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2022.02.10 (Thu)  21:38

朝鮮通信使

 以前、「家康公と朝鮮通信使」について書きましたが、もう少し詳しくお伝えしたいと思います。

 秀吉の急死で朝鮮半島に取り残された大軍を大きな犠牲を払わずに帰国させたのは、五大老の筆頭格であり、〝戦後処理〟を買って出た家康公の手腕のなせる業でした。

 朝鮮側の捕虜の返還要求にも無条件で応じ、さらに文化使節団を招聘して大歓待したのも家康公でした。

 朝鮮通信使は朝貢(周辺国の使者が貢物を将軍に献上してご機嫌を取る政策)だったとする人たちがいますが、それは間違いで幕府の扱い方は超VIP。江戸幕府は最高レヴェルのもてなしをしました。

 宮家や将軍しか通行を許されなかった道「お成道」を通らせていたことからしても、その厚遇ぶりは容易に推察できます。

 岡崎藩は事前に市中に作法触れを出して、「二階や橋から行列を見下ろしてはならない」「便所を清潔にしておくよう」「揮毫(毛筆で何か言葉や文章を書くこと)を求めない」などと厳しく言い渡しています。

 一説には、江戸から老中(今で言う大臣)が岡崎に来て、岡崎藩の迎賓館である「御馳走屋敷」で、正式の歓迎式典をしたとも言われています。

 この国を挙げての大事業には深い意味がありました。通信使が立ち寄る九州や中国地方、そして東海道沿いの大名たちに500人近くの大代表団の接待を強要することで、その財力をそぎ落としたのです。

 その朝鮮通信使招へい事業を終わらせたのは、11代将軍家斉です。12回目の使節団を対馬で差し止めてしまい、帰国させてしまいました。その後朝鮮通信使が来日することはありませんでした。ダメ将軍として有名な家斉はこの点でも汚点を残しましたね。