私の人生劇場

青年期

第45回 「留学準備に邁進②」

前回のつづき)

 午後7時か8時頃から翌朝まで工事現場で働き、3、4時間眠ったあとデパートの配送の仕事に向かうという生活をしていたその頃。ラジオからあの名曲『帰って来たヨッパライ』が流れてきました。

 イントロを聴いて「なんじゃこれは?」。続く奇想天外なメロディーラインに仰天。途中からはあまりの素晴らしさにひとりラジオに向かって手を叩いていました。

 聴き終えたリスナーから「もう一度聴きたい」とのリクエストが殺到したようで、パーソナリティと呼ばれる進行役が「これまで番組の中で同じ曲を二度かけたことはありません。でもあまりに凄い反応なのでもう一度かけます」と言い、再びレコードがかけられました。この曲を耳にすると、今でもあの頃の「万年床生活」が思い出されます。

 貸間ですからそこに風呂はなく、共同炊事場で沸かした湯で体をふくだけの日常でした。それだけに週に一度の休みの日に行く銭湯はまさに極楽。大きな湯船でたまった垢と疲れをゆっくり落としていました(もちろん、湯船に入る前に体は洗いましたよ、念のため)。

 あ、たまに東京駅の地下にあった銭湯に行くのも楽しみでしたね。確か東京温泉という今で言うスーパー銭湯でした。

 

 洗濯も悩みの種でした。洗いたくても、部屋にただ一つだけある窓の外は一面隣家の壁が迫っており、洗濯物を干す場所はありません。そう。隣家の外壁とは3、40センチしか離れていなかったので一年中私の部屋に陽が射すことはなく、「365日、昼なお暗い部屋」、洗濯物を干す場所はありません。だから肌着やシャツを「買っては積み、買っては積み」で洗濯物は押し入れに数か月間で山積み状態。北区にコインランドリー(銭湯併設型としては日本第一号)があると聞いてそこに持ち込むまではそこからすえた臭いが放たれていました。

 前述のように突然来訪した兄は、弟が不在だったため部屋の大家に挨拶に行ったとのこと。すると大家から「部屋が汚い。掃除をして欲しい」と苦情を言われたので私が帰る前に部屋に入り掃除をしたと言います。しかし、洗濯物には手が付けられません。放つ臭いに閉口したらしく、帰宅した私の顔を見るなり〝くっさいなあ(三河弁で臭いなあ)〟と鼻をつまんだものです。

 

 米国に留学したいのですから英語の勉強を欠かすわけにはいきません。暇を見つけてはFEN(米軍ラジオ)を聴き続けること、それに街に出て外国人を〝ナンパ〟して英語力を磨き続ける努力を欠かしませんでした。赤坂見附駅近くにあった米文化センターに行き、アメリカの新聞や本を読み漁ることもしました。

 また、同センターにある資料からジャーナリズム学部(学科)のある米国の大学の住所を書き取り(その頃コピー機は超貴重品で使えず。全ては手書き)、100校近くに「学費及び滞在費の免除又は減額」を求める手紙を送り続けました。

 これについては、約3分の1の学校が「あなたのような熱意のある学生を歓迎するし、私共には様々な支援策はある」という主旨の好意的な返事をくれましたが、それら全てが「ただし、あなたには我々の判断基準である大学での実績がない。最初の年は自費負担で来て勉強してもらい、その成績を基に考えたい」とするものでした。

 当時の円ドル交換レートは1ドル360円で固定されていました。自費留学するには少なくとも50万円は必要。だから預金通帳の数字を上げるのに必死でした。少し前にも預金通帳のことを書きましたね。シツコイと思わないでください。それほど当時は真剣だったのですから。

 

 ナンパした外国人にもいろいろお世話になりました。中でもトーマス・コーツという初老の米国人男性からは言葉に尽くせないほど親切にしていただきました。

 彼と出会ったのは都心にある日比谷公園のベンチ。新聞を読んでいたコーツに私が話しかけたことから親交が始まります。彼は飯田橋にある東京ルーテル教会の幹部で、職員からは「ドクター・コーツ」と呼ばれていました。最初は医者かと思いましたが、そうではなく神学博士です。ナンパがきっかで週に2度彼のオフィスに行き、英語を教えてもらいました。

 勉強方法は、自分からお願いして次のようなものにしました。

 日常生活から東西文化比較、ヴェトナム戦争、学生運動まで多岐にわたる話題を自分なりに30分ほどにまとめて話し、その間一切口を挟まずにメモを取るだけでただただ聞いてもらいます。話し終わった後にそれを整理して文法的な間違いや英語表現の修正をしてもらえるようにお願いしました。英語教授法に則ったものではないものの私には相性の良い方法で、とても有効な授業でした。それが終わると食事に誘っていただき、その場でもレッスンが続けられます。自分でも力がついていくのが実感できました。

 くにおみはヴェトナム戦争に反対し、米政府の戦争への関与を強く非難する姿勢でしたから、米国の保守層に位置するコーツが意見を異にするのは明らかでした。しかしながらコーツはあえて異論を唱えず、くにおみとの意見の違いを面白がっているようで黙って聞いてくれました。その姿勢に「大人の余裕」を感じたものです。

 ただ、くにおみの性格を分かっていたからでしょう。コーツはキリスト教会の幹部なのに宗教への勧誘は一切口にしませんでした。そればかりでなく、彼は留学の斡旋までしてくれました。

 ある時レストランで食事を終えると、

「南ダコタ大学の学長をしている友人にあなたのことを話したらぜひ支援したいと言ってくれました。渡航費用も寮費も心配しなくていいです。ただし、その大学にあなたが勉強したいジャーナリズム学科はありません」

 と言ったのです。

 またとない機会です。大喜びすると思いきや、くにおみはひねくれた反応をしてしまいます。

「ジャーナリズム学科がないのですか。ごめんなさい。ジャーナリズムが学べないのなら興味がないです」

 と彼の申し出を断ってしまったのです。

 前述した森川宗弘からの好意を断った根底には、「むやみにひとさまの世話になるな!」と子供の頃から厳しく叩き込まれてきた我が家の教えがあったと思いますが、コーツの親切への反応は偏屈そのもの。もう少し断りようがあったはずです。しかも途中から他の大学に転入する可能性もあるからと言われても、コーツの申し出に私は首を縦に振らなかったのです。

 今となっては確認のしようがありませんが、この留学案には森川が絡んでいた可能性もあります。実は、私がコーツから英語を習っていることを知ると、森川は自分もやりたいと言い出し、私は彼をコーツに紹介していました。しばらく森川は多忙な時間を縫うようにしてコーツの所に足を運んでいたのです。コーツと親しくなった森川が、私のために留学案を案出した可能性は十分にあったと考えられます。

 

 多忙な仕事の合間に、森川の経営する『日本エコノミストセンター(通称エコセン)』に何度か顔を出すと、月末に経理担当者から封筒が渡されました。森川からだと言います。それもそれからその金額が毎月出されるとのこと。中を見ると5万円という大金が入っていました。当時の大卒の初任給の約2倍です。

 遊びに行くだけでそんな大金を頂くわけにはいきません。ならばと、デパートの配送と地下鉄工事の仕事は辞めてエコセンに勤務することにしました。勤務と言っても郵便物の発送作業の手伝い程度で、ひまであれば社員と雑談をしていても誰に文句を言われることはありません。勤務日どころか勤務時間も自由です。

 一転して自由時間の多い生活になったくにおみは、中古カメラを買って当時都内の幾つかの大学で行われていた学生運動の実態を探ろうと、早大や東大など都内の大学に足を運び写真を撮るようになりました。いっぱしのカメラマンを気取り、活動家にインタヴューまでしていました。

←第44回)  (第46回→