私の人生劇場

青年期

第44回 「留学準備に邁進①」

 学生寮を追い出されて三畳ひと間の「貸間暮らし」を始めたくにおみは、米国留学を志して計画を練ります。

 「貯金」

 「英語上達」

 「ジャーナリズム学科がある大学との交渉」

 が当然その計画の柱となるものでした。留学費用は自分の力で工面することこそが本質と考え、母からの仕送り受け取りを断りました。

 

 突然の〝独立宣言〟に驚いた母は数か月後、当時大学生であった兄義澄を私のもとに偵察役として送り込みました。私が不在だったので、兄は大家に事情を説明して部屋に上がり込んでいました。そんな役割を担わされての訪問だけに義澄の表情は硬く、私の顔を見るなり「散らかし放題で何やっとるんだ!ゴミ屋敷じゃないか。大家から掃除してくれと言われたから掃除しといたぞ」とあいさつ代わりに放つ言葉は冷たささえ感じられるものでした。

 私にすれば冗談ではありません。いくら兄とはいえ、自分のいない間に部屋に入り込んできて、頼んでもいないのに掃除をして、しかも帰宅したとたんに頭ごなしに叱るのです。彼を疎ましく思うのは当然です。

 ただ、兄と対立するのは得策ではないと考えたくにおみは、一度だけ本音で話すと決め、

「見れば分かるようにアニキがここに泊まれるスペースはない。それに俺は今から徹夜仕事に出かける。明日は休みだから明日話そう。出直してくれないか」

 といったん部屋から出るように言いました。

 

 翌日。兄と相対しました。

 翌朝までに心の準備ができたこと、その日は仕事が休みで時間をかけてゆっくり話せたことなどが良かったのでしょう。落ち着いた心理状態で兄と向き合えました。

 兄もある意味では私と同じ被害者。そこで私は小さい頃からの置かれた環境の息苦しさ、抱えてきた悩みや不満を話し、「でもアニキは俺よりきつかったんじゃないか」とそこに幾つかの例を引いて彼への同情を口にしました。すると兄の表情に大きな変化が見られました。柔らかな表情を見せ始めたのです。

 心が通じたと確信した私は、次に自分の将来の夢を語ります。その弟の姿に兄は目を輝かせて、口を挟むことなく話に耳を傾けてくれました。一気に話した私に兄は、「浮ついた考えじゃないことは分かった。凄い頑張りじゃないか」と理解を示し、「俺にはそういうことはとてもできないからお前は頑張って夢を実現してくれ」と最終的には応援を約束してくれました。そして、それがきっかけとなり、それまでのさまざまな互いへの不満、誤解の多くが一挙に氷解、逆に非常に良好な関係が生まれました。

 その言葉に嘘はなく数年後、くにおみと母との関係が決定的な局面を迎え「母子断絶」の事態に至っても兄は私の味方をしてくれ、その後も47歳で他界するまでずっと私の最高の理解者であり続けてくれました。

 

 「兄の死」については40代の編で詳しく書きますが、ここでも少しふれておきます。

 彼は20代前半と30代で二度、大腸がんにかかり、開腹手術を受け、そして術後に行なわれた放射線治療の影響とみられる白血病に命を奪われました。

 「その時」は突然訪れてきました。

 1992年の11月14日深夜、兄からの電話が入ります。そんな時間に電話してくるような兄でないだけに「俺だ」という低く沈んだ声を聞いた途端、不吉な予感がしました。

「白血病になった。長くはもたんらしい。俺が死んだら○○(彼の妻の名)は出て行くだろう。後は……おふくろを頼む」

 とだけ言うと、彼は電話口で泣き崩れたのです。兄が私にそのように感情をあらわにしたのは後にも先にもこの時だけです。

 私は口を挟まず、しばらくそのまま兄が泣き止むのを待ちました。10分ぐらい泣き続けていたような記憶がありますが、実際にはそんなに長くはなかったかもしれません。

「お前、今日NHKに出とったな。TBSとの関係は大丈夫か?」

 息を整えた兄は病気のことではなく、その日の朝に私が出演していたテレビ番組の話を始めました。

 確かにその日(土曜日)、NHK総合TVでは〝日本の英語教育の裏側をさぐる〟というテーマの1時間番組が放映されており、私は解説者としてその番組に出演していました。兄が受診した岡崎市民病院のTV画面では常時NHKが流れていて、私の姿が彼の目にとまったという話です。診察・検査の合間に弟の姿をずっと見続けていたとのことでした。

「俺のような田舎モンにとってはテレビの中でもNHKは特別の存在。お前がそこに解説者として一時間出続けていたからな」

 と私の出演を誇らしく思ってくれたようです。一方で、契約関係があったTBSとのことも兄としては気になったらしくその辺りを聞いて来たわけです。

 実は、TBS特派員のひとりと90~91年の湾岸危機・戦争における現地取材でひと悶着。帰国してからも彼との確執が解消されなかったので、私は、翌92年はTBSとの契約を更新していませんでした。それを知ったNHKや他局がアプローチをしてきて実現したいくつかの番組出演のひとつだったのです。しかしそれを話せば心配させるだけです。「全然問題ないさ」とだけ答えました。

 兄はまた、25年前の東京の私の部屋での話し合いが懐かしく感じられたようで、「お前、本当に夢を実現したな」と嬉しそうな声でそう言ってくれました。

 私は普段からTV出演があってもその情報を兄に伝えておらず、彼がこの番組を見たのは全くの偶然でした。これもありがたいことに私に与えられた縁なのでしょう。NHKに出演したことは結果的に兄に対しての最高の餞(はなむけ)となったようで、病室を訪れる度にそのことを口にしました。

 

 1967年当時の話に戻ります。

 上京直後から始めたデパートの配送は、出来高制で体力勝負。配達品には商品券などの軽いものもありましたが、そういった割のいいものは古参たちが先取りしてしまい、新参者にはかさばるものや重い商品しか回ってきません。当時は、日本酒はもちろんのこと、ビールやしょうゆなどが瓶詰されていました。与えられた運搬用自転車は頑丈でタイヤも太いものでしたがそれだけに重量があり、重い荷物を積んだ状態で上り坂をのぼるのは至難の業。毎日汗だくになりながら江戸川区を走り回っていました。

 目に余る古参連中のずるいやり方に黙っておられず、私はある日「あなたたち、ずるいですよ」と抗議の声を上げました。すると、彼らに「こっち来い」と仕事場の裏に連れ出されました。脅しのつもりです。

 ただ、こちらの腹がすわって折れないと分かると意外なことに彼らは脅すのをやめ、それ以上私に難癖をつけてくることはありませんでした。そんな不穏な空気を知った会社側は事態が深刻になりかねないと見たのでしょう。システムに多少の改善を加えました。

 その頃の生活はハードそのもの。

 早朝からの配送作業を終えて夕方部屋に戻り、疲れ切った身体を横たえて仮眠をとりリフレッシュ。夜は地下鉄の工事現場に向かいます。その頃の労働時間については、うろ覚えですが、大体午後7時か8時から工事現場で働き始めて早朝4時か5時に終えて帰宅。ラジオを聴きながら寝入り、泥のように3、4時間眠った後起床。眠い目をこすりながら「留学のため。留学するんだから」と自分を鼓舞して配送の仕事に向かいました。万年床(敷きっぱなしの布団)に座って見る預金通帳の金額が最大の励みでした。

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