第48回 「愛工大名電野球部とモーさん」
甲子園球場で行われている高校野球で、愛知県代表の愛工大名電が活躍しています。
愛工大名電と言えば、イチローや工藤公康、山崎武司といった名プロ野球選手を輩出したことで知られます。また、その三人を指導したことから監督の中村豪(たけし)が有名です。
しかし僕にとって、校名を聞くたびに思い出されるのは小学校時代に出会った鈴木猛男先生。通称モーさん。お名前とその受ける印象から子供たちはそう呼んでいました。
世間には広く知られていませんが、愛工大名電野球部の現在があるのも、1965年度から11年間監督をされたこの方の功績は大きいです。モーさんは担任ではなく、数回言葉を交わした程度の関係ですが、くにおみ少年には強烈な、いやモー烈なインパクトを与えた人です。
根っからの野球好き。常に野球バットを持ち歩き、頭の中がすべて野球なのではと疑われる「野球○○○○(当時は頻繁に使われた表現。現在では禁止用語)」でした。
岡崎市立男川小学校の教員時代にはソフトボール部の監督を務めておられました。その練習は小学生レヴェルではありません。だから多くの子どもたちが「モーさん、おそがい(おそろしい)ね」と言ってその練習を遠目に見ていました。
スポーツ好きのくにおみはバックネットにしがみついてその練習や試合を見ていました。5年生か6年生の時、いてもたってもいられず男川小学校の隣にあった(と記憶しています)モーさんの家に行き弟子入り志願しました。
しかしながらと言うか当然のことと言うべきか、モーさんから、
「いつも練習を見てくれているし、体格もいいからあんたのことが気になって山田先生(くにおみの担任)に聞いたら、運動禁止だと言われたぞ」
と言われて〝門前払い〟をくらいました。
そう。くにおみは数年前にかかった肺浸潤の養生中で、体育の授業も運動の際は見学を強いられていたのです。今思えば、断られるのを承知で、モーさんと話したくて「門を叩いた」のでしょう。
卒業してからモーさんと話すことはなく、お会いする機会もありませんでした。
それから9年後の1968年の春、センバツ高校野球を東京の喫茶店でTV観戦していた時のこと。愛知県代表として初出場した「名電工(確か当時はそう呼ばれていた)」のベンチにいたのが、〝あのモーさん〟! 人違いかとアナウンサーのチーム紹介に耳をそばだてていると、確かに「監督は鈴木猛男さんです」と言います。
「ええええ~、夢をかなえたんだ、モーさん」
と心の中でひとり快哉を叫びました。
名電工野球部はその春、準々決勝まで進みましたが惜しくも一点差で敗退しました。
後になって前述の山田先生にモーさんの「名電工の監督になるまでの軌跡」を教えて頂きました。
どうしても本格的な野球に関わりたかったモーさんは中学校の教員になり、その学校(今元同級生から聞いた話では南中学)の野球部を強くしてその選手たちを名電工に送り込み、実績を重ねるうち、やがて名電工から監督の座をオファーされたというのです。ただ、この辺りは山田先生からお聞きした話で、ご本人や関係者に確かめた訳ではありませんので念の為。
「モーさんの勇姿」は6年後の夏の大会でも再度見ることが出来ました。残念ながら2回戦で敗退しましたが、この時も僅差の一点差で敗れました。好投手を擁して鉄壁の守備のチームとの印象でした。モー練習の成果が表れた戦い方でその負け方も潔かったと記憶しています。
僕の人生の中では多くの人が「気概のある背中」を見せたり、「夢を持つことの大切さ」を教えたりしてくださいました。モーさんも間違いなくその中のお一人でしたね。
愛工大名電の次の試合をTV観戦できるかどうかは分かりませんが、機会があれば、そんな思い出を胸に観たいと思います。