「これ本番ですか?」
だった。
そして、それが世の中で有名になった。
「混沌」はどうしたんだ。
もちろん後で文句を言った。
アニキからは何やら言い訳を聞かされた。
本人の著書にも、そのあたりのことを書いていたような記憶がある。
◆「私は億単位の金しか受け取らない」
宇宙から帰還したアニキが「星の街」(宇宙飛行士とその家族が住む街)にいる時、私は電話を入れた。
実は、ある資産家から、
「秋山さんに報奨金を差し上げたい」
という申し出を受けていた。
金額は300万円。
それを伝えると、間髪を入れずに返ってきた。
「私は億単位の金しか受け取らないよ」
そして続けた。
「それよりもさぁ、綺麗どころを揃えて歓迎会をしてよ。着陸の時に、思いっきりケツを打ってさ。痛くてしょうがないんだよ」
宇宙から帰還した日本人第一号が、「ケツが痛い」とぼやいている。
それが秋山豊寛だった。
◆本当に歓迎会をやった
言われたからには、やるしかない。
混沌の会代表(弁護士)の顧問先だった資産家が、東京に迎賓館を持っていた。
入口には「シエラレオネ名誉総領事館」と書かれていた記憶がある。
そこで歓迎会を開いた。
ただ、会場を提供した人物は一癖も二癖もある人だった。
アニキとのツーショット写真を何かに利用されるのではないか。
私は警戒していた。
お抱えの撮影班が二人のツーショットを撮ろうとすると、私はすっと間に入った。
さらに設けられたパーティー会場には、誰が呼んだのか、パパラッチ数名が潜り込んでいた。中には当時の国民的有名芸能人の「熱愛発覚」を写真週刊誌に発表したカメラマンの顔もある。
司会進行をしていた私は彼らに目を光らせ、咄嗟に思い付いたセリフを彼らに投げかけた。
「秋山さんの写真を掲載する場合には、私の許可が必要ですからね」
と釘を刺した。
◆「中年の星」のその後
帰国後、秋山人気はこれまた予想を遥かに超えるものだった。
「中年の星」は、ほとんどアイドル状態。
あまりの人気で、約1年、電車に乗れば騒がれてしまうので、公共交通機関もまともに利用できないほどだった。
しかし、しばらくすると、TBSの中では、私の目にはアニキが少し「浮いた存在」になっていったように見えた。
久木報道局長とも、互いの力量を認め合いながら、どこかに溝ができていた。
そんな様子を見て、私は「混沌の会」のあるメディア関係者に、冗談半分でけしかけたことがある。
「秋山さんをヘッドハントしたら?」
ところが、双方がその気になった。
だが、移籍話は結局まとまらなかった。
◆「私はTBSを辞めて百姓になる!」
それからしばらくしての「混沌の会」。
アニキが突然言った。
「私はTBSを辞めて百姓になる!」
みんな呆然とした。
するとメンバーの一人だった詩人が、
「僕は北海道新聞のコラムを書いてるけど、そこで発表していいですか?」
と聞いた。
アニキは即答した。
「いいよ」
そうして、宇宙飛行士秋山豊寛TBS退社のニュースは全国に知れ渡った。
別のメディアへ移るのではない。
百姓になる。
しかし私には、それが完全な突然変異ではないことも分かっていた。
宇宙へ行く以前から、アニキは環境問題やオーガニック農業の勉強会に通っていた。
私も誘われ、一度だけ参加した。
正直に言えば、私は興味が湧かなかった。
ところがアニキは本気だった。
◆秋山砦て援農
アニキは退職金を含むかなりの私財を投じ、福島県の阿武隈山系に農場を拓いた。滝根村が所有する天文台「星の村」の村長にもなった。

私は当時、東京や埼玉で「メディア塾」を主宰していた。
その塾生や、私たちの災害ボランティアグループACT NOWのメンバーたちと、年に5、6回はアニキの農場、通称「秋山砦」へ「援農」に行った。
メディア塾で訪れる時は「お出かけ塾」と名付けた。
農作業をするだけではない。
秋山豊寛の講義を聞くのである。
アニキは、そのためにわざわざホワイトボードまで買って、本格的に講義してくれた。
特に塾生たちから評判が良かったのが、メディアリテラシー講座だった。
TBSを辞めても、ジャーナリスト秋山豊寛は健在だった。
一方で、百姓としても徹底していた。
有機農業にこだわり、こう言った。
「俺は作るものに毒は入れねえよ」
主な収入源は椎茸だった。
会員制で販売し、人気があった。
さらに地域の農業従事者を集め、「農業大学」のような活動まで始めた。
月刊誌『自然と人間』にも、農業に携わる日々を綴り続けていた。
宇宙へ行った男は、土へ戻った。
いや、「戻った」というのも違うのかもしれない。
宇宙へ行く前から、アニキの目はすでに土に向いていたのだから。
その暮らしが、ある日突然、壊された。
2011年3月。
福島第一原発事故だった。
◆「放射能という毒を入れた作物を売れるはずがない」
福島第一原発事故が起きた。
秋山さんの農場は、原発から西へ約32キロのところにあったと記憶している。
直ぐにアニキに連絡を入れた。呼び出し音に応答はなかった。
数日後、私の携帯に見知らぬ番号からの電話があった。
応答すると、アニキ独特の低く響く声が聞こえてきた。
「心配した?」
照れ屋らしい話の切り出し方だった。
どうやって避難したかをひと通り説明すると、「俺はもう滝根に戻れねえな」とさらに低い声で言った。
「農薬という毒を入れない俺が、放射能という毒を入れた作物を作れるはずがないもん」
否が応でも寂しさが、絶望感がひしひしと伝わってきた。
「俺は毒を使って作物は作らない」そう言い続けてきた人だった。
その人が、自分ではどうすることもできない「毒」によって、自ら拓いた農場を失った。
そして、アニキが滝根の農場に戻ることはなかった。
『自然と人間』の連載に、その苦悩を綴っていた。
私はそれを読みながら、思わず涙を流した。
◆百姓をやめたわけではなかった
群馬で一年かけて米を作った後、秋山さんは京都へ移ることになった。
「古いけど俺の車要る?」
愛車を手放して移住するからくれると言う。
妻に聞くと「秋山さんの車なら是非もらいたい」と言う答えが返って来たので、私たちは群馬まで車をもらいに出かけた。
「直子さん、一つだけお願いがあるんだけど…。将来廃車にする時は、日本酒を『お疲れ様』と言いながらかけて慰労してやってください」とアニキならではの愛車への想いを私たちに伝えた。
間も無くして京都芸術大学で教鞭を執るようになった。
しかし、単純に「宇宙飛行士が大学教授になった」と考えたら、秋山豊寛という人を見誤る。
アニキが大学で教えたのは、田んぼの作り方。
タケノコの栽培。
そして、もう一つの本業であるメディアリテラシーだった。
百姓とジャーナリスト。
アニキの中では、二つは決して矛盾していなかったのだと思う。
原発事故への思いも消えなかった。
全国から声がかかれば、手弁当でも出かけていって講演した。
原発問題は、秋山さんにとって評論の対象ではなかった。
自分の土地と、自分の暮らしを奪った問題だった。
◆「宇宙ロケットはどこにあるの?」
アニキは私の妻や息子を、とても可愛がってくれた。
京都へ家族で訪ねた時にも、最高のもてなしをしてくれた。
やがて大学教授の定年が近づき、終の住処を探し始めた。
退職後、三重県の中山間地へ移住した。
当然、私たちは家族で遊びに行った。
当時、息子はまだ小さかった。
出かける前に、私はアニキが宇宙へ行った時の写真を息子に見せていた。
そしてアニキの家に到着すると、息子はまわりを見渡しながら本人に聞いた。
「宇宙ロケットはどこにあるの?」
アニキは大笑いした。
◆持って帰れなかった本
ところが、その時だった。
アニキから、自分の身体が病に蝕まれていることを聞かされた。
そして本棚を指して、
「本は好きなだけ持っていっていいよ」
と言われた。
しかし、私は持って帰れなかった。
たくさん本を持ち出したら、それだけアニキがこの世からいなくなる日が近づいてしまうような気がした。
だから、一冊か二冊だけいただいた。
◆「浅井ちゃんだけだよ」
その後4、5年、直接会うことはなかった。
電話で話すだけになった。
それでも時折、秋山さんは言ってくれた。
「こんなに長い間(通話時間は1時間コース)、親しくいろんなことを話せるのは浅井ちゃんだけだよ」
私は何度も岡崎へ来るよう誘った。
「行くよ。そのうち行くよ」
アニキは何度もそう言った。
でも、とうとう一度も実現しなかった。一度だけ具体的に「けちゃんとかみさんを浅井ちゃんの泊めてやってくれる?俺はホテルにするけど」と言ってきたことがあった。
しかし、なんだかんだで、その話も実現されなかった。
◆鳴らせなかった電話
そして、この半年ほどは電話もしなくなっていた。
私自身が闘病していた。
電話をすれば、自分のことを話さなくてはならない。
アニキに余計な心配をかけたくなかった。
何度も電話を手にした。
アニキの番号も、そこにある。
それでも私は、その番号を鳴らさなかった。
アニキからも、なぜか電話は来なかった。
今になって思う。
ひょっとすると、アニキも体調を崩し、私と同じように「心配をかけたくない」と思っていたのではないか。
もちろん、もう確かめることはできない。
◆最後まで照れ屋だったアニキ
不思議な縁もあった。
アニキの娘さんの結婚相手が、なんと私の妻の親しい知人だった。
まったくの偶然だった。
その後、その知人から妻のところへ一枚の写真が送られてきた。
娘さん夫婦がアニキを訪ね、孫を会わせている写真だった。
かわいい孫がいる。
そのそばにアニキがいる。
ところが、抱き上げるでもない。
どこか照れくさそうにしている。
その姿を見て思った。
ああ、アニキらしいな。
「中年の星」と呼ばれて照れた。
色紙には「宇宙非行士候補」と書いた。
そして晩年、かわいい孫を前にしても照れていた。
1970年の夏。
パスポートも全財産も失った若造が、ロンドンの日本大使館で偶然出会った人。
あれから半世紀以上が過ぎた。
アニキ。
結局、岡崎には来なかったね。
「そのうち行くよ」って、何度も言ってたじゃないか。
もう一度くらい、電話を鳴らせばよかった。
もう一度、
「浅井ちゃん」
と呼んでほしかったよ。
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