私の人生劇場

青年期

第32回 「光と影の高校二年生」

 1964年。年を越すと、母と兄からの「勉強しろ」コールが激しさを増します。私の高校一年生二学期の成績が一学期よりもさらに悪くなったことに耐えきれず、ふたりは事細かに口を出すようになりました。

 学習意欲がほぼ消えてしまった結果でしたから反論の余地もありません。彼らがどんなに熱心に説教をしても、また何を言ってもただ馬耳東風、聞く耳持たずの姿勢を貫いていました。

 

 家族との不快な毎日だけでなく学校生活も最悪でした。担任Mとの確執、柔道部の先輩からのいじめにも似た扱いに嫌気がさし、さらに加えて勉強が面白くありません。退学してもいいとさえ思っていた時期です。不得手な教科はカンニングまでする始末。傍から見れば「どうしようもない生徒」だったことは間違いありません。

 教師陣にも恵まれませんでした。ほぼすべての教員の教え方に興味が湧かず、授業中は昼寝か読書。良い成績が取れるはずはありません。話は前後しますが、ある教科では二学期の中間と期末で赤点をとってしまいました。ただ、通知表では担当教師への直談判が功を奏して赤点にはなりませんでした。勉強の成績は悪くても交渉事は長けていたのです。その教科で通知表に赤点を付けられていたら、母と兄の怒りの炎はさらに勢いを増したことでしょう。

 その教科の教師は他の教科も担当しており、そちらの教科とは相性がよく、最高レヴェルの評価をもらっていたので、交渉は難航(?)しましたが成立、難局を乗り越えられました。

 「直談判」の概要を文字にすると、次のようになります。

 

 二学期の期末試験の結果を知った後、くにおみは「まずいことになった。おふくろからまた〝兵糧攻め(小遣いストップ)〟に遭う!」と思ったとたん職員室に行って教科担当に面会を求め、周りに人がいないのをいいことに「今回は赤点を勘弁してほしい」と頼み込みました。

 当然のことながらその教師が首を縦に振るはずはありません。そこで自分の育てられてきた環境の一部を話して説得を試みました。そして最後に「先生の立場では首を縦に振れるはずがないことはよく分かっています。そこでどうでしょう。三学期の試験で90点以下だったら潔く(後で思えば、何がいさぎよいのかって話ですね!)先生の裁きを受けます。だからそれまで待ってもらえませんか? お願いします」

 土下座はしなかったものの深々と頭を下げ続けました。

「言いたいことは分かったから頭を上げて」

 と言う相手の顔を見ると〝了解〟と書いてあります。

「ありがとうございます!」

 私は礼を言うと、職員室を軽い足取りで出て行きました。

 三学期のテストの前には猛勉強。90点以上の結果を出しました。ですから、高校時代の通知表上の赤点は一度だけです。

 

 赤点は免れたものの前述したようにほとんどの教科で惨敗です。中学までは得意科目であった数学も例外ではありません。

「貫一おじさんの所に行って数学を見てもらいなさい。お願いはしてあります」

 ある日母からそう言われました。

 県立岡崎北高校の数学教師であった貫一は、母の2番目の弟(母は9人きょうだいの長女)で、岡崎高校のすぐ近くに住んでいました。神経質で言葉遣いの荒い彼とは相性が悪かったのですが、おばがとてもやさしく接してくれ、しかもいつもおいしい食事やおやつでもてなしてくれるので、部活を終えたあと時折ですが、叔父のいない時間帯を〝狙って〟顔を出していました。

 母からそう言われると気が重かったものの胃袋からの強い欲求に負けたくにおみは、柔道の練習を終えた後の汗臭い体のままおじの家に行きました。案の定、汗臭い甥っ子は苦手なようで、何となく距離を置く夫を見ておばはさりげなく「くんちゃん、お風呂でさっと汗流してきたら?」と言ってくれました。

「これをやってみろ」

 叔父はぶっきらぼうに、風呂から出て机に向かった私に一枚の問題用紙を出しました。

 おそらく母は大げさに叔父に言っていたのでしょう。低レヴェルのテストでした。それはあまりにも私をなめたもので、難なくそこに書かれた問題の全部を解きました。

「なんだ、かなりできるじゃないか。ねえさん、大げさに言って。こんなら(これなら)俺が見てやることないな」

 と言うと、叔父は私に帰宅を許しました。

 叔父から報告を受けた母は安堵の表情でしたが、それからしばらくして行われた試験ではそれまでで最悪の結果でした。

「こんな成績ではお小遣いはあげられません。今月はナシ!」

 三学期のテスト結果を前にして母はそう宣告しました。あくまでも想像の域を出ませんが、それは名古屋に住む二つ年上の東海高校に通ういとこYの東大理Ⅰ合格の報が影響していたと思います。彼の母親は私の父俊夫のすぐ下の妹で、ふたりの息子には「(浅井)長政が果たせなかった天下取りをさせる」とそれぞれに、家康の康と秀吉の秀を使って名付けています。Yはその後原子力研究の分野に入り、〝原子力村〟の幹部にまでなりましたが「天下取り」にまでは至りませんでした。

 

 〝支配者〟の兵糧攻めの決定は絶対でした。断言する母に交渉の余地はありません。一度言い出したらテコでも動かない性質だからです。

 彼女の決断を覆すことが無理なのを知るくにおみはそこでまた悪だくみを思いつきます。

 実は、読書に関しては人と違った考え方を持つ母は、私が康生の「電車通り」にある本屋『本文』で母のツケにして本を買うことを許していました。そこで思いついたのが、新刊本をその書店で買い、数百メートル離れた古本屋『都築書店』に持っていって売り飛ばすというやり方です。

 当時は古本市場が盛んで、本は結構高く引き取ってくれる時代でした。それまでにも読んだ本をそこで売っていたので大体の目安は付いていたのです。案の定、新刊本は半額で買い取ってくれました。味をしめたくにおみはその後何度もカネに困ると同じ手口を使うようになります。

 ある時私の書棚に購入した本が並んでいないのに気付いた母は「結構本を買っているのに何で本棚にないの?」と聞いてきました。この辺りもくにおみには想定範囲内の質問で、「〝誰それ〟が借りてったまま返してこん(こない)」と家に遊びに来る友人の名前を出して嘘で返しました。

 

 高校のクラス編成は、「書道」「美術」「音楽」のどれを選択するかで決まりました。一年生では書道コースでしたが、二年生は書道を選択するとまたMのクラスになる可能性もあると思い、美術を選びました。

「なんで美術に来たあ?」

 二年生の担任に決まったNは、最初の個人面談でいきなり〝強烈パンチ〟を放ってきました。

「気まぐれです」

 とだけ言うと、

「Mからお前が骨が折れる生徒だと聞いとる。そういやあ、おまえ、斎藤の甥っ子らしいな。それにしちゃあ数学の出来が悪いなあ。入学試験の成績がウソみたいじゃないか。どうしたあ?」

 と前述した岡崎北高校で教員をしていた叔父の名を出しながら探りを入れてきます。聞けばNは叔父と同じ学校に通った仲で、ふたりとも高校の教員です。しかも同じ教科(数学)ですから結構交流があるようでした。

「おじはおじ、僕は僕ですから。また、こんなところで入学試験のことを話されても……」

 と答える私は、Nの目には不貞腐れているように見えたのではないかと思います。ぎろっと目を光らすとNは、

「以上」

 と私に退室を促しました。

 この時二人の間に生まれた微妙な化学反応は、その後悪化することはあっても改善されることはありませんでした。

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