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 我が家の年末年始の旅は、アフガニスタンで斃れた中村哲さんを九州で偲んだ後、広島県呉市に続きます。蒲刈町下島にある松濤園を訪れるためです。

 ここには「朝鮮通信使資料館『御馳走一番館』」があります。江戸時代に12回にわたって朝鮮から日本に送られた平和友好大代表団(約450人)を出迎えた接待所に想いを馳せる資料が多く見られる記念館です。

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 皆さんご存じのように、豊臣秀吉は1592年、明(当時の中国)の制圧を夢見て朝鮮半島に大軍を送り込みます。「文禄・慶長の役」です。しかし、李朝鮮と明の連合軍の抵抗の前に苦戦を強いられ、半島で身動きできなくなってしまいます。その最中、秀吉が1598年、急逝。主を失った豊臣政権軍は大混乱に陥りました。

 秀吉の後を継いだ五大老の筆頭格になった家康公は、予定通りの増員を主張する有力大名を制して、即時停戦と帰国命令を出して戦争を終結させます。

 2年後の関ヶ原の戦いで雌雄を決した家康公は1603年に江戸幕府を開きます。そしてすぐに李氏朝鮮との〝国交回復〟を目指して朝鮮に使者を送りました。

 1604年、李王朝は軍師であり交渉人である僧侶、惟政を日本に送り込みます。家康公は惟政を京都まで呼び寄せて数か月観察、翌1605年、伏見城で会見しました。会談の内容は諸説ありますが、両者の「腹を割った話し合い」はおおいに盛り上がり、惟政の「日本軍が拉致して日本に連れてきた朝鮮人を全員返していただきた」との要求を無条件で受け入れた家康公は「我が国は150年間戦争ばかりしていて文化的に後れをとった。貴国から文化使節団を送って欲しい」との要請をします。

 李氏朝鮮側にとっても日本の情報収集ができるわけですから異論があるはずはありません。ただやはり警戒心を解くまでには時間がかかり、純粋な文化的外交使節団になるまでには数十年を要しましたが、かくして朝鮮通信使が何度も日本に送られるようになったのです。

 これも「徳川平和」のシンボルの一つと言えましょう。