私の人生劇場

青年期

第36回 「てんこ盛り高校生活・3年生編①」

 1965年4月。

 高校3年生でヨシヒコと再び同じクラスになることが分かり喜んだものの、担任になったTには最初の面談の時から相性の悪さを感じました。

「あんたは知能指数が167。学年で一番。しかも入試の成績は抜群。なのに1、2年生の成績は信じられないほど悪い。一体どうしたというのかね?」「東京に家出したと聞いたぞ。何があったかは知らんが、二度目は許されないからな」「まあ、国立は無理だろうが、3教科だけみれば、早慶でもいけそうだな」「家出騒動のこともあってお母さんが話に来られた。美人さんだな」「作文を読んだが、あんたは共産主義か?」

 およそ教育者とは程遠い発言の数々に私は鋭い目つきを向けていたのでしょう。黙って顔をにらみつける私に、Tは、

「もう終わり。いろんなことがあるだろうが、まあ仲良くやっていきましょう。よろしく」

 と言って私に退室を促しました。

浅井久仁臣 Early days 12.jpg

 知能指数と入学試験の成績については一年前にも担任Nに言われたことで、苦い思い出がありました。2生になって最初の面談で、Nから二つのデータを前に〝怠け者の代表〟のような言われ方をして腹を立てた私は、その後行われた同様の能力試験をふざけて記入。当然のことながら私は職員室に呼び出されました。

 Nは私の顔を見るなり、「お前、○○○○か!」とある病名を言って叱責します。そう言われたら黙っていません。それは1年生の同級生から「交通事故がきっかけで○○○○になった」と聞いていたからです。「僕がふざけて試験を受けたことを叱ればいいじゃないですか。○○○○か!などとその病気持ちをバカにした叱り方をするのは教育者としておかしい」と抗議したのです。

 それに対してNは「口の減らん奴だ」と呆れた表情でぐだぐだと長時間説教してきました。

 

 そんなことが一年前にあったので、Tに言われても「話し合っても無駄。言わせておけ」と自分に言い聞かせ、「数字に縛られた教育者とは名ばかりの粗末な人間。学問を、本質を教えろよ。教育者なんだからこちらがぐうの音も出ないような受け答えができないものか」と思って見下していました。

 Tの言う作文とは、一学期の初めに自由テーマで書かされたものでした。当時論争を巻き起こしていた「ナイキミサイル配備の是非」について書いたのがTのお気に召さなかったようで、その後行われた授業で「浅井君は反対しているが……」と、わざわざ私の名前を出してその兵器導入の必要性を口角泡を飛ばして力説しました。「共産主義者!」「アカ!」というのは、国の考え方に対して異論を呈する人たちに対して意見を封じる時に使われる差別用語でした。

 Tの、相手に放つねちっこい視線、差別的表現や悪口を多発するゆがんだ口元、女子生徒へのまとわりつくような接し方……それら全てに嫌悪感を抱いた私は、彼に対して終始反抗的でした。

 

 新学年が始まってしばらく経った頃。女子生徒数名が「T先生ってすぐに手や肩を触ってくる。気持ち悪い」と言うので、生徒議会の議員だった私は、「僕が言って来てやる」と言って職員室に出向きTに面会を求め、「女子生徒が嫌がる行動はやめるよう」申し渡しました。するとTは、

「心外だ。失礼だ。親しみを込めて手を触れたことはあるかもしれんが、卑しい気持ちはみじんもない」

 と気色ばみました。

 「だったら、今度そのことをホームルームで話し合いましょう」と言ってその場を立ち去ろうとする私に、Tは「そんなことは時間の無駄だ。ワタシが許さんからな」と焦って止めにかかってきました。

 Tの〝おさわり指導〟はそれで収まり、私もホームルームの議題にすることはしませんでした。

 Tとの〝戦い〟がそれで終わったわけではありません。

 運悪く、Tは私が大学受験科目として選択する「政治経済」の担当でした。一学期の通知表には、5段階評価の「3」をつけられました。中間、期末共に校内試験では90点以上取っていた私が職員室に抗議に行ったのは当然です。それに対する答えは、「通知表の評価はテストの出来だけではない。授業態度も当然評価の対象だ。あんたは授業態度が悪すぎる。ちゃんと評価されたいんなら態度を改めることだな」でした。

 

 しばらくして、Tとの関係がさらに悪化する出来事が立て続けに起きました。

 その一つは、同じ柔道部に所属したKとの暴行事件です。

 父親が柔道部の外部コーチだったこともあり、Kは我が物顔で威張り散らしていました。そういう父親の威を借りてわがままに振舞う彼の姿に我慢できない私は彼を無視、相手にしませんでした。私が部活動から距離を置くようになっても、「番長グループ」と呼ばれる集団のメンバーであった彼は、やはりその威を借りて何かとちょっかいを出してきました。当然のことですが私は無視し続けました。

 ある日、Kは私をトイレに呼び出しました。

「この前お前に警告したはずだ。なんで俺の言う事を聞かん?踊る(喧嘩する)かあ?」

 と凄むKに、

「殴りたいなら好きなだけ殴れ。俺は喧嘩はしないんだ」

 と私が答え終わる前に、Kは突然顔面に拳を見舞ってきました。

 最悪の事態を想定していたので最初の数発は急所を外させたものの、敵もさるもの喧嘩慣れしているようでパンチが次々に繰り出されてきます。窓を背にしていたのでかわす余裕はなく、サンドバッグ状態でした。

 左目に入ったパンチに気を取られたスキを突き、数発が強烈に私の顔面をとらえました。危うく倒れそうになり膝をつくと、生徒Hの姿が目に入ります。かわいそうに用足しに来たのにとんでもない光景を目にしてしまい、トイレの入り口で腰を抜かしたようでした。「ちょっと待て」と相手を制しました。

「なんだ逃げるのか!」

「見てみろ、Hがかわいそうに腰抜かしてる。外に出してやるだけだ。その後また気のすむまで殴らせてやるよ」

 しかしHをトイレの外に運び出す間に、私の中にKへの怒りがこみ上げてきました。キレていく自分を冷静に見る自分がいますが、もう止められません。そして、

「続けていいぞ。ただ、お前の力は分かった。一発ぐらいは俺からも見舞わせてもらうかもしれんから覚悟しろ」

 と身構えました。

←第35回)  (第37回→

第37回 「てんこ盛り高校生活・3年生編②」

前回のつづき)

 にらみ合いがしばらく続きました。私のそんな構えに怖気づいたかKは殴ってきません。

「今日はこのくらいにしておいてやる」

 Kは始業ベル(チャイムだったか?)が鳴ったこともあって冷静さを取り戻したのか、その心の動きは分かりませんが、そう言うと私の前から姿を消しました。

 トイレから教室に戻ると、私の顔を見たヨシヒコが「どうした?」と近寄ってきました。状況を簡単に説明したところで授業が始まりました。授業中に口の中の出血が止まらず、一回目は飲み込みましたが、胃がむかついて吐き気を催します。教師に断って保健室に行き手当てを受けました。

 放課後、職員室に呼び出されました。担任のTと前年の担任Nがあきれ顔で私を迎えました。ふたりに何を聞かれても「転んだだけです」と言うだけの私に、

「Hから大体聞いとる。それに養護教諭からも喧嘩に違いないと報告があった。お前は被害者のようだから悪いようにはせん。正直に何があったか話せ」

 と二人が言いますが、私は同じ答えを繰り返すだけでした。教室に戻ると待ち構えていたヨシヒコが事情を聞いてきます。彼にだけはと先ほどの続きを説明しました。

 

 その翌日か翌々日のことでした。

「ヨシヒコ君がMとOにトイレに連れていかれた!」

 と同級生が教えてくれました。そのふたりはKがつるんで行動するグループのリーダー格です。ヨシヒコが自分のために何か行動してくれたのかと思いながらトイレに駆け込むと、MとOがヨシヒコの前に立ちはだかり、奥の窓際に追い込んでいました。

「ヨシヒコ、手を出さんでくれ!」

 と私が叫ぶのとほぼ同時に、Mの右こぶしがヨシヒコの左顔面に見舞われました。私の言葉にヨシヒコは殴り返すのではなく、ふたりからの攻撃を防ごうとしたのでしょう。右横にあった掃除用のモップの柄を手にしました。

 しばらくにらみ合いが続きました。その後殴ってくることはなく、MとOのふたりは何か捨て台詞を言ってその場から立ち去りました。

 後に、ヨシヒコは私を殴ったKに対して「くにおみに二度と手を出すな」と体を張って私をかばってくれていたことが分かりました。推測ですが、脅されたKは親分格のMに助けを求めたのでしょう。それを受けてまるでヤクザ映画のようにMとOがいきり立って彼を殴りに来たというわけです。

 親友のあまりの熱い友情に私は言葉を失いました。

 それまで家族や親戚から、そして教員たちから温かい言葉や態度で接してもらうことがほとんど無かっただけに、彼の体を張った行動はくにおみの心の奥深くまでしみこみました。多くの友人が優しく付き合ってくれましたが、こんなことまでしてくれる友人は後にも先にもヤツだけです。

 今でもその時の感動がよく思い出され、ヨシヒコのカッコ良さを妻や息子に何十回どころか100回以上話してきました。

 その後Tから聞かされた学校側の処分は、事件を表面化させたくなかったのでしょう、想像していた通りの結果で、Kの停学に留まりました(もしかしたらMにも処分があったかもしれません)。「あんたの態度にも問題があるからな」という担任の説明に反論する気すら起こらず、いい加減に聞いていました。だからその内容はよく覚えていません。ただ、「停学処分といっても登校は許され、隔離された一室で反省」と聞かされ、口には出しませんでしたが〝臭いものに蓋かよ〟と思いました。

 

 担任のTとの関係は二学期に入るとさらに悪くなりました。書き出すと長くなるので詳しくは書きませんが、教育委員会の一団による授業視察の際にTが行なった教師にあるまじき行動に対して〝鉄槌〟を下したり、授業の中で話すあまりに偏りすぎた政治的見解に我慢ができなくて異論を呈したり、とくにおみのTへの反抗はとどまるところを知らず。ふたりの間にあつれきは絶えませんでした。

 ただ、教師に恵まれなかったものの、同級生はそれぞれが個性的で性格も良く、誰一人として文句のつけようがない面々。1年間嫌な思い出は何一つなくて、小学校から数えて12年間で最も素晴らしい仲間たちとの日々だったと言えます。

 進路については迷いに迷った1年でした。家出作戦に失敗したものの岡村昭彦への師事を諦めきれないくにおみは、出版社を通して彼に何度か手紙を送るなどして弟子入りを目指しました。しかし、戦争取材に忙殺されていたのでしょう。超売れっ子の岡村から返事がくることはなく、弟子入りはあきらめざるをえませんでした。

 再び大学受験の道を歩み出したものの身が入らずに不合格。その後一年間浪人します。もちろんくにおみの浪人生活です。平凡な形で終わるはずはなく、様々なエピソードが生まれました。

 

【この回を〆るにあたって最後にここでひとつ書き加えておきたいことがあります】

 知能指数の高いことや入学時の成績の良さを強調しました。これは、「自分の能力をひけらかしている」と皆さんに不快感を与えかねない、誤解をさせかねない書き方です。

 でも、私がここであえてそれを強調したのは、くにおみの周辺の大人が見せた、個性や才能を伸ばすのではなく、逆に教育とは程遠い「出過ぎた杭を打つ」やり方に強い抵抗感を抱くからです。特に「昔の自分の置かれた環境」を余裕をもって俯瞰できたり子どもや若者を指導する立場になった今、私には「くにおみをこんな風に導いてやれば、今頃はこうなっていたのでは?」という現在とは違った光景が想像できます。

 そうすると、誰か豊かな見識と鋭い洞察力を持った方が、マグマのような底なしのエネルギーを持つくにおみの好奇心を受け止めて、禅問答のようなやり取りの中から導いてくださっていたら……などと考えてしまうのです。結果的に、同調圧力が強くて厳しい環境が私のやる気を引き出し、それをエネルギーに変えていったから良かったのではないかとの見方もできるでしょうが、周りのおとなたちが余裕をもって私を導いてくれていたら、もっと社会の役に立つ指導者が生まれたのではないかと思ったりするのです。

 そんな思いがあってあえてこのような刺激的な書き方をしてみました。ご理解ください。そして、これを読んだ皆さんがここから何かヒントを得て、今後後進の育成や教育、子育てに活かしていただければ嬉しいです。

←第36回)  (第38回→

第38回 「青春放浪・大学受験浪人①」

 私と同じ年に生まれた当時の若者たちは、ベビーブーム、後に団塊世代と言われた270万人(一年間の新生児数)の集団です。何事においても競争が付きまといました。「競争に勝ち抜くこと」に価値観が置かれ、〝ガンバリズム〟に追い立てられた世代です。

 大学受験においても同様で、有名大学に入ることが最大の親孝行。人気の高い大学・学部には20倍30倍もの受験生が殺到する、今では考えられない激しい競争にマスコミが付けた名が〝受験地獄〟。これは女性への門戸が大きく広げられて、女子が4年生大学に殺到したことも影響しています。親を含めて受験生は、大学受験生向けの雑誌『蛍雪時代』をバイブルのように抱え、血相を変えて自分たちが地獄に落ちないようにと頑張っていたものです。

 

 当時岡崎に予備校はなく、名鉄電車に揺られて一時間。名古屋駅近くの予備校・河合塾に通いました。今では全国に展開する大手予備校ですが、当時はまだ名駅校で2校目でした。

 今はあの辺りがどうなっているか知りませんが、当時はまだ戦後のどさくさのにおいプンプン。夕刻が迫ると〝お兄さん、いい子がいるよ。寄ってらっしゃいな〟とエプロン姿の女性が手引を始める怪しい場所、いわゆるドヤ街の近くにありました。ドヤとは、日雇い労働者向けの簡易宿泊所や性的サービスを提供する店や旅館が立ち並ぶ地域を言います。

 体験入塾のようなものはなく、手続きを取るまで教室の中をうかがい知ることはできなかったように記憶しています。だから最初の授業でその規模に仰天しました。大教室に数百人の生徒が詰め込まれたのです。そのあまりに非人間的な環境にやる気をそがれたくにおみはそれをいいことに勉強に身が入りません。

 苦情が多く出たこともあり、〝ゼミナール(ゼミだったかも?)〟と称する「少人数制のクラス」を急遽始めました。登録しましたが、少人数とは名ばかりで高校のひとクラスの規模(当時は約50人)です。

 今から思えば、河合塾もベビーブームの熱量に苦慮して試行錯誤の連続だったのでしょう。でも、大人社会のほぼ全てを否定的にしか見ないくにおみは、そのやり方が許せません。「詐欺じゃないか!」と事務局に怒鳴り込んだりしました。

 そんなこともあってやる気が起きず、6月までは仲間とつるんで遊んでばかりいました。「英会話修行」のために一時期は足しげく通った名古屋港からも足が遠のきます。

 

 ある時、友人のひとりSが失恋したと言ってひどく落ち込んでいました。何がしたい?と聞くと、「酒が飲みてえ。飲んで忘れてえ」と言うので、他にふたりの友人を加えて近くの酒屋でウィスキー・サントリーレッドの大瓶(2ℓ入り)を買ってきて4人で予備校の屋上に行き、酒盛りを始めました。

 4人の内、私とAはほとんど飲めなくてSとWのふたりがグイグイ飲みます。食堂から借りてきた湯呑で一気呑みするふたりに「しらふ組」は呆気に取られていました。ふたりはあっという間に大瓶を空にしてしまい、「もっと飲みてえ!」と言います。酔っぱらった状態で予備校にいるのはまずいと判断、外に出て酒屋で一升瓶に入ったぶどう酒(ワインなどと言えるシロモノではなかった)をふたりに買い与えました。そして近くの公園に行きました。

 大きな図体をしたふたりの若者がブランコに乗りながら一升瓶で酒をがぶ飲みする様は尋常ではありません。しかも時折り大声を上げます。

「まずいな、これは。何とかせんといかん」

 とAと話していると、心配していた事態となりました。警察官がふたり登場してきたのです。

「昼間から何やっとる!近所迷惑だぞ!隣は幼稚園じゃないか!」

 警察官は怒りの形相です。当時は〝おいこら警察〟と言われていた時代で、そういう威圧的な口の利き方をする警官が多かったです。

「お前ら、高校生じゃないのか?!」

「いや、浪人です。二浪ですよ。こんな老けた高校生はいないでしょ、おまわりさん。こいつが失恋して死にたいと言うものですから酒で慰めてやってるんですよ」

 こういう場面を切り抜けるのはくにおみの得意技です。私が警察官の相手をしました。しかし、ブランコの上でうなだれているふたりを見て「万事休す」と覚悟、次なる一手はないものかと思いを巡らすくにおみでした。

「それじゃあ、生年月日を言ってみろ!」

 と言う警察官に、

「私が昭和20年何月何日。こいつが同い年で4月、こっちも同い年で5月生まれです」

 と私がとっさにふたりが20歳になるようにさばを読んで答えました。

「なんでお前が全部答える?黙っとれ」

と警察官は私に言うと、

「おい、お前、お前はいつ生まれた?」

 とブランコに乗るふたりに聞きます。

「いや、見てくださいよ。まともにしゃべれる状態ではないですよ」

 〝まずい〟と思って私がそう言葉をはさみましたが、ふたりにはまだ若干意識があったようで、それぞれ私が警察官に答えていた生まれ年月で応答しました。

「分かった。だが、ここから移動しろ。また通報があったら次はトラ箱入りだぞ!」

 というセリフを残してふたりの警察官はその場から去りました。トラ箱とは、泥酔者を収容する警察の施設の事です。

 「この場にいてはまずい、どこか安全な場所に移そう」としらふのふたりは決断。SはAが、Wは私がかついで移動することに決めました。酔っ払いふたりは共に大柄です。しかも泥酔状態ときています。折から降り始めた雨の中を運ぶのは容易ではありませんでした。Wが何度も私の背中からずり落ち学生服を着ていた私のボタンが全部ちぎれてしまったほどです。

 しばらく行くと住宅団地があり、そこにふたりを座らせてAと〝作戦会議〟です。予備校から助っ人を連れてきて酔っぱらったふたりを近くの安宿に運び込むのが最善策と決まりました。Aがその場で監視役、私が応援してくれる友達を見つける役と決めて河合塾に急行。応援してくれる友人を探し出し、他の何人かから〝カンパしろ〟とカネを集めて3人が待つ場所に急いで戻りました。

「やばいぞ。警察が来る」

 不安気に待っていたAが珍しく緊張気味に言います。

 私が助けを呼びに行っている間に近くの住民に周りを囲まれてしまったこと、それに慌てた彼がふたりを手荒く扱ってしまったことを話し、「通報されたかもしれない」と言うのです。

 幸い直ぐに応援のふたりが見つけてきたタクシーが2台来ました。ふたりを別々に乗せ、我々も狭い空間に体を小さくして乗り込み、その場を離れました。そして近くの安宿に潜り込みました。宿にたどり着いても自分で歩くことができないふたりを部屋に運び込むことは至難の業でしたが、応援のふたりのお陰でなんとか布団に寝かせられました。

 ふたりの枕もとでAが「やばかった。一分遅れたらパトカーに捕まってた」と言います。彼の説明を聞いて本当に間一髪だったことが実感できました。私には見えなかったのですが、Aはタクシーの後ろ窓からパトカーを確認したというのです。

 まあ、終わり良ければすべて良しです。胃の中のものを吐き切ったふたりが意識を取り戻すまでには時間がかかりましたが、無事に帰宅することができて笑い話として関わった全員の記憶に残りました。

 

 「ヤーサンを下駄でポカリ事件」も忘れられない浪人時代の一ページです。

 予備校のやり方に不満な私たちの多くは間もなくして自分達で勉強する道を選びました。単独でやる者、何人かで集まりグループで勉強する者と様々でした。

 私が時折顔を出していたグループに、I を中心とした集まりがありました。他校の卒業生もまじわり楽しく群がっていました。

 そんなI からある日相談を受けました。ヤクザから脅されているので力を貸してくれないかというものです。話の概要は次のようなものでした。

 ある夜、Tの家に集まっていた仲間で岡崎城の近くの板屋町を散歩していた時のこと。闇夜に響く女の助けを求める声。〝すわ大変!〟と皆で駆けつけると、そこは男が女を殴るけるの暴行現場。それを見たOが、履いていた下駄を脱ぎ男の頭をポカリ。女性に感謝されると思いきや、彼女の口から出てきた言葉は「私のダンナに何するの!」。

 〝やばい〟と全員逃げようとしたもののひとりが捕まってしまいました。悪いことに、その暴力男はヤクザ。そしてカネを要求してきたのです。

 そう言われても、とても私たちに要求された金額を出す余裕はなく、私も一生懸命に友達から集めましたが大した額にはなりません。あちこちからかき集めたカネを渡しても相手は許してくれず、脅し続けてきました。それ以上は18歳の私には手に負えぬと思案投げ首の時、Wから「解決した」との連絡が入りました。

 それはまるでヤクザ映画のような話で、メンバーのひとりの祖母が悩んでいる孫を見て何事かと首を突っ込んできて〝ひと肌脱いだ〟と言うのです。彼女の登場でポカリ事件は一挙に解決したとのことでした。

 昔は彼女のように広い人脈を持ち、肝っ玉のすわったおばちゃん、おばあちゃんがいたものです。その事件も、それであと腐れなく解決されました。

 

 そんな風で、気ままな浪人生活は楽しくはありましたが、くにおみの成績は低迷したまま。7月に入るとさすがに「これでいいはずはない」と焦りを感じました。そんな時、東京の大学に通うSが夏休みで帰郷。彼の大都会の学生生活の話にくにおみは目を輝かせて聴き入りました。そして、どんないきさつからそうなったか記憶にありませんが、彼が帰郷中、空き部屋になっている彼の東京のアパートを使わせてもらうことになりました。

←第37回)  (第39回→)

第39回 「青春放浪・大学受験浪人②」

前回のつづき)

 夏休みで帰郷したSは、当時はやり始めていた長髪姿で私の前に現れました。

 その頃大都会の若者たちは、折からの反戦ムードに加えて欧米の流行の影響もあり、男性でも長髪にする者が多く、肩まで届く長さの髪を揺らして歩く姿も珍しくありませんでした。そんな光景を新聞やTVでは見ていたものの、実際にその雰囲気を田舎に持ち帰ってきたSからくにおみは新鮮な〝ニオイ〟を感じました。

 東京の大学生活の話を聞くうち、Sが長期間部活動でアパートを留守にすると知ったくにおみの頭に〝妙案〟が浮かびました。

「お前がいない間、アパートを借りられないかな?もちろん家賃に上乗せして大家に払うからさ」

 とSに持ち掛けました。当時のくにおみは無意識でしたが、今思えば相手の都合や事情などお構いなしで、自分が思い付いた話に相手を巻き込んでいたと思います。Sのアパートを借りる話もいつの間にか「三者が得する話」になっていました。

 

 東京に戻ったSから大家の承諾を得たとの連絡を受けたくにおみは早速上京。Sと巣鴨駅で待ち合せました。

 アパートは独身の高齢女性が幾部屋かを貸す下宿屋でした。部屋は4畳半の和室で、トイレや風呂はなく、今なら大学生は敬遠する様式ですが、当時はそれが標準。かねてより家族から早く独立したかった私には申し分のない条件でした。

 それまでにいろいろないきさつがあり、志望校を早稲田大学から東京外国語大学に変えていた私には、その大学の近くで生活できる心理的なメリットは大きく、高校入学以来失っていた勉学意欲もわいてきました。

 予備校も東京外語の受験に特化したコースを持つ「高田外語」を選びました(閉鎖してしまったのでしょうか。ネットではその名前を見つけられませんでした)。

 

 国立大学ですから受験科目に数学が増えました。高校一年生以来まともに勉強していませんでしたが、本格的に勉強し出すと〝勘〟が戻り、楽しささえ感じられます。授業態度にもそれが現れていたのでしょう。積極的に講師に関わる私の姿に「できる奴」と勘違いしたクラスメートが教えを乞いにくることもありました(笑)。

 成績もそれを反映して右肩上がりになりました。しかし余裕を持つとまたぞろくにおみに悪い癖が出ます。

 神田の古本屋街に足しげく通っているとき、ある哲学者と〝出会い〟ます。出会うと言っても本にハマったという意味です。

 その哲学者の名は西田幾多郎。京都大学の教授を務め、「京都学派」の創始者として知られる人物です。ただし、その頃を振り返ると、「西田哲学」に傾倒したと言うよりも、彼の言葉「頂天立地(誰に頼ることなく生きる事)自由人」と、その四高時代の豪放磊落な生き方に〝自分を見た〟からに過ぎなかったかもしれません。

 師弟の間にあたたかな交流があり自由闊達に振舞えた校風は、明治政府の方針で送り込まれてきた旧薩摩藩の教師陣の上意下達、武断的なやり方によって突如変わってしまいますが、抵抗した挙句に「こんな学校やめてやる」と中途退学してしまう、自分を貫いた西田の生き方に共鳴したのです。

 そんな西田への共鳴・憧れから京都大学に入りたいとも思いましたが、「過去問」ではかった自分の理科や数学の実力では合格圏に遠く及ばず、もう一年浪人しないと歯が立たないと気付かされ、〝我に返った〟くにおみは高田外語に通い続けました。

 また、一週間に2,3回は、予備校から近かった早稲田大学のキャンパスに足を運びました。前年からの学費値上げに始まった学生たちの反対運動は「学生会館管理問題」「ヴェトナム戦争反対」にまで広がり、日を追って盛り上がりを見せ、活動家たちのアジ演説を聴いているだけでも何となく心躍るものがありました。「新聞記者になるのだから」と、演説の内容だけでなく、学生たちの感想やキャンパスの雰囲気を一文にまとめることもしていました。

 

 小遣い銭が欲しかった私は、〝悪事〟に手を染めることもありました。

 自分が受験生の立場でありながら友達の学生証を使って経歴を偽り、赤ペンを持ち、大手受験事業者が行なっていた現役受験生向けのテストの添削をして報酬を得ていたのです。「受験生が受験生に受験の手ほどきをする」のですから犯罪であることには違いがありません。遅きに失した感はありますが、〝被害者〟の方にはペコリ、心よりお詫び申し上げます。と言っても、あまり反省をしていませんが……。

 新宿にある「歌声喫茶」に顔を出し、大声を張り上げる日もありました。「英語でナンパ」も再開して、手当たり次第に外国人に話しかけて、彼らとの交流を楽しむこともありました。

 そんな日常を送るくにおみの姿は受験浪人生と言うよりも大学生そのものでした。

 そのように東京の「頂点立地アパート生活」は充実していました。しかし問題が無かったわけではありません。「南京虫」と「アヘアへ」に悩まされました。南京虫は、アパートに巣くう〝吸血鬼〟のことです。

 帰郷したSが「皮膚病になっちまった」と言っていたものが、実はアパートに巣くう「5ミリの悪魔」の仕業だったのです。皮膚病と信じ込み塗り薬はないものかと相談に行った薬局で、私の全身に広がる真っ赤な斑点を見た薬剤師から「ふたつ並んで刺されています。南京虫の特徴です」と言われました。

 笑い話のような光景でしたが、テキは肌を露出している部分の血を吸いに来るので両手に靴下をはめて寝たこともあります。天井から落ちてくるというので、寝床の上の天井に紙を張ったこともあります。結局、バルサンという駆除剤で簡単に問題解決しましたが、その2,3週間はあまりの痒さに夢でうなされたりしたものです。

 「アヘアへ」問題は、南京虫よりタチが悪く、寝不足どころか、本能に訴えかけてくるものがあり、10代後半の若者を大きく悩ませました。

 

 アヘアへとは、男女のむつごとから発せられる女性の嬌声です。安普請の建物で周りを囲まれているため、夜になるとあちこちから聞こえてきたのです。

 ある夜勉強をしていると、どやどやと5人(4人だったかも?)の若い男たちが、私の部屋に入ってきてあいさつをすることもなく明かりを消して窓に張り付いたことがありました。

 何か声を上げたとき、ひとりが〝しーっ〟と言って私に静かにするように言いました。

「な~んだ。いないか」

 と言う声と共に明かりがつけられました。

「えっ?!」

「誰?」

 両者の間でそんなやり取りがあり、風変わりな自己紹介が始まり、状況説明が行われました。

 彼らはSと同じ大学に通う仲間たち。隣のアパートのカポー(男女)が繰り広げるLive Showの見物に来たというのです。しばらくは気まずい空気が漂いましたが、そこは若者たちの気楽さで直ぐに打ち解けて酒盛りが始まりました。

 

 間もなくして岡崎に戻った私は、元の浪人生活に戻りました。

 ある日新聞を読んでいたくにおみは、一ヵ月の間にふたつの大きな人物紹介記事に目がとまります。

 その人物の名は、天野貞祐。前述の西田幾多郎の門下生で、吉田内閣で文部大臣を務めた後、1964年に獨協大学を創設し初代学長をしていた哲学者です。「語学教育を基本にしたグローバル人材の育成」方針は、文部大臣時代の天野を知る野党勢力や日教組から「反動教育」とのそしりを受けていましたが、「西田幾多郎の門下生」は何とも魅力的。また、天野の発する言葉から魅力を感じたくにおみは天野学長宛に自己紹介と質問を書いた手紙を送りました。

 返事は期待していませんでしたが、一週間と間を置かずして天野からの返書が届きました。そこには私が大学に期待する答えが的確に書かれており、「あなたのような若者を私は育てたい。頑張って入学してください。お待ちしています」と書かれていました。

 もうひとりは、当時「マスコミの帝王」の異名を取り、毎日のようにテレビや新聞にその姿を見せて独特の評論活動を続け、1967年1月に『東京マスコミ塾』を開講した大宅壮一でした。特に、受講希望者が殺到して競争率が100倍を超えたとの報道もくにおみを刺激、「上京したら絶対に入塾してやる」と心に決めます。

 

 そのようにして、ちょっぴり大変な、でもそれなりに楽しめた浪人生活はあっという間に終わり、獨協大学外国語学部に入学することにしました。

 予想通り獨協入りに母は猛反対。入学手続きに行く私についてきました。大学のキャンパスに入っても入学金や授業料を渡してくれません。

「もう一度聞くけど、本当にこの学校で良いの?後悔しない?」

 と未練がましく言います。しかし、くにおみの心が揺れることはありません。「そんな往生際の悪いことを言いなさんな」と言って右手を出す私に、彼女は落胆した表情で腹巻に隠し持ってきた大金を取り出して渡してくれました。

 その姿にくにおみの心が動揺しないはずはありません。憐れみすら感じました。また、「親を裏切り続けるのか!」と長年周囲から言われてきた親族からの言葉も頭をよぎります。

「ついてくるなよ。俺一人で行くから」

 母の姿や親族から受けてきた言葉への感情を振り捨てるように、くにおみはカネの入った封筒を母から奪い取るようにして、事務管理棟に向かいました。そこまでついてこようとする彼女を「ここで待ってろよ」と手で制して支払いを済ませました。

 

 それから入学までの日々は上京準備であわただしく、あっという間に過ぎました。

 母から何度も「N先生だけにはご挨拶に行くのよ。あれだけお世話になったんだから」と二年生の担任の自宅に挨拶へ行くように言われました。確かに担任として、また指導係でもあったNに何かと面倒をかけたことは事実です。お礼に伺うのは当然だとその気になりました。

 ただ、その直前にとてもいやなことがあり、心がすさんでいた私はNを前に冷静でいられる自信がありません。ひとりの友達に同行してもらいました。どの友達に同行を頼んだのかの記憶が無くなっていましたが、数年前に会った友人Hとその話をすると、「俺だよ。お前に突然頼まれて訳の分からんまま付き合わされたじゃないか」と言われて、彼であることが思い出されました。

 玄関で応接してくれたNの妻に用件を伝えると、「しばらくお待ちください」と彼女は奥に姿を消しました。

 ところが、Nはなかなか現れません。友達と「どうしたんだろう?」といぶかっていると、私たちの前に姿を見せたのはNではなく再び彼の妻でした。

「腰を痛めているので臥(ふ)せっております。起き上がれません。これから頑張ってくださいとのことです」

 というような話をされました。何か彼女の表情に影を感じましたが、「お大事にしてください」とあいさつして辞去しました。

 

 話は半年ほど先に飛びます。

 夏休みに帰省した友達から「お前、N先生にお礼参りに行ったんだって?」と言われました。

 「本当に御礼に行ったのに、逆の意味にとられたか!ばからしい」とその友達に言ったものの、冷静になって考えると、「それもやむなし」と思えました。在校時にかけた迷惑はおそらくNにとっても常識をはるかに超えるもの。そう受け取られてしまったのは残念でしたが、冷静に考えれば、その頃は「生徒の教師に対するお礼参り」が珍しくない時代でした。生徒指導を担う立場の教員にとってはそれが自己防衛。危機管理だったのでしょう。

 そんなカバンに詰め込みきれない想い出と「やってやるぞー」という青雲の志と共に、1967年4月、くにおみは上京しました。

←第38回)  (第40回→

第40回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く①」

 上京したくにおみは、4年間世話になるはずの「岡崎市東京学生寮」に荷を解きました。東京学生寮と言ってもその場所は千葉県市川市本八幡(もとやわた)。まあ、東京都との境界線から500メートルと離れていないのでそう名付けたくなるのは分かりますが、でもそこは千葉県です。岡崎の人間にとって「トーキョー」はビッグネーム。岡崎らしい名前の付け方ですね。

 寮に到着すると、寮監が玄関で温かく迎えてくれました。「寮監の〇〇です。どうぞよろしくお願いします。齋藤縫右門先生に大変お世話になった者です」と名乗り、私のことを「浅井さん」と呼びます。予想だにしなかった突然の挨拶に驚き、私は相手に「呼び捨てにしてください」とお願いしました。 

 齋藤縫右門とは私の母方の祖父で、かつて愛知県内で学校長をしていました。○○は、

「部下として本当に多くを学ばせていただきました。私の尊敬する恩師です」

 とまで言います。その時は「ふたりの関係がすぐに悪くなり、衝突を繰り返し、退寮処分という結果で終わる」とは思いもよりません。

「幸先が良いぞ」

 少なくとも私はそう思っていました。 学生寮は出来たばかり。当時としては画期的な「個人仕様の洋室」で「賄い(専属料理人による食事)付き」。訪れてくる友人たちは「お前たち、ずるいよ」と口を揃えたものです。噂では〝市当局となんらかのコネ〟を持つ親の息子だけが入れるとのことでしたが、その真相は分かりません。

 

 部屋に荷物を置くとすぐ、くにおみは東京日本橋に出かけました。『大宅壮一東京マスコミ塾』の事務局に行くためです。前回書いたように、世間で大きな評判を呼んでいた大宅塾に入ろうとしていたのですが、事務局に電話を入れると第二期生の募集は締め切ったと言われました。ならば直談判を、と出かけます。

 事務局は、新聞・雑誌の記事から想像する華やかな雰囲気とはかけ離れた地味な場所にありました。かつての江戸城外堀沿いにあり、見上げると高架橋を走る首都高速道路があります。事務局と言っても名ばかりで、古いビルにある小さな会社に間借りしているようでした。「日本エコノミストセンター」と入り口のドアに書かれた看板の下に小さくその名が書かれていたと記憶しています。対応した女性事務員は、

「二期生の受付は大分前に締め切りました。一次審査も終えて後は面接試験を待つばかりです。三期生の募集もまたありますから次回応募してください」

 と言って私に諦めるよう言います。

 それで〝ハイそうですか〟と引き下がるくにおみではありません。自分は地方から出てきたこと、受験浪人をしていたので締め切りに間に合わなかったこと、早く記者になって活躍したいことなどを理由に挙げ、何とか試験を受けさせてくれと粘りました。しかし、彼女はそう私に言われてもなすすべはなく断り続けるしかありません。粘り続けるくにおみを相手に1時間以上辛抱強く対応をしてくれました。今で言う「神対応」です。それなのに、くにおみは、何か笑いをこらえているような彼女の態度が田舎者をバカにしているようで気に入りません。「田舎者をバカにするのか」と思うと余計意固地になり、「どうしても機会をもらえないのならこの場を動かない」と入り口のドアの前で居座りました。

(後で彼女にその時の話を聞いたら「学生服に下駄。そんな姿で情熱をぶつけてくる浅井君が○○の××に似てた」と当時人気のあったTVドラマか映画、又は小説の主人公の名前をあげて説明してくれました。)

 

 どのくらい時間が経っていたかは記憶にありません。

「明日朝までに小論文を書いておいで。テーマは何でもいいから」

 それまで部屋の奥でずっと新聞を読んでいた男が新聞をたたむと声をかけてきました。

「ありがとうございます!」

 相手の名前も聞かず、その言葉を聞くや否や、おそらく相手の気持ちが変わらぬうちにと思ったのでしょう。くにおみはその場を脱兎のごとく離れ、寮に一目散に戻り、徹夜で小論文を書き上げて翌日、事務局に届けました。

←第39回)  (第41回→

第41回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く②」

前回のつづき)

 小論文を提出後、マスコミ塾事務局から数日して一次審査を通ったとの連絡があり、満を持して4月15日、二次試験会場に向かいました。面接会場は事務局とは違い、近代的なビルの中にあり、廊下にも絨毯が敷かれている、テレビドラマに出てくるようなおしゃれな会議室でした。

 集まった受験生の顔ぶれは意外や意外、中高年も少なくありません。逆に、思って(期待して)いたよりも大学生は少数でした。

「面接方法をご説明します。名前を呼ばれた受験生の皆さんはこちらの部屋に入っていただき、先生方と自由に意見を交換していただきます。ブレーンストーミング・スタイルです」

 と説明する女性は、柔らかな物言いの中に〝有能オーラ〟を全身に漂わせる女性(実際にそうでした)。しゃべり方も口をついて出る言葉もまたそのたたずまいも、くにおみがこれまでに生きてきた世界の女性とは大きく違います。ブレーンストーミングなどという意味すら分からないくにおみでしたがそのことはあまり気にしないようにして(いまだに覚えているということは、気にしていたのでしょう)、TVドラマのような環境に気分を高揚させ、「よーし、講師たちにひと泡吹かせてやる!」と自らを奮い立たせます。

 

 その日は東京都知事選の投票日。

 選挙戦は、社会党と共産党が組む「社共共闘」の支援を受ける美濃部亮吉氏と、自民党と民社党が推薦する松下正寿氏の事実上の一騎打ちとなっていました。

「都知事選には絶対に触れてくるはず。ならばこう答えよう」と、くにおみは〝模範解答〟を考えます。

 激しさを増していた学生運動やヴェトナム戦争も頭の中で「想定問答」。そうして高鳴る心臓を抑えて自分の出番を待ちました。受験生がひとりで入室したのか複数だったのかの記憶はあいまいです。記憶にあるのは、目の前に並ぶ錚々(そうそう)たる講師陣の顔ぶれです。10人前後のいずれもテレビや新聞、雑誌で見たことのある有名人がズラリ顔を並べていました。

 列の真ん中にいるのは塾長の大宅壮一。その左には番頭格の評論家・草柳大蔵、右手横には財界ご意見番こと三鬼陽之介が座り、こちらに鋭い視線を放っています。他に、元毎日新聞外信部長でライシャワー駐日大使と大バトルの末に会社に辞表を叩きつけて独立したジャーナリストの大森実、明治大学教授で当時は創価学会との論争を繰り広げ、後に『時事放談』(TBS)を担当することになる藤原弘達の顔も見られます。

 そして左隅には、事務局で見た〝新聞男〟がぎょろりと特徴ある目を光らせ、あいさつする私に会釈を返してきます。その時初めて彼が事務局長であり、その名が森川宗弘であることを知ります。

「ロンドンではミニスカートが流行っているようだね。どう思いますか?」

 大宅がいきなり突拍子もない質問を私にぶつけてきました。

「〇✕△□?!」

 意表を突かれたくにおみの口をついて出た大宅への答えはしっちゃかめっちゃか。頭の中は真っ白になり自分でも何を言っているのか分かりません。後にも先にもこんな上がり方、乱れ方をしたのはその時だけです。

 〝惨敗〟でした。

 ミニスカートの話の後に何を聞かれ、それらの質問にどう答えたのか。そんな記憶すらありません。記憶にあるのは打ちひしがれて寮に帰ったことぐらいです。

 数日後届いた結果は、案に相違して〝合格〟。しかし面接の内容が散々だっただけに喜び全開とはいきません。「新聞男の情けで入れてもらえたんだ」と複雑な心境でした。

 

 入塾手続きを終えて翌週には講義が始まりました。勤め人が多いので授業は夜でした。何コマかの講座を受けた後、得も言われぬ違和感を持ちました。何かが違うのです。謳い文句であった「昭和の松下村塾」とは大きくかけ離れていたのです。それはくにおみが求めていた「学び舎」ではありませんでした。

 確かに、テレビ画面や紙面でしか見ることが出来ない著名人の話を狭い空間で直接聞けて質疑応答も許される機会はめったにあるものではありません。今にして思えば、面白い仕組みを考えたものだと冷静に判断できますが、当時の世間知らずの直情径行(ちょくじょうけいこう)そのものの田舎モンには納得できません。「これではいかん」と講師の面々に食らいついて講座以外の交流を求めることにしました。しかし、講師にすれば迷惑な話です。異常に熱い若者が情熱をぶつけてくる姿に困惑の表情を隠しません。それでも4人の講師と教室外で会うことが出来ました。塾長の大宅、前述の大森、TBSキャスターの田英夫、それに落語家の立川談志です。

 大森からはライシャワーとのやり取りや辞職に至るまでの話を期待しました。しかし、彼が私に会ってくれたのは、毎日新聞の退職後に発刊した週刊新聞『東京オブザーバー』の販売員へ勧誘するためと、『太平洋大学』(注・リンク先のサイト。一番右の写真のやくざ風の男が大森です)に誘うためでした。新聞も船上大学構想も興味を持ちましたが、大森の話の持っていきかたにへそを曲げたくにおみは、それ以上近付こうとはしませんでした。

 

 面白かったのは、立川談志との付き合いでした。

 彼は当時30代前半の〝落語界の風雲児〟。今も続く長寿人気番組『笑点』の初代司会者で、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

 くにおみは第一回目の講座で談志の真ん前に陣取り、質問攻めしました。著書『現代落語論』を読み込んだうえで臨みましたから他の塾生よりも踏み込んだ質問ができたと思います。

 私が質問時間をほぼ独占状態で一時間目を終えます。トイレ休憩に入ると、

「アンタ、面白いなあ。楽屋に遊びに来いよ」

 私の隣に来て、アサガオ(小便器)に向かって用足しをしながら談志が声をかけてきました。

「いいですよ」

 心の内で〝やったぞ〟と快哉を叫びながらも興味なさげに応えました。

 

 間もなくして顔を出した寄席『人形町末広』の楽屋は、笑点でおなじみの三遊亭円楽、桂歌丸、毒蝮三太夫などの名前の知れたお笑い芸人であふれていました。

 談志は当時まだ30代前半。落語界ではすでに最高位の真打の座にありましたが、年齢的に言うとまだ並み居る師匠の目を気にしなければいけない存在でした。ところが、そんなことはまるで気にする風もなく、大御所のような立ち居振る舞いです。

 高座を務め終えると談志は「さあ、飲みに行こう」と私に言い、笑点グループを引き連れて飲み屋のはしごです。

 その夜は私が主役。常に彼の隣の席に座らされました。弟のような扱われ方でした。笑点のメンバーのほとんどが同席していたので大喜利の話を聞きました。するとそれに対して談志は、

「こいつらにあんなしゃれた応答ができるわきゃあないよ。俺が全部答えを考えてやってんだ。こいつらは俺の書いた台本通りに演じてるってわけ」

 独特のしわがれ声で談志はそう言い放ちます。大喜利のメンバーはと見ると、談志の放言に対して抗弁することなくただニヤニヤしているだけです。

 談志の凄さは分かりましたが、あまり気分の良いものではありません。おそらく冷ややかな目で見ていたと思います。そんな私の気配に気まずさを感じたか、談志は私に次のような提案を持ちかけてきました。

「浅井君に頼みがあるんだ。ネタ探しをしてくれないかな、大喜利の?それと、週刊誌の連載を手伝ってくれないか?ギャラは払えないけど、こうして飲んだりさ、あとはいい女を紹介するよ」

 そう言われて、「ハイ。そうですか、やりますよ」と言うほど純真ではありません。「考えさせてください」と答え、その日を契機にそれからしばらく談志との付き合いが続きました。

 しばらく付き合ううちに、談志という人がテレビ画面から受ける乱暴で人の迷惑顧みずといった印象とは違って、とても繊細で心配りができる好人物だと分かりました。また、彼のスポンサー筋に会う機会もあり、「うちの会社に入りたければ直接私に連絡をください」とまで言ってもらうこともありました。

 このようなチャンスは、大学生の分際ではどう背伸びしても得られるものではありませんでしたが、くにおみは半年ほどで「自分がやりたいことではない」ことを理由に談志と袂を分かちました。

 

「NHKの若い広場に出てくんないか」

 ある日、森川からTV番組出演の話が持ち掛けられました。『若い広場』とはNHK教育テレビ(現Eテレ)の看板番組の一つでした。

 『さらばモスクワ愚連隊』『蒼ざめた馬を見よ』で話題になっていた直木賞作家・五木寛之を囲むトーク番組をNHKが企画していると言うのです。出演者は、様々な分野を目指す若者5,6名(正確な数は覚えていません)と聞かされました。

 私はふたつ返事。喜んで参加しました。

 NHKは、当時はまだ日比谷公園の近くに局舎がありました。初めて入るTV局にくにおみはおそらく目を真ん丸にしていたのでしょう。案内をしてくれたスタッフに「緊張してますか?」と聞かれました。「俺は田舎モン。物珍しさにキョロキョロしてるだけ。そんな聞き方をしたら相手を余計に緊張させてしまうのに」と思いましたが、「そんなことはないです」とだけ言い、心の内は口にしませんでした。

 学生服に下駄ばき。カランコロンと下駄の音を響かせてスタジオに向かうくにおみの姿が珍しかったのでしょう。行き交う人のいずれもが私の全身を見て微笑みます。嫌味は感じられず、好意的な反応と受け取りました。

 スタジオには、ファッション界、政界、文学界など様々な分野を目指す若者が集められ、簡単な自己紹介が行われました。「くず屋をしながら小説を書いている」と言う男(阿奈井文彦)の余裕ある笑顔は、もう既に〝その道〟を歩いている自信でしょう。際立っていました。【注】

 

 本番に先立ち、「五木文学についてひと言」と求められカメラに向かって皆それぞれに思いをしゃべります。事前に五木の本を読んでおくように言われていたので、どの出演者も説得力のあるコメントをしていました。

「五木文学をひと言でいえば線香花火。読んでいる間は気持ちが華やぐが、本を閉じたら何も残らない」

 くにおみはそう表現しました。奇をてらったつもりはなく、率直な感想でした。それを別の場所で聞いていた五木は、明らかにくにおみの言葉で心証を害したのでしょう。番組の中で優しく語りかけてくることはありませんでした。

 『青春の門』あたりまでは五木への評価は同じものでしたが、幾度かの執筆活動停止を経てからの充実した仕事ぶりを考えると、若気の至りとはいえとんでもない発言をしたものだと反省しています。本番中、五木とは残念ながら最後まで話がかみ合いませんでしたが、自分としては満足のいく発言ができたと思います。

 番組終了後にディレクターのひとりから、

「君の言うミニコミについてもっと話を聞かせて」

 と声をかけられました。

 「やがて来るであろうマスコミの限界」を予測する視点です。実際に今、ネットの発達でそれが現実のものとなっていますが、当時はマスコミ全盛期を迎える直前です。ただし話をしても「面白い視点だが、そうはならないだろうね」と結論付けられてしまいました。

 銀座のレストランのトイレを出た所で、民族派を名乗る大学生から「番組を拝見しました!少しお話を」といきなり話しかけられたこともありました。その後どのような展開になったかは残念ながら記憶にありません。

 

 そのように多くの人との出会いがあり、テレビ出演もさせてもらい、今から考えても順調すぎるほどのマスコミ塾との関りでした。しかし、一日でも早く戦争報道に関わりたいとの思いが強かったくにおみは、「違う。俺のやりたいことはこんなんじゃない」と頭を抱え始めました。それからしばらく悶々と悩む日が続きました。

 そして「退塾しよう」と結論を出しました。

 

【筆者注】

 後日、阿奈井のところにお邪魔しました。くず屋と言うのは、今で言う廃品回収業のことで、悠々自適に文筆活動をする姿は20代後半というのに風格すら感じられたものです。最近、NHK職員の友人にこの番組の録画を見たいとライブラリーで探してもらいましたが、残念ながら見つかりませんでした。

←第40回)  (第42回→

第42回 「つかの間の大学生活」

 千葉県市川市の「岡崎市東京学生寮」に入寮するや否やくにおみは〝本領発揮〟。ボス猿的な存在になり、毎日5人10人の友達を引き連れて近くの町や東京の散策に出かけます。

 「寮のまずい飯なんか食ってられるか」と給食にも手を付けず、「大学生に門限なんか要るか」と度重なる門限破り。夜は屋上で酒盛りか私の部屋で花札やトランプを使っての賭け事。好き勝手なことをしていました。

 寮監も根は教員です。そのようなくにおみの傍若無人の態度を看過できるはずはありません。玄関口にある黒板に、寮生に対して行動を自粛するよう書いたり、門限時間後は出入り口の施錠をしたりして対抗します。そして入寮後一週間経たずして「浅井さん」が「アサイーっ!」に変わりました。まあ、それは当然と言えば当然です。

 それでも学校が始まると、多くの学生が新入生です。それぞれの大学生活に順応しようと「猿山生活」を自粛しました。

 

 獨協大学は埼玉県の草加市にあり、最寄り駅は「松原団地」。先ほど調べたら「獨協大学前」と現在はなっているようです。

 新設校らしく広大な空き地の中にキャンパスがあります。駐車場スペースも広く取られていて車で通学する者もいます。学生が車を運転することなど考えも及ばなかった田舎モンには、「自家用車で通学!」は驚きそのものです。そう。当時は、家で使う車のことを一般的に自家用車と呼んでいて「一家に一台」でさえ珍しく、一般家庭には〝憧れ〟の存在だったのです。

 東京から通学する同級生が多く、その生活スタイルからファッションまでもが雑誌から抜け出したよう。学生服に下駄ばき姿はくにおみだけだったかもしれません。時折顔を見せた早稲田などの大学では学生服姿は珍しくありませんでしたが、彼らの多くは民族派か運動部に属す学生でした。

 同級生が交わす会話はファッションや音楽。それに、特に最初は「どこの大学を落ちたか」が主な話題でした。「早慶、上智、青学」といった 単語がよく聞かれました。彼らにとっては悔しさもあったのでしょう。でも、くにおみにとっては空疎な会話でしかなく、その輪に入る気になりません。時折り政治的な話を振ってみても反応は薄く、居心地の悪さを感じるようになった私は高校時代のようにふるまうことはしませんでした。

 

 天野貞祐学長にいただいた手紙のお礼と入学の挨拶をしなければと自分なりに考えた私は、事務棟の受付に行き学長に挨拶に来た旨を伝えました。

 対応した職員は、〝エッ!?〟という表情で対応、奥の上司に相談しています。戻ってきた女性職員が言った言葉は正確に覚えていませんが、その様な前例がないといったような理由で体よく断られました。「大人社会」が分かるようになってからは自分の行動が受け入れられないものであることは理解できましたが、その時は「前例がないなんて断り方はおかしい」といったような捨て台詞を吐いてその場を去ったような気がします。

←第41回)  (第43回→

第43回 「青春時代のリセット」

 「大宅壮一東京マスコミ塾」の退会を決めると私は事務局長の森川宗弘のもとを訪れました。退塾の意志を伝えると森川は昼食に私を誘います。

 連れていかれたのは、日本橋の高級レストランでした。〝お上りさん〟のくにおみはおそらく目を丸くしてキョロキョロしていたと思います。席に着くなり自分の気持ちを話し始めようとする私を制して「まずご飯を食べよう」と森川は言います。

 この辺りのタイミングは今思い出しても絶妙なものがありました。体育会系のノリで飲み込むように食べるくにおみは、出される皿をあっという間に平らげ、育ちの良さを感じさせる食べ方の森川が終わるのを待ちます。前菜から食後のコーヒーまであまりに時間がかかるので、間が持ちません。

 どんな話題だったか忘れましたが、森川はいろいろな世間話をしながらこちらの気持ちをほぐすような空気を作り続けます。言葉には表しませんでしたが、ひそかに〝さすが慶應の経済は違うな〟と、田舎者特有の慶應大学経済学部卒業生に対するコンプレックスに似た感情を持ちました。

 そして食後のコーヒーが出されると、森川がようやく「話を聞こうか」と言いました。 退塾するとの気持ちを話すと、森川は「分かった。好きなようにしたらいい」と言い、「ところでこれから浅井君がやりたいことを教えてもらえないか」と続けました。

 意外でした。あのように迷惑をかけて入塾を希望した私の不実をなじることなく、受け入れてくれる森川の度量に驚かされました。

 しかしそこで躊躇(ちゅうちょ)は禁物です。一気に退塾するだけでなく「大学を辞めること」「従軍記者に早くなりたいこと」「アメリカの大学でジャーナリズムを勉強したいこと」「留学するカネが無いので必死に働くこと」などなど思いのたけを話しました。一時間近く話したかと思います。まくしたてるくにおみの話をひとことも口をはさむことなく聞いていた森川は口を開くと驚きの言葉を発します。

「分かった。留学の費用は私が出す。アメリカでもイギリスでも勉強に行ってきなさい」

 くにおみは自分の耳が信じられません。森川の発した言葉が驚きのひと言。その意味が理解できなかったのです。

「そんなご厚意に甘えていいはずがありません。第一、僕の能力が足らなくて記者になれないかもしれません。そうなれば結果的に森川さんを裏切ることになってしまいます」

 と何とか吐き出すように言うと、

「それはそれで仕方がない。向こうで勉強してきたものを私の会社で発揮してもらえばいいよ。会社を上げるから僕の後を継いで社長をやればいい」

 森川は私を気楽にさせようと言ったのでしょうが、私には表面的な言葉の意味は理解できてはいるものの彼の真意を測りかねていました。 だから「そんなわけにはいきません」と答えるのが精いっぱいでした。

「そんなに結論を急がなくてもいい。ゆっくり考えればいいじゃないか」

 と森川に言われましたが、

「いや、どれだけ考えても答えは変わりません。ご厚意に甘えるわけにはいきません」

 くにおみは頑なに森川の申し出を断りました。

「それじゃあ、週に一回くらい会社に遊びにおいでよ」

 自分の考えにこだわることなく、森川は気楽にそう言いました。そんな形なら望むところです。「落ち着いたらそうさせていただきます」と約して別れました。

 

 森川に大学中退の意志を伝えたように、くにおみは大学に通い出してすぐに獨協大学は自分が身を置くところではないと考え、数か月で、厳密には3,4日で辞めようと心に決めていました。

 住んでいた学生寮も寮監から「お前がいるから寮の風紀が乱れる」と目の敵(かたき)にされており、最初の夏休みに里帰りしないで門限破りを繰り返し、何事もマイペースな私に、

「お前にはルールが分からんのか!うんざりだ。出てけ!退寮だ!」

「里帰りした連中が戻ってくる前に退寮してくれ。お前がいると空気が乱れてやりにくくて仕方がない。俺の神経がおかしくなる」

 とまで言われていました。

イラスト 7.jpg

 その頃、大学の同級生とサークル仲間の3人が退学を思いとどまるように説得に来ました。しかし、結果的にそのうちふたりはくにおみの影響を受けて退学してしまいます。

 退学したことは、ひとりについてはそれから約20年後、私の出した本を読んだと言ってくれた手紙で知ります。手紙には彼が翌年、早稲田大学文学部に入り、卒業後は出版界に入って活躍しているさまが書かれていました。

 リセットを決めたくにおみに迷いはありません。大学には何の手続きも取らなかったのでおそらく抹籍処分になったはずです。大学やマスコミ塾に加えて通っていた大手語学学校も「役に立たない。時間とカネの無駄だ」と中途退学しました。寮には「退寮者第一号」の〝名誉〟が残ったようで(笑)寮生の語り草になりました。

 その辺りの話は、64歳で故郷に妻直子と共に移住してから寮生活仲間だった友達から聞かされました。寮生たちは70代になった今も年に2回〝同窓会〟をやっているのです。

 

 寮を出たくにおみは板橋区の中板橋にある3畳間のアパートに移り住んでデパートの届け物の配達人になり、自転車の荷台にたくさんの荷物を積んで都内を走り回る生活を始めました。それだけでは留学費用は貯まりません。夜は地下鉄東西線の工事現場で明け方までつるはしを振るい、アパートで数時間泥のように眠るとまた配送センターに行くという超ハードスケジュールをこなしていたのです。

←第42回)  (第44回→

第44回 「留学準備に邁進①」

 学生寮を追い出されて三畳ひと間の「貸間暮らし」を始めたくにおみは、米国留学を志して計画を練ります。

 「貯金」

 「英語上達」

 「ジャーナリズム学科がある大学との交渉」

 が当然その計画の柱となるものでした。留学費用は自分の力で工面することこそが本質と考え、母からの仕送り受け取りを断りました。

 

 突然の〝独立宣言〟に驚いた母は数か月後、当時大学生であった兄義澄を私のもとに偵察役として送り込みました。私が不在だったので、兄は大家に事情を説明して部屋に上がり込んでいました。そんな役割を担わされての訪問だけに義澄の表情は硬く、私の顔を見るなり「散らかし放題で何やっとるんだ!ゴミ屋敷じゃないか。大家から掃除してくれと言われたから掃除しといたぞ」とあいさつ代わりに放つ言葉は冷たささえ感じられるものでした。

 私にすれば冗談ではありません。いくら兄とはいえ、自分のいない間に部屋に入り込んできて、頼んでもいないのに掃除をして、しかも帰宅したとたんに頭ごなしに叱るのです。彼を疎ましく思うのは当然です。

 ただ、兄と対立するのは得策ではないと考えたくにおみは、一度だけ本音で話すと決め、

「見れば分かるようにアニキがここに泊まれるスペースはない。それに俺は今から徹夜仕事に出かける。明日は休みだから明日話そう。出直してくれないか」

 といったん部屋から出るように言いました。

 

 翌日。兄と相対しました。

 翌朝までに心の準備ができたこと、その日は仕事が休みで時間をかけてゆっくり話せたことなどが良かったのでしょう。落ち着いた心理状態で兄と向き合えました。

 兄もある意味では私と同じ被害者。そこで私は小さい頃からの置かれた環境の息苦しさ、抱えてきた悩みや不満を話し、「でもアニキは俺よりきつかったんじゃないか」とそこに幾つかの例を引いて彼への同情を口にしました。すると兄の表情に大きな変化が見られました。柔らかな表情を見せ始めたのです。

 心が通じたと確信した私は、次に自分の将来の夢を語ります。その弟の姿に兄は目を輝かせて、口を挟むことなく話に耳を傾けてくれました。一気に話した私に兄は、「浮ついた考えじゃないことは分かった。凄い頑張りじゃないか」と理解を示し、「俺にはそういうことはとてもできないからお前は頑張って夢を実現してくれ」と最終的には応援を約束してくれました。そして、それがきっかけとなり、それまでのさまざまな互いへの不満、誤解の多くが一挙に氷解、逆に非常に良好な関係が生まれました。

 その言葉に嘘はなく数年後、くにおみと母との関係が決定的な局面を迎え「母子断絶」の事態に至っても兄は私の味方をしてくれ、その後も47歳で他界するまでずっと私の最高の理解者であり続けてくれました。

 

 「兄の死」については40代の編で詳しく書きますが、ここでも少しふれておきます。

 彼は20代前半と30代で二度、大腸がんにかかり、開腹手術を受け、そして術後に行なわれた放射線治療の影響とみられる白血病に命を奪われました。

 「その時」は突然訪れてきました。

 1992年の11月14日深夜、兄からの電話が入ります。そんな時間に電話してくるような兄でないだけに「俺だ」という低く沈んだ声を聞いた途端、不吉な予感がしました。

「白血病になった。長くはもたんらしい。俺が死んだら○○(彼の妻の名)は出て行くだろう。後は……おふくろを頼む」

 とだけ言うと、彼は電話口で泣き崩れたのです。兄が私にそのように感情をあらわにしたのは後にも先にもこの時だけです。

 私は口を挟まず、しばらくそのまま兄が泣き止むのを待ちました。10分ぐらい泣き続けていたような記憶がありますが、実際にはそんなに長くはなかったかもしれません。

「お前、今日NHKに出とったな。TBSとの関係は大丈夫か?」

 息を整えた兄は病気のことではなく、その日の朝に私が出演していたテレビ番組の話を始めました。

 確かにその日(土曜日)、NHK総合TVでは〝日本の英語教育の裏側をさぐる〟というテーマの1時間番組が放映されており、私は解説者としてその番組に出演していました。兄が受診した岡崎市民病院のTV画面では常時NHKが流れていて、私の姿が彼の目にとまったという話です。診察・検査の合間に弟の姿をずっと見続けていたとのことでした。

「俺のような田舎モンにとってはテレビの中でもNHKは特別の存在。お前がそこに解説者として一時間出続けていたからな」

 と私の出演を誇らしく思ってくれたようです。一方で、契約関係があったTBSとのことも兄としては気になったらしくその辺りを聞いて来たわけです。

 実は、TBS特派員のひとりと90~91年の湾岸危機・戦争における現地取材でひと悶着。帰国してからも彼との確執が解消されなかったので、私は、翌92年はTBSとの契約を更新していませんでした。それを知ったNHKや他局がアプローチをしてきて実現したいくつかの番組出演のひとつだったのです。しかしそれを話せば心配させるだけです。「全然問題ないさ」とだけ答えました。

 兄はまた、25年前の東京の私の部屋での話し合いが懐かしく感じられたようで、「お前、本当に夢を実現したな」と嬉しそうな声でそう言ってくれました。

 私は普段からTV出演があってもその情報を兄に伝えておらず、彼がこの番組を見たのは全くの偶然でした。これもありがたいことに私に与えられた縁なのでしょう。NHKに出演したことは結果的に兄に対しての最高の餞(はなむけ)となったようで、病室を訪れる度にそのことを口にしました。

 

 1967年当時の話に戻ります。

 上京直後から始めたデパートの配送は、出来高制で体力勝負。配達品には商品券などの軽いものもありましたが、そういった割のいいものは古参たちが先取りしてしまい、新参者にはかさばるものや重い商品しか回ってきません。当時は、日本酒はもちろんのこと、ビールやしょうゆなどが瓶詰されていました。与えられた運搬用自転車は頑丈でタイヤも太いものでしたがそれだけに重量があり、重い荷物を積んだ状態で上り坂をのぼるのは至難の業。毎日汗だくになりながら江戸川区を走り回っていました。

 目に余る古参連中のずるいやり方に黙っておられず、私はある日「あなたたち、ずるいですよ」と抗議の声を上げました。すると、彼らに「こっち来い」と仕事場の裏に連れ出されました。脅しのつもりです。

 ただ、こちらの腹がすわって折れないと分かると意外なことに彼らは脅すのをやめ、それ以上私に難癖をつけてくることはありませんでした。そんな不穏な空気を知った会社側は事態が深刻になりかねないと見たのでしょう。システムに多少の改善を加えました。

 その頃の生活はハードそのもの。

 早朝からの配送作業を終えて夕方部屋に戻り、疲れ切った身体を横たえて仮眠をとりリフレッシュ。夜は地下鉄の工事現場に向かいます。その頃の労働時間については、うろ覚えですが、大体午後7時か8時から工事現場で働き始めて早朝4時か5時に終えて帰宅。ラジオを聴きながら寝入り、泥のように3、4時間眠った後起床。眠い目をこすりながら「留学のため。留学するんだから」と自分を鼓舞して配送の仕事に向かいました。万年床(敷きっぱなしの布団)に座って見る預金通帳の金額が最大の励みでした。

←第43回)  (第45回→

第45回 「留学準備に邁進②」

前回のつづき)

 午後7時か8時頃から翌朝まで工事現場で働き、3、4時間眠ったあとデパートの配送の仕事に向かうという生活をしていたその頃。ラジオからあの名曲『帰って来たヨッパライ』が流れてきました。

 イントロを聴いて「なんじゃこれは?」。続く奇想天外なメロディーラインに仰天。途中からはあまりの素晴らしさにひとりラジオに向かって手を叩いていました。

 聴き終えたリスナーから「もう一度聴きたい」とのリクエストが殺到したようで、パーソナリティと呼ばれる進行役が「これまで番組の中で同じ曲を二度かけたことはありません。でもあまりに凄い反応なのでもう一度かけます」と言い、再びレコードがかけられました。この曲を耳にすると、今でもあの頃の「万年床生活」が思い出されます。

 貸間ですからそこに風呂はなく、共同炊事場で沸かした湯で体をふくだけの日常でした。それだけに週に一度の休みの日に行く銭湯はまさに極楽。大きな湯船でたまった垢と疲れをゆっくり落としていました(もちろん、湯船に入る前に体は洗いましたよ、念のため)。

 あ、たまに東京駅の地下にあった銭湯に行くのも楽しみでしたね。確か東京温泉という今で言うスーパー銭湯でした。

 

 洗濯も悩みの種でした。洗いたくても、部屋にただ一つだけある窓の外は一面隣家の壁が迫っており、洗濯物を干す場所はありません。そう。隣家の外壁とは3、40センチしか離れていなかったので一年中私の部屋に陽が射すことはなく、「365日、昼なお暗い部屋」、洗濯物を干す場所はありません。だから肌着やシャツを「買っては積み、買っては積み」で洗濯物は押し入れに数か月間で山積み状態。北区にコインランドリー(銭湯併設型としては日本第一号)があると聞いてそこに持ち込むまではそこからすえた臭いが放たれていました。

 前述のように突然来訪した兄は、弟が不在だったため部屋の大家に挨拶に行ったとのこと。すると大家から「部屋が汚い。掃除をして欲しい」と苦情を言われたので私が帰る前に部屋に入り掃除をしたと言います。しかし、洗濯物には手が付けられません。放つ臭いに閉口したらしく、帰宅した私の顔を見るなり〝くっさいなあ(三河弁で臭いなあ)〟と鼻をつまんだものです。

 

 米国に留学したいのですから英語の勉強を欠かすわけにはいきません。暇を見つけてはFEN(米軍ラジオ)を聴き続けること、それに街に出て外国人を〝ナンパ〟して英語力を磨き続ける努力を欠かしませんでした。赤坂見附駅近くにあった米文化センターに行き、アメリカの新聞や本を読み漁ることもしました。

 また、同センターにある資料からジャーナリズム学部(学科)のある米国の大学の住所を書き取り(その頃コピー機は超貴重品で使えず。全ては手書き)、100校近くに「学費及び滞在費の免除又は減額」を求める手紙を送り続けました。

 これについては、約3分の1の学校が「あなたのような熱意のある学生を歓迎するし、私共には様々な支援策はある」という主旨の好意的な返事をくれましたが、それら全てが「ただし、あなたには我々の判断基準である大学での実績がない。最初の年は自費負担で来て勉強してもらい、その成績を基に考えたい」とするものでした。

 当時の円ドル交換レートは1ドル360円で固定されていました。自費留学するには少なくとも50万円は必要。だから預金通帳の数字を上げるのに必死でした。少し前にも預金通帳のことを書きましたね。シツコイと思わないでください。それほど当時は真剣だったのですから。

 

 ナンパした外国人にもいろいろお世話になりました。中でもトーマス・コーツという初老の米国人男性からは言葉に尽くせないほど親切にしていただきました。

 彼と出会ったのは都心にある日比谷公園のベンチ。新聞を読んでいたコーツに私が話しかけたことから親交が始まります。彼は飯田橋にある東京ルーテル教会の幹部で、職員からは「ドクター・コーツ」と呼ばれていました。最初は医者かと思いましたが、そうではなく神学博士です。ナンパがきっかで週に2度彼のオフィスに行き、英語を教えてもらいました。

 勉強方法は、自分からお願いして次のようなものにしました。

 日常生活から東西文化比較、ヴェトナム戦争、学生運動まで多岐にわたる話題を自分なりに30分ほどにまとめて話し、その間一切口を挟まずにメモを取るだけでただただ聞いてもらいます。話し終わった後にそれを整理して文法的な間違いや英語表現の修正をしてもらえるようにお願いしました。英語教授法に則ったものではないものの私には相性の良い方法で、とても有効な授業でした。それが終わると食事に誘っていただき、その場でもレッスンが続けられます。自分でも力がついていくのが実感できました。

 くにおみはヴェトナム戦争に反対し、米政府の戦争への関与を強く非難する姿勢でしたから、米国の保守層に位置するコーツが意見を異にするのは明らかでした。しかしながらコーツはあえて異論を唱えず、くにおみとの意見の違いを面白がっているようで黙って聞いてくれました。その姿勢に「大人の余裕」を感じたものです。

 ただ、くにおみの性格を分かっていたからでしょう。コーツはキリスト教会の幹部なのに宗教への勧誘は一切口にしませんでした。そればかりでなく、彼は留学の斡旋までしてくれました。

 ある時レストランで食事を終えると、

「南ダコタ大学の学長をしている友人にあなたのことを話したらぜひ支援したいと言ってくれました。渡航費用も寮費も心配しなくていいです。ただし、その大学にあなたが勉強したいジャーナリズム学科はありません」

 と言ったのです。

 またとない機会です。大喜びすると思いきや、くにおみはひねくれた反応をしてしまいます。

「ジャーナリズム学科がないのですか。ごめんなさい。ジャーナリズムが学べないのなら興味がないです」

 と彼の申し出を断ってしまったのです。

 前述した森川宗弘からの好意を断った根底には、「むやみにひとさまの世話になるな!」と子供の頃から厳しく叩き込まれてきた我が家の教えがあったと思いますが、コーツの親切への反応は偏屈そのもの。もう少し断りようがあったはずです。しかも途中から他の大学に転入する可能性もあるからと言われても、コーツの申し出に私は首を縦に振らなかったのです。

 今となっては確認のしようがありませんが、この留学案には森川が絡んでいた可能性もあります。実は、私がコーツから英語を習っていることを知ると、森川は自分もやりたいと言い出し、私は彼をコーツに紹介していました。しばらく森川は多忙な時間を縫うようにしてコーツの所に足を運んでいたのです。コーツと親しくなった森川が、私のために留学案を案出した可能性は十分にあったと考えられます。

 

 多忙な仕事の合間に、森川の経営する『日本エコノミストセンター(通称エコセン)』に何度か顔を出すと、月末に経理担当者から封筒が渡されました。森川からだと言います。それもそれからその金額が毎月出されるとのこと。中を見ると5万円という大金が入っていました。当時の大卒の初任給の約2倍です。

 遊びに行くだけでそんな大金を頂くわけにはいきません。ならばと、デパートの配送と地下鉄工事の仕事は辞めてエコセンに勤務することにしました。勤務と言っても郵便物の発送作業の手伝い程度で、ひまであれば社員と雑談をしていても誰に文句を言われることはありません。勤務日どころか勤務時間も自由です。

 一転して自由時間の多い生活になったくにおみは、中古カメラを買って当時都内の幾つかの大学で行われていた学生運動の実態を探ろうと、早大や東大など都内の大学に足を運び写真を撮るようになりました。いっぱしのカメラマンを気取り、活動家にインタヴューまでしていました。

←第44回)  (第46回→

第46回 「羽田闘争を目の当たりにして」

 ジャーナリストを気取ってカメラを向ける私に、最初は胡散臭い顔で見ていた活動家たちも、顔見知りになるといろいろ情報をもたらしてくれるようになります。

 1967年10月8日。佐藤栄作首相(当時)が南ヴェトナムを含む東南アジア訪問への出発を予定していました。それに対して、佐藤首相の南ヴェトナム訪問は、当時激しさを増していたヴェトナム戦争への日本の関与を深めることになると中核、革マルなどの新左翼各派はそれぞれ、佐藤の出発を阻止しようとその日、様々なルートから羽田空港への突入を目論んでいました。

 その情報を得たくにおみはその日現場のひとつに立ちました。空港の近くに集結して空港に向かうデモ隊に付いていくことにしました。私が同行したデモ隊には途中で加わる者も数多く、やがて数百名の大きな集団になりました。後で同じような集団が各所に出没、この日全体で2500人~3000人が訪問阻止デモに参加したことを知ります。

 

 空港近くの運河沿いの道を進むと、前方に機動隊が姿を現しました。かなりの威圧感を与えてきます。デモ隊はしかしそれにひるむことなくスクラムを組みゆっくりと前進し、時折り立ち止まると国際労働歌『インターナショナル』を歌いながら団結を強め、再び間を詰めます。そして、「ワッショイワッショイ」「安保、反対」と掛け声を揃えてジグザグに激しく動きます。それを何度も繰り返すと、ついに前方に立ちはだかる機動隊に体当たりしました。すると機動隊員は警棒を学生たちの頭に振り降ろします。

 私が〝同行取材〟したグループに加わっていた学生の約半数は、その時ヘルメットをかぶっていませんでした。そしてその恰好も平服でした。ヘルメットをかぶらず平服の参加者がデモに慣れていないのは明らかで、警棒を振り上げる機動隊員を前にして恐怖からしゃがみ込む者もいます。

 学生と機動隊員とでは鍛え方が違います。また防護服に身を固めてこん棒で〝武装〟する機動隊員に対して学生は徒手空拳です。そんな状態でも機動隊にぶつかっていく学生たちを見るうち、くにおみは体の奥底から得も言われぬ怒りがこみ上げてくるのを感じました。カメラをどこかに置いてデモ隊に加わりたい衝動にかられました。しかし、そんな気持ちも学生たちがやがて苦しまぎれに行なった投石をきっかけにしぼんでいきました。非暴力を唱えるくにおみには、投石は論外だったのです。

 でも、これを読んでいる皆さんは、「投石?そんな石はどこにあった?用意していた?」と思われますよね?

 当時都内の道路の歩道は敷石またはレンガで固められており、デモ隊はそれを割って投げやすくして機動隊に投げつけたのです。

 これは機動隊員にとっても恐怖です。学生への攻撃が中断されました。両者の距離が開き、動きがとまり、しばらく膠着状態となりました。おそらく機動隊側は態勢の立て直しをはかっていたのでしょう。

 学生側も乱れた隊列を組みなおし『インターナショナル』を歌ったりして次に備えます。

 「バンバンバーン!」という大きな音と共に催涙弾が飛んできました。それを避ける学生の隊列が乱れた所に機動隊が襲いかかります。勢いを失った学生側の隊列に指導者たちから檄が飛びますが、デモ隊に劣勢を挽回する力は残されておらず、てんでに倉庫街やビルの物陰に逃げ込みました。私が付いたグループはそれで流れ解散となりました。

中日新聞1967年10月9日、3面.jpg

 翌朝の新聞各紙は一面から他のページまでにわたってこの日の出来事を紹介しました。しかしながら学生を一方的に批判する記事が多く、私の見た現実を的確に伝える記事はほとんどなくて「マスメディアの力の限界」を目の当たりにした気がしました(写真は『中日新聞』1967年10月9日付朝刊です)

 翌日エコセンに行って社員を相手に見聞きしたことを話していると、森川宗弘が話に入って来て「今度そういう機会があったら僕もその場に連れてってよ」と言ったのは驚きでした。と同時に、さすがだなと思いました。

 

 その約一ヵ月後、今度は訪米する佐藤首相を阻止せんものと、新左翼各派や当時の最大野党であった日本社会党などが反対運動を予定していました。

 森川にその旨を伝えると、「よし、行こう」とノリの良い言葉が返ってきたので11月12日、ふたりは現場に向かいました。

 ひと月前と大きく違ったのは学生側の闘い方です。メディア報道では前回のデモによる負傷者数は警察側が圧倒的に多かったとされていましたが、私の目には逆に映っていました。学生側に相当多くの負傷者が出ていたように見えました。私がいた現場以外の状況を取材してみましたが、同様でした。

 各派は同じ轍は踏むまいということなのでしょう。参加者にヘルメットをかぶるよう指示していたのです。だからこの日はヘルメット姿が目立ちました。手にこん棒を持つ学生も少なくありません。

 衝突はいきなり学生側の投石と機動隊の放つ催涙弾の〝空中戦〟から始まりました。それに続いて学生側がこん棒を振りかざして機動隊に襲いかかります。前回に増して激しい衝突が繰り返されました。

 森川はと見ると、いくつもの修羅場をくぐってきたはずですが、緊張した面持ちです。

「すごい迫力だね。報道で伝えられるのとは大違いだ」と言うと、後は黙って状況を見ています。

 ただ、衝突がばらけるとこちらにも催涙ガス弾や石が飛んできます。くにおみに「森川の身に何かあってはいけない」という冷静な気持ちが働きました。

「森川さん、この場は引き揚げてヘリコプターに乗らせてもらえませんか。空中からこの模様を見たいです」

 とっさに私はそう森川に頼みました。

「それは面白いな」

 森川の快諾を得てくにおみは電話ボックスに飛び込み、ヘリコプター運航会社に電話をしました。その日は日曜日。誰も電話に出ません。

「もしかしたら現場の人間がいるかもしれません。ヘリポートに行ってみましょう」

 と言うが早いか、タクシーを拾い二人は乗り込みました。

 ヘリポートには従業員が出勤していましたが、その日東京上空は報道機関以外の飛行は認められておらず、残念ながら上空からのちに「第二次羽田闘争」と呼ばれるようになった反対運動を見ることはできませんでした。

 

 このような体験をしたくにおみは、自分で撮ってきた写真や拾ってきた声を何らかの形で公表したいとの思いを強くします。

←第45回)  (第47回→

第47回 「人生の意味を思索する旅」

 1967年の年末は、11月に訪米した佐藤首相がまとめてきたと噂される沖縄と小笠原の返還交渉、それから、ひと月後の米原子力空母『エンタープライズ』の寄港問題でもちきりでした。

 

 そんな中、マンガ好きの高校時代からの親友Bが「おもしろい漫画が始まったぞ。なんか、読んどるとお前と重なってな」と言われてなんだか気になり、書店で手に取ってみたのが漫画雑誌『週刊少年マガジン』。そこには連載が始まったばかりの漫画『あしたのジョー』が掲載されていました。後で好きになった漫画ですが、主人公のジョーは手が付けられない暴れ者。「やつにとってこれが俺のイメージか……」と絶句したものです。

 その10数年後に、同じく高校からの親友だったAに「お前そっくりだ」と言われたのが、漫画『じゃりン子チエ』の主人公の父親です。

 「なんだ、それ?」と言う私に、彼の妻が「そうそう。そっくりだから読んでご覧」と漫画を私に渡しました。この漫画の奔放なキャラクターには私も大笑い。でも心の内は複雑です。確かにそれまでのくにおみの人生には常に暴力が付きまとっていましたが、自分から仕掛けたとの意識はありません。だから不本意でしたが、そう思われるのも仕方がない生き方です。「買い被りだけど、お前たちのイメージを壊さないように頑張るよ」と答えておきました。

 

 仕送りを断ったものの何か月も母親からの干渉は止まらず、手紙が送られてきます。そんな母との〝ケリ〟をつけようと年末、岡崎に帰ることにしました。

 帰る方法は新幹線ではなく、あえて徒歩にしました。東海道を東京から岡崎までじっくり自分を見つめながら歩きたくなったのです。距離にしておよそ320キロ。一日平均40キロ歩けば、8日で歩ける距離です。歩きながらとことん自分と向き合いたくて考えた方法でした。それと、かつて在籍した郷土学生寮の友人たちがその前の夏に5、6人で歩いての帰郷を試みたものの静岡でとん挫。その時、「お前ら、だらしねえなあ。そろいもそろってこんじょ(根性)無しだ」とけなしてしまい、彼らの一部から「そんじゃあ、くにおみ、お前歩いてみろ」と言われていたことも背景にありました。今になって反省しても遅いですが、その頃のくにおみは本当に言葉遣いが荒かったのです。

 

 年も押し詰まった12月末。私は日本橋に立ちました。「東海道は日本橋から始まっているのだから」とあえて出発点を日本橋にしたのです。

 服装は普段着です。当時はウォーキング用の服装はとても高価でぜいたく品。靴もウォーキング用のものではなく日常履いていたバックスキンの安いものを履いての「東海道ひとり旅」でした。

 当時の自動車は排ガス規制が無いも同然、もうもうと黒煙を巻き上げて走る車両もあるほど。地域によっては片側一車線でした。もちろん歩道はありません。排気ガスの充満する都会の東海道を歩くのは思いのほかきつく、歩いてすぐに1日で40キロは余裕で歩けると踏んだのは誤算だと気付かされます。横浜駅を通り過ぎる頃には陽が傾き始め、かつての「戸塚宿」(日本橋から数えて5番目)に着く頃には夜のとばりが完全に降りていました。一日目の歩行距離は約40キロでした。

 

 野宿も辞さない旅です。寝袋にくるまって寝ようと戸塚駅に行きましたが、駅員から迷惑がられて仕方なく近くにあった交番に頼りました。

 若い巡査が当番でした。タダで泊めてもらえるところを探していると言うと、人のよさそうな雰囲気を全身からかもしだすその巡査は何ヶ所かに電話を入れ、頼み込んでくれました。

「近くの寺で泊めてもらえそうです!」

 とわがことのように喜び、連れていかれた寺には、「善了寺」と書かれた看板がかけられていました。予想に反して住職の態度は硬く、私を見る表情は迷惑顔に近いものでした。

「今夜はもう遅いから泊めてあげるけどもうこんなことはしないでくれ」

 と言われて、そこで初めて自分のしていることが反社会的な迷惑行為であることに気付かされました。ならば諦めようかと思いましたが、懸命に住職夫妻を説得する若い巡査を見ると断るに断れません。彼の顔をつぶしてはいけないとそのまま泊めて頂きました。

 しかしながら住職に言われたことが頭から離れず、用意していただいた布団に入って考えている内に「あんな言い方はないだろう」とひねくれた感情が生まれてきます。

 翌朝早く起床。500円札(当時はまだ500円玉はなかったと記憶しています)を添えて「庭の掃除でもしたいところですが、先を急ぐ旅ですのでこんな形で失礼します」と置手紙をして寺を後にしました。

 

 東海道に出てしばらく歩いていると後ろからプップーとホーンの音。振り向くとその車には住職と妻の姿が見え、こちらを手招きしています。

「あんなことしてえ。さあ、車に乗りなさい」

 奥さんにそう言われ、後部座席に座りました。

 そこからしばらく行った先のトラック運転手向けのドライブイン(レストラン)で、「さあ、好きなものを注文しなさい」とメニューを渡されました。言葉は文字にするときついですが、その表情は昨夜と違って柔らかく温かみのあるものです。置手紙をしたことをお二人から評価していただきました。

 食事をしながら「将来の夢」を聞かれ、短い間でしたが食事を飲み込みながら描いている夢を語りました。おふたりは一生懸命聞いてくれましたが、先を急ぐ身なのでその無礼を詫びながら立ち上がると、「少ないけど持っていきなさい」と封筒を渡されました。固辞しても奥方の雰囲気からは受けつけてもらえないと判断、ありがたくいただきました。先ほど置手紙と共に置いてきたカネが倍になって返ってきました。

 

 おふたりの優しさで心を温めてもらって再び歩き始めたくにおみは、自分の性格の悪さを反省しながら、留学計画の事、学生運動の取材の事、友人関係等々様々な思いを頭に浮かべ、時に嫌な思い出や問題は頭から消し去ろうとしたりして歩き続けます。

 その夜は小田原のニコヨン相手の宿泊所で旅装を解きました。長期間敷きっぱなしなのでしょう。じめじめした布団に「いつ洗ったの?」というくらい汚いシーツの上では寝る気になれず、寝袋にくるまって寝ました。〝着たきり雀〟ですから服は着たままです。

 それでも疲れていたので爆睡です。

 

 翌朝はまた5時起きです。順調に東海道を西に向けて歩を進めていきます。

 前夜急に「富士山をもっと近くで見たい」との想いが湧いてきて、宿泊所の人に聞くと、大観山展望台からの富士が絶景だと言われていました。

 ところがそれは箱根ターンパイクという有料道路にある見晴らし展望台で、車でないと行けないようです。ヒッチハイクという手が無かったわけではありませんが、歩くと決めた以上、歩かないと気が済まない性格です。

 「なんとかなるだろう」と歩いて料金所まで行きました。ところがと言うか、案の定と言うべきか、料金所の職員に「車でないとこの道は通れない」と言われます。

 ならば仕方がありません。通りかかる車をヒッチハイクしようとすると、「そんなことをするな!諦めて来た方に戻れ!」と怒鳴ります。この言い方が私の反骨精神に火を付けました。料金所に再び近づくと不快な表情を浮かべる職員。

「あ、待てええ!」

 料金所を走り抜け、しばらくは男の声が続きましたが、やがてその声も小さくなり、振り向くと職員は追いかけるのを諦めたようです。その場に立ち尽くしていました。

 くにおみは走るのをやめて歩き出し、清々しい冬の朝の空気を満喫しながら足を運びます。目の前に見えてきた早朝の富士の高嶺に息を呑みました。私の長い人生の中でも最高に美しい霊峰の姿が目の前に開かれてきたのです。その姿を見る内に心の底から込み上げてくるものがありました。それまでに行なってきた自分の不実の言動の数々が頭をよぎります。心が洗われるという表現がからだのど真ん中を突き抜けていくのを体感しました。

 母千代子との関係も今一度見直してみようとの思いに至りました。

 

 その後も順調に沼津→静岡→浜松と歩き続けました。

 浜松から岡崎まで一気に歩くつもりでしたが、40キロ余を歩いた時点でそれまでの疲れと足の痛みに耐えきれなくなり、「そうだ、Kさんの家に泊めてもらおう」と思いつき、豊橋にある高校の恩師を訪ねました。

 電話もしなくて突如訪問する「電撃訪問」です。年末の家族団らんの場に乱入するのですから冷静に考えれば非常識極まりない行為です。表面上は冷静に応対してくれましたが、「それで今から出ると岡崎のご実家には何時頃着く計算か」と言われて目が覚めて、自分が迷惑をかけていると気付きました。 

 それからの30数キロは痛みと疲れと眠気が波のように押し寄せてくる地獄の苦しみ。真夜中に歩く闇の恐怖もそれに加わります。

 特に真っ暗なトンネルを通るのは恐怖そのもの。当時は多くのトンネルには十分な照明もなく、歩行者用の脇道もありませんでした。すれすれの距離で後方から来る車が走り抜けていきます。特に、トラックが来ると身がすくむ思いでした。運転手も真夜中に狭いトンネルを歩く私を見て驚くのでしょう。警笛を鳴らす人もいました。トンネルの壁に反響する警笛、特にトラックからのホーンはまさに警笛です。「戦争取材だと思ってがんばれ!」と自らを奮い立たせて歩き続けました。

 恐怖が最高潮に達したのは残すところ約10キロの所で脇の田んぼに横転してひっくり返ったトラックを見た時です。おそらく何時間も前に起きた事故なのでしょう。今だったら夜を徹して撤去作業を行うところでしょうが、当時はそんなに機材も充実していなかったのかその場に放置されていました。そこにパトカーや人影はなく、ぶざまに大きな車輪を月明りに浮かせたまま乾いた田に転がるトラックの姿は今でも一枚の写真のように私の記憶に残っています。

 

 7日目の早朝、岡崎の自宅に到着しました。最後の二日間は、「静岡→浜松」「浜松→岡崎」と、それぞれ一日80キロ近くを歩きました。

 当然の事ですが、いろいろ小さな出来事はありました。でもそれら全てに意味を見い出しての旅です。履いていた安物のバックスキンの靴が足に合わず、静岡を過ぎたあたりで踵に大きな水ぶくれができてしまい、悩まされました。針で穴をあけて水を抜き消毒すると布で足を縛り付けて歩き続けました。その姿に気の毒に思ったのでしょう。何台もの車が止まり、乗っていくようにと声をかけてくれました。いい時代です。多くの親切と温かい言葉をいただきました。そして、のんきな時代です。パトカーを一人で運転する警察官が車を停めて「眠いから話し相手に乗って行かないか」と言うのです(笑)。もちろん丁重にお断りしました。

 

 実家に朝5時頃着いたくにおみはそれからすぐに寝床に入り、24時間以上爆睡。途中で用足しに起きたようですが、夢遊病状態だったのでしょう。全く記憶にありません。

 眠り続けるくにおみに、母と兄は後で「死んじゃったかと思って何度も様子を伺ったよ」と言っていました。

 話し合いは、兄が間に入ることによって母もくにおみも冷静さを保つことができてののしり合うこともなく行われ、留学準備への理解も得られました。「できるだけのことはする」と言う母に、これ以上突き放すのはかわいそうとの憐憫の情(?)に似た感情も少し湧いたくにおみは「どうしようもなくなったら(仕送りを)頼むわ」と口を濁すだけに留めました。 

 実家に長居は無用とばかりに正月早々東京に戻りました。帰りは徒歩でなく汽車(当時は長距離を走る電車をそう呼んでいた)でした。車中では母親に妥協をした弱さを責める自分と、彼女のきつい言葉と視線に堪えたことをほめる自分とが交錯し、目を落とす本(おそらくむのたけじさんの著書)の内容に集中できぬまま、ただページをめくっていたように覚えています。

 

(次回以降、帰京して間もなく米軍の原子力空母『エンタープライズ』の寄港反対に吹き荒れる九州佐世保に向かう話を書く予定です。)

←第46回)  (第48回→

第49回 「パレスチナと私①」

 私がパレスチナに興味を持ったのは1970年9月のことでした。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が4機の航空機を同時多発的にハイジャック。その内の3機をヨルダンの軍事空港に着陸させて世界を震撼させた事件を起こした時です。

 英国留学中であった私は、アルバイト先のTVに映し出された光景に衝撃を受けてそれから猛勉強をしました。そこから見えてきたのは、住んでいた土地をイスラエル軍に奪われ、近隣アラブ諸国に助けを求めて避難したものの長年難民キャンプのテントや小屋で不遇をかこっていたパレスチナ人の悲惨な姿でした。

 

 約半年の猛勉強の自分への褒美に、1971年7月、私は初めて中東の地に足を踏みました。訪れたのは触れた内戦が起きたヨルダンです。

 同時多発ハイジャック事件に端を発してアラファト議長率いるパレスチナ解放機構(PLO)とヨルダン正規軍の間で武力衝突が起き、結果的にPLOの主力勢力はヨルダン国外に追い出されていました。

 ヨルダンの首都アンマンには、戦闘こそ収まっていましたが、あちこちに戦争の傷跡が残されています。パレスチナゲリラに会ってみたいと歩き回っている内に、マルカ難民キャンプに行き着きました。一週間近くある家に泊めていただくことが出来ました。家と言っても、テントではなかったですがどこかから集めてきた古材とコンクリートブロックで造られた粗末な建物です。ひと部屋しかなく、それをカーテンで男女別に間仕切り、8人が住んでいました。

 初めて見る「ヤバニ(日本人)」は、人好きのパレスチナ社会で大人気。入れ替わり立ち代り老若男女が遊びに来ます。子どもたちにも大人気で、彼らが見つけたお気に入りの遊びは、私にアラビア語を教えること。アラビア語は日本語や英語にない喉の奥を鳴らせる発音をします。僕は僕で、子どもたちにウケる間違いを直ぐに〝マスター〟したので、それをすると彼らは笑い転げるのです。

 内戦を戦ったゲリラから直接話が聞けるのは刺激的でした。隠し持った武器を見せられた時は、それまでは画像や映像でしか見たことのなかったパレスチナゲリラを間近に見るだけに心拍数が上がりました。

 でも、それよりも私の心に強く響いたのは、「これがパレスチナにある私の家の鍵だよ。私たちはいつ戻れるか分からないし、もう20年以上経っているから家はないかもしれないけれど、この鍵を手放すことはない」という難民たちの悔しい言葉と表情でした。中には、「ヨルダン河の小高い丘から故郷の灯りを時折り見に行くんだ」とため息交じりに言う人もいました。実際にその場に連れて行ってもらうと、その男性の姿に心がしめ付けられました。

 それまではユダヤ人が受けてきた迫害の歴史が私の心を支配していましたが、その老人たちの姿が大きな転換点になりました。「こんな理不尽なことが許されていいものか」という強い憤りが心の底から湧き上がりました。

 

 2回目の中東訪問は、翌1972年4月でした。

 イスラエル社会を見るには、キブツの体験が必要とテルアビブの北に位置するキブツ・ガーシュに約ひと月半滞在しました。キブツはイスラエル全土に幾つもありました。この地に移住してきたユダヤ人は所有財産を全て投げ出してメンバーになり、そこで一生過ごすのです。形態としては農業共同体で、イスラエル建国に大きな貢献を果たし、キブツ出身者は特に軍部や政界においては大きな影響力を持っていました。

 キブツは外国からの若者をヴォランティアとして受け入れていました。ガーシュでもヨーロッパやアメリカ大陸から30人近い若者が粗末な小屋に住み、毎日、オレンジやアヴォカドの収穫に勤しんでいました。アジアからは私だけでした。ヴォランティアとイスラエル人メンバーとの交流はほとんどなかったので自分から積極的にメンバーの家を訪れて交流を深めました。

 そうして垣間見たキブツ社会は、意外なことに差別がはびこっていました。近くに住んで通ってくるパレスチナ人労働者に対するものだけでなく、同じキブツのメンバーに対しても冷たい目が向けられていたのです。

 「同じイスラエル人なのになぜ?」と差別を受けるメンバーのひとり(インド生まれ)にたずねると、「それはセファルディ(アジアやアフリカ、中東生まれの非白人系ユダヤ人)だからなんだ。その事はあまり触れない方が賢明だよ」と言われ、驚きました。

 そう。当時は同じユダヤ人でもアシュケナジ(白人系ユダヤ人)が優位に立ち、非白人系は差別の対象だったのです。結婚もセファルディがアシュケナジと一緒になるのは難しい状況でした。彼もアシュケナジの彼女(メンバーの娘)と結婚するのはとても大変だったし、結婚後も疎外感に苛まれていると私に訴えました。

 大半のメンバーは我々ヴォランティアに好意的でしたが、敬虔なユダヤ教徒のグループは最後まで私を受け入れようとはしませんでした。
 私の動きはキブツの幹部に目をつけられ、やがてやんわりとキブツからの退去を“勧め”られました。そんな「退去勧告」に抗う意味もなかったし、その頃、パレスチナ抵抗運動に活発化する動きが見られたこともあり、5月にキブツを出ることにしました。

 

 キブツを去ることにしてその日はオフ。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。

 パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。 (つづく)

←第48回)  (第50回→)

第50回 「パレスチナと私②」

前回のつづき)

 1972年5月8日。私は近くの海岸で水泳と日光浴を楽しんでいました。その時、聴いていたBBC(英国公共放送)国際放送ラジオが緊急ニュースを報じました。

 パレスチナゲリラがサビーナ(SABENA)ベルギー航空の飛行機を乗っ取り、テルアビブ空港に強制着陸したと言うのです。

 スワいち大事、と私はキブツの自室に戻りカメラを手にすると、事務所の電話を借りて毎日新聞の欧州総局(在ロンドン)に電話を入れました。その頃の国際電話はオペレイターに申し込んでから30分程回線がつながるのを待たねばなりませんでした。その頃総局の助手として雇われていた私は、ボスである小西特派員に電話で指示を仰いだのです。前年の昭和天皇訪英時に世界的スクープとなった写真を撮っていただけに、小西さんも「浅井君だったら何か世界をあっと言わすような写真が撮れるかもしれないね」「いい写真が撮れたらUPI通信(当時は世界的通信社)に持ち込んで」と言っていただきました。

 

 親しくしていたキブツのメンバーに頼んで近くの町ネタニアまで送ってもらい、レンタカーで空港に急行しました。初めてのハイジャック取材です。正直に言って何をどうしたら良いのかは分かりません。行き当たりばったりの「出たとこ勝負」でした。

 そこで一案。空港ビルには報道陣が詰めかけているはず。私のような素人同然のカメラマンが同じ場所にいたのではスクープ写真は撮れないでしょう。「どこかいい場所はないか」と思いながら空港周辺を車で回りました。空港の敷地沿いの道路を車で走っていると、滑走路が見えて、機体にSABENAの文字が書かれた飛行機が確認できます。

 そこで私は、無謀ですね、バカですね。車を降りて草原を歩き滑走路に向かって歩き出したのです。信じられないことに、当時は空港の周りには鉄条網や遮蔽物がなく、兵士の姿はあるもののどんどん滑走路に近付いていけます。

 でも、甘くはありませんでした。近寄ってきた兵士たちににこやかな表情ながら厳しい口調で「逮捕されたいのですか?」と言われてしまいました。

 引き下がるしかありません。車に戻り、空港ビルに急ぎました。それから数時間。何ら動きはなく、緊張が薄れて報道陣の中には居眠りする者もいました。

 その時です。

 私には聞こえませんでしたが、一部の記者には銃声が聞こえたようで、報道陣の集団が急に崩れて屋外に走り出しました。私は訳も分からず彼らの後を追いました。ただ、建物の出入り口で警備の兵士が大声で「記者証を見せるように!」と叫んでいます。

 その頃の私はまだ記者の真似事をしているようなもの。毎日から記者証をもらえる立場にはなく、一瞬、ん?と思いましたが、結構若い頃から機転が利いた(ずる賢かったとも言います)私は、日本の運転免許証を振りかざして皆の後を追いました。当時の免許証は二つ折りで外側は黒(又は濃紺?)でしたから何となく記者証らしく見えたのです。

 滑走路に出ると、私たちは遠くに駐機しているSABENA機目がけて走り出しました。でも、ここでも甘くはありませんでした。武装兵たちが私たちの前に立ちはだかって阻止したのです。そしてビルに押し戻されました。後になって分かったことですが、国際赤十字の制服を着たイスラエルの特殊部隊が飲食を届けるふりをしてハイジャックされた飛行機に突入。ハイジャッカーのひとりを殺害、他は取り押さえたのでした。取り押さえられたハイジャッカーは自爆装置を持っていたものの逡巡したのか、幸いにして何らかの理由で爆発せず、大事には至りませんでした。

 帰途、車を運転しながら、その時になって初めて胸の高鳴りをおぼえました。それと同時に、「命を賭してまであのようなことをせざるを得ない」ゲリラたちへの同情心も禁じえませんでした。

 

 キブツを離れてエルサレムの東部(アラブ地区)に入った私は、宿で旅装を解くと直ぐに旧市街に足を運びました。人通りがあまりない所を歩く内に道に迷いウロウロしていると、ふたりの少年から声をかけられました。

「You play Judo? Karate?」

 ひとりが聞いてきます。近付いて行き、相手の顔面にハイキックを寸止めして、ひるんだところを首根っこに手をかけました。

 怯える少年に笑顔で「大丈夫、傷つけないから。冗談だよ。何か僕に用かい?」と声をかけると、「こっちに来て!」と私の手を引っ張ります。そのまま洞窟のような回廊を連れて行かれました。

 5,6分足早に歩いたでしょうか。奥の方から何か大勢の掛け声が聞こえてきます。すると、目の前に柔道場が現れました。柔道場と言っても畳ではなく古いマットレスのようなものが敷き詰めてあるだけです。着ている練習義も柔道着ではなく厚手のシャツのようなものでした。奥の方からがっしりした体躯の男が笑顔で迎えてくれました。雰囲気で道場主だと分かります。ハッサン・モグラビと男は名乗り、自分は本と8ミリ(無声映像)で柔道を学んだからしっかりしたものではない。本場の柔道を教えてくれないか、と言います。

 私は高校時代に柔道部に所属したもののいい加減に練習していただけでしたし、東京の講道館やロンドンの道場で稽古はしていましたが、教えるほどのものではありません。そう断った上で青少年の稽古相手になりました。

 そして数日後にはハッサンと兄弟のように仲良しになり、あちこちに連れて行ってもらい、いろいろな人に紹介されてパレスチナ社会に誘(いざな)ってもらいました。その後もエルサレムを訪問すると必ず彼の下を訪ね、兄弟のように仲良くなりました。

 

 西岸地区からガザに行くにはイスラエルを通って行く必要があります。乗り合いタクシーでガザ北部の検問所に着くと、そこには長い車列ができていました。

 5月でもガザは30度をこえる真夏です。乗ったタクシーは古くエアコンはききません。車内にいても〝地獄〟、車の外にいても強い陽ざしでこれまた地獄。

 そんな中でも、パレスチナ人はただひたすら辛抱強く待ちます。バスに乗る人たちも同じで疲れ切った表情で前に進むのを待っています。検問所に足を運んでみると、イスラエル兵は余裕の表情で仲間同士で談笑しながらパレスチナ人たちの身元確認や荷物検査をしていました。

 血の気が多く怖いもの知らずだった私は、イスラエル兵たちに「なんでもっと真剣に迅速にやってあげないのか」と詰め寄りました。そんな私に、数名の兵士が一様に「目を一瞬閉じて歯を鳴らしながら顔を上げて手でコチラを払う仕草」で応じ、リーダー格が「車に戻って待ってろ」と言いました。ここでひと悶着を起こしても通関作業が遅れるだけかもしれないと引き下がりましたが、パレスチナの人たちの気持ちが少し分かったような気がしました。

 

 そうして入ったガザは、イスラエルとはまさに別世界。

 通行・運搬手段の多くがロバ頼り。道路のほとんどは未舗装でした。下水設備もまともなものはなく、住宅やテントからの排水が通りにまであふれています。衛生環境は劣悪でした。高い建物はほとんどなくて、粗末な掘っ立て小屋が立ち並んでいました。

 その頃先進国ではミニスカートが大流行。その一方で正装をする若者も多くいました。生活レベルやファッションもイスラエルは先進諸国並み。テルアビブやエルサレムのような都市はヨーロッパの主要都市と見紛う空気が流れています。それに比べて、ガザの人たちは日本の終戦直後を思わせる粗末な服装。そのギャップの大きさに驚かされます。

 ガザに入っても私は臆することなく、難民キャンプや気になった施設に入って行きました。日本人に初めて会ったという人がほとんどで、多くがヒロシマやナガサキを例に挙げて、戦後復興を絶賛してくれました。失業率が高くて「日本で働き口はないか?」と聞いてくる人もいます。同じパレスチナ人でもガザはエジプトの影響が色濃く、話すアラビア語は大きく違い(と言っても、私のアラビア語は赤ちゃんレヴェル)、性格もライフスタイルも驚くほどの違いが感じられました。

 2泊か3泊しかしませんでしたが、古くて使わなくなった漁船が地元民に提供された宿。次々に差し入れをもって入れかわり立かわり訪問してくる地元民と談笑。楽しく、そして勉強になったガザの滞在でした。

←第49回)  (第51回→)

その他

第20回 「阪神大震災『活動記録室』誕生裏話」

 日本の代表的な防災工学者・室崎益輝さんから、NPO法人「市民活動センター神戸」(KEC:Kobe Empowerment Center)の総会が6月5日(土)に行われたとの報告がありました。

 実はこのKFC、

 いやこれではフライドチキンですよね。

 KEC。これは僕が言い出しっぺで作られた組織なんです。

 と言っても、ホントに提案しただけで、あっという間に僕の手から離れてしまったので僕が作ったと胸を張れるものではありません。僕が言い出したことをここまでにしていただいた多くの皆さんの力の結集に、これぞ「エンパワーメント」と喜んでいます。

 NPO法人「市民活動センター神戸」はNPO支援事業や調査研究事業、政策提言事業、東日本大震災支援事業など幅広い活動を行う団体で、その設立は1995年にさかのぼります。

ACT NOW 2.gif

 アレは、26年前の2月のことでした。

 阪神・淡路大震災が起きてひと月余り。

 神戸市長田区役所に設けられたヴォランティアルームには、いつものようにヴォランティア組織の代表が集まっていました。その数ははっきり覚えていませんが、30人近くいたと思います。

 会議が始まる前で雑談をしていた時、何人かが疲れきった表情で、「普賢と同じ轍を踏んでいる」「奥尻でも同じだった」と愚痴をこぼしていました。その人たちは、見るからに長年被災地支援活動に携わっている感じでした。「普賢」とは雲仙普賢岳の火砕流(1991年)、「奥尻」とは北海道南西沖にある小さな島を襲った地震災害(1993年)を指します。

 同席者のほとんどは僕を含めて“初心者”。“ヴェテラン”の話をただ聴くのみ。その場には一日の疲れもあって、どんよりとした重い空気が流れていました。

 

 気怠い空気を変えたくて、僕が口を開きました。

「だったら提案します。『各グループの地震発災直後から自分たちは、組織はどう動いたか』の記録を今からでも遅くありません。スタートからきちんと残したらどうでしょうか?」

「形式はいろいろ考えられます。例えば取材グループを作って対話形式の調査を行うのも良いですよね」

「得られたものをマニュアル化して冊子にし、ヴォランティアだけでなく行政関係者など誰でもがその情報を共有できるようにしたら良いんじゃないですか?」

 ヴェテランの人たちは何も応えません。あくまでも想像ですが、新参者の僕に対して違和感があったのでしょう。「遠くから来た年上のうるさいオヤジが放つ思いつきになんか付き合ってられないよ」といった雰囲気すらありました。

 気まずい沈黙と重い空気がその場を支配しました。

 その時です。まるでドラマのような展開がありました。

「浅井さんの言ってることは正しいですよ。なんでみなさん浅井さんの言うことを考えてみないのですか?」

 僕の左手奥から男性の声が上がりました。スウェーデン人留学生のケネスです。彼とはそれまでに挨拶をした程度。東大で研究する「学者の卵」くらいの認識しかありませんでしたから、突然の発言に驚きました。それは他のメンバーに強いインパクトを与え、その場の空気は一変。僕の発言は提言とされ、具体的な検討に入りました。

 担当するメンバーが決まり、僕を代表とする動きになりましたが、僕は神戸に常駐するわけではなく、関東と関西を行き来する“通いヴォランティア”。それに40代後半でしたから、なるべく早く誰か若い人に担ってもらうことを条件に「暫定代表」になりました。

新聞雑誌記事 4 読売新聞1995年1月25日.jpg

 地震発生後、僕は「ACT NOW」の仲間と、浦和と神戸をひと月に何回か往復していました。活動がスタートして何回目かの神戸訪問の時、W氏を紹介されました。

 W氏が活動の中心メンバーになっていると聞いてビックリ。仮にせよ代表の僕の承諾なしに知らない人が中核を担っているのはあり得ないこと。ただ、W氏の押しの強さを見て、さもありなんと追認せざるを得ませんでした。

 次に神戸を訪れた時、信じられない報告を得意満面のW氏から受けました。

「浅井さん、喜んでください。この活動を草地さんが引き受けてくださるそうです。お礼の挨拶に行きましょう」

 草地さんとは草地賢一さんのことで、まさに「神戸YMCAの顔」。この世界の重鎮で、ヴォランティア活動と行政の重要なパイプ役としても有名でした。それだけに異論はありませんでしたが、あまりに強引なやり方に驚かされたのは事実です。

 お会いした草地さんには「若い力で展開していただけるよう」お願いして、僕は活動から身を引きました。

 

 この活動は1995年3月に「震災・活動記録室」として正式に発足し、実吉威氏などの若い力が核となって着実な成長を遂げてきました。

 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/eqb/book/7-11/eqb22_051.html

 1999年10月に「市民活動センター神戸」に改称。そして今では、“災害列島”と化した日本にとってはなくてはならない存在になったのです。

 

 自慢話にもならない自慢話でしたが、最後に、市民活動センター神戸の設立趣旨をご紹介しておきます。

「市民が自発的に課題を発見し、それを市民なりのやり方で解決すること。行政や政治や企業活動を含めた望ましい社会のあり方について、発言し、行動し、仕組みを創りだしてゆくこと。市民には本来そのような力が備わっており、その市民自身の力以外にこの社会を住み良くしてゆく原動力はない」

←第19回)  (第21回→

第23回 「三河管理教育① ~城北中学校初代校長・鈴村正弘」

 世の中が日米安保に明け暮れる1960年頃、岡崎では後に日本全国から「三河管理教育」と呼ばれて注目される動きが生まれていました。ベビーブーム(1947~49年。3年間出生総数約800万)によって児童数が激増。町の中心部にある竜海中学と葵中学の過密状態を解消しようと、新しい中学校創設構想が具体化していたのです。

 その名は岡崎市立城北中学校。徳川家康の生まれた岡崎城から数百メートルの場所ということもあり、計画段階から「どんな中学ができるのか」と世間は注目しました。

城北十年 2-b.jpg

 校長に選ばれたのは、鈴村正弘

 28歳で梅園小学校の教頭になり、31歳で葵中学校の校長に抜擢された教育界では知らぬ者がいない人物でした。葵中学では、就任早々「国際化するであろう世の中の動きに先駆けて」と、終戦直後に国際規格の50メートルプール建設を企画。文部省がカネを出し渋ると、自分で費用を集めて造ってしまうという荒業をやり遂げたことでも勇名をはせていました。

 教育委員会から「どの町にもない、理想の学校づくりをせよ」との命を受けた鈴村は、それまでに市内の学校を回り自分好みの教員28人を集めました。その中に、母千代子の名がありました。

 実は、鈴村と千代子には、その10数年前から縁があったのです。

 戦時中のことでした。岡崎の高等女学校を卒業した千代子は、当時名古屋にあった「愛知県女子師範学校」に入学します。そして、在学中に「教生(教育実習生)」として行った先の愛知県第一師範学校附属国民学校で鈴村と出会いました。実習クラスの担任が鈴村だったのです。

 千代子は女子師範学校卒業後、岡崎市内の学校に赴任しますが直ぐに「寿退職」。夫の赴任地の北朝鮮(ピョンヤン)に渡ったために、鈴村とは疎遠になります。しかし、夫の死後教員に復職した千代子はやがて鈴村と再会します。

城北十年 3-b.jpg

 そんな経緯から千代子は鈴村の寵愛を受け(愛人説もありました!ただし、それが事実無根なのは私が一番知っています。笑)、「城北創立28人衆」のひとりに選ばれたのです。

 おそらく鈴村の思惑があったのでしょう。人事発表はギリギリまで行われませんでした。表向きには1961年4月1日に全員が招集されて初会合とされていますが、選ばれた28人衆の“たたかい”は開校の61年以前から始まっていました。特に鈴村の息のかかった年長者は秘密裏に何度も会合を重ね、「学校づくり」を熱く語り、開校時にはそれまで何年も仕事を共にしてきたかのような連帯感が生まれていたのです。

 

 開校してからというもの、連日千代子は最終バスでの帰宅。男性教諭に至っては “シンデレラアワー”を過ぎるのが日常化します。その光景に周辺の住民は「不夜城の城北」とあだ名しました。

 鈴村の下に集まった教員たちは、平均年齢32.7歳と若かったものの(戦時中に教員だった者は3人)、軍国教育を受けて育った「戦中世代」です。欧米のものを含め多くの書物から「戦後教育」を模索しますが、鈴村を筆頭として教員たちの根底にある視点は戦前のもの。また、『修身教授録』『恩の形而上学』で知られる神戸大学教授森信三が「城北教育」の根幹に強く影響を及ぼしたので、基本姿勢が世間で言う「管理」に行きついたのも当然と言えば当然でした。

学校づくりの話 第一.jpg

 教え方の基本は、同じことの繰り返しと徹底的な暗記。記憶(知識)偏重教育と非難されようが、毎日のようにテストをして、それをまた週単位、月単位で試験を重ね、知識を詰め込んでいくのです。学内実力テストも頻繁に行いました。

 教育委員会が鈴村に求める「理想的な中学校」には、「ケンコー(県立岡崎高校のことを地元の人はこう呼ぶ)に何人合格させるか」が当然含まれていたと千代子は言います。実際に、そのやり方は功を奏して一年目から7、80人の合格者を出して教育関係者の度肝を抜きました。結果的にケンコーになんとか入れても授業についていけない生徒が続出。一部教育関係者は、妬みもあって、ひどいことにそれらの生徒たちを“絞り切ったボロ雑巾”と揶揄しました。

 この部分については、28人衆の子どもであり、彼らの同期生だった私が一番よく知っています。そう呼ばれた生徒たちのためにも同じ岡高生だった私が言っておかなくてはなりません。

 同級生を含めて周りに城北の卒業生は多くいましたが、それなりに存在感があり、確かに勉強に疲れ切った面はあったもののボロ雑巾のような生徒はいませんでした。

城北十年 4-b.jpg

 鈴村が厳しく当たったのは生徒だけではありません。教員に対する手厳しい指導もそれまでの常識をはるかに超えるものでした。

「子供の成績が振るわんのはお前たちの教え方が悪いからだ。もっと教え方を磨け!」

 と厳しく言い渡します。

 鈴村が突然教室に現れて授業を観察することもありました。「30分以上その場にいると、後で校長室に呼ばれるんですよ」と元教員が証言するように、鈴村の気に入らない授業をしていた教師は、後で校長室に呼ばれて授業の進め方から板書の仕方まで厳しい注意・指導を受けました。

 鈴村は昼食後にも予告なしに教室に姿を見せました。入ってくるなり生徒全員に弁当箱を机の上に出させて(当時給食ではなかった)中身を点検。「米粒が、おかずが残っとる」と生徒を斬り、返す刀で担任も「指導がなっとらん!」とバッサリ一刀両断したと言います。

 教員たちこそ教養を身につける必要があると、鈴村は「教員たるもの読書を怠ってはいかん。給料の半分とは言わんが2割から3割は本代に使え」と命じました。それを徹底させたかったのでしょう。定期的に読書会を開くようになりました。また、国語の大切さを教員に浸透させようと、俳句会をこれまた職員室でもうけました。このふたつの会は、形態こそ変わりましたが今も続いており、まさに鈴村の遺産と言えるでしょう。

 千代子は退職後、市内各地で俳句会の講師を務めるようになりますが、城北中学では94歳まで続けていました。

 

 城北の体育授業は軍事教練を想起させると言われましたが、確かにその指摘は当たらずとも遠からず。冬場に男子生徒を上半身裸でグラウンドを走り回らせる教員もいました。それに抗議してくる保護者もいましたが、「教員も同じ格好ですから」と鈴村はその抗議を一蹴したと言います。毎年大寒に行われる保護者を巻き込んでの「暁天かけ足」(60年後の今も続いている)はその象徴とも言えました。

 そうして鍛えられた生徒たちは運動部でも成果をあげて、市や三河地区、後には県や国で行われた競技会で突出して優秀な成績を収めて多くの優勝旗や表彰状を学校に持ち帰りました。

 その凄まじい「城北方式」が世間に知られるのに多くの時間を要しませんでした。経済成長が錦の御旗の時代です。世の中全体が競争原理に支配され、今だったらしごきそのものと批判されるであろう「東洋の魔女」(東京オリンピックで金メダルをとった女子バレーチームの通称)を「『為せば成る』のお手本」と崇(あが)める空気がありました。言ってみれば、世の中全体が“ガンバリズム”に包まれていたのです。当時は鈴村のやり方を受け入れる要素であふれていたのです。

 

 体罰は常態化していました。ただ、これは城北中学だけのことではなく市内の多くの学校で日常的に行われていました。保護者の中には「センセー、言う事聞かんかったら一発二発見舞ってやってください」という人が珍しくない時代です。教師たちは罪悪感なく往復ビンタを生徒のほおに見舞っていました。

 男性教諭に交じってと言うか、率先してと言うべきか千代子も暴力に頼る教師の一人でした。それも女子生徒ではなく、男子生徒に制裁を加えていたのです。

 私が高校に入って間もない頃です。後ろの席のアベ君が“ゲッ”と言ったかと思うと、「ねえねえ」と私に呼びかけてきました。振り返ると手には学校から渡されたばかりの生徒名簿があります。当時は個人情報の開示は普通に行われており、そこには保護者の名前や職業まで書かれていました。配られた生徒名簿の中に「浅井千代子 教員」という文字を発見、アベ君はピンときたようでした。

「あんたのお母さん、電気ババア?」

 いきなりの強烈な表現に、私が真意を測りかねていると、

「気が強いよなあ。だって、背伸びして番長に往復ビンタ喰らわしていたよ」

 それまでに千代子から何度もビンタの洗礼を受けていただけに、私はさもありなんと思いましたが、他の城北の卒業生からも何度も言われたので「体罰は止めなよ」と言ったことがあります。千代子の口からは「言って分からんだもん。体に教えてやるしかない」と予想した通りの答えが返ってきました。

 

 そんな状況もあって、全国の教育関係者が「城北教育」の現場をこの目で見ようと視察に押し寄せ、その名は全国に轟くようになっていったのです。

 全国的人気を追い風に、城北中学の校長を12年間務めた鈴村は、自らの理想を貫くために次の段階に入ります。1972年9月、任期半ばで退任、同年10月に岡崎市の三代目の教育長に就いたのです。しかも、突拍子もないやり方で教育界の最高峰に上りつめたのです(次回に続く)。

 

*写真は『城北十年』(1971年6月19日発行)から拝借いたしました。

←第22回)  (第24回→

第24回 「三河管理教育② ~その裏側と国立研究所誘致」

 三河教育界の怪物・鈴村正弘は岡崎市教育委員会の教育長になるために奇手を繰り出しました。

 なお、ここに書く耳を疑うような話は、主にひとりの証言に基づくものであることを最初に記しておきます。

城北の歴史(1984年) 3.jpg

 鈴村と〝二人三脚〟を組み、種々様々な教育行政を実行した元市長の内田喜久(よしひさ)に2017年、「鈴村さんとのエピソードをお聞かせいただきたい」と申し入れて話を聞きました。

 その時、1925年生まれの内田は92歳。かつては「ミニ角栄」と呼ばれ、切れ者と言われた内田も、寄る年波には勝てず年相応の記憶の衰えもあるだろうと思っていました。しかしながら、実際に会ってみると、記憶の正確さのみならず、その饒舌さや発するエネルギーは70代、いや60代と言っても過言ではないほど。こちらの質問に期待を超える答えで受けてくれました。

 

「鈴村さんはどうしても教育長になりたくてね。市議を全部イタヤに呼んで芸者を挙げて接待。教育長にならせてくれと、力を貸してくれと市議たちに頭を下げたんですよ」

 鈴村が教育長になるまでのいきさつを聞くと、内田はいきなりそう話し始めました。

 内田の話では、当時市議会が教育長人事にも力を持っていたとのこと。だから鈴村は市議たちの力を借りようと彼らを芸者接待したというのです。まあ、市議の中には共産党員もいましたから「市議全部」とは大げさでしょうが、当時の内田の勢い(前年の初出馬市長選挙では、現職の太田光二の34,705票に対してダブルスコアの73,275票を獲得)を考えれば、かなりの市議が内田の下に集まっていたことは間違いないでしょう。

 イタヤとはかつての花街・板屋町のことで、正式には龍城連と言いました。現在は住宅街に変容していてその面影もほとんど見られませんが、江戸時代から昭和まで、岡崎だけでなく周辺の町から多くの男たちが芸妓や娼妓を求めてにぎわう街でした。岡崎には4か所の花街がありましたが、中でもイタヤはその代表格でした。また、城北中学の学区に存在しており、鈴村がしばしば利用したという話もうなずけます。

 後年母千代子が私に「城北の運動会の来賓テントに白塗りのキレイどころ(芸者)が並ぶのよ。今だったら父兄(保護者のこと)やマスコミが大騒ぎだわね」と言ったことがありますから、鈴村が「芸者政治」を〝得意技〟の一つにしていたことは間違いないでしょう。

 芸者を挙げての工作を聞いて素早く反応したのが、鈴村の対抗馬と目されていた人物とそのグループだったと内田は続けます。

「『中日新聞に取り上げさせよう』と彼らはいきり立ったんだ。でも、対抗馬の女房が菓子折りを持って市議の家を回ったことが分かってね。その案は立ち消えになった」

 ただ、これは、鈴村を支持していた内田が反対派の動きについて語ったことです。この辺りのいきさつの〝裏どり〟しようと当時をよく知る人数名に確認を求めましたが、彼らの一部が1980年に起きた内田父子の買収騒ぎに関わっていたこともあるからか口をつぐんでしまい、そのいずれからも話を聞くことができませんでした。

城北の歴史(1984年) 1.jpg

 いずれにしても、鈴村は希望通りに1972年10月、教育長の座に就きました。

「鈴村さんが教育長になってすぐにふたりで東京に行ったんですよ。いろいろあいさつ回りをしなければなりませんからね。前市長の太田光二さんが(在任中に)言ってた学芸大の跡地利用の話も形をつけなければいけません。太田さんの話では、上智大学が『岡崎キャンパス』を造る意欲を示しているということでした」

 学芸大学とは国立愛知学芸大学のことで、60年代まで本部キャンパスは岡崎市明大寺町に、分校は名古屋市に置かれていましたが、文部省の指導もあり、愛知教育大学と改称して統合されることになりました。それを受けて両市の感情的とさえ言える熾烈な誘致合戦が繰り広げられますが決着はつかず、折衷案として地理的に中間の刈谷市への統合・移転が決められます。そうして1970年、刈谷市に国立愛知教育大学が誕生しました。

「上智大学に行ってみると、びっくりしたことに、上智大学側は『何のことですか?』なんですよ。太田(光二・前市長)さんは嘘言ってたんだ、って分かってね」

 太田が嘘を言っていたかを確かめるために、後日、当時市政に関係していた人物に聞いてみましたが、〝上智キャンパス構想〟を詳しく覚えている人はいませんでした。「そんな話もあったような気がするなあ」という反応でしたから、太田が上智側と正式な話し合いを持っていたかそうしていなかったかは分からない、というのが私の結論です。

 

 内田の話を続けます。

「それで困ってしまいましてね。鈴村さんと『どうしましょう?』ですよ。すると、鈴村さんが『親しい後輩が文部省で局長をやっとります。そいつにちょっと会いに行きましょう』と言ったんですよ」

 そう話す内田の表情がパッと明るくなり、面白い展開が次に待ち構えているということは明らかでした。

「その局長を文部省に訪ねて事情を話すと、『だったらちょうどいい話があります。実は、大規模な国立研究所を創る計画がありましてね』と言うんですよ。『いろんなところが手を挙げています。私が岡崎に持っていけるよう頑張ってみますから手を挙げてください』とも言ってくれました」。

 これだけを聞いて(読んで)も皆さんには信じがたいでしょうが、私が知る限り、鈴村正弘という人物は人たらしで〝奇跡を呼ぶ男〟。計り知れない幅広い人脈と〝ひきの強さ(強運)〟、それに加えた交渉上手で数々の軌跡を起こしてきましたから私には腑に落ちます。

 局長が持ち出したのは、分子科学研究所、基礎生物学研究所、生理学研究所などから成る国立科学研究所の構想でした。「自然科学の幅広い領域を研究対象」とするとともに、「国際的な研究活動をおこなう」目的で創られる日本を代表する研究者が集まる研究機関の創設は、内田と鈴村にとっては願ってもない話です。

 

 そのあたりの事情を同研究機構生理学研究所の初代所長であった江橋節郎は、鈴村正弘が他界した直後に出版された追悼集『櫻大樹』で次のように書いています。ちなみに、江橋は筋肉研究の世界的権威でノーベル賞候補にもなった生理学者です。

「岡崎の研究所の生みの親は、第二次世界大戦後の焼け跡の中から立ち上がり、復興の熱意に燃えた若い研究者達でした。彼らが我々も世界に通用する研究所がほしいとの要望から、各々手弁当で集まり、企画し学術会議に働きかけ、紆余曲折の末、やっと昭和42年(1967年)に通過し、昭和48年(1973年)には学術審議会が文部省に答申するところまでこぎつけました。

 その答申の情報をいち早く入手して、早速岡崎に誘致すべく熱心に行動を起して下さったのが、当時の教育長鈴村先生でした。そして文字通り全力投球、御自分でも生理学研究所十年の歩みに『教育長は東京から岡崎に出張しているなどと新聞に冷やかされたほど東奔西走の毎日でした』と書かれておられる程の御活躍ぶりでした。文部省への陳情はもとより、分子研の○○、基生研の○○、生理研の○○など、それぞれの担当の先生のところを廻られる周到な根回しぶりでした。すべて東京在住の方ばかりに御連絡をとる為には殆ど東京暮しとなってしまわれたわけです。」

 

 誘致に成功すると、鈴村は岡崎教育界の〝鈴村一派〟を総動員、研究所の立ち上げに全面的な協力を惜しみなく提供しました。研究者たちの家探しから子供たちの転校手続きまでありとあらゆることに「鈴村流おもてなし」が施されたそうです。

 1975年4月、最初の研究所である分子科学研究所が、旧愛知学芸大学の跡地に設立されました。

基礎生物学研究所 1.jpg

 また、市民との接点も鈴村流のやり方で案出されました。

 市民大学の開講、研究所の市民開放、小中学校教員の研究所の利用等々、市民と研究所の懸け橋は鈴村の手によるものだ、と江橋は記しています。研究所は〝鈴村正弘〟と共に発展し、大型機器の予算が付くなど充実し、研究所に所属するスタッフも500人を超える大世帯となりました。

 そして1981年4月、分子研、基生研、生理研を統合した岡崎国立共同研究機構(後の大学共同利用法人自然科学研究機構)の創設にこぎつけます。学園・学研都市を自負してきた岡崎市にとっては願ってもない流れです。

 

 ところがその時すでに、研究所の誘致を推し進めた〝両輪〟に異変が起きていました。

 市長を務めていた内田は前述した選挙違反事件と汚職事件で前年に辞職。また、鈴村は前の月に起きた城北中学3年生の自死の対応に追われる毎日だったのです。(次回に続く)

 

*古い写真は『城北の歴史』(1984年3月14日発行)から拝借いたしました。

←第23回)  (第25回→

第25回 「三河管理教育③ ~鈴村教育長とおかん、それに私」

 1972年だったと思います。日時が確かでないのは、私の当時の日記が行方不明になったことと、岡崎市教育委員会に問い合わせても「鈴村正弘教育長欧州訪問」の詳しいデータが何も残っていないためです。

 当時英国ロンドンで生活していた私のもとに母千代子から〝伝令〟が飛んできました。

「教育長になられた鈴村先生が近くヨーロッパを訪問なさいます。英国ではあなたがお世話をすると言っておきましたからよろしく。私たちの関係は絶たれていても、これは別問題。あなたが鈴村先生から受けた御恩は忘れないでそちらで返すように」

 千代子とはその数年前に対立が激化、親子関係を絶ちその後一切連絡を取っていませんでした。居場所についても知らせてありませんでしたが、母は私の友人から連絡先を聞きだして連絡してきたのです。

 鈴村にお世話になったと言われても、私にその記憶はありません。覚えているのは、中学高校時代に何度か城北中学の校長室に呼び出されてお説教を受けたことです。それを御恩と言い切る千代子に「相変わらずだな」と思いましたが、「教育長になった鈴村さんと会って日英教育談義をやるのも悪くないな」という好奇心がないわけではなく、受け入れることにしました。

鈴村正弘 1965年 音楽演劇発表会.jpg
鈴村正弘と“おかん”(1965年)

 滞在していたホテルに行くと、鈴村は相変わらずの人懐っこい笑顔で温かく迎えてくれました。その手に左翼的論調で鳴る月刊誌『世界』を持っているのが気になりましたが、私からあえて触れなかったためか、話題になることはありませんでした(後になって分かったことのひとつですが、鈴村の知識欲には思想の境界はなく、俗に言う右から左まで幅広い層の人や書物から吸収していました。また人的交流もあったようです)。

 鈴村は私たち親子の関係修復を試みたかったようですが、私にその気がないと分かるとそこにこだわることなく、英国の教育事情を熱く語る私の話に耳を傾けてくれました。そして、翌日連れて行った現地校でも校長や教員の話を熱心に聴き、いくつも質問をしていました。その姿に、英国の教育環境の良いところがふるさと岡崎に少しでも生かされるのではないかと望みを持ちましたが、残念ながらその後ロンドンや東京に伝わってくる「三河管理教育」の現状にはその辺りの〝効果〟は認められませんでした。

 私がお世話をしたと言ってもその程度で、鈴村は翌日、次の訪問地に向けて慌ただしく旅立っていきました。

 

 しばらくして兄から結婚したとの報告が入りました。鈴村夫妻に仲人をお願いしたと聞き、千代子に押し切られる彼の姿を思い浮かべて「かわいそうに。でも、おふくろの言いなりになるのも兄貴らしいな」と思いました。

 鈴村は多忙を極めた時期なのにわざわざ長野にある結婚相手の実家にまで出かけて結納に同席したとのこと。彼の面倒見の良さには舌を巻きました。

 後に列席者から聞いたところによると、結婚披露宴では「ロンドンに留学している弟さんから祝福の国際電話が入りました」と司会者が紹介し、会場が盛り上がったそうです。結婚することさえ知らされていなかった私が電話を入れるはずがありません。また、義澄がそんな演出を思いつくこともありえません。その話を聞いた時には、義澄はすでに他界していましたから〝演出〟が誰によって考えられ実行されたのか確認できず、謎のままです。

 

 鈴村と私との再会は、20年後の、兄義澄が急逝した1992年12月19日でした。

 ひと月前に急性白血病と診断された義澄は、「おふくろを頼む」を遺言に、あれよあれよという間に病気を悪化させ他界してしまいました。

 妻子ではなく母親を心配して人生を閉じた義澄。それはもしかしたら敗戦直後の10か月間に及ぶ極寒の北朝鮮の逃避行(一緒に逃げた軍官舎の仲間の3割から4割が落命)で、生まれたばかりの自分を守り抜いてくれた母親との誰も入り込むことができない〝絆〟がそう言わせたのかもしれません。

 遺体が病院から実家に戻ると、さすがです。最初に家に来たのは鈴村でした。来たというよりも乗り込んできたという表現が合っているかもしれません。

「くにおみ、いいか、これは義澄の葬式じゃない。おふくろの葬式だと思え。明日の新聞に記事が載るようにしたから人がたくさん来る。大変なことになるぞ。手伝いを何人も送り込んでやるからそのつもりで頑張って仕切れ」

 そう言って玄関を去る鈴村に深々と頭を下げていた千代子は、振り向きざまに私に言いました。

「分かったわね。それじゃあ、よろしく」

「ちょっと待ってくれよ。それじゃあ兄貴がかわいそうだろう。兄貴にふさわしい送り方をしてやろうよ」

 と抗議をしましたが、母は聞く耳持たず。また兄嫁も夫婦関係に亀裂が入った状態でしたからどうでもよい表情を見せていました。

 

 鈴村は自分の所に出入りする記者たちを手なずけていたのでしょうか、翌朝新聞各紙には兄の訃報が記事になって掲載され、実家の電話が鳴りっぱなしになりました。実は、千代子はその10数年前、岡崎市を含む西三河で初めての公立学校の女性校長になり、退職後は「婦人会館」の館長を務め、各地で講演を行う「女性のフロントランナー」として注目される存在だったのです。だから、新聞記事では、その長男が急逝したという書き方をされていました。でも、兄は会社勤めをやめて補習塾を自宅で開いていた〝名もない〟平凡な一市民です。新聞にその死去を報じられるような立場ではありません。

それを読んだ私は、「こんなクソ記事書きやがって」と兄の死を紙面に取り上げた記者たちをなじり、恨みました。

 昼を過ぎると、鈴村と共に学校の校長・教頭クラスの教員たちが実家に現れ、千代子と打ち合わせをして慌ただしく通夜の準備をしていきました。くそまじめで地味に生きてきた義澄には似つかわしくない派手な通夜になりそうな気配です。私は母を人目のつかないところに呼び出しました。

「いい加減にしなさいよ。兄貴がかわいそうじゃないか。やつは名もない平凡な市民だよ。あなたの見栄でこんなにして」

「仕方がないの。鈴村先生のお考えがあるんだから。この場は私の顔を立てて」

 珍しく懇願の表情を見せる千代子に〝母親の顔〟を見た私は、それ以上強くは言えずに、

「それじゃあ、せめて焼き場(火葬場)では僕と甥っ子たちの思ったような形で兄貴を送らせてもらうからね」

 とだけ言ってその場を離れました。

 

 高校生と小学生の甥には、

「焼き場では兄貴の好きだった歌で送ってやろう。やつが好きだった歌を10曲位選んでテープに録音しておいてくれるかな?」

 と頼み、通夜と葬儀は〝鈴村応援団〟の邪魔にならないように全体のまとめ役に徹すると心に決めました。

 案の定と言うか、予想をはるかに上回る弔問客が静かな住宅街に押し寄せました。返礼品が足らなくなり、3回追加注文するほどでした。通夜を行った部屋は、自宅を改造した塾の教室ですから一般的な家よりもかなりたくさん人が入れましたが、それでもとても全員は入りきれません。人の流れを作って順々にお帰り頂きました。

 式を始める直前に雨が降り出しました。外に並んで待つ方たちに挨拶をしていると、「大変。葬儀屋さんが怒ってる」とお呼びがかかりました。

 家の中に戻ると、叔父の一人が台所で「葬儀屋だったら天気予報を見てテント位用意しとけ!」と怒鳴り散らし、葬儀屋もそれを受けて「テントの注文は受けていない。そんな無理を言うんだったら引き揚げさせてもらう」とやり合っているではありませんか。「こんな時に問題を起こさんでくれよ」と思いながらふたりを引き離し、葬儀屋の言い分を聞き、説得にかかります。

「雨が降るなんて天気予報はなかったですよ。それをいきなり頭ごなしに怒鳴りつけられて……」

 と興奮して訴える葬儀屋の社長は好人物で話の分かる人でした。こちらの話をよく聞いてくれ、機嫌がなおり事なきを得ました。こういった時には人間性が出るものです。言葉を荒らげていたのは高校の教員をする真面目一徹の叔父でした。他にも親戚の何人かが何かと口をはさんで私を困らせました。その点鈴村応援団は手助けすることはあっても、余計なことを言ったりしません。とても助かりました。

 

 この一件を見ても分かるように、鈴村正弘という人物は、確かに一方的なやり方で物事を進めますが、状況を読む力、先見性、それに責任の取り方、いずれをとっても凡人ではありませんでした。それに比べ、一部の親戚は状況も分からずに口出しをしてくるだけです。その違いは明らかでした。

 通夜に来てくれた弔問客の中に本多康希(こうすけ)さん、「隣の康ちゃん」がいました(本多家の人々について書いた第9回第10回に登場)。30年ぶりの再会です。静岡の病院の勤務医になっていた康ちゃんは、仕事を終えた足で駆けつけてくれたのです。人込みの中に姿を見つけて近寄ろうとする私を康ちゃんは手で制し、義澄と最後のお別れをした後少し言葉を交わすとそのまま去りました。目が合った時、その目にはうっすらと涙が浮んでいました。心を揺さぶられた私は「こうちゃん、ありがとう」と、その背中に心の中でお礼を言いました。

 義澄の教え子たちも来てくれました。

 受験対策を主軸にして生徒を増やそうと言う兄嫁には耳を貸さず、義澄は頑固に「補習」にこだわりました。だから、生徒の中には当時問題視されていた〝茶髪の子〟もいました。そういった子たちが、おそらくみんなで話し合ったのでしょう。全員が500円玉を握りしめて、私の前に差し出してきたのです。私がその行為に胸が詰まったのは言うまでもありません。

 

 翌朝の荒井山九品院で行われた葬儀にも多くの参列者がありました。

 応援団を引き連れて鈴村が現れた時には、参列者の人波からどよめきが上がりました。元教育長というだけなのにまるで芸能人のお出ましです。しかし自分の存在はわきまえている方です。この場では出しゃばることなく、多くの事は語らずに葬儀が終わると静かに会場を後にしました(〝鈴村伝説〟では「どの様な場面でも傍若無人にふるまい、喋りまくってその場を去る」となっています)。

 葬儀や火葬を巡ってもいろいろな出来事がありましたが、その辺りは「壮年期」編で詳しく書くことにして、ここではこれ以上触れないでおきます。

 

 全てを終えて実家に戻ると、千代子が「明日鈴村先生の所へお礼に行くから同行しなさい」といつものように命令口調で言いましたが、私は「もう勘弁してくれよ。東京でやらなきゃいけない仕事が溜まっているからこのまま帰るわ」と断り、帰途につきました。

 葬儀を終えて、私はひとり静かにあの世に行った義澄と〝話したかった〟のです。鈴村との付き合いに疲れ切った私は、鈴村を前にして大人しく頭を下げ続ける自信がありませんでした。また、千代子に鈴村とじっくり話す機会を持たせたいという〝親孝行〟な気持ちも、その一方で心の隅にありました。

 こうして振り返ってみても、千代子(浅井家)にとって鈴村の存在の大きさは尋常ではありませんでした。10代後半で教生(教育実習)に行った先で訓導(指導)を受け、以来60年近く目をかけてもらった千代子が人もうらやむ教員人生を歩めたのも鈴村無くしては考えられません。

 兄の死から8年後、巨星はこの世から姿を消しました。享年83歳でした。

 千代子が、『櫻大樹―鈴村正弘先生追慕―』(2001年刊行)に寄せた追悼文にこんな記述がみられます。

「お世話になった長男が、平成四年に白血病で他界しました。逆縁ほど辛いことはありません。悲嘆のどん底だった時、先生は私の親しい人達に周りから支えてやるようにと、陰にまわって心遣いをしてくださいました。何かにつけて本当に長い間お世話様になりました」

 そして詠んだのが、

『大往生の訣(わか)れといえど夜長星』

 さらに、

「訃報が届いてすぐお宅に伺った時、先生の御遺体はまだ病院から戻っていらっしゃいませんでした。ふと庭を見ると、紅馬酔木(べにあせび)の花が真っ盛りで、その向こうの縁側の靴脱ぎ石の上に、昨日まで履いておいでだったであろう庭草履が、揃えられてありました」

 と書き、

『どこからか声聞こえそう紅馬酔木』

 と詠んで追悼文をしめています。

 

 鈴村が亡くなった時、千代子はおそらく私の鈴村に対する見方を誤解したのでしょう。私のもとには訃報が届けられませんでした。知らせを受けていれば当然葬儀に参列、お顔を拝見してお別れをさせていただきました。

 これ一つをとっても分かるように、この時点に至っても母子の心のボタンは掛け違ったままだったのです。

 

【これで「三河管理教育」の項はひとまず終わり、次回はまた「少年くにおみ」に戻ります】

←第24回)  (第26回→

第29回 「【親バカ日誌不定期号①】広幡小オリンピック」

あさいとしひと 1.jpg

あさいとしひと 2(1).jpg

 これは先日、小学2年生の息子から届いた運動会への招待状です

 あ、別居しているわけではないですからご心配なく^_^

 

 11月20日に開催された『広幡小オリンピック(超ミニ運動会)』では息子から最高の感動「金メダル」をもらいました。

 それがどんな内容であったかは、文末までの〝お楽しみ〟とさせていただき、先ずはこれまでの息子の生い立ちを書かせていただきます。

 

 息子は2013年に超未熟状態で誕生しました。生命の危機を幾度も経験して、その後も4か月半入院したままでした。入院期間を含めて計630日間酸素治療を受けており、当然のことながら強い行動制限を受けての発育でした。

 そんな運動不足の育ち方の代償は大きく、歩き出すのや発語など、ほぼ全ての面においてその成長は平均値からは〝2周遅れ〟です。

 ですから妻と誓い合ったのは絶対に「他の子と比較しない事」。彼の歩行を安定させて歩幅を少しずつ伸ばしてやる育て方に徹底しようと決意しました。

 歩行が不安定ですから〝当然〟よく転びました。僕は心を鬼にして、もちろん例外はありましたが、「自分で立ち上がろうね」と手を貸さないで自力で立たせるようにしました。それは、体力的な弱さはあっても「心」を強く持てる子になって欲しかったからです。周囲の人たちの目には「冷たい親」と映ったかもしれません。

 自分の子が転ぶのを心穏やかに見られる親などいるはずはありません。彼がバランスを崩すたびに肝を冷やしていました。

あさいとしひと 3(1).jpg

 息子は幾度か、我々の前でこちらが声を出してしまうほどの転び方をしました。床にあったコンクリートブロックの角に顔を打ち付けたことがあります。己が老体に往時を彷彿させる俊敏な動きが戻った(つもり?)私は、この時ばかりは妻と共に彼に駆け寄って助け起こし、傷の確認をしました。泣き叫ぶ幼子の眉毛からまぶたには挫創が確認されます。数日後にはまぶたが殴られたように〝青タン〟で彩られました。傷が癒え内出血も収まり、「あんなこともあって肝を冷やしたね」という思い出になるには相当時間を要しました。

 

 あまりに頻繁に転ぶのでかかりつけのトヨタ記念病院や愛知県三河青い鳥医療療育センター(以下青い鳥)に何度も相談に行きましたが、答えは常に「正常」、「問題なし」との診断。

 計10回近くの診察と検査を経ても問題点はあぶり出されてきませんでした。「またですか?」と言わんばかりの呆れた表情を見せた医師もいました。そう。僕は大切なことは納得しないととことんまで追求します。シツコイのです(笑)。

 直子ママが聴いてきた青い鳥の理学療法士の講演でヒントを得た僕たちは、直接その理学療法士との面談を試みました。システム上それはできない、医師の指示がなければ不可能と最初は言われましたが、〝カケヒキ学の博士号〟を持つ僕は、あーだこーだと言って実現させました。

 そうして行われた3Gを使った検査により、左右の骨格筋量(体幹)のバランスが悪く、それが原因との診断が下されました。それからようやく青い鳥でリハビリを受けられることになったのです。

 

 リハビリに頼るだけでなく、彼に合う「楽しみながらやる方法」をいくつか考えました。自然に背筋を伸ばすようになるから茶道が良いのではと思い本人に聞くと、伝統文化や抹茶好きということもあり「やりた~い」との返事。ある人にお茶の個人教授をお願いしました。

 しかし、その先生は、息子の「教えられたくないモード」に手を焼いたのか、教え方に力が入ってない様子。しかも、何度もスケジュールを変えたりドタキャンしたりと我々には信じられないレヴェルの対応をします。結局「教育上よろしくない。良いお手本にならない」と退会させました。

 「空手をやってみたい」と言うので、体幹強化クラスを持つ空手家に見てもらったこともあります。グループ稽古を見学しましたが、ついていくのに難しそうなので、息子が納得した上で個人レッスンを選択しました。予想以上に素晴らしい指導をしてくださる師範でしたが、息子は「やめたい」と言います。どうやら「教えられること」が苦手な様子。始めて数か月でしたが、すぐに退会しました。

 次に、水泳に興味を示しました。見学・体験をした後入会しましたが、これもやがて難色を示すようになります。しかし、よく話を聞いてみると、水泳そのものが嫌なわけではないと分かったので、「ママやパパと一緒だったら泳ぎたい?」と聞くと、「それだったら楽しそう」との答えが返ってきました。そこで、週一回市営プールに親子で通うようにしました。

 彼の言葉通り、泳ぐと言うよりも「水と戯れる」ことが大好きな彼は、水を怖がったり嫌がったりすることはなく、我流の潜水(基本的に公営プールでは禁止だと思うので注意を受けない程度)や泳ぎを楽しんでいます。基本ができていませんからかなり頻繁に水を飲んで喉を詰まらせますが、ものともせずに息を整えると再びチャレンジする姿に「すごいガッツ。私には無かった」と直子ママは目を丸くします。

 

 「やめたいと言われて、なぜ直ぐに許可するのか」と思われる方も少なくないかと思われます。僕の小さい頃の〝常識〟は「石の上にも3年」で、何事でも3年間は頑張りなさいと言われたものでした。途中でやめれば、三日坊主の汚名を着せられました。当時のジョーシキで計ると、僕も三日坊主に見えたのでしょう。母親からしつこくそう言われて不愉快な思いをしたものです。あまり何度も言われるので、

「僕は冷水摩擦を毎日5年間やったよね。ラジオ英語もほぼ毎日3年やったよね。自主練も週2回2年間やり続けたじゃないか」

 と抗弁したことがあります。

 すると、「ああ、好きなことはね」と言い放たれました。

 そんな経験を持つ僕は、「三日坊主大いに結構」が持論で、親の仕事は子供が本格的に取り組むテーマを見つける手伝いをすることだと信じています。だから当然、教えてくださる方達への礼を失しないよう、その点には留意しつつ、息子の三日坊主ぶりはこれから何年続くか分かりませんが、付き合い続けるつもりです。

 

 履物も考えました。僕らが小さい頃に履いていた草履や下駄はどうかと目を付けました。足の指を鍛えるためです。

 幸いなことに、息子は岡崎市で唯一「鼻緒を挿げ替える(すげかえる)」履物屋『さくらや』さんご夫婦に、孫のように4年以上かわいがられてきました。

 「学校に行かないときは草履を履かないか?」と息子に水を向けると、二人が大好きなとしひとは、「さくらやのぞうりならはきた~い」と鼻緒に指を通しました。ただ、足の指の力が弱いため、すぐにずれてしまいます。そして転びます。それでも何度も何度も履き直す姿がいじらしくて目頭を熱くしたのは一度や二度ではありません。

 そんな思いまでして一年以上履き続けて、息子は今では靴よりも草履が好きな〝変な子〟になりました。当然のことながら指の力もつきました。階段の上り下りも、エレベーターにはなるべく乗らずに階段を使うようにしました。自宅は4階にありますが、体調を崩していたり、重い荷物を持っていたりする時を除き、ほぼ毎回歩いて上り下りします。

 最初は、階段を下りるのが苦手で我々の手や階段の壁を頼りにしていました。7歳の誕生日を過ぎてもそうでした。でも、最近になって自力で上り下りできるようになりました。幸いにして走ることも大好きで、バランスを崩したり転んだりしていますが、それにめげずに直ぐに起き上がってまた走り出す毎日です。

 このようにして進めてきた〝3人4脚〟の「少しずつ成長しようね計画」は紆余曲折いろいろありましたが、周りの方の温かい目もあって、これまでのところ予想以上に順調に進んでいます。

 

 お待たせしました。いよいよ感動の運動会です。

 昨年は徒競走では最下位でした。

 今年はコロナ対策で徒競走などの一般的な競技は行わず、15分間だけの「学年別超ミニ運動会」です。音楽に合わせてのダンス。徒競走の代わりの全員参加型のクラス対抗リレー。それに楽器演奏の演目です。負けず嫌いの息子にとってのメインイヴェントはクラス対抗リレーです。当日の朝は、走ることへの不安を振り払うかのように「絶対に1組は1位になるぞ~!」と張り切って出かけました。

 我々夫婦もスケジュールをやりくりして応援にかけ付けました。学年別に行われるイヴェントですから見学者も入れ替え制です。

 いよいよ2年生の出番がきました。我々の姿を確認して満面の笑顔で小さく手を振る息子の姿に直子ママは最初からウルウル。ミッキーマウスをテーマにしたダンスを、緊張からくるぎこちなさはぬぐえませんが無難に終えました。

 いったん座った後、全員が合図のもと、勢いよくリレーのスタートラインに走り出しました。

 その直後です。息子が蛇行して、後ろから来た男の子と接触。憐れわが子はその衝撃に耐えきれず、激しく転びました。ヴィデオ撮影していたので妻の様子は見えませんでしたが、その心配する表情は容易に想像がつきます。

 転びはしましたが、かなり痛かっただろうに息子はすぐに起き上がり、仲間の後を懸命に追いかけました。その姿はあまりにけなげで、僕も心を激しく揺さぶられました。妻が同じ心境であろうことは疑う余地もありません。

 対抗リレーでは転倒の影響も見せずに見事な(僕たち夫婦にとって)走りで、仲間の足を引っ張ることなくバトンタッチできました。結果は、僅差の2位でしたが、大健闘。力の限り拍手しました。大声で「よくやったあ」と叫びたいのを我慢しました。

 車に乗る前に彼の手足を見ると、先生にやってもらったのでしょう、3か所にバンドエイドが手当てされていました。

←第28回)  (第30回→

第48回 「愛工大名電野球部とモーさん」

 甲子園球場で行われている高校野球で、愛知県代表の愛工大名電が活躍しています。

 愛工大名電と言えば、イチローや工藤公康、山崎武司といった名プロ野球選手を輩出したことで知られます。また、その三人を指導したことから監督の中村豪(たけし)が有名です。

 しかし僕にとって、校名を聞くたびに思い出されるのは小学校時代に出会った鈴木猛男先生。通称モーさん。お名前とその受ける印象から子供たちはそう呼んでいました。

 世間には広く知られていませんが、愛工大名電野球部の現在があるのも、1965年度から11年間監督をされたこの方の功績は大きいです。モーさんは担任ではなく、数回言葉を交わした程度の関係ですが、くにおみ少年には強烈な、いやモー烈なインパクトを与えた人です。

 

 根っからの野球好き。常に野球バットを持ち歩き、頭の中がすべて野球なのではと疑われる「野球○○○○(当時は頻繁に使われた表現。現在では禁止用語)」でした。

 岡崎市立男川小学校の教員時代にはソフトボール部の監督を務めておられました。その練習は小学生レヴェルではありません。だから多くの子どもたちが「モーさん、おそがい(おそろしい)ね」と言ってその練習を遠目に見ていました。

 スポーツ好きのくにおみはバックネットにしがみついてその練習や試合を見ていました。5年生か6年生の時、いてもたってもいられず男川小学校の隣にあった(と記憶しています)モーさんの家に行き弟子入り志願しました。

 しかしながらと言うか当然のことと言うべきか、モーさんから、

「いつも練習を見てくれているし、体格もいいからあんたのことが気になって山田先生(くにおみの担任)に聞いたら、運動禁止だと言われたぞ」

 と言われて〝門前払い〟をくらいました。

 そう。くにおみは数年前にかかった肺浸潤の養生中で、体育の授業も運動の際は見学を強いられていたのです。今思えば、断られるのを承知で、モーさんと話したくて「門を叩いた」のでしょう。

 

 卒業してからモーさんと話すことはなく、お会いする機会もありませんでした。

 それから9年後の1968年の春、センバツ高校野球を東京の喫茶店でTV観戦していた時のこと。愛知県代表として初出場した「名電工(確か当時はそう呼ばれていた)」のベンチにいたのが、〝あのモーさん〟! 人違いかとアナウンサーのチーム紹介に耳をそばだてていると、確かに「監督は鈴木猛男さんです」と言います。

「ええええ~、夢をかなえたんだ、モーさん」

 と心の中でひとり快哉を叫びました。

 名電工野球部はその春、準々決勝まで進みましたが惜しくも一点差で敗退しました。

 

 後になって前述の山田先生にモーさんの「名電工の監督になるまでの軌跡」を教えて頂きました。

 どうしても本格的な野球に関わりたかったモーさんは中学校の教員になり、その学校(今元同級生から聞いた話では南中学)の野球部を強くしてその選手たちを名電工に送り込み、実績を重ねるうち、やがて名電工から監督の座をオファーされたというのです。ただ、この辺りは山田先生からお聞きした話で、ご本人や関係者に確かめた訳ではありませんので念の為。

 「モーさんの勇姿」は6年後の夏の大会でも再度見ることが出来ました。残念ながら2回戦で敗退しましたが、この時も僅差の一点差で敗れました。好投手を擁して鉄壁の守備のチームとの印象でした。モー練習の成果が表れた戦い方でその負け方も潔かったと記憶しています。

 

 僕の人生の中では多くの人が「気概のある背中」を見せたり、「夢を持つことの大切さ」を教えたりしてくださいました。モーさんも間違いなくその中のお一人でしたね。

 愛工大名電の次の試合をTV観戦できるかどうかは分かりませんが、機会があれば、そんな思い出を胸に観たいと思います。

←第47回)  (第49回→)

1 2