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2026-09-02 13:45:00

私のアニキ、秋山豊寛――ロンドンで始まった半世紀

日本人として初めて宇宙へ行った秋山豊寛さんが亡くなった。

84歳だった。

私にとって秋山さんは、「日本人初の宇宙飛行士」ではない。

長い間、「アニキ」と呼んできた人だった。

◆すべてはロンドンの日本大使館から始まった

初めて会ったのは、1970年の夏だった。

当時の私は、英国をヒッチハイクで旅していた。

ところが、旅の途中でパスポートを含む全財産を失ってしまった。

困り果て、パスポートを再発行してもらうために訪れたのが、ロンドンの日本大使館だった。

そこで偶然出会ったのが秋山豊寛さんだった。

当時、秋山さんはTBSからBBCに出向していた。

まさかこの偶然の出会いが、その後半世紀以上にわたって続く付き合いになるとは、もちろん知る由もなかった。

◆「仕事上げて」

再会したのは6年後だった。

APを退社し、レバノン内戦の取材に行こうとしていた私は、そのころテレビの仕事にも興味を持ち始めていた。

そこで秋山さんに連絡を取った。

大歓迎してくれた。

すぐにTBSのニュースルームへ連れていってくれ、デスクたちに、

「仕事上げて」

と声をかけてくれた。

それでいくつかのアサインメント(依頼)をもらい、私は取材に出た。

3カ月ほどして日本に戻ると、幸い私の仕事を気に入ってもらえたようで、その後は次々に仕事をもらえるようになった。

そして秋山さんが紹介してくれたのが、のちに報道局長になる久木保さんだった。

私のテレビ報道の仕事は、久木さん抜きには語れない。それほど厚遇していただいた。

その久木さんとの縁を作ってくれたのも、秋山のアニキだった。

◆「大宅壮一ノンフィクション賞を取れるんじゃないの?」

アニキは外信畑の人だった。

海外勤務や駐在も多かったから、仕事の現場で顔を合わせる機会は、意外にそれほど多くなかった。

ところが、個人的な付き合いは年を追うごとに深くなっていった。

私の『レバノン内戦従軍記』を謹呈した時には、

「大宅壮一ノンフィクション賞を取れるんじゃないの?」

と言ってくれた。

受賞できる実力はなかったがうれしかった。

翌年、ジャーナリストや弁護士などと「混沌の会」を作った。

代表の西垣内堅佑弁護士が、

「これから世の中は混沌とした状況になる」

と言い出したことから付いた名前だった。

アニキを誘うと、喜んで仲間に入ってくれた。

その「混沌の会」には、年を追うごとに、何とも〝いかがわしい〟面々が集まるようになった。

その一人が、のちに「キツネ目の男」と関連づけて報じられることになる宮崎学さんだった。

宇宙飛行士もいれば、「キツネ目の男」と疑われた男もいる。

まさしく「混沌」である。

◆「どう思う?」

1988年ごろだったと思う。

久木さんから、ある相談を受けた。

当時のTBSモスクワ特派員が、ソ連側から宇宙飛行の計画を持ちかけられたという。

「どう思う?」

最初に聞かされた費用は、ひと桁の億だった。

私は即座に答えた。

「ぜひやりましょう」

ところが、しばらくすると久木さんが言った。

「〇〇(モスクワ特派員)が聞き間違えた。ひと桁違ってた」

私はそれでも、

「充分元は取れますよ」

と答えた。

当時のソ連は、経済的に大変な状況にあった。

本格的な交渉が始まると、話は一気に進んだ。

そして、宇宙へ行く人間はTBS社員の中から選ぶことになった。

◆「宇宙非行士候補」

希望者を募り、体力を含めたさまざまな適性検査が行われた。

ところが、最初の検査では基準が厳しすぎて全員不合格。

2回目の選考で残ったのが、アニキと若い女性カメラマンの菊地涼子さんだった。

アニキは当時40代半ば。

「中年の星」

などと呼ばれ始めた。

本人は照れていた。

混沌の会の連中が色紙を差し出してサインをねだると、アニキはそこに、

「宇宙非行士候補」

と書いた。

飛行士ではない。

「非行士」である。

いかにもアニキらしい照れ隠しだった。

◆隅田川の夜、「行けそうだぜ」

その年の夏、私は隅田川の花火を見るため、遊び心で屋形船を一艘チャーターした。

アニキを誘うと、喜んでやって来た。

その船の上で、アニキが私に言った。

「行けそうだぜ」

いよいよ現実になるのか。

そう思った。

しかし、宇宙計画を歓迎する人ばかりではなかった。

ソ連に巨額の金を渡すことへの反発から、TBS前には右翼の街宣車が連日のように押しかけた。

アニキにはSPが付いた。

ソ連へ送り出す前、私たち混沌の会のメンバーは、銀座の料理屋で壮行会を開いた。

部屋の入口にはSPが立ち、がっちりと警護していた。

その席で、私はアニキに一つ頼み事をした。

「宇宙での第一声には、『混沌』を入れてくれ」

アニキは了解した。

そして1990年12月。

われわれ「混沌」の仲間たちは、固唾をのんで打ち上げを見守った。

いつ出る。

いつ「混沌」と言う。

ところが――。

ついぞ、その言葉がアニキの口から出てくることはなかった。

◆これ、本番ですか?

打ち上げ時の視聴率は36%。想定を上回る数字だった。

しかし、私たちが聞きたかった「宇宙第一声」は、「混沌」ではなかった。

ロケットの轟音と共に宇宙から聞こえてきたアニキの「第一声」は、

 

 

「これ本番ですか?」
だった。

そして、それが世の中で有名になった。

「混沌」はどうしたんだ。

もちろん後で文句を言った。

アニキからは何やら言い訳を聞かされた。

本人の著書にも、そのあたりのことを書いていたような記憶がある。

◆「私は億単位の金しか受け取らない」

宇宙から帰還したアニキが「星の街」(宇宙飛行士とその家族が住む街)にいる時、私は電話を入れた。

実は、ある資産家から、

「秋山さんに報奨金を差し上げたい」

という申し出を受けていた。

金額は300万円。

それを伝えると、間髪を入れずに返ってきた。

「私は億単位の金しか受け取らないよ」

そして続けた。

「それよりもさぁ、綺麗どころを揃えて歓迎会をしてよ。着陸の時に、思いっきりケツを打ってさ。痛くてしょうがないんだよ」

宇宙から帰還した日本人第一号が、「ケツが痛い」とぼやいている。

それが秋山豊寛だった。

◆本当に歓迎会をやった

言われたからには、やるしかない。

混沌の会代表(弁護士)の顧問先だった資産家が、東京に迎賓館を持っていた。

入口には「シエラレオネ名誉総領事館」と書かれていた記憶がある。

そこで歓迎会を開いた。

ただ、会場を提供した人物は一癖も二癖もある人だった。

アニキとのツーショット写真を何かに利用されるのではないか。

私は警戒していた。

お抱えの撮影班が二人のツーショットを撮ろうとすると、私はすっと間に入った。

さらに設けられたパーティー会場には、誰が呼んだのか、パパラッチ数名が潜り込んでいた。中には当時の国民的有名芸能人の「熱愛発覚」を写真週刊誌に発表したカメラマンの顔もある。

司会進行をしていた私は彼らに目を光らせ、咄嗟に思い付いたセリフを彼らに投げかけた。

「秋山さんの写真を掲載する場合には、私の許可が必要ですからね」

と釘を刺した。

◆「中年の星」のその後

帰国後、秋山人気はこれまた予想を遥かに超えるものだった。

「中年の星」は、ほとんどアイドル状態。

あまりの人気で、約1年、電車に乗れば騒がれてしまうので、公共交通機関もまともに利用できないほどだった。

しかし、しばらくすると、TBSの中では、私の目にはアニキが少し「浮いた存在」になっていったように見えた。

久木報道局長とも、互いの力量を認め合いながら、どこかに溝ができていた。

そんな様子を見て、私は「混沌の会」のあるメディア関係者に、冗談半分でけしかけたことがある。

「秋山さんをヘッドハントしたら?」

ところが、双方がその気になった。

だが、移籍話は結局まとまらなかった。

◆「私はTBSを辞めて百姓になる!」

それからしばらくしての「混沌の会」。

アニキが突然言った。

「私はTBSを辞めて百姓になる!」

みんな呆然とした。

するとメンバーの一人だった詩人が、

「僕は北海道新聞のコラムを書いてるけど、そこで発表していいですか?」

と聞いた。

アニキは即答した。

「いいよ」

そうして、宇宙飛行士秋山豊寛TBS退社のニュースは全国に知れ渡った。

別のメディアへ移るのではない。

百姓になる。

しかし私には、それが完全な突然変異ではないことも分かっていた。

宇宙へ行く以前から、アニキは環境問題やオーガニック農業の勉強会に通っていた。

私も誘われ、一度だけ参加した。

正直に言えば、私は興味が湧かなかった。

ところがアニキは本気だった。

◆秋山砦て援農

アニキは退職金を含むかなりの私財を投じ、福島県の阿武隈山系に農場を拓いた。滝根村が所有する天文台「星の村」の村長にもなった。

画像

私は当時、東京や埼玉で「メディア塾」を主宰していた。

その塾生や、私たちの災害ボランティアグループACT NOWのメンバーたちと、年に5、6回はアニキの農場、通称「秋山砦」へ「援農」に行った。

メディア塾で訪れる時は「お出かけ塾」と名付けた。

農作業をするだけではない。

秋山豊寛の講義を聞くのである。

アニキは、そのためにわざわざホワイトボードまで買って、本格的に講義してくれた。

特に塾生たちから評判が良かったのが、メディアリテラシー講座だった。

TBSを辞めても、ジャーナリスト秋山豊寛は健在だった。

一方で、百姓としても徹底していた。

有機農業にこだわり、こう言った。

「俺は作るものに毒は入れねえよ」

主な収入源は椎茸だった。

会員制で販売し、人気があった。

さらに地域の農業従事者を集め、「農業大学」のような活動まで始めた。

月刊誌『自然と人間』にも、農業に携わる日々を綴り続けていた。

宇宙へ行った男は、土へ戻った。

いや、「戻った」というのも違うのかもしれない。

宇宙へ行く前から、アニキの目はすでに土に向いていたのだから。

その暮らしが、ある日突然、壊された。

2011年3月。

福島第一原発事故だった。

◆「放射能という毒を入れた作物を売れるはずがない」

福島第一原発事故が起きた。

秋山さんの農場は、原発から西へ約32キロのところにあったと記憶している。

直ぐにアニキに連絡を入れた。呼び出し音に応答はなかった。

数日後、私の携帯に見知らぬ番号からの電話があった。

応答すると、アニキ独特の低く響く声が聞こえてきた。

「心配した?」

照れ屋らしい話の切り出し方だった。

どうやって避難したかをひと通り説明すると、「俺はもう滝根に戻れねえな」とさらに低い声で言った。

「農薬という毒を入れない俺が、放射能という毒を入れた作物を作れるはずがないもん」

否が応でも寂しさが、絶望感がひしひしと伝わってきた。

「俺は毒を使って作物は作らない」そう言い続けてきた人だった。

その人が、自分ではどうすることもできない「毒」によって、自ら拓いた農場を失った。

そして、アニキが滝根の農場に戻ることはなかった。

『自然と人間』の連載に、その苦悩を綴っていた。

私はそれを読みながら、思わず涙を流した。

◆百姓をやめたわけではなかった

群馬で一年かけて米を作った後、秋山さんは京都へ移ることになった。

「古いけど俺の車要る?」

愛車を手放して移住するからくれると言う。

妻に聞くと「秋山さんの車なら是非もらいたい」と言う答えが返って来たので、私たちは群馬まで車をもらいに出かけた。

「直子さん、一つだけお願いがあるんだけど…。将来廃車にする時は、日本酒を『お疲れ様』と言いながらかけて慰労してやってください」とアニキならではの愛車への想いを私たちに伝えた。

間も無くして京都芸術大学で教鞭を執るようになった。

しかし、単純に「宇宙飛行士が大学教授になった」と考えたら、秋山豊寛という人を見誤る。

アニキが大学で教えたのは、田んぼの作り方。

タケノコの栽培。

そして、もう一つの本業であるメディアリテラシーだった。

百姓とジャーナリスト。

アニキの中では、二つは決して矛盾していなかったのだと思う。

原発事故への思いも消えなかった。

全国から声がかかれば、手弁当でも出かけていって講演した。

原発問題は、秋山さんにとって評論の対象ではなかった。

自分の土地と、自分の暮らしを奪った問題だった。

◆「宇宙ロケットはどこにあるの?」

アニキは私の妻や息子を、とても可愛がってくれた。

京都へ家族で訪ねた時にも、最高のもてなしをしてくれた。

やがて大学教授の定年が近づき、終の住処を探し始めた。

退職後、三重県の中山間地へ移住した。

当然、私たちは家族で遊びに行った。

当時、息子はまだ小さかった。

出かける前に、私はアニキが宇宙へ行った時の写真を息子に見せていた。

そしてアニキの家に到着すると、息子はまわりを見渡しながら本人に聞いた。

「宇宙ロケットはどこにあるの?」

アニキは大笑いした。

◆持って帰れなかった本

ところが、その時だった。

アニキから、自分の身体が病に蝕まれていることを聞かされた。

そして本棚を指して、

「本は好きなだけ持っていっていいよ」

と言われた。

しかし、私は持って帰れなかった。

たくさん本を持ち出したら、それだけアニキがこの世からいなくなる日が近づいてしまうような気がした。

だから、一冊か二冊だけいただいた。

◆「浅井ちゃんだけだよ」

その後4、5年、直接会うことはなかった。

電話で話すだけになった。

それでも時折、秋山さんは言ってくれた。

「こんなに長い間(通話時間は1時間コース)、親しくいろんなことを話せるのは浅井ちゃんだけだよ」

私は何度も岡崎へ来るよう誘った。

「行くよ。そのうち行くよ」

アニキは何度もそう言った。

でも、とうとう一度も実現しなかった。一度だけ具体的に「けちゃんとかみさんを浅井ちゃんの泊めてやってくれる?俺はホテルにするけど」と言ってきたことがあった。

しかし、なんだかんだで、その話も実現されなかった。

◆鳴らせなかった電話

そして、この半年ほどは電話もしなくなっていた。

私自身が闘病していた。

電話をすれば、自分のことを話さなくてはならない。

アニキに余計な心配をかけたくなかった。

何度も電話を手にした。

アニキの番号も、そこにある。

それでも私は、その番号を鳴らさなかった。

アニキからも、なぜか電話は来なかった。

今になって思う。

ひょっとすると、アニキも体調を崩し、私と同じように「心配をかけたくない」と思っていたのではないか。

もちろん、もう確かめることはできない。

◆最後まで照れ屋だったアニキ

不思議な縁もあった。

アニキの娘さんの結婚相手が、なんと私の妻の親しい知人だった。

まったくの偶然だった。

その後、その知人から妻のところへ一枚の写真が送られてきた。

娘さん夫婦がアニキを訪ね、孫を会わせている写真だった。

かわいい孫がいる。

そのそばにアニキがいる。

ところが、抱き上げるでもない。

どこか照れくさそうにしている。

その姿を見て思った。

ああ、アニキらしいな。

「中年の星」と呼ばれて照れた。

色紙には「宇宙非行士候補」と書いた。

そして晩年、かわいい孫を前にしても照れていた。

1970年の夏。

パスポートも全財産も失った若造が、ロンドンの日本大使館で偶然出会った人。

あれから半世紀以上が過ぎた。

アニキ。

結局、岡崎には来なかったね。

「そのうち行くよ」って、何度も言ってたじゃないか。

もう一度くらい、電話を鳴らせばよかった。

もう一度、

「浅井ちゃん」

と呼んでほしかったよ。