

 小論文を提出後、マスコミ塾事務局から数日して一次審査を通ったとの連絡があり、満を持して4月15日、二次試験会場に向かいました。面接会場は事務局とは違い、近代的なビルの中にあり、廊下にも絨毯が敷かれている、テレビドラマに出てくるようなおしゃれな会議室でした。

 集まった受験生の顔ぶれは意外や意外、中高年も少なくありません。逆に、思って(期待して)いたよりも大学生は少数でした。

「面接方法をご説明します。名前を呼ばれた受験生の皆さんはこちらの部屋に入っていただき、先生方と自由に意見を交換していただきます。ブレーンストーミング・スタイルです」

 と説明する女性は、柔らかな物言いの中に〝有能オーラ〟を全身に漂わせる女性(実際にそうでした)。しゃべり方も口をついて出る言葉もまたそのたたずまいも、くにおみがこれまでに生きてきた世界の女性とは大きく違います。ブレーンストーミングなどという意味すら分からないくにおみでしたがそのことはあまり気にしないようにして(いまだに覚えているということは、気にしていたのでしょう)、TVドラマのような環境に気分を高揚させ、「よーし、講師たちにひと泡吹かせてやる!」と自らを奮い立たせます。

 

 その日は東京都知事選の投票日。

 選挙戦は、社会党と共産党が組む「社共共闘」の支援を受ける美濃部亮吉氏と、自民党と民社党が推薦する松下正寿氏の事実上の一騎打ちとなっていました。

「都知事選には絶対に触れてくるはず。ならばこう答えよう」と、くにおみは〝模範解答〟を考えます。

 激しさを増していた学生運動やヴェトナム戦争も頭の中で「想定問答」。そうして高鳴る心臓を抑えて自分の出番を待ちました。受験生がひとりで入室したのか複数だったのかの記憶はあいまいです。記憶にあるのは、目の前に並ぶ錚々(そうそう)たる講師陣の顔ぶれです。10人前後のいずれもテレビや新聞、雑誌で見たことのある有名人がズラリ顔を並べていました。

 列の真ん中にいるのは塾長の大宅壮一。その左には番頭格の評論家・草柳大蔵、右手横には財界ご意見番こと三鬼陽之介が座り、こちらに鋭い視線を放っています。他に、元毎日新聞外信部長でライシャワー駐日大使と大バトルの末に会社に辞表を叩きつけて独立したジャーナリストの大森実、明治大学教授で当時は創価学会との論争を繰り広げ、後に『時事放談』(TBS)を担当することになる藤原弘達の顔も見られます。

 そして左隅には、事務局で見た〝新聞男〟がぎょろりと特徴ある目を光らせ、あいさつする私に会釈を返してきます。その時初めて彼が事務局長であり、その名が森川宗弘であることを知ります。

「ロンドンではミニスカートが流行っているようだね。どう思いますか?」

 大宅がいきなり突拍子もない質問を私にぶつけてきました。

「〇✕△□?!」

 意表を突かれたくにおみの口をついて出た大宅への答えはしっちゃかめっちゃか。頭の中は真っ白になり自分でも何を言っているのか分かりません。後にも先にもこんな上がり方、乱れ方をしたのはその時だけです。

 〝惨敗〟でした。

 ミニスカートの話の後に何を聞かれ、それらの質問にどう答えたのか。そんな記憶すらありません。記憶にあるのは打ちひしがれて寮に帰ったことぐらいです。

 数日後届いた結果は、案に相違して〝合格〟。しかし面接の内容が散々だっただけに喜び全開とはいきません。「新聞男の情けで入れてもらえたんだ」と複雑な心境でした。

 

 入塾手続きを終えて翌週には講義が始まりました。勤め人が多いので授業は夜でした。何コマかの講座を受けた後、得も言われぬ違和感を持ちました。何かが違うのです。謳い文句であった「昭和の松下村塾」とは大きくかけ離れていたのです。それはくにおみが求めていた「学び舎」ではありませんでした。

 確かに、テレビ画面や紙面でしか見ることが出来ない著名人の話を狭い空間で直接聞けて質疑応答も許される機会はめったにあるものではありません。今にして思えば、面白い仕組みを考えたものだと冷静に判断できますが、当時の世間知らずの直情径行(ちょくじょうけいこう)そのものの田舎モンには納得できません。「これではいかん」と講師の面々に食らいついて講座以外の交流を求めることにしました。しかし、講師にすれば迷惑な話です。異常に熱い若者が情熱をぶつけてくる姿に困惑の表情を隠しません。それでも4人の講師と教室外で会うことが出来ました。塾長の大宅、前述の大森、TBSキャスターの田英夫、それに落語家の立川談志です。

 大森からはライシャワーとのやり取りや辞職に至るまでの話を期待しました。しかし、彼が私に会ってくれたのは、毎日新聞の退職後に発刊した週刊新聞『東京オブザーバー』の販売員へ勧誘するためと、『太平洋大学』(注・リンク先のサイト。一番右の写真のやくざ風の男が大森です)に誘うためでした。新聞も船上大学構想も興味を持ちましたが、大森の話の持っていきかたにへそを曲げたくにおみは、それ以上近付こうとはしませんでした。

 

 面白かったのは、立川談志との付き合いでした。

 彼は当時30代前半の〝落語界の風雲児〟。今も続く長寿人気番組『笑点』の初代司会者で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

 くにおみは第一回目の講座で談志の真ん前に陣取り、質問攻めしました。著書『現代落語論』を読み込んだうえで臨みましたから他の塾生よりも踏み込んだ質問ができたと思います。

 私が質問時間をほぼ独占状態で一時間目を終えます。トイレ休憩に入ると、

「アンタ、面白いなあ。楽屋に遊びに来いよ」

 私の隣に来て、アサガオ(小便器)に向かって用足しをしながら談志が声をかけてきました。

「いいですよ」

 心の内で〝やったぞ〟と快哉を叫びながらも興味なさげに応えました。

 

 間もなくして顔を出した寄席『人形町末広』の楽屋は、笑点でおなじみの三遊亭円楽、桂歌丸、毒蝮三太夫などの名前の知れたお笑い芸人であふれていました。

 談志は当時まだ30代前半。落語界ではすでに最高位の真打の座にありましたが、年齢的に言うとまだ並み居る師匠の目を気にしなければいけない存在でした。ところが、そんなことはまるで気にする風もなく、大御所のような立ち居振る舞いです。

 高座を務め終えると談志は「さあ、飲みに行こう」と私に言い、笑点グループを引き連れて飲み屋のはしごです。

 その夜は私が主役。常に彼の隣の席に座らされました。弟のような扱われ方でした。笑点のメンバーのほとんどが同席していたので大喜利の話を聞きました。するとそれに対して談志は、

「こいつらにあんなしゃれた応答ができるわきゃあないよ。俺が全部答えを考えてやってんだ。こいつらは俺の書いた台本通りに演じてるってわけ」

 独特のしわがれ声で談志はそう言い放ちます。大喜利のメンバーはと見ると、談志の放言に対して抗弁することなくただニヤニヤしているだけです。

 談志の凄さは分かりましたが、あまり気分の良いものではありません。おそらく冷ややかな目で見ていたと思います。そんな私の気配に気まずさを感じたか、談志は私に次のような提案を持ちかけてきました。

「浅井君に頼みがあるんだ。ネタ探しをしてくれないかな、大喜利の?それと、週刊誌の連載を手伝ってくれないか?ギャラは払えないけど、こうして飲んだりさ、あとはいい女を紹介するよ」

 そう言われて、「ハイ。そうですか、やりますよ」と言うほど純真ではありません。「考えさせてください」と答え、その日を契機にそれからしばらく談志との付き合いが続きました。

 しばらく付き合ううちに、談志という人がテレビ画面から受ける乱暴で人の迷惑顧みずといった印象とは違って、とても繊細で心配りができる好人物だと分かりました。また、彼のスポンサー筋に会う機会もあり、「うちの会社に入りたければ直接私に連絡をください」とまで言ってもらうこともありました。

 このようなチャンスは、大学生の分際ではどう背伸びしても得られるものではありませんでしたが、くにおみは半年ほどで「自分がやりたいことではない」ことを理由に談志と袂を分かちました。

 

「NHKの若い広場に出てくんないか」

 ある日、森川からTV番組出演の話が持ち掛けられました。『若い広場』とはNHK教育テレビ(現Eテレ)の看板番組の一つでした。

 『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』で話題になっていた直木賞作家・五木寛之を囲むトーク番組をNHKが企画していると言うのです。出演者は、様々な分野を目指す若者5,6名(正確な数は覚えていません)と聞かされました。

 私はふたつ返事。喜んで参加しました。

 NHKは、当時はまだ日比谷公園の近くに局舎がありました。初めて入るTV局にくにおみはおそらく目を真ん丸にしていたのでしょう。案内をしてくれたスタッフに「緊張してますか?」と聞かれました。「俺は田舎モン。物珍しさにキョロキョロしてるだけ。そんな聞き方をしたら相手を余計に緊張させてしまうのに」と思いましたが、「そんなことはないです」とだけ言い、心の内は口にしませんでした。

 学生服に下駄ばき。カランコロンと下駄の音を響かせてスタジオに向かうくにおみの姿が珍しかったのでしょう。行き交う人のいずれもが私の全身を見て微笑みます。嫌味は感じられず、好意的な反応と受け取りました。

 スタジオには、ファッション界、政界、文学界など様々な分野を目指す若者が集められ、簡単な自己紹介が行われました。「くず屋をしながら小説を書いている」と言う男(阿奈井文彦)の余裕ある笑顔は、もう既に〝その道〟を歩いている自信でしょう。際立っていました。【注】

 

 本番に先立ち、「五木文学についてひと言」と求められカメラに向かって皆それぞれに思いをしゃべります。事前に五木の本を読んでおくように言われていたので、どの出演者も説得力のあるコメントをしていました。

「五木文学をひと言でいえば線香花火。読んでいる間は気持ちが華やぐが、本を閉じたら何も残らない」

 くにおみはそう表現しました。奇をてらったつもりはなく、率直な感想でした。それを別の場所で聞いていた五木は、明らかにくにおみの言葉で心証を害したのでしょう。番組の中で優しく語りかけてくることはありませんでした。

 『青春の門』あたりまでは五木への評価は同じものでしたが、幾度かの執筆活動停止を経てからの充実した仕事ぶりを考えると、若気の至りとはいえとんでもない発言をしたものだと反省しています。本番中、五木とは残念ながら最後まで話がかみ合いませんでしたが、自分としては満足のいく発言ができたと思います。

 番組終了後にディレクターのひとりから、

「君の言うミニコミについてもっと話を聞かせて」

 と声をかけられました。

 「やがて来るであろうマスコミの限界」を予測する視点です。実際に今、ネットの発達でそれが現実のものとなっていますが、当時はマスコミ全盛期を迎える直前です。ただし話をしても「面白い視点だが、そうはならないだろうね」と結論付けられてしまいました。

 銀座のレストランのトイレを出た所で、民族派を名乗る大学生から「番組を拝見しました!少しお話を」といきなり話しかけられたこともありました。その後どのような展開になったかは残念ながら記憶にありません。

 

 そのように多くの人との出会いがあり、テレビ出演もさせてもらい、今から考えても順調すぎるほどのマスコミ塾との関りでした。しかし、一日でも早く戦争報道に関わりたいとの思いが強かったくにおみは、「違う。俺のやりたいことはこんなんじゃない」と頭を抱え始めました。それからしばらく悶々と悩む日が続きました。

 そして「退塾しよう」と結論を出しました。

 

【筆者注】

 後日、阿奈井のところにお邪魔しました。くず屋と言うのは、今で言う廃品回収業のことで、悠々自適に文筆活動をする姿は20代後半というのに風格すら感じられたものです。最近、NHK職員の友人にこの番組の録画を見たいとライブラリーで探してもらいましたが、残念ながら見つかりませんでした。

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