私の人生劇場

青年期

第40回 「大宅壮一東京マスコミ塾の門を叩く①」

 上京したくにおみは、4年間世話になるはずの「岡崎市東京学生寮」に荷を解きました。東京学生寮と言ってもその場所は千葉県市川市本八幡(もとやわた)。まあ、東京都との境界線から500メートルと離れていないのでそう名付けたくなるのは分かりますが、でもそこは千葉県です。岡崎の人間にとって「トーキョー」はビッグネーム。岡崎らしい名前の付け方ですね。

 寮に到着すると、寮監が玄関で温かく迎えてくれました。「寮監の〇〇です。どうぞよろしくお願いします。齋藤縫右門先生に大変お世話になった者です」と名乗り、私のことを「浅井さん」と呼びます。予想だにしなかった突然の挨拶に驚き、私は相手に「呼び捨てにしてください」とお願いしました。 

 齋藤縫右門とは私の母方の祖父で、かつて愛知県内で学校長をしていました。○○は、

「部下として本当に多くを学ばせていただきました。私の尊敬する恩師です」

 とまで言います。その時は「ふたりの関係がすぐに悪くなり、衝突を繰り返し、退寮処分という結果で終わる」とは思いもよりません。

「幸先が良いぞ」

 少なくとも私はそう思っていました。 学生寮は出来たばかり。当時としては画期的な「個人仕様の洋室」で「賄い(専属料理人による食事)付き」。訪れてくる友人たちは「お前たち、ずるいよ」と口を揃えたものです。噂では〝市当局となんらかのコネ〟を持つ親の息子だけが入れるとのことでしたが、その真相は分かりません。

 

 部屋に荷物を置くとすぐ、くにおみは東京日本橋に出かけました。『大宅壮一東京マスコミ塾』の事務局に行くためです。前回書いたように、世間で大きな評判を呼んでいた大宅塾に入ろうとしていたのですが、事務局に電話を入れると第二期生の募集は締め切ったと言われました。ならば直談判を、と出かけます。

 事務局は、新聞・雑誌の記事から想像する華やかな雰囲気とはかけ離れた地味な場所にありました。かつての江戸城外堀沿いにあり、見上げると高架橋を走る首都高速道路があります。事務局と言っても名ばかりで、古いビルにある小さな会社に間借りしているようでした。「日本エコノミストセンター」と入り口のドアに書かれた看板の下に小さくその名が書かれていたと記憶しています。対応した女性事務員は、

「二期生の受付は大分前に締め切りました。一次審査も終えて後は面接試験を待つばかりです。三期生の募集もまたありますから次回応募してください」

 と言って私に諦めるよう言います。

 それで〝ハイそうですか〟と引き下がるくにおみではありません。自分は地方から出てきたこと、受験浪人をしていたので締め切りに間に合わなかったこと、早く記者になって活躍したいことなどを理由に挙げ、何とか試験を受けさせてくれと粘りました。しかし、彼女はそう私に言われてもなすすべはなく断り続けるしかありません。粘り続けるくにおみを相手に1時間以上辛抱強く対応をしてくれました。今で言う「神対応」です。それなのに、くにおみは、何か笑いをこらえているような彼女の態度が田舎者をバカにしているようで気に入りません。「田舎者をバカにするのか」と思うと余計意固地になり、「どうしても機会をもらえないのならこの場を動かない」と入り口のドアの前で居座りました。

(後で彼女にその時の話を聞いたら「学生服に下駄。そんな姿で情熱をぶつけてくる浅井君が○○の××に似てた」と当時人気のあったTVドラマか映画、又は小説の主人公の名前をあげて説明してくれました。)

 

 どのくらい時間が経っていたかは記憶にありません。

「明日朝までに小論文を書いておいで。テーマは何でもいいから」

 それまで部屋の奥でずっと新聞を読んでいた男が新聞をたたむと声をかけてきました。

「ありがとうございます!」

 相手の名前も聞かず、その言葉を聞くや否や、おそらく相手の気持ちが変わらぬうちにと思ったのでしょう。くにおみはその場を脱兎のごとく離れ、寮に一目散に戻り、徹夜で小論文を書き上げて翌日、事務局に届けました。

←第39回)  (第41回→