私の人生劇場

青年期

第34回 「家出少年①」

 東京に出たものの、岡村昭彦という目標を探し出せず、家出少年くにおみは大都会の雑踏を彷徨、さまよい歩きます。

 まさに怖いもの知らずの典型で、〝三河の山猿〟には見るもの全てが刺激的。新宿の新生ニッポンを象徴する街の躍動感に心躍らせ、戦後20年だというのに未だ終戦直後の闇市的なニオイを漂わせる上野や池袋に心惹かれていました。

 当時から新宿歌舞伎町は不夜城。学生服姿の大学生が珍しくない時代でしたから、おのぼりさん(上京した田舎の人間)の私が制服姿で真夜中にうろついていても怪しむ者はいません。街角に座って行き交う人を観察したり、ゲームセンターで他人が遊ぶのを見たりして夜を過ごしました。

 ラーメン屋にあるスポーツ紙の求人欄に目を通して「住み込み」の仕事を探すと結構求人数は多く、最悪その辺りから東京生活を始めればよいと安心しました。

 でも、大学進学を完全にあきらめたわけではありません。翌日、入学を希望していた早稲田大学のキャンパスをひと目見ておこうと、高田馬場に向かいました。

 

 構内に入ると、でかでかと「反戦」「粉砕」「全学共闘会議」といった文字が躍るタテカン(立て看板)があちこちに見られます。看板の前でアジ演説をしている学生もいます。後に世間の注目を集めた「早大闘争」のはしりです。

 そんな喧騒を横目に見て「大隈重信」の銅像の前に立ち見上げました。写真や映像で何度も見てきた〝有名人〟です。何となく嬉しくもあり、緊張も感じました。見上げていると、心の奥底から何か得体のしれない熱いものが湧き出てくるのを感じます。

「岡村さんが当てにできない以上、自分はやはり早稲田を目指すべきじゃないか?」

 銅像の前でしばらく自問自答していました。

 

 そこから運動部の部室がある建物に行き、ヨット部の部屋を探しました。早稲田に入ったらヨット部に入りたかったのです。ところが、通路を何度往復しても「ヨット」の文字が見つかりません。通りがかった学生に聞いたのか部室に入って聞いたのかは覚えていませんが、「ヨット部の部室はどこですか」とひとりの学生に声を掛けました。

「このキャンパスにはありませんよ。湘南海岸にあるみたいです」

 と答えると、その学生は私に事情を聞いてきました。 家出してきたとは言いませんでしたが、来年受験するつもりだと話しました。

 するとその学生は「メシ、食いましょう。御馳走しますよ」と言って私を強引に学食に連れていきました。彼の意図は薄々感じましたが、メシを食わせてもらえるのは何よりです。話に乗ってみるのも面白そうだと思い、ついていきました。

「いい体してるね。運動は何やっているの?」

 ご飯を食べながらだったと思います。そんな話から会話は始まり、やがて「東京オリンピックの重量挙げで金メダルとった三宅義信って知ってるよね?」となりました。彼の所属する重量挙げ部への勧誘が下心にあったのです。

 ウエイトリフティングが嫌いだったわけではありませんが、どちらかと言えば武道が好み。でも食事をごちそうになったこともあり、「合格したら必ず顔を出します」と再会を約して別れました。

 

 早稲田大学を後にして徒歩で新宿に向かっている時、家に書置きせずに出てきたことが急に気になりました。

「家出したことをおふくろに伝えておかないと捜索願を出される可能性があるなあ」

 でも、家には電話がありません。母の勤め先に電話をする方法もありましたが、母の声を聴きたくありません。はがき一本を送るのも何となく気が進みませんでした。

 そこで思い出したのが東京にいる叔父の存在です。彼から家出の事実を母に伝えてもらおうと思いつきました。でも彼の連絡先も分かりません。知っているのは勤務先の名前だけでした。電話帳で彼の勤め先を調べてみると、恵比寿駅の近くです。

 まずは電話を入れました。家出の事実を知らせると大変な驚きようで、夕方会うことになりました。

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